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旅、映画、食べ物、哲学?

空白

なんというか、余裕がない1年間だった。

少しずつ新しいことを始めた一年でもある。

 

まず、新宿の大久保に引っ越し、一人暮らしを始めた。5月のことである。一人暮らしをはじめると、実家暮らしの便利さが身に染みるというが、私の場合はサバイバル能力が高いのか、なかなか楽しくそれなりに生きている。

次に、四年ぶりに海外旅行を始めた。気づけば、4回も出国している。香港、マカオ、香港、台北。なぜか香港とその周辺に3回も行っているが、それについてはまたの機会に話そう。

日本国内の旅も、長崎、出雲、福岡、と今まで行ったことない地域だった。

 

こうやってまとめると、比較的色々なことをしているのだが、その一つ一つに余裕がなかった。そのせいだろうか。このブログだけでなく、noteの更新もあまりできず、音楽制作も手が止まったまま。

その一つの理由は、仕事かもしれない。部署異動があり、慌ただしい部署に入ってしまったため、なんというか、自分の精神の動きと社会生活の流れのズレが、前以上に著しくなった。心の靴擦れで、正直なところ、疲れている。

世の中の状況も一つあるかもしれない。最近、今までにないほどにきな臭い。きな臭い上に、慌ただしい。そして、物価も上がりっぱなしで余裕がない。気候も足並みを揃えて、ばかに暑かったり、やけに寒かったりする。

 

クリスマスイヴ。

私は実家に戻った。久しぶりに両親と夕食を食べたが、その時、時間の流れの話になった。

何もそんな難しい話ではない。今年は凄く早く時間が過ぎたというお決まりの話である。そして、歳をとると時間の経過がはやくなる、という具合だ。

きっと、私のような小童より、父母の方が時間の流れは速いのだろうが、今年に限って言えば、私にとっても確かに一年が過ぎ去るのがあまりに早かった。まるで、この2023年という年自身が余裕がなかったかのようだ。

 

今日、クリスマスになり、試しに教会に足を踏み入れてみた。ミサの後、ちょっと浮き足だった状態の教会の椅子に座る。

余裕がない時というのは、実は今という瞬間、そして今まさに踏みしめている足の感覚から、意識が遠のいていることが多いように思う。

未来のこと、過去のこと、あるいは想念に意識が持っていかれて、まるで足のない幽霊のように1日1日が過ぎてゆくのである。

今、こうして椅子に座っているように、少し立ち止まって自分の立っている足元を眺める時間が必要だ。余白がなければ生きていけない。

クリスマスに限らず、少し時間があれば、ゆっくりと椅子に座る時間を見つけたい。そして余白の時間を待ち、楽しむことができたとき、人は寛容な心持ちにもなれるのだと思うから。