Play Back

ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

Money, Money, Money

数日前のことだが、NHKの「美の壺」という番組を見ていた。

この番組は、色々な芸術品、あるいは民芸とでも言えるような実生活に使われているようなものに焦点を当て、木村多江のしっとりとしたナレーションと、時々草刈正雄のコミカルな演技を交えつつ、その隠れた美をスタイリッシュなジャズをバックで流しながら明らかにしてゆく番組である。テレビをつけっぱなしにしていると、11時くらいから突然始まることがあるので、わたしはたまにこの番組を見ている。

前回は「ぽち袋」がテーマだった。お年玉を入れるぽち袋に秘められた粋と心遣い。確かに今まで何も考えてこなかったが、あのようなものは海外では見ないし、結構あそこに凝った絵が描かれていることもあったと思う。番組によるとその歴史はまだ浅く、明治時代からだという。当時よく描かれていたのは、浮世絵だそうで、それをただ描くのではなく、ピンポイントで一部だけを描くことで、そこに「粋」な美しさを表現したという。

 

その番組を見ている時に、ふと思い出した。それはお金についての話だ。

その番組を見る数日前、英語をバイト先で教えている時のことだった。「How」を使って色々な疑問文を作るという授業だったと思う。そこで英語で「いくらですか?」を意味する「How much」を扱ったのだが、ふと、これって「お金」という言葉が入っていないなと気付いたのだ。

muchというとご存知、「不可算名詞」の量を表す言葉だ。不可算名詞、つまり数えられない名詞というのは、「水」などが代表的だが、個数を数えられない、流動的なものだったり、切り分けてゆくものだったりすることが多いが、不思議なことに英語では、「お金」もまた数えられない名詞という扱いになる。だからこそ、お金がどれくらいか聞く時に、「How much」というわけなのだが、これでは、水の量がどれ位か聞きたい時にも「How much」と聴けるんじゃないかと思ったのだ。だが実際はそうではない。「How much」といえばお金のことであり、水の量を聞くには「How much water」と聞かねばならない。一方でお金を「How much money」と聞くことはまずないだろう。

同じことが日本語でも起きている。

「いくらですか?」というのは、文をそのままとるのなら、単に量を聞いているにすぎない。だから、「東京から京都までいくらですか」と聞いて、「500km」と答えても、「新幹線で大体2時間」と答えてもいいことになる。だが実際には、「8000円」という答えだけが期待されているのだ。「いくら」と言っただけで、なぜだか、金のことを聞いていることになるのである。

はてさて他の国の言葉となると、フランス語では「C'est combien?」で、やはりお金という言葉は一言も発していない。ヴェトナム語では、「Cái này bao nhiêu tiền?」といって、「tiền」がお金を意味しているが、これは省略ができる。ドイツ語の「Wie viel kostet das?」は、「いくらかかる?」という意味であり、こちらもお金という言葉は発していないのである。アラビア語では、「ビ・カム・ハーザー(بكم هذا)」といい、「カム」が「いくら」で、「ビ」が「〜で」、「ハーザー」が「これ」であり、こちらも「お金(ナクドゥンなど)」は言わない。

これは一体どういうことなんだろう?

大して根拠があるわけではないが、それは「お金」にどこか「ケガレ」の要素を感じ取っているからではないか。「お金」という言葉には、どこか汚さが漂う。「カネと政治」というとスキャンダルを意味するし、「金がものを言う」といえば、あまりよくない社会状態を示す。金は人類の大きな発明品だが、金によって苦しめられる人もいるし、金によって人間としての道を踏み外す人もいる。金はどこか、「必要悪」であって、「汚れたもの」であって、あまり口にするのは憚られるのではないだろうか。だからこそ、日本における親指と人差し指をくっつける仕草とか、海外の親指と人差し指をこすり合わせる仕草が生まれたのではないだろうか。そして、もっと身近なところでも、先輩が後輩に、「じゃあ……今日は1でいいよ」ということを言う。これは「1000円」という意味だが、なぜか、「000円」の部分を省略する。「円」という言葉の生々しさを避けようとするが故の言葉ではないだろうか。「1000円でいいよ」というふうに露骨に言うのはあまり好まれず、「1」という。ここにもまた、人間とお金の面白い関係があるような気がする。

金に「ケガレ」のイメージがあるのとともに、金は、人間にとって本当に大事なものを与えてはくれないという事実も、きっと私たちの中にはっきりと存在する。ビートルズは「Can't buy me love」と歌った。だがそれでも、ビートルズは他の歌で「Money... that's what I want!」とも歌う。それだけ金は複雑なものなのである。

 

そう考えると、である。

日本の「ぽち袋」とか「お年玉」は非常に面白いものだ。というのも、「ケガレ」であり、「即物的」なものであり、「必要悪」であるはずの「お金」が、別の価値を持って現れるからだ。

ぽち袋のぽちは、「これっぽっち」の「ぽち」だという。「少ないですけど(これっぽっちですけど)気持ちです」と渡すときの、「これっぽっち」である。面白いことに日本語では、「お金」を、正反対であるはずの「気持ち」と表現してみせる。そしてその「気持ち」を新年にあげるのが「お年玉」だ。どうしてなのだろう? その理由はわからないが、この極東の島国では、「カネ」が「気持ち」に変わる、という事実だけは確かである。あえて、口に出すのは憚られる存在を、すごく尊い存在として語るのだ。

「お金」にも「気持ち」が込められる。そういう発見があったのかもしれない。思えばお金をプレゼントするというのは一見珍しく見える。だが中華文化圏では、割とお金が大事にされているという。その影響を受けたヴェトナムで、でっかい銭型のSONYの看板を見たことがある。また、台湾では何かの儀式で擬似の札束を燃やしていた。そう思うと、実は、お金を良いものとして扱うのも、珍しくはないのだろうか。

だが一つ言えることがある。

金には罪がないのだ。その使い方、その捉え方に「善」や「悪」が宿るのである。「気持ち」を金では買えないが、金は「気持ち」の表現形態とはなる。それは「気持ち」を買うことではなく、金が「気持ち」になることである。そして金の使い方にこざっぱりしたものや、美を見出せば、「粋だねェ」とすら言われるのだ。そして、「コイン」愛好家なんてのもいる。金自体が、芸術になりうる。そう考えると「お金」はとても面白い。

 

‥‥‥と色々と理屈をこねている間にも、金が溜まっていればなあと思うが、これは「ケガレ」た考え方というものだろうか。