Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

鳥籠のクリスマス

長らく、こちらのブログの更新ができずにいた。

理由は一つ。今年に入って、noteという媒体で文章を書くようになったからだ。その試用期間のために、こちらはお休みしていた。もちろん、私の怠惰な性格のせいもあって、noteも二ヶ月ほど毎週二回投稿してみたが、12月に入ってからエネルギー切れ状態となっているのも隠せない事実ではある。

それがなぜ今になって再開したのか。こちらも理由は一つ。このブログを2016年に開設してから、毎年クリスマスには記事を書いていた。だから、今年も、というわけで久々にログインしたという次第だ(ちなみにnoteの方でもクリスマスの記事を書いている。一昨年のこちらの記事の焼き直しのようで申し訳ないがホットワインの記事だ(クリスマスとホットワイン(飲み物という名の冒険⑧)|河内集平(Jam=Salami)|note))。

来年はできるだけ両方とも更新しようと思っている。使い分けは考えていて、こちらはどちらかといえば私個人のプライヴェートな考えに深く関わっていたり、長ったらしい旅行記など(ようするに今までのスタイルでも読んでくれた人たちのためのもの)を、noteはできるだけ短文(今はできていないのだが)、テーマや題材を絞るなど、多くの人に読んでもらうものを目指そうと思う。

 

さて、クリスマスだ。

今年のクリスマスは私にとって、今までと大きく異なる。今まで一度も経験したことのない状況に直面しているからだ。端的にいえば流行病にかかってしまったのである。

初めは異様な喉な渇きを感じ、「今年は乾燥しすぎだろ」と思っていたら、みるみるうちに喉が痛くなっていき、三日ほど前に正式に陽性と診断された。特にすごい人混みや飲食店に行った覚えもなかったから意外なことだったが、今までかかっていなかったことが奇跡だったのかもしれない。

ちょうど症状が現れる一日前に大学時代の友人のオンラインで飲み会をしたのだが(オンラインなので感染とは全くの無関係である)、その友人のうち一人が罹患した時の話を聞いたところだった。喉にガラス片が刺さっているような感覚。その表現を聞いていたことで、すぐに検査を思い立ったのだから、不幸中の幸いである。

とにかく、クリスマスだというのに、私は部屋に閉じこもって家族とも直接の接触を避けざるを得なくなった。いうなれば、「カクリスマス」である。

とはいえ、湿っぽくなっても仕方がない。こんな経験もなかなかないから、できるだけこの境遇を楽しむことにした。喉は痛いし体も重いが、掃除をしてみたり、積読を読んでみたり、サバイバル生活をしているつもりになってみたり、ギターを弾いてみたりしている。

 

本当はすぐに寝た方が良いのだが、こんな状況の中どうしても聴きたい深夜ラジオが2本ほどあった。そのうちの一つはちょうど昨日、イヴの夜、というかクリスマスの朝に放送していた、作家の沢木耕太郎のラジオだった。

その中で、コロナ禍の困難に困惑しつつもタイはチェンマイを目指す話をしていた。そんな時、ふと、「一人で東南アジアを旅する」ということが、なんとなく自分とかけ離れたことのように聞いている自分に気づいた。それは冷静に考えれば、あまりにおかしなことだった。思えばほんの数年前には、私だってバンコクの街を一人で歩き、ホテルを取り、電車に乗って国境越えをしたはずなのだ。

考えてみると、現在の私(と、同じようなことになってしまった人々)の境遇ほど異常な状況ではないが、少し前まで私たちはあまり外に出られずにいたし、海外という意味では私も含め今でも出られずにいる人が多いと思う。それは単純に行動の話だが、その行動が徐々に心にフィードバックしてきていて、いつの間にやら、半径数メートルの精神になっていることがある。

別に悪いことではない。そういう時も必要だ。だが、ともすると、自分の「できない」が増えていくようにも思う。一人で海外なんていけない、といつの間にか私も思い込んでいたのだ。本当はただ国境線を越えるだけで良いのに。

 

それだけならまで良いが、ここ数年ずっと問題とされている「分断」という言葉もまた、この「半径数メートルの精神」に関係がある気がしている。半径数メートルの精神のなかに、インターネットを通じて膨大な量の、しかし偏った情報が入ってくる。本当は外に出てみれば違うものが見えるかもしれないが、それだけが全てのように見えてくる。これが分断の種になる。

もちろん、話はそんなに単純ではないかもしれない。そもそも、分断はコロナ云々の前から問題だった。だけど、自分を顧みても、コロナ禍になってから急速に精神が縮こまっていくのを感じている。以前から何かが燻り続けていたのは事実だが、ミャンマーのクーデタも、アメリカの議事堂襲撃も、ロシアによる軍事侵攻も、コロナ禍になってから起きている。

 

クリスマスに思うことは、クリスマスごときが特効薬になるとは思えないが、キリスト教流の「許す」こと、「寛容」であることが、縮こまった精神を開こうとする一つの試みになるということだ。クリスマスにはそんな意味があるし、力がある。クリスマスは、第一次世界大戦を中断してサッカーをした人たちのように、望めば(if you want it)戦争だって止めることができる日のはずなのだ。それはきっと私たち異教徒にとっても同じのはずだ。

だから、何かと縮こまってしまう世の中だけど、できるだけ、心を広く温かく今日を生きようと思う。あとしばらく続く隔離生活だが、できるだけ面白がってやろうという精神も持ち続けよう。

鳥籠から、ハッピークリスマス。