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旅、映画、食べ物、哲学?

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART1〜

1936年、当時フランスの海外植民地であったインドシナ半島で、一つのプロジェクトが完成を迎えた。それは、ヴェトナムの旧都で現在の首都であるハノイからヴェトナム南部のフランス支配の中心地であったサイゴンを結ぶ実に1726kmにわたる長大な列車の開通であった。ところが、第二次世界大戦後、フランスに対する独立戦争である「インドシナ戦争」、そしてサイゴンを中心とする南部に成立した米国の傀儡政権である「南ヴェトナム」とホー・チ・ミン主席率いる社会主義政権「北ヴェトナム」による全ヴェトナム統一をかけた「ヴェトナム戦争」によってヴェトナムは南北に分断され、列車もその機能を停止する。そして1976年、ヴェトナムは「北」による「全土解放」、すなわち日本人に分かりやすい言い方をするなら「天下統一」がなされ、くだんの1726kmを結ぶ列車も再びその役目を果たし始めたのである。そのこともあって、この鉄道は「統一鉄道」「南北線」と呼ばれ、統一されたヴェトナムのシンボルとなっている。

鉄道開通の81年後、そして南北統一の41年後の2月6日。今から実に10日ほど前のこと。私は友人と二度目となるハノイの地にいた。今回の東南アジアの旅は12日に及ぶもので、5日間のカンボジア滞在の後、私たちは無事(実はバクテリア性と思われる胃腸炎カンボジア最終日にかかったので、「無事」ではなかったが、まあ、生きていたんだ、「無事」にカウントしようじゃないか)ハノイ入りを果たした。今回の旅の1つのイベントは、ハノイ観光後に中部のフエまでくだんの南北線に乗ることである。


1. TN7 ハノイ→フエ

 

空港のツーリストインフォメーションで予約したホテルに飛び込み、チェックインの手続きをしていると、
「次はどこに行くの?」とホテルのフロントの女性が言った。
「フエに行きます」
「何で行くの? もう取ってあるの?」と女性はいう。
「列車で行くつもりですが、まだ取っていません」そう、今回はホテルはおろか列車のチケットすらなかった。
「そう。でしたらお手伝いできますよ」これはありがたい。私は早速お願いすることにした。
ところが手伝うわとかってでた割に、手続きをしながら彼女は怪訝そうな顔をして、
「なんで列車なの? みんなバスで行くわ。やすいもの」と言った。私たちは真面目に答える理由もなかったのでとりあえずジャパニーズスマイルでごまかしておく。そうこうするうちに手続きは進んで行く……
なぜ電車にしたかったのか。それはまずもって列車の名前が日本の地下鉄と同じ名前で少々おかしかったこと、いつか乗ってみたいシベリア鉄道の予行練習になりそうだったこと、おんぼろ列車でガタゴトと北から南まで行くというシチュエーションに不思議な魅力があったこと、とまあ色々とあったわけだが、一つ言えるのは、列車を使いたかったから列車を使いたかったのである。これじゃあ、言えるはずもなかろう。
始めは70ドルほどの列車があると言ってきた。100はすると思っていただけに少し安心したが、彼女は50ドルのやつもあるという。そちらの方が各駅停車で夜の20:45発12:15着らしい。私はそちらを選ぶことにしてこう言った。
「チーパー、ベター」
出発は二日後。懐かしのハノイと、世界遺産ハロン湾を巡ったあとのこと、となる。

予想とは裏腹に、この列車の旅は、予想以上に快適であった。
取ったのは、寝台車の「ハードベッドクラス」の「レヴェル2」。といってもよくわからないだろう。要するに、小さな部屋に三段ベッドが二つあり、そのうちの中断を使うということだ。そしてベッドはまるで畳のように硬い。事前にネットで調べていた通り、一夜限りの同居人はみなヴェトナム人だった。寝台車のランク的には下から二番目になる。
と、そんな風に書くと快適さが伝わらないかもしれない。だが、細くて硬いベッド、がたんごとんと揺れる列車には、飛行機や豪華列車にはないような心地よさがある。まず、支給されている毛布をたたんで、その上に枕をポンと置くと、リクライニングシートの如くなり、意外な快適さが出てくる。そして狭いベッドは一夜限りのマイルームのように思えてきて、広い部屋よりもずっと落ち着く。それは、去年の夏に台湾で一週間に及ぶ二畳一間生活を送ったからかもしれない。
そして何より一番いいのは、昼になると部屋の外に出て、窓の外を眺めることができる。これはバスにはない楽しみだろう。

朝起きて車窓の外に見えた北部ヴェトナムは広大な田園風景の世界である。果てしなく続く水田、そしてその水田の世界の中に時折現れる緩やかなカーブを描く緑の山。田園の中には茶色い牛が何頭か佇んでいる。これはカンボジアのバスで見かけた牛が白かったのとは対照的だ。そんな広い広い牧歌的な世界が流れて行く。何か見るべきものがあるわけではない。ただ目に入ってくる世界がある。そんな世界を見ていると、自分の周りにある閉ざされた世界なんざ大したことのないもののように思えてくる。
こんな田園の中で一生を暮らし、そして終えて行く人々はどんな人生を送っているんだろう。そこにはきっと私には得られないような幸福があるはずだ。しかし逆にいえば、私のようにこうやって異国の地の田園を見ながら物思いにふけるなんてことをすることはないだろう。人生は案外平等で、同じようなことを経験し、それでいて互いに互いの人生を経験することはできないのだから。

そんなことを思いながら、私はこの日からの「同居人」となった父娘の様子を見ていた。父親は穏やかな表情の人で、娘は幼稚園児か小学校低学年くらいだろう。交流こそなかったが、その二人の様子を見ているだけで心穏やかになるものがあった。北のどこかの田舎町から南へと移動する。そんな二人は時々窓の外を見てはにこやかに笑っていた。そしてしばらくするとカップ麺を食べ、タッパーいっぱいに詰め込まれた鳥の足をかじっている。母がもたした弁当だろうか。
そんな穏やかな雰囲気の中で電車に揺られていると、むしろ名残惜しくなるほどに列車はすぐにフエに到着した。フエは大雨だった。

数日後までにホーチミンに行かないと、私たちは日本に帰れま10、という状態だったので、フエからホーチミンまでの経路が問題だった。バスで行けば25時間。列車で行くと18時間。飛行機だと驚きの1時間20分である。始めは、ここは飛行機にして、案外初めての「LCC」体験にしようじゃないかと思っていたが、私は南北線を大いに気に入ってしまった。それじゃもう、南北1726km、走破しちまおうじゃねぇか。私は四日に渡る腸の痛みがなくなったこともあってそんなことを思いついた。友人も快諾してくれたため、なんと南北線の中で次も南北線を使うことを決定したのである。(つづく)f:id:LeFlaneur:20170216235340j:imageフエに到着する南北線