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旅、映画、食べ物、哲学?

あえて、冒険に出るということ

毎年、年が明けるタイミングで、このブログを更新していた。

新年の抱負というとなんだか堅苦しくて古臭いが、昨年の自分を振り返り、新しいテーマを決めるのに新年はもってこいだったからだ。

ところが今年はと言えば、元旦も過ぎ、節分も過ぎ、旧正月も過ぎ、もうそろそろ3月に突入しようとしている。まだペルシア暦や仏教暦では新年ではないので、救いようはある(?)が、例年から大きく遅れをとっているのは間違いない。私自身、何もノウルーズやソンクラーの訪れを待っているわけでもないのである。

今年のテーマが決まっていないわけではない。正月の時点で決まっていなかったわけでもない。ただ、間違いなく言えるのは、この二ヶ月間で、徐々に今年のテーマが熟成されてきた。だからこそ、ようやく、何か書こうという気になったのだ。

とはいえ、これから書くことは、今すぐには多くを語れない事柄に関わるので、やけに抽象的な、ヘンテコな文章になることはあらかじめ断っておきたい。答え合わせはいつかできることを願っているが、一種の哲学手記というか、求道日記のようなものとして読んでくれればと思う。

 

去年、私は自分のテーマとして「再起を図る」を掲げた。

その通りになったかというと、正直なところ、失敗に終わったような気もしないでもない。ブログの更新頻度などをみていただければ一目瞭然だが、「再起を図る」上で、私が中心におきたかった創作活動がほとんど捗らなかった。というのも昨年は様々な外的(環境的)変化があって、内面的にはかえって停滞が続いたのだ。環境の変化がさわがしいと、やはり心の自由というか、余裕というか、保つのが大変だということがわかった。

「外国を旅する」という意味では、香港、マカオ、台湾と、「再起」を図ることができたし、国内は、山陰(島根)、北部九州(長崎、福岡、佐賀)という私にとっては未知の場所を開拓することができた。だが、その時の心の内はというと、慌ただしさが拭えなかった。それが結局、それらの旅の記録をほとんど全く残せていないことに表れている。

文章を書くこと。音楽を作ること。絵を描くこと。そうした活動が、私が「生きる」上でいかに大切だったのかが、昨年という「口数少ない」一年を通して分かった。

 

だが昨年という一年が無収穫だったわけではない。

自分の向かう道のようなものが朧げながら見えてきたのは確かである。それは「文章を書くこと」だ。

大学時代から私を知る人、いや、ひょっとすると小中学生の頃からでも良いのかもしれないが、きっと「何を今更」感があると思う。私もそう思う。中学の頃から文筆業に憧れていたし、高校時代は文芸部だった。大学時代はブログを書きに書いていたし、修士論文などもすらすら書いていた。

だが、仕事を決める段になって、一種の「逃げ」に走った。文章を書く仕事は不安定だし、ルートが決まっていない。ルートが決まっていないことは時には良いことだが、歩き始めるには困難が伴う。

「文章は長らく書いているし、書くことは好きだけど、自分の文章は自己満足だから、結局他の人にとっては無価値だろう」と決めつけ、私は色々考えるのを放棄した。就職の時はちょうどコロナ禍が始まった年で、閉塞感もあったし、自身勇気を持って何かを始めるのが苦手だった。

 

結局、仕事をしてみると、それなりにこなせるものの、常に他人事感が否めない。もともと、興味が湧かないことを勉強しないタイプだったし、仕事について何か学ぼうという気が湧かない。気が湧かないことには何も始まらないし、どうにでもなれという気分で毎日を過ごしてしまう。

そんな日々を過ごしていた時、「勉強しない」私にマニュアル作成の仕事が舞い込んだ。文章を書くとなると(本当はマニュアル作成はそういう仕事では無いのだが……)俄然盛り上がり、今まで全く調べなかった事柄まで調べまくり、「読み物として」読める形のマニュアルを作った。楽しいことの少ない仕事だったが、あのマニュアル作成だけは面白かった。

そこで気づいたのだ。結局私は文章を書く方向に向いた人間なのだ、と(得意という意味で「向いている」と言いたいのではない)。何かを書くとなればとことん調べ上げることができるし、仕事や納期がある状態でもそれなりに楽しめる。それに、良い文章を書くためなら、努力や研究もできるような気がする。

 

そろそろ「時」が来たのかもしれない。

昨年度から始まった環境の変化で、余裕と気概を失いかけていたが、徐々に心の余白も出てきた。今年こそ、「文章を書くこと」を軸に、何かはじめてみても良い。

そんな今年の私のテーマは、「冒険に出ること」に決めた。1月2日あたりに決めたことだったが、徐々にこのテーマも熟成され、良い形になってきている。

というのも、二ヶ月かけて自分を見つめ直した時、重要な事柄が見えてきた。それは自分の弱さというか、傾向性というか、(先ほども少し触れたが)私は「逃げ」ているということだ。変化を不安に思い、色々と理由をこさえては、小賢しい表情で逃げているのだ。いや、これは私の問題だけではないだろう。もっと根源的な何かがある。

もし人が泳いでいるのを見たことがなければ、あなたは私におそらく泳ぐことは不可能だというだろう。なぜなら泳ぎを学ぶためには、水の中に身を置くという行為をスタートさせる、つまり、泳ぐことができる状態になければならない。推論は現に、私たちを閉じた大地の上に常に釘付けにする。しかし、もし素直に、恐れることなく、水に飛び込めば、まずは水に浮かび、どうにかこうにか水でもがいて、そして徐々にこの新しい環境に自分を適応させ、私は泳げるようになるだろう。このように、理論上は、知性によるのとは別の方法で認識したいと望むことには一種の不条理があるのだが、もし素直に危険を引き受ければ、理性が結びつけて、自分では解くことのできない結び目を行動がすぱっと断ち切ってくれるだろう。

19〜20世紀フランスの哲学者ベルクソンの言葉だ。人間も含む生命体は、基本的に身の安全を確保したい。だから新しいことはしないようにしている。本能や知性が新しいことを避ける。だが、進化のためには一つの「飛躍」が必要になる。

「冒険に出る」ということは、つまり、しなくても良いことをすることだ。しなくても良いが、それが人生にとって必要で、諦めた場合は、死の瞬間まで喉に引っかかった魚の骨のように嫌な感覚が残り続けるであろう何かをすることだ。そしてそのために、安全を求めて逃げる傾向性に立ち向かうことだ。根源的に引っ込み思案な自分と相対することだ。

だが、無謀になってはいけない。そもそも無謀では、ぽっとでの考えでは、自分と戦うことすらできない。知性は常に揚げ足を取ろうと手ぐすね引いて待っている。今しようとしていることが、自分の人生にとって本当に必要なのか確証があったほうがいい。今、確証といえるほどのものはないが、こうして文章を書きながら、確証を持ってもいいような感覚を感じる。

 

正直、自分の文章が誰かにとって、何か価値を持つかどうかはわからない。だが徐々に、試してみたいような感覚も生まれてきた。いや、これは正確ではない。どちらかというと、読み手にとって価値のある文章を書きたいと思っている、というほうが正しい。

「自分が書きたいか」というより、「自分が読みたいか」を軸にしていきたい。だが、今回だけは、自分の頭の整理のため、自分が今「書きたい」「書かないといけない」ことを書き綴っている。何か自分の人生にとって、この文章が意味を持つことをねがう。

 

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