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旅、映画、食べ物、哲学?

ケベックシティ冒険譚

 

   そろそろ、今まで書いていなかったことを書こうと思う。それは、ケベックシティへの一人旅の話だ。

 今回のプログラムでは、二週間目の週末に、それぞれがオプションでアクティビティーを選んで参加できるようになっていた。ナイアガラの滝旅行、ネイチャーアクティビティー(豪雨ともろもろの事情により「ヘルアクティビティー」の様相を呈していたという)、ホームステイ体験、そして宿泊先にとどまって自由行動、の四つから選ぶことになっていた。わたしは最後のものを選んだ。こんなにたくさんのものからよくそんな地味なものを選んだ、と言われたが、「自由行動」ほどすばらしいものはない。何処にだって行けるのだ。他の自由行動メンバーはモントリオールでショッピングやミュージカル鑑賞をしていたが、わたしが黙ってモントリオールに滞在し続けるはずがない。独りでケベックの州都ケベックシティ行きを敢行したのだった。


 だが、その道のりはなかなかハードだった。いや、ハードではない。単純にいろいろな事情がかさなって、ピンチピンチの連続だったのである。

ケベックシティに日帰りで行ってもいい?」と現地人モニターに尋ねたら、実力者Kに話を通してくれ、案外二つ返事でオーケーが貰えた。その交換条件は、「いつでもつながる携帯電話を用意すること」だった。「SIMカード」を入手すればそれができる、と聞いたので、わたしは早速SIMを入手した。
 出発は値段を考慮した結果朝の六時だったから、朝の五時には宿舎を出ねばならない。そこで四時三十分頃に起床し、シャワーを浴び、出発の一五分前くらいにSIMカードを携帯電話に入れた。愕然とした。「このSIMカードは無効です」と来たもんだ。実は日本の普通のiPhoneは海外のSIMカードに対応していないらしい。それを知らぬままにいれ、しかもエラーの内容の意味もわからない。
 そうこうしているうちに出発の時間が来た。わたしはとにかくビニール袋にもって行くものを入れ、部屋を出た。ホテルを出て雨が降っているのを感じ、気づいた。傘を忘れた。だが時間がない。そしてバスターミナル行きの市バスに乗り、気づいた。チケットの紙を忘れたのだ。このたびばかりは死ぬかと思った。だが、見送りにきてくれていたモニターのティムが、メールでチケットのデータが来ているんだから、そのメールを見せればのれるはず、という思慮深い発言をし、ことなきを得ることになった。本当に感謝しかない。焦りは禁物だ、とわたしは胸に刻み付けるのだった。

 

 そんなこんなで、わたしのケベックシティ一人旅は最悪のスタートを迎えた。バスの中で読もうと思っていた本も忘れ、なぜか前日に友だちから選別として渡されたベーグルとクリームチーズだけが袋に入っているという有様。イアフォンがあるのにiPodがないという失態。加えてバスの旅は三時間もかかるのである。まるで、ゴジラに新聞紙を丸めた棒で挑むような気分であった。
 だが、何が幸いするかわからない。何も娯楽がなかったこと(途中でバスにワイファイが入ることに気づき、スマートフォンからラジオアプリに入って、そのラジオを聞きながらバスに乗っていたから、三時間無娯楽の状態だったわけではないが)がバスの旅の醍醐味を味わわせてくれたのである。宿舎を出たときまだ暗かった空が明らみ、バスに乗って早々はねていた乗客たちが徐々におき始める。みんなそれぞれ盛っている朝食を食べ、窓の外を眺める。それは電車の旅では味わえない良さだった。ヨーロッパに行った時、六時間ほど電車に乗り続けていたことがあったが、電車だとやはり、どこか個人個人が分かれて座っている感じが強い。だがバスのような人が密集している場所だと、なんだか共同生活をしているような感じがするのだ。別に誰かとしゃべったわけではない。しゃべったとしても、「このバス停がケベックシティですか?」程度の会話しかしていない。だが、あの乗客たちと同じ朝を迎え、同じ行き先へと向かっている。そんな不思議な連帯感が生まれたのだ。あの独特な雰囲気は、ぜひまた味わってみたいなと感じた。

 

 ケベックシティには予想よりも早くたどり着いた。
 バスターミナルで町の地図を貰い、外へ向かう。手荷物はビニール袋だけ。簡素な一人旅の始まりである。
 が、外に出てみて愕然とした。全く方向感覚がつかめないのだ。バスターミナルの場所くらいは一応確認していたが、どちらにいけば町の中心である旧市街へと行けるのか、全くわからない。日本にはありがちなけばけばしい「おいでませ、旧市街」というような看板もない。ただ、だだっ広い道路があって、そこを車が走っている。しかも、朝の九時頃のため、人が極端にいないのである。わたしはとりあえず道を歩いている人に旧市街の場所を聞いた。
「この道を歩きなよ。そうすれば多分旧市街につくよ。ごめんな、俺はカナダ人じゃないんだ。でも、つくよ」
 道を聞いたおじさんはにこやかにそういうと、レンタサイクルの店へと吸い込まれて行った。わたしは言われた通り歩いた。そうするとどうだろう、確かに旧市街らしきところについた。だが、人がいない。どうしたものかと思って歩いているうちに、だんだんと地図上のどの地点にわたしがいるのかがわかり始めた。そこは旧市街でも「ロウワータウン」と呼ばれる、崖の下側の場所だった。旧市街の本体は、崖の上、すなわち「アッパータウン」にあったのである。
 しかしロウワータウンもロウワータウンで、なかなかよい場所だった。閑散としているが、落ち着いた雰囲気があり、観光客のこない旧市街、というような雰囲気があった。そこには確かに人がいきていた。こじんまりとした教会があり、町にはアートが飾られていた。それはそこか、リヨンの町並みにも似ていた。リヨンを訪れた時は、旧市街の山の頂上にあるユースに宿泊したが、その近くは似たような感じの静かな町並みがあった。エキサイティングとは言えないが、そこには独特の風格と良さがある。


 首折り坂という強烈な坂を上ると、巨大な塔が見える。それがケベックシティのランドマークであり、ホテルとしても使用されている城館だった。今では一階にスターバックスが入っている。その建物の前には巨大なサミュエル・ドゥ・シャンプラン像がある。シャンプランはフランス人探検家で、ケベックの地にフランスの植民地を建てた、いわばカナダの父だ。像のあたりは広場になっており、大道芸人がパフォーマンスをしていた。ラテン語、フランス語、英語、そしてなんと中国語の歌を歌いこなす女性、巨大なフラフープをまわす男など、いろいろな人がそれぞれの芸を見せていた。そこはロウワータウンとは違って、朝早いのにもかかわらずかなり盛り上がっていた。まるでお祭りである。

 

 しばらくして、わたしは旧市街をいったん出て、新市街からバスに乗って、「滝」を見に行くことにした。その滝はティムとは違うモニターが教えてくれた滝で、正直言えば、「写真とって来てよ」と言われたから、まあ一応いくか、程度の思い入れしかなかった。たまにはおすすめの場所にいくという旅もいい、と思ったということもある。滝の名前は「モンモランシーの滝」。わたしは市バス800番に乗り、「モンモランシー」というバス停で降りた。
 これが間違いだった。モンモランシーは、ガソリンスタンドしかないへんぴなバス停だったのだ。この近くにあるのか? そう思いながら歩いてみるも、照りつける太陽の暑さに気がめいってくる。それに、見るからに滝がなさそうな場所なのである。わたしは通りの名前を確認し、地図を見た。案の定、明らかに違う。もっとバスに乗っていなければいけなかったようだ。わたしは次のバスを待ち、今度は間違うまい、と運転手にこう尋ねた。
「Je veux aller à la chute de Mont Morency(モンモランシーの滝にいきたい)」
 フランス語を使ったのは、フランス語話者がモントリオールよりも多いと聞いたからだった。
「Ten minutes(十分くらいだよ)」
 なぜだろう、運転手はすぐに英語で返してきた。
 なんとなく屈辱を覚えつつ、席に着いた。だが不安は募る。一泊する旅立ったら別にいい。だが今回は日帰りだ。もしたどり着けず、戻ることもできなかったら? そう思うと不安でいっぱいになった。運転手はバス停の名前を言ってくれなかった。だからわたしは後ろの席の女性に尋ねた。
「滝に行きたいんですけど、どこでおりればいいかわかります?」
「ごめんなさい、カナダ人じゃないの」
 どうやらこの町にカナダ人はいないらしい。わたしは仕方なくバスの運転手のところへ行き、バス停の名前はなんて言うんですか、と聞いてみることにした。というのも、予定の「十分くらい」がもう過ぎていたからだ。
「バス停の名前………うーん、多分モンモランシーの滝じゃねえかな。後十分くらいでつくよ」

 この辺りで何かがふっきれた。もう、このままバスに乗っているしかないじゃないか。そのうちつく。多分つく。つかなかったらつかなかったでいいじゃないか。わたしはとりあえず席に着いて、窓の外を眺めた。あいかわらず、カナダの土地は広かった。
 しばらくバスに揺られていると、運転手が親切にも
「ここが滝だよ」とアナウンスをしてくれた。わたしは運転手に礼を言って、バスを降りた。
 だが、降りてみても滝がどこにあるのかはわからない。とにかく公園らしきところに入ると、昔の土塁のようなものが広がる平原に出た。その平原を少し歩いたところに東屋があって、何やらそこにたくさんの人がいる。もしやと思ってそちらへ向かうと、そこは滝だった。
 義理のつもりで来てみたが、その滝は予想以上のすごさだった。轟音と、流れ落ちる水の塊は、圧倒的な自然の力を見せつけていた。そんな力強い姿を見せる一方、滝と水面の間にはくっきりとした虹がかかっていた。滝は東屋から見ることができるだけではなく、そこから長い階段を下りて、真下から眺めることもできる。せっかくだ、行ってやろうじゃないか。わたしはそう思って階段を下り、滝の真正面にある舞台へと向かった。
 そこは圧巻そのものだった。水が吹き付け、シャツも眼鏡もズボンもずぶぬれになった。風が吹き付け、滝の威力を物語る。わたしはただただそこに立って、水が落ちるのを見ていた。

 その後公園で寝そべったり、滝を吊り橋から見下ろしてみたりして時間をつぶし、正午頃にわたしは再びケベックシティの旧市街へと戻った。時間が時間なだけあって、町には活気が生まれていた。なかでも「サンジョン通り」はすごかった。歩行者天国になっており、ストリートミュージシャンがそこら中で演奏をしている。店のテラスには観光客やら何やらが座ってビールを飲み、にぎわっていた。先ほどまでは自然に包まれていたが、いまや、人々の活気に包まれている。そんなことを思いながらわたしは、レバノン料理屋で肉団子のピタパンサンドを買い、ストリートミュージシャンの演奏を聴くことにした。
 ちょうどレバノン料理屋の前で、髭のおっさんが歌っていた。手にはトランペットをもち、たまにこれを吹き鳴らす。歌っている曲は、「プリティウーマン」など往年のヒットナンバー。おっさんの周りにはひときわ人垣ができていた。わたしは他の観客たちとともに道路に座り、おっさんの渋いけれど美しい歌声を聴いていた。最悪のスタートだったのに、今や最高の昼を迎えている。天気も快晴(モントリオールではそのとき雨が降っていたという)、本当に最高だった。

 そのあとは、何をしたわけでもない。シャンプラン像のある広場でぼーっとしながら大道芸を見たり、シタデルという昔の城塞の周りを散歩したり、絵画や写真の蚤の市を見て回ったり、ケベックシティの午後を満喫していた。バスは六時半に出発だったから、早めの夕食をとらねばならない。そのための店探しもしていた。折角ケベックシティに独りでやってきたのだから、なにかうまいものが食いたい。そう考えた時に、ふと、あのロウワータウンにならいい店があるんじゃないか、と思った。
 そこで、わたしはロウワータウンへと戻ってみた。とはいえ、戻ったのはレストランに入るデッドラインと心に決めていた五時より全然早かったので、とりあえず散策することにした。ロウワータウンも、この時間になるとずいぶんと活気が出てきていた。ビールを出している店も盛況だったし、教会の前には人だかりができていて、何やら結婚式のようなものをしていた。
 歩いていると、突如として市場を発見した。旧市街から一歩外に出たところにある、「ヴューポール市場(古い港市場)」である。市場を見つけたからには、入らざるを得ない。市場には人の生活があり、人の生活があるところほど、エキサイティングなところはない。何も買わなくとも、ただ見て回るだけで楽しいのだ。
 市場は、規模はあまり大きくないが、果物や魚介でいっぱいだった。ふと、ここでならフランス語が使えるのではないか、と思ったわたしは、スパイス専門店のようなものに入って水を一本買うことにした。実は行きに水を買っておらず、三時間水なしはかなりつらかった、という理由もある。
 ケベックシティでは、あまりアジア人がいないのか、すぐに観光客だとばれる。だから、フランス語を使っても英語で返されることが多かった。商店の人にフランス語で話しかけると、少々驚きの表情をされたが、がんばってフランス語で通してみた。そうすると、なんとなく歓迎の表情を浮かべてくれた。やはり相手の言葉を使うというのは大事なのかもしれない。

 そんなこんなで時間も時間となり、わたしは一番人気がありそうなレストランに入った。店長のひげ面のおじいさんは鼻歌を歌いながら作業をしていて、見るからに楽しそうだ。わたしは、鴨肉のコンフィと、ケベック産のロゼワインを頼んだ。かなり混雑しているのに、食事が出てくるのは速かった。ロゼワインはなぜか、白ワインに変わっていたが、独特の癖があっておいしかった。鴨肉の方はと言うと、ありえないくらい柔らかく、非常にうまかった。パリで食べたかもがものすごく固かったので、実はあまり期待していなかったのだが、ここの料理はかなりうまかった。やはり、どうやら人がたくさん入っている店を選ぶことが大事なようである。またひとつ、大切なことを学んだ。そしてなにより、うまかった。

 

 かくしてケベックシティ一人旅は終了した。またバスに乗り、三時間かけてモントリオールへと帰還した。途中豪雨が降り始めた時には、どうしたものかと思ったが、モントリオールに帰る頃には小雨になっていた。だから傘を忘れていたものの、その辺はことなきを得たのだった。

Farewell, My....

すべてのものには始まりがあって終わりがある。某国民的アイドルグループが解散を発表し、今年もオリンピックが幕を下ろしたように。永遠に続くものなどはなにもない。全ては始まり、そして終わりへと向かって行く。それを私たちは黙って受け入れるしかない。

三日前。三週間に及んだモントリオールでの語学研修が終わった。「三週間」という期間は初めは長いように思えたが、過ごしてみると一瞬のようだった。光陰矢の如し、とことわざにはあるけれど、ここまで早いなんて誰も想像していなかったに違いない。

それにしても初めてだったことは、あの語学研修に参加していた人々のほとんどが「帰りたくない」と言っていたことだった。というのも、去年学科のメンバーでヨーロッパに行った時は、「やっと帰れる!」という声が大半だったからである。思えば四年前に行った英国の語学研修でも、「帰りたい!」という人が多かった。そんな帰りたい人々の中にあって、わたしは一人、「ああ、帰りたくない」と言っていたものだった。だが今回は違う。ほとんどみんなが「帰りたくない」と言っていた。「フェアウェルパーティー」という最終日の送別会では涙する人も少なくなかったほどである。

それは、ある意味当然だったのかもしれない。それほどにあの語学研修はいい意味で濃厚だった。予定が詰め込まれて忙しかったが、いい忙しさだったような気がする。

一週間目は、このブログにもその様子を少しばかり書いたと思う。わたしは基本単独行動で、モントリオールの街を歩き回っていた。山の方へ登り、コンビニ(デパヌールという個人商店)で水やビールを買い、夜の旧市街に繰り出し、南米フェスで盛り上がった。週末には、語学研修の仲間たちとカナダの首都オタワへと小旅行に行った。オタワはトロントモントリオールに比べて地味なイメージがあったが、意外な都会感に驚いたものだった。

二週間目は風のように過ぎていった。CBC、いうなれば「カナダ放送協会(NHKみたいなやつ)」で放送体験をしたり、手巻き寿司をみんなで食ったり、色々と予定がてんこ盛りだったのだ。だがどれも楽しかったと思う。そしてこの週の終わりは、「”大都市”トロントと”魅惑の”ナイアガラの滝の旅」、「”雄大な”カナダの大自然体験」、「カナダ人宅訪問、ホームステイ体験」、そして「レジデンスにそのまま滞在」の四つのグループに分かれてそれぞれアクティビティーをした。あいにくの天気と諸々の事情により「”雄大な”カナダの大自然体験」はあまり芳しくない結果に終わったようだったが、それぞれがそれぞれの週末を楽しんだようだった。わたしは、というと、レジデンスにそのまま滞在した。といっても、引きこもったわけではない。単身、ケベック州の州都ケベックシティーへと日帰りで乗り込んだのである。その模様はまたいつか書くとしよう。だが、最高の体験だったと言える。初めての長距離バス旅行だったし、成り行きで滝も見れたし、なによりうまい鴨料理にありつけた。

三週間目の印象は、「練習」の2文字だった。先ほども少し触れたが、出発の1日前に「フェアウェルパーティー」という送別会が開かれる予定になっていたのだが、そこで出し物をしなければいけない。だから、そのための練習をしていたというわけだ。出し物はレジデンスの階ごとに決められたグループ単位で行われる。わたしのいたグループはなぜだか妙に仲が良く、出し物も一週間目の終わりくらいには決まっていた。そして、練習は二週間目から始まっていたと思う。私たちの出し物はダンスと歌だったが、みんなダンスや歌が好きだった。だからある程度二週間目で練習が落ち着いていたものの、みんな進んで三週間目にも練習をしていたのだ。みんなで何かを作るというのはとても面白い。不思議な結束力が生まれる。初めから不思議な結束力で結びつけられていた私たちのグループは、さらに結束力が強まり、「帰りたくない」という気持ちはますます強まっていた。

そして、フェアウェルパーティーである。わたしは本番でダンス(足の位置を間違えた)も歌(なぜだか音程が外れた)も失敗してしまったが、最後のあのやりきった感じは忘れられない。歌が終わった時にはもう、みんなが家族のようであった。みんな数年来の親しい仲間みたいだった。フェアウェルパーティー自体も素晴らしかった。みんなが着飾り、それぞれのショーをする。あの空気感はなんとも言えない良さがあったし、ついにここまで来たという気持ちがあった。だが、その一方でこれで終わる、という実感は沸かなかった。このまままた新しい週が始まるような気もどこかでしていた。だが、そうはいかなかった。そう、すべてのものには始まりがあって終わりがある。終わりがなければ始まりもないし、始まりがあれば終わりがあるのだ。

そうして今に至る。

あの日から三日が経った。

時々寂しくなる。それはあの仲間たちにしばらく会えないから、という理由だけではないかもしれない。それはむしろ、あの生き生きとした現実だったものが、いつの間にか一夜の夢のように感じられてしまうことが寂しいからかもしれない。わたしは確かにモントリオールにいた。そしてあそこでいろいろなことをし、考えた。だがそんな日々は、日本に帰ってくると、いつの間にか夢のようになってしまう。あまりにいろいろなことがあったからだろうか、まるで現実感がなくなってしまうのだ。

思えば、あそこでやり残したこともたくさんあった。三週間は長いと思っていたから、次がある、次がある、といろいろなことを先送りにしていた。お気に入りだった公園にも二回行ったっきりだったし、公園のそばでスモークミートを食べることもなかった。旧市街でディナーも食べなかったし、その他にもいろいろなことをやり逃したように記憶している。そんなやり逃したことも、今ではもうできない。もうあの、夢の世界には戻れない。そう思うと、ため息が出る。

心残りのない旅はないし、いつしか心の中で現実味のない夢のようなものなってしまわない旅もない。それはどこかに行くたびに思い知らされる。帰ってくるたびにそれを思い寂しい気持ちになる。そろそろ慣れてもいいはずなのに、それでもわたしはいつもそんな気分になる。

だからかもしれない。わたしがこれからも旅に出るのは。旅を夢にしてしまわないために、そして心残りをただの後悔で終わらせないために。過去を未来へとつなぐために。

だからこそ、あの仲間たちにもまた会いたい。そうすればあの日々はまた蘇るような気がするのだ。そして、あの楽しかった日々は、未来の楽しい日々に生まれ変わる。

そんなことを思いながら、わたしは次の旅の計画でも立てようかと思う。次はアジア圏だろうか。ヴェトナム再訪、あるいは中国文化圏も悪くない、だがロシア旅行も捨てきれない、悩ましい限りである……

一人歩きの夜

みんなでしゃべったりしながら、いろいろなところに行くのは楽しいことだ。ふざけてみたり、笑ったり、色々と話したり、なかなか楽しい。わたしは喋るのが好きだし、わりと寂しがり屋だからだ。

だが、個人行動ほど楽しいものもない。一人宿舎を抜け出し、喧騒の街へと繰り出す。この、よくわからない背徳感と、そして自立感がたまらない。作家の沢木耕太郎は、一人でいると自分に話しかけるしかないから、内へ内へと行く旅ができる、と言っていた。まさにそのような感じで、一人で街へ出ると、なんだろう、ものすごく充実した気分になるのである。

数日前のこと、夕飯の後の時間は自由だと言われて、わたしは困り果てた。ブログでもかくか、それともポケモンでも捕まえるか。だが、それはなんだかもったいない気がした。そこでわたしは思い切って、夜のモントリオールへと向かうことにしたのだ。

一人では絶対に出るな、と言われていたので、わたしは同室のイタリア人を誘った。だが彼の答えはツレなかった。疲れたから寝る、というのである。こうなったら、ぜひに及ばず。わたしは一人ホテルを抜け出し、とにかく外に出たのだった。

プランなんてものは、全くない。だからわたしは何か思いつくのを待ちつつ歩いた。そうするとアイデアがわたしの頭に降ってきた。「川へ行こう。この前は遠いような気がして諦めてしまったけど、さっき調べたら以外と旧市街から近かったじゃないか。なら行ってみよう。今から夕暮れになる。きっときれいだろう」

そういうわけでわたしは川へと針路を切り替えた。モントリオールの川は、サンローラン川という。旧市街を超えたところにあって、前回の散策では諦めて引き返してしまったのだった。ぜひ川は見たい。なぜなら、ホーチミンでも、バンコクでも、ホイアンでも、わたしは川のほとりがいいなと思っていたからである。わたしは途中で「世界の女王マリア教会」なる大仰な名前の教会(ビジネス街のど真ん中にある、ドームの教会だった。バチカンの「サンピエトロ大聖堂」のレプリカらしい)に寄ったりしつつ、旧市街へと入った。この前入ったところとは違って、こじんまりとしたビストロがならび、夕日が映えている。ノスタルジックな石造りの通りをしばらく歩くと、川のそばの公園に出た。そこは、現在も幾つかの船が止められている場所だった。そのためか、大声でしゃべっているガタイのいいあんちゃんたち、ポケモンを捕まえるガタイのいい兄ちゃんたちがワイワイとやっていて、お世辞にもあまりいい雰囲気とは言えない。また、川のそばには、1センチ大の白い羽虫が盛んに飛んでいて、少しばかり気色が悪かった。しかししばらく歩くと、その虫も消え、雰囲気も変わってきた。どうやら観光地的な場所に出たようだった。

そこには幾つかの露店が並び、賑わっていた。ちょうど夕暮れ時(といっても21時である)で、オレンジ色の空が旧市街と川を照らしていた。黄昏時の風がスーッと吹き、にぎやかな音が聞こえてくる。わたしは夕食をしっかりと食べてしまったことに後悔した。なぜなら、サンドイッチやら何やらを食わせている屋台が幾つかあったからである。それを知っていれば、もっと軽く済ませていたものを!だが仕方がない。わたしはとりあえず歩くことにした。屋台街のそばにはアスレチックパークがあって、その奥には高い塔がある。そこからライトアップされたワイヤーが川の向こう岸までずーっと続いており、そのワイヤーを滑車で、ターザンのようにシャーっと降下してゆく遊びをやっていた。とてもやりたかったが、どうも一人でやるのは侘しい。そう思ってわたしはまた屋台街をほっつき歩きながら、夕日に向かって帰途に着いたのだった。

そういえば今日も個人行動をした。

まず午前中、時間が空いたので、初日に行った「サンルイ公園」へと言った。そのそばのサンローラン通りは、旧市街とは全く違う良さがあった。あそこには人が生きている。普通の人が普通に買い物をして、何かを食っている。そんな面白さがあった。平凡な街ながらも、モントリオールの人々の暮らしが覗ける場所だった。また文化の十字路でもある。イタリア語の看板、スペイン語の看板、ポルトガル語の看板、そしてヘブライ語の看板。日本語もあったし、中国語もある。モントリオールは多文化の街だ。だが旧市街やダウンタウンにいる限りそれは見えない。だがここではそれを感じられた。移民問題などで、文化の交流なんて夢物語だという人もいるだろう。だが、文化は確かに交流している。入り乱れ、変容し、そしてエキサイティングでダイナミックな街となって生きている。それを肌で感じられた。ぜひユダヤ料理の店に入りたかったが、今日は昼食に約束があったので、入るのはやめておいた。そしてサンルイ公園でぼーっとしたり、本を読んだりと、一時間以上時間を潰したのだった。

午後のアクティビティの後、わたしは洗濯をし、その出来上がりを待つ間、水を買いに出た。ここ数日で顔なじみになっていたコンビニのおっさんが、「モントリオールの冬は寒くて長い。だから夏になるとみんなクレイジーになるんだ」といっていた(蛇足になるがこのおっさんとのトークにはもう一つエピソードがある。旧市街と川の散策の後、いい気分になってビールを買ったら「歳はいくつだ?」と聞かれたので、「20だよ」と答えたのだが、なぜか今回も聞いてくる。しかも今回は水しか買っていないのである。「20だよ」というと、「ちょうど20なのか?」と聞いてくる。「ああ」といえば、「ふうん、本当かなあ」という。なぜか信頼してもらえない。多分若く見えるのだろう)。それで思い出した。宿泊先のそばで、先住民の祭りをやっているらしい、ということを。そこでわたしは洗濯をすっかりほったらかしにして祭りへと向かった。先住民は一瞬しか登場せず、「南米フェス」の方がメインだったが、南米のビートに飲まれて非常に楽しかった。

そしていい気持ちになって帰ってきて、今に至るというわけだ。

明日は6:00に朝食だという。全くもって早い。というのも、カナダの首都オタワへの旅が待っているからだ。オタワではどんなことが待ち受けているんだろう。そう思いながら、そろそろ寝ることにしようと思う。

丘の上に立つ

ケベックモントリオール滞在五日目。

モントリオールは快晴である。青い空、白い雲、とはまさにこのこと。太陽の光が道を歩く私たちにググッと差し込んでくる。多少蒸してはいるが、過ごしやすい。ここの気候は気持ちのいい5月を連想させる。

今日、わたしは山に登った。山、というのは「モントリオール」すなわち「王の山(モンレアル)」の名の由来にもなった「モン・ロワイヤル」である。だが、日本人の感覚ではあれは山ではなく、どちらかといえば「丘」と言った方が正しい。大きな丘、である。この大きな丘にはクラスのメンバーで行ったのだが、やはり丘だけあって、たいして体力を奪われることはなかった。もちろん多少の汗はかいたが、足はまだ全然元気である。

モントリオールという街は、この「大きな丘」を中心に成り立っている。

まずど真ん中に「モン・ロワイヤル」があって、そこを起点に場所を把握できる。モンロアイヤルの南東にはダウンタウンと高級ホテル&ブティック街、さらに南東に行けば中華街と旧市街があって、その奥には「サンローランス川」という馬鹿でかい川がある。北東に行くと、サンルイ公園という落ち着いた公園があり、静かで穏やかな空気に包まれている。モン・ロワイヤルの西側には、巨大な墓地があり、その奥にはモントリオール大学があるらしい。また、ユダヤ人街もこのゾーンに存在する。西側はまだ行ったことがない。というのは、わたしが滞在しているのは山の東側であり、西側とは少しばかり交通が遮断されている感があるからだ。ぜひ、これから開拓していこうと思う。

さて、そんなモントリオールのど真ん中にあるだけあって、山の頂上に立てば、街を一望することができた。西側には開けていなかったので、東側の、滞在している場所や、通っている学校、そして何度も散歩したダウンタウンが上から見えた。それはまさに圧巻だった。それはきっと、モン・ロワイヤルが、山ではなくて「大きな丘」だったおかげだろう。高すぎるとまるで街はおもちゃのように見えるが、モンロワイヤルからは、ビル群が自分の目の位置に存在していた。その光景はもう、まるで飛んでいるような、そういうなれば自分がドローンに乗っている気分であり、なかなか壮大だった。

そしておもしろかったことがもう一つある。散歩をしていると、非常に大きな街で、川はずいぶん遠くに流れていると思っていたのだが、このモンロワイヤルから見ると、実はモントリオールは小さな街なのだ。全てがほんの小さな区画に収まっている。川の向こうには、自然が見える。山が二つほどあって、遠くの方は霞んで見えない。これが、アメリカ大陸なのか。そう、ふと思った。

モントリオールの暑い日

さて、カナダはケベック州モントリオール滞在もいよいよ四日目と相成った。

授業も始まり、カナダ文化のこと、英語の発音のこと(かなり体系的にやっている。おお、さすが大学生、という感じの授業である。まさかカナダに来て「前舌音」「後舌音」「硬口蓋」なんてやるとは思ってもみなかった)などを学んでいる。部屋にはイタリア人のMくんが同居人としてやってきた。なんと高校生で、今進路のことで悩んでいるらしい。三ヶ月間北米の英語圏を回って行く予定で、今は二ヶ月目だそうである。初々しいなと感じつつも、わたしだってすぐ二年後には決断を迫られることになるのだから、他人事ではない。

とにかく、いろいろなことが始まったのだ。やっと、モントリオールの暑い日々が幕をあけた、というわけである。

1日目は授業の後、私たちが滞在している大学のキャンパスを見せてもらった。私たちが授業をしているのは違う建物なので、キャンパスに入るのは初めてだったのだ。感想から言えば、ひたすらにでかい。広くて長い道が本館のほうへとつながり、本館はそびえ立っている。そしてそびえ立つ頂点には、校旗がはためく。本館の目の前には植え込みがあり、モニュメントが立っていた。案内してくれた人によれば、その下には大学の創設者の骨が半分だけ埋葬されているらしい。まるでブッダである。

大学内には図書館はもちろん、博物館もあった。そこには大きな鯨の骨や、恐竜の骨が飾られており、まさに圧巻そのもだった。

キャンパスツアーが終わると、わたしは大学の前のコンビニエンスストアモントリオールでは、「デパヌール」というらしい)で水を一本買って、再び散歩に出かけた。散歩の途中で、わたしの所属しているグループのミーティングがある、という情報を突然もらって、大慌てで宿舎に戻る、という事件があったものの、その他はいい散歩ができた。行かなかった場所を、頭の中の地図に組み込む。わたしはおととい行かなかった場所を中心に歩いてみた。「プラスデザール(Place des Arts)」という駅の近くに謎の芸術空間があって、そこはまるで異空間の様相を醸し出していた。というのも、地下鉄の駅の改札の横に、謎の「EXPO」という道があり、そこをとにかく歩いたら、いつの間にやらその空間に迷い込んだからである。そこは日差しのおかげで暖かく、歩行者天国だったので、誰もが悠々自適に歩いていた。なんだか、お祭りに迷い込んだようでもあった。

その他にも、高級そうなブティックが並ぶ界隈をうろついたりして昨日は過ぎ去った。二日目、すなわち今日もクラスのメンバーでモントリオール版の「ドトール」「ベローチェ」のような「Tim Hortons」という店でコーヒーを飲んだりした。そんな中で改めて気づいたことがある。それはやはり、ほとんどの人がフランス語を使っていることだ。街中のポスターもフランス語、看板もフランス語、メニューもフランス語、歩いている人はフランス語でしゃべれば、店員だってまずは「ボンジュール」と声をかける。ちょっと「気の利いた」店だと、「ボンジュール、ハーイ」と二ヶ国語で話しかけてくる。

わたしはフランス語を勉強しているが、どうもどぎまぎして英語で話してしまう。だが、フランス語で声をかけると、フランス語で頼んでみたりもする。そしてそのあとでどぎまぎする。事後どぎまぎである。せっかくケベックにいるのだ。これからはフランス語も使ってみようか、そう、思うのだった。

おお、カナダ

突然だが、わたしは今カナダのモントリオールにいる。語学研修というやつで、三週間滞在することになっている。それで今日は二日目だ。本当は昨日の話を昨日書こうと思っていたのだが、ものすごい眠気によってそれは辛くも中断せざるをえなくなった。

1日目のことを書きたい、そう思ったのには理由がある。飛行機に乗って、十二時間かけれモントリオールにつき、それで宿泊先についた1日だったが、それ以上のことが起きすぎたからだ。本当に濃厚な1日だった。

というのは、だ。日本からカナダ国内の経由地トロントまでの飛行機は割と順調に進んだのだが、トロントからモントリオールまでのたった一時間のフライトがとんでもないことになったのである。空港について、トランジットのモニターを見たとき、30分の遅れと書かれていた。まあ、そういうこともあるか、と平気な顔でチェックインし(入国審査で「Why Canada?」と聞かれて、「どうして行先は星の数ほどあるのに、よりにもよってカナダを選んだの」と聞かれたのかと思って狼狽するという事件はあったがそれ以外は順調だった)、それから待合席に座った。だがどういうわけか、予定の時間になっても呼び出されない。おかしいな、とまたモニターを見ると、いつの間にか一時間の遅れになっている。まあそれくらいはある。そうは思ったものの、それでも予定時間になっても呼ばれない。おかしいな、と思っていたら、呼び出しの声がかかった。

だが、それでも、話はまだまだ続く。

客室に乗り込んで座っていると、いつまでも飛行機は動き出さないのだ。これはおかしい。明らかにおかしい。誰もがそう思っていた。だが、アナウンスは声がこもっていて上手く聞こえない。だからわたしには「キャビン」と「メキャニカル・トラブル」くらいしかわからないのだ。でもとにかく何かが起きているのは確かである。私たちは待った。ただひたすらに待った。それでも呼ばれず、疲れからか、わたしもみんなもふっと眠りに落ちてしまうことがなんどもあった。だが、何度寝落ちして、何度起き上がっても、飛行機は動き出さないのである。そうこうするうちに、「メキャニカル・トラブル」は「フィックス」された、という連絡が入り、客室乗務員が「リクライニングシートをあげろ」だのなんだの言い始めた。いよいよ出発だ。希望の光は見えた。始めは明るかった空も、今では暗くなるほどに待たされたが、これで先に進める。

そう思った、矢先のことである。

確かに、飛行機は動き出した。だが、決して飛び立とうとはしなかったのだ。まるで車のようにずーっとずーっと走り続けている。走り続けるのはいいことだが、飛び立たなければ意味がない。またも私たちはウトウトし始めた。寝ては起き、寝ては起き、を繰り返し。それでもまだ、目の前にある窓の外はトロントのまま。これに一時間ほど要して、ついに飛行機は飛び立った。

待たされて、待たされて。私たちは憔悴しきった体でそれをやられたために、飛行機内では愚痴をいい続けていた。だが、思いがけないプレゼントもあった。まず、夜景だ。カナダのだだっ広くて計画された街に光が灯る姿を飛行機の上から眺め見ることができたのである。それは、トロントモントリオールの二回楽しめた。そして二回目、つまりモントリオールの夜景は一足違った。遠くの方で、何かが光っているのだ。それは花火だった。テレビでしか見ることのない、「花火を真上から見てみよう」をやってしまったのだ。形が分かりにくいやつだと、泡がはじけるようにしかみえなかったが、丸いやつだと、一個の球があるようだった。かなり低空だったので、花火ってのは意外と近い世界なんだなあと思った。隅田川花火大会の日に、空からモントリオールの花火を見るなんて、神様は随分と粋な働きをしてくれるじゃねえか。などと、たいして進行してもいない神に褒め言葉をかけ、悪いことがあったらいいことがある、この世界はうまくできているもんだ、と思ったのだった。

それが1日目のハイライトである。二日目は自由時間を有効利用して、例のごとく個人行動をとった。街の雰囲気を知るために、あえて強行ルートをとった、といえばまるで計画性のあったもののようだが、実際は違う。テキトーに歩いていたら、いつの間にやらいろいろなところに行っていたのである。まず、宿舎からそう遠くないところにとてもいい公園を発見し、朝、ヘルパー的な役回りの人に貰ったリンゴをかじった。それから宿舎らへんをうろつき、宿舎で昼食をとった。そのあとはみんなが買い物に行くのを「楽しそうだなあ」と少しばかり思いつつ、モントリオールの山の麓に登ってぶらぶら、降りてきてダウンタウンをぶらぶら、公園で「$%&#ライト」というカナダ産ではなさそうな謎のビールを成り行きで買って、風を感じながらごくりと飲んだ。そのあとは、ユダヤ人街があるというウトルモン(OUTREMONT)にいこうとして地下鉄のパスがまだ有効期間でないせいで行けなかった。

「ならばモントリオールの川を見よう、「山」と来たら「川」と来る、と赤穂浪士も言っていたじゃないか」と川の方に向かった。とはいえ、川は遠かった。全くたどり着かない。そうこうするうちに面白い建物が並んでいる界隈や、ちょっと危ない感じの猥雑な界隈や、ヴェトナム料理やが並ぶ界隈や、中華街にたどり着いた(危ない界隈でも、普通のダウンタウンでも、この街では多くの物乞いを目にした。ヨーロッパよりいる。なんだか、頭の中に地図を作るという伊能忠敬ばりの行動は、暗い現実まで地図に組み込むことを強いる行動でもあったようだ)。ええい、こうなったらなんとでもなれ、と中華街をグーっと抜けて(ここに来ると人種が一気にアジア系になり、観光客が一気にヴェトナム人になるのが面白い)川の方へとひたすら歩いた。だが、川にはつかない。いつの間にかわい雑だった街並みは、清楚な官庁街になった。どうなるのかなと歩いていたら、いつの間にか、パリのシテ島界隈にあるような古い建築物が目の前に現れた。「ああ、これが旧市街というやつか」わたしはちょっと旧市街を歩こうという気になった。かくして旧市街を回り、なんとか宿舎に着いたのだが、なんと明日も旧市街に行くらしいではないか。まあいい。これで、頭の中になんとなくモントリオールの地図ができたのである。これはきっといつか役に立つだろう、と自分を納得させるわたしであった。

そういうわけで、二日目が終わった。今日から部屋に同居人のイタリア人が来るらしい。イタリア人にイタリア語で話しかけて怒られた経験があるので、少しばかり怖い。だが、なんとかなるだろう、と思っている。

失って気づくもの

二週間ほど前、風邪をひいた。

夏風邪の時期だ。珍しいことではない。

「あなたの風邪はどこから?」というコマーシャルがあるが、わたしの風邪は鼻からである。あの時も、部屋にいたら突如としてくしゃみを10連発ほどし、それから滝のように鼻水が流れ始めた。そして翌日、案の定風邪をひいた。

だから、わたしは風になると鼻の機能が低下する。今回の場合はあまり鼻はつまらなかったが、鼻の奥の方がはれたようで、耳がなんとなくボアーっとしていた。そういう場合、息ができるものの、口の中に入れた食べ物の香りを感じることができなくなる。これがなかなかの苦痛だった。

食べ物は舌だけでは味わえない。いや、味わうことはできても、それがうまいのかまずいのか、そういう判断は下せなくなる。むしろ、すべてのものがまずいような感じになる。今回はそれを身を以て実感した。

例えば、ローストビーフを食べる。同じものを食べている人たちはみんな、「おいしい」と言っているが、わたしには全くわからない。というのも、あの牛肉の香りや、ソースの香りや、西洋ワサビの鼻にツーンとくる感じが全て感じ取れないからである。わたしがわかるのは、ソースのしょっぱさ、肉の感触、そんなものだ。だから心からうまいとは言えないのだ。

あるいは、そばを食べる。啜ってみても蕎麦の香りは全く鼻に届かない。ただ、しょっぱいめんつゆに使った麺類を食らう、それだけでしかない。どうも、おいしくない。

もしかすると、それはわたしが元から香りのある食べ物が好きだから、かもしれない。ラム肉、鴨肉、青魚の刺身などわたしは非常に香りのある食べ物が好きだ。そういえば前、ラムカレーがうまいと力説したとき、「でもラムって臭みがありますよね?」と聞かれて何も言えなくなったときがあった。なんとなれば、わたしはあの臭みが好きだからだ。「あれがいいんじゃないか」と言ってもラチがあかないので何も言わなかったが、わたしは香りで食べているところがある。

正直言って他の人が何に重きを置いて食べているのかは、わたしにはわからない。聞いてみなければわからない。だが、香りがかなり重要なファクターであることは賛成してくれる方も多いのではないだろうか。

そう思うと、食べ物というものを私たちは舌で味わっているわけじゃないのかもしれない、と思う。「おいしい」とか「味がいい」とか「うまい」とか言ってしまうと、まるで舌で味わっているようだが、私たちが本当にうまいと言えるものは、香り、歯ごたえ、味付け、などのいろいろなものを込みにして「うまい」と言えるものなのだろう。見た目や、肉の焼ける音なんていうのも、その一つのファクターかもしれない。わたしはそんなことに気づかされた。

そんなことはもしかすると常識かもしれない。だって、小学生だって、牛乳が嫌いな人は鼻を摘んで飲むと大丈夫という情報を知っているのだ。この情報は、まずい牛乳の香りの部分をなくしてしまうことで、おいしくはないけどまずくもないものに牛乳を変えてしまうことで、飲めるようになるというトリックに基づいている。そんな情報を小学生でも知っているのだから、もっと上の人は当然のごとく知っているだろう。だが、知識としてわかってはいても、実際に体験してわたしは面白いなと思った。

人は一つの器官で何かを感じるのではないのだ。もっと全体的に、何かを感じ取っているのである。それはもしかすると、他のものにも言えるかもしれない。例えば、夕日に感動するとする。これは一見すると美しい夕日を見て感動している。だが、それだけではないかもしれない。例えば吹いてくる風の感触、その風の匂い、そしてその場の音、全てに包まれながら、わたしたちは感動しているのではなかろうか。

写真や、動画や、あるいは文章は、そんなもののうちの一部しか私たちに見せてはくれない。例えば、夕日の写真を見せてもらっても、それは写真を撮った人があのとき感じた夕日ではない。食べ物の話をしてもらっても、それは食べた人の食べたあのうまさを表現できない。だがそれでも、確かになんとなく再現してくれるようなものはある。そういうものが、いい写真だったり、いい動画だったり、いい文章だったり、あるいは完璧な食レポのようなものなのだろう。

うまいということは、味がいいということではない。香りがなければ始まらない。そう思うと、つくづく、鼻が通じてよかったなあと思うのである。

さらば、愛しき南店

そこにはやはり予感というものがあった。

いつもと変わらない姿を見せているように見えても、実はそこには刻々と迫る終わりの時の予感があったのだ。寂しげな、その予感が。

昨日、わたしは新宿の南口にある紀伊国屋書店へ足を伸ばした。

紀伊国屋は新宿に大きいものが2店舗ある。まずは東口にあるもので、本店だ。もう一つのものが、南口(正確には新南口)にある新宿南店だ。本店も本店でいいのだが、わたしは南店も好きだった。どちらの方がいいというのではない。両方とも好きだった。というのは、古風な見た目で紀伊国屋書店の歴史を感じさせてくれる本店とは違い、新宿南店はおしゃれで、モダンな雰囲気を漂わせていたのだ。それに、新宿南店はかなり大きくて、いろいろと揃っていたから使い勝手が良かったということもある。

そんな新宿南店が、この8月7日に和書コーナーを閉じる。存続が決まっている洋書コーナーは6階だけだから、事実上の閉店と言ってもいい。それなりに繁盛していたように見えたし、わたし自身よく使っていたから、このニュースが春に飛び込んできた時は耳を疑った。理由はいろいろあるようで、まあ一種の「大人の事情」のようである。とにかく、新宿南店は幕を降ろすわけだ。

なんとなく寂しい気分に苛まれながら、わたしは何度か新宿南店を訪れてみたが、閉店するような雰囲気は全くなかった。もしや、ここでかなりの買い物をすれば閉店を免れるのではないか、などというテキトーな夢想をよくしたものだ。それほどに普通だったし、南店ラヴァーが閉店を惜しんでやってきていたため、いつも以上に繁盛しているように見えた。

だが、昨日は違った。

新宿駅新南口は、少し高いところにある。駅の改札口を抜け、紀伊国屋に入ると、そこは不思議なことに3階ということになる。3階は旅行の本などが置いてあって、よくそこの寄稿文のコーナーで本をめくりながら、ああ、旅したい、などと思ったものだ。この階は、昨日もいつも通り盛り上がっており、人でいっぱいだった。なんだ、7月になっても大して変わらないじゃないか。そう思いながらわたしは4階の文庫コーナーへ行き、そのコーナーも大して変化がないことに安心感を覚えた。

違ったのは5階だった。

エスカレーターで5階へ登ると、瞬時に空気感の違いを感じた。そのコーナーは学術書や語学書などが置かれていたのだが、なんとなく寂しい感じがあったのだ。その正体は、いつもはズラーッと本が並んでいた書棚がガラガラになっていたことにある。本が一冊も並べられていない書棚もあったし、本が並んでいる書棚も、まるまる一段は何も置かれていない、という状況であった。例えば、わたしがよく立ち読みをしていた語学書のコーナーは、四段書棚があったのだが、そのうちの一番上の一段には、何も本が入っていなかった。書棚の前に立つと、どことなく、寂しさを感じた。ああ、やはりこの書店は閉じてしまうのか、そう、思わせる何かがあったのだ。わたしはなんとなくその場にいづらくなって、哲学書のコーナーやら、国際関係書のコーナーやらに行ってみたが、どこもかしこも同じ状態だった。レジ近くの企画コーナーで、二人の店員が、もう店頭に置かなくなった本を運んでいた。ここの、もう売られなくなった膨大な量の本は、どこへと運ばれ、どこで売られるのだろう。ふとそんなことを思った。

レジの前を通ると、店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。いつもそうだった。だが、昨日はなぜか、何も買わない(というか、所持金が300円くらいしかなかったため何も買えない)で立ち去る自分を恥じざるをえなかった。

6階の洋書コーナーは逆に、新たなる門出(洋書コーナーだけはリニューアルオープンするということになっている)のための準備で忙しそうだった。ここも何もない書棚があったが、それは、「今後何かを入れるための」書棚だった。確かにここの洋書コーナーはかなり充実していた。それが残るのはせめてもの救いであった。

エスカレーターで6階から降りて行く途中、ふと考えた。1階から5階までが紀伊国屋でなくなるなら、一体何になるのだろう。洋服屋や、そんなようなものになるんだろうか。そう思うとなんとなく残念だ。あそこは今の今まで、本で埋め尽くされた、本の世界だった。別に洋服屋が嫌いなわけじゃないし、「低俗だ」なんて言うつもりはない。だが、洋服屋やそういった類のものなら、隣の高島屋にもある。もしそういったものが紀伊国屋に来てしまったら、全部同じになってしまうじゃないか。なんとなく、あの建物がいつの間にかごく普通のデパートになってしまうのが寂しかったのだ。

いろいろな店が、現れては消えてゆく。それは資本主義社会の定めだ。だが、それは少し寂しくもある。古ければいいとは思わないが、長い間存続し続けるものには独特の価値が出てくる。私たち人間だって、(母親からは異議を申してられるかもしれないが)赤ちゃんの時代はみんな同じようなものである。だが年齢を重ねて個性的になって行く。新しいものを追求して行く結果、同じようなものを量産してはいないか。どこもなんとなく同じものがあって、なんとなく同じ雰囲気がある。それではつまらないじゃないか。

だから、あのビルには是非、6階の洋書コーナーと相性がいいようなものを入れて欲しい。そう、願うばかりである。

the Big Slump

ここ数日、いや一ヶ月以上になるが、ここに投稿していなかった。この一ヶ月何もなかったわけではない。それどころか、いろいろなことがあった。まず先月の18日、わたしは無事二十歳になった。そしてその少し前見た「ハリーとトント」という映画はなかなか良かったし、そのあともいろいろ映画を見た。自分への誕生日ブレゼントに買ったローリングストーンズのCDは良かったし、最近読み始めたアンリ・ベルクソンという哲学者の著作はなかなかいい。7月に入ったら風邪を引いたが、おかげであることを知ることができた。だが、それでも投稿をしなかったのだ。

なぜか。その理由は単純だった。わたしはいわゆる「スランプ」に陥っていたのだ。

単なるブログ執筆者がスランプとは生意気な。そう思われるかもしれない。そりゃそうだろう。ブログでスランプってのはなかなか聞かないからだ。

ことは数年前に遡る。わたしは高校の文芸部にいた。文芸部というと、他の部活の人にとっては何をしているかわからないところだろう。そんな人のために言っておくと、文芸部では大抵は小説などを書いて発表している。そういうわけでわたしも小説を書いていた。あのときからだ。わたしにはよくスランプというものが訪れていた。わたしの部活では季節ごとに一つ小説を発表していたのだが、わたしの場合、一度書くと、次の発表の機会がある時にスランプが訪れていたものだ。そして、大概そんなスランプが終わるのが、締め切りの二日前や一日前と決まっていた。そんなわけで、わたしはいつも小説をものすごいスピードで作り上げるという不健康なことをしていたものである。

スランプというのがどういうものなのかというと、要するに書けないのだ。スランプではない時期には、文章を書きたくて書きたくてたまらない。誰が読んでいようと関係なく、書きたくて仕方がない。そんな狂った状態が通常営業だ。だが、スランプに陥ると、まず集中力が持たない。パソコンの前に座って、書き始めても、途中で別のことをしてしまう。そのせいで思考の糸というやつが切れてしまい、もう書くことができなくなるのである。書きたいことはあっても、うまく書けない。そんな歯がゆい状態が続くと、なんとなく疲れてしまって、書くことが嫌になる。

そんな時期を乗り越えるには、自分の力だけでは不十分なことが多いように思う。書こう書こうと頑張ってみても、書けないものは書けない。だから散歩に出てみたりするが、それでも書けない。そんな時は書かないことが一番いい。といっても、書かなければ治るというわけでもなくて、また書き始めなければ、スランプなんぞ一生治らないだろう。

書きたいことを胸の奥に貯め続けるというのも、スランプから抜け出す一つの方法だ。そうすれば少なくとも書きたい気分になる。そうし続けて、イライラを重ね、そんなある時、ふとまた書けるようになっているものだ。

そういうわけでわたしは今、こんなことを書き連ねている。リハビリである。リハビリを人に読ませるっていうのも、なんとなく問題を感じるが、まあ仕方ない。

そんなに疲れそうな思いをしながら書く必要なんてないじゃないか、と思う人もいるだろう。ご説ごもっともだ。だが、なぜだかわからないけど、わたしは文章を書きたいみたいなのである。

常連もどき

今日、TOEFLを大学で受け、その帰りにトルコ料理屋に寄った。

そのトルコ料理屋は、わたしがエスニック好きになるきっかけを与えてくれたところだった。思えば去年の春、わたしは独り、あの非常に入りづらい、物理的な意味での「狭き門」を押し開け、エスニックの世界に入ったのだった。

しかし、あの店には去年の9月以来行っていなかった。だから、久しぶりだったわけだ。

言っていなかった理由は、単純に大学から少々遠いことと、金がなかったことと、空前の東南アジアブームがわたしの中で起こってしまったことがあるが、もう一つ理由があった。

それは、去年の秋のこと。わたしはアルバイトとしてライターをやろうと考えていた。そういうわけでとあるサイトに登録して、まずは東京のトルコ料理屋の記事を書くこといした。その当時はあの店を見つけていて、もう、トルコ料理の虜になっていたから、ちょうどいい題材だと思ったのだ。

そういうわけで幾つかのトルコ料理屋を回って、飲食し、それをつらつらと書き連ねた文章を先方に送り、報酬も受け取った。だが、折しも、そのサイトは何やら再編される時期だったらしく、わたしは自分の文章がどこにどういう形で乗っているのか、よくわからなくなってしまった。記事が載ってから例の店に行こう、そう思っていたものだから、完全に次の来訪の機会を失ってしまったのである。だからわたしは半年近く、かの店を訪れることができなかった。

そして、今日、訪れた。店員のお兄さんは、わたしのことを覚えているのか、そうではないのか、とにかくにこやかに迎え入れてくれた。わたしは、一人です、といって、席に着いた。思えば取材の日も、初めて訪れた日も、一人だった。「ぼっちメシ」はつらいことだと人はいう。だが、一人で食うトルコ料理も悪くはない。いや、料理の種類にかかわらず、一人飯も悪くはない。だから、独り身なのかもしれない。

まあとにかく、メニューを開くと、前よりも値上げしていた。昨今のご時世だ。しかたない。わたしはこの店の「イスケンデルケバブ」という料理が大好きだったが、懐事情により、日替わりメニューを頼んだ。

いつものスープ、いつものサラダ、そしていつものエキメッキ(パンみたいなやつ)がサーヴされる。そしていつものように、店員さんは無言で皿を置く。スープは前よりも絡みがあったが、うまかった。エキメッキをちぎっていると、謎の料理が出てきた。トマトソースにじゃがいも、鶏肉、米が添えられている。肉を口に放り込む。やはり、トルコの味だ。イタリア料理でも似たようなシチュエーションがあるが、トルコ料理はやはり、トルコ料理だ。そしてそれがわたしは好きである。

以前のように、「もちもちプリン」と言われるデザートが置かれ(白いクレームブリュレみたいなやつで、甘くてもちもちしていて美味しい)、チャイと呼ばれる濃い紅茶が出てきた。以前はやっていなかったが、「テシェッキュル」とトルコ語で礼を言ってみた。そうしたら店員は満面の笑みで「テシェッキュル」と返してくれた。今までは砂糖なしで飲んでいたが、今回は変えてみよう。そう思ってわたしは砂糖を4つほど入れた。向こうの人はたくさん入れるらしいからだ。

やはり元が苦いだけあって、甘すぎる、なんてことはなかった。むしろ深みが出ていてよかった。こういう飲み方もありだと思った。やはり郷に入っては郷に従え、だ。

チャイを飲み干すと、店員さんが歩いてきた。

「チャイのお代わりいかかですか?」

覚えていてくれたのだろうか、と一瞬思った。本当のことはわからない。だがわたしは好意に甘えることにした。熱々のチャイは、わたしの舌を焼き尽くしたが、なんとなく嬉しいものでもあった。

もしかすると、もう半年も行っていないのだから、常連ではないかもしれない。だが、もしかすると覚えていてくれているかもしれないという店があるのは気持ちがいい。

かつてタイ料理屋のおばあさんに顔を覚えられていたことがあったが、あれ以来行っていない。あの時はなんとなく気恥ずかしかったのだ。かつてインド料理屋のお兄さんに「お久しぶりですね」と言われたことがある。あれ以来行っていない。それは別のインド料理屋に浮気しているからだ。また、行ってみようかと思う。エスニック料理やは第二の外国であり、もしかすると第二の故郷なのかもしれない。

 

‥‥‥などと言いつつ、現在金欠なのである。

My Fair Lady

満を持して、観た。ついに、観た。

前にも書いたが、「ヘイル・シーザー!」を見た日は、本当は「マイフェアレディ」を見る予定だった。しかし、恐るべしオードリー・ヘップバーン。完売していて見ること能わず、だった。

それを今日、ついに見たということだ。新宿の仇を立川で、ってなわけである。

メインの登場人物は三人。まず、オードリー・ヘップバーン演じる花売り娘のイライザ・ドゥーリトル(ほとんど何もしない、って意味か?)。次にレックス・ハリソン演じる偏屈な言語学(音声学)の教授ヘンリー・ヒギンズ。それから、ウィルフリッド・ハイド=ホワイト演じる、ヒギンズの友人で同じく言語学者のヒュー・ピカリング大佐だ。そして、彼らとは別に、イライザの父アルフレッドの話も途中で何度か挟まっていく。

英国は方言のオンパレードの国だ。ロンドンの下町ではコックニー訛りが、アイルランドではアイルランド訛り、スコットランドではスコットランド訛り、北部イングランドでは北部訛り、上流階級はいわゆるクイーンズイングリッシュを喋る。出身大学でも差が出たりする。もっと広い目で見れば、アメリカではアメリカ英語、カナダではカナダ英語、アイルランドアイルランド英語、オーストラリアはオーストライリア英語、ニュージーランドにもニュージランド英語、インドでは「ヒングリッシュ」、シンガポールでは「シングリッシュ」である。地域でバラバラだし、そして、階級によっても違う。

この映画の背景にはそれがある。イライザはロンドンの下層階級の女性で、コックニーと言われる訛りがきつい。この訛りは一時期、ISの戦闘員ジハーディージョンが喋っていて注目を浴びたことがあったが、上流階級の「エイ」となるものが、「アイ」となる(これはオーストラリアでも同じだ。「グッダイ! マイト!(Good day, mate!)」)、Hが抜ける(作中でも「ヘンリー・ヒギンズ」は「エンリー・イギンズ」となる)、語末のtが詰まったような音になる(劇中の「A little bit of luck 」という歌は、「リウビッオロック」と聞こえる)、thがvやfになる(劇中には取り上げられないが、よく聞いているとわかる)など、上流階級式の英語とは全く違う音が出る。音の高さも、低い。

音声学の権威で、英国の方言のほとんどに通じているヒギンズ教授は、階級格差が生まれるのは下層階級の発音が悪いからだと思っている(ミュージカルなのでここで歌が始まり、発音について教授が語る。途中で「アラビア人はアラビア語を習う」とあるが、実際のアラビア語は文語と交互がはっきり分かれていて、エジプト人はエジプト訛り、モロッコ人はマグリブ訛りで話す。その状況は英国のそれとほとんど変わらない……などということを気にしながら見ちゃいけない)。極度の女性嫌いの彼は、コックニー訛りで発音するイライザを散々罵倒し、「もしわたしが訓練すれば、お前は半年で社交界デビューだ」と大口を叩く。

それを本気にしたイライザはヒギンズ宅へと向かい、「あたいをレディにしてくれ」とレッスンを頼む。何度も言うが、ヒギンズは過度の女性嫌い。「うちにおいてやってもいいが、ゴミ箱の中で暮らせ」と悪態をつく。しかし、実はこのレッスンには乗り気である。実験素材ができたからだ。それに拍車をかけるように、大佐が「このひどい訛りの女性を上流階級にかけるのは無理だ。賭けよう」と、イライザのレッスン代もろもろ全部をベットすることを提案。隠して奇妙な同居生活が始まる。

指導は初めは上手くいかない。「スペインの雨は主に平野に降る(The rain in Spain stays mainly in the plein)」を発音させれば、「ヴァ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリ・イン・ヴァ・プライン!」、 「ハートフォードとハーフォードとハンプシャーではハリケーンは起こらない(In Hartford, Hereford, and Hampshire, hurricanes hardly happen)」は、「イン・アートフォー、エァーフォー、アンド・アンプシャー、アリカインズ・アードゥリ・アプン」。無理もない。言語学的には、「音素」というものがあって、おそらくコックニー訛りの人には「アイ」と「エイ」、「h」とそれが抜けている音は同じように聞こえるのである。それは日本人にとって、「r」と「l」、「s」と「th」あるいは「z」と「th」、「b」と「v」が同じように聞こえるのと同じだ。なかなかこの区別には時間がかかる。だからイライザも「言ってるじゃないの!」と怒る。そしてヒギンズも「ちゃんと発音しろ!」と怒る。

それがある時、突然言えるようになり、話は展開していく。初めは憎み合っていたはずのヒギンズとイライザの間に、徐々に愛情のようなものが生まれてゆく……。アスコット競馬場や大使館の舞踏会で、レディとして通用するか実験をしてゆき、最後にはついに、イライザはハンガリーの王女なのではないかと誤解されるに至る。実験は成功。だが二人とも素直ではないので二人は喧嘩をし……。

まあ、この辺で止めておこう。

面白いのは、これが発音の矯正の話なのだが、途中で出てくるコックニー訛りが温かく響くことだ。確かに、イライザがついに発音を矯正した時の発音は美しい。そして初めのダミ声で喋るイライザはなかなか迫力がある(いい意味ではない)。だが、途中のイライザのお父さんの歌などは、ロクデモナイ歌詞なのに、なんだかいいな、と思ってしまう。ダミ声で、みんなで酒を飲みながら歌うような歌。それは生きた音楽だ。そういうものの方がなんとなく楽しい気分になる。

きっとこれは、わたしの個人的な趣味ではなく、映画の隠されたメッセージでもあるのだろう。イライザが教授の家から家出をし、元いた市場に戻るシーンで、誰も自分のことを気づいてくれない寂しさを描く場面がある。そこでお父さんと再会するが、お父さんも教授の計らいで「英国一の独創的道徳家」として中流階級の仲間入りをしてしまって、なんだか今まで通りに行かない。そして、最後のシーンで教授がイライザを思い出そうと、昔のレッスン時のテープを聴くシーンで流れるのは、「あたいはレッスン代に1シリングしかださないよ、それ以上ってんなら無理だい!」という訛りのきつい音声。やはりその人を出すのは訛りなのかもしれない。

現代で、女王陛下を差し引いて、かなりきれいな英語を喋る人といえば、デヴィッド・キャメロン首相だろう。彼の英語は本当に美しい。そういう人がいる一方で、今の英国では方言キャンペーンがあるらしい。例えば、英国の長寿SF番組「ドクター・フー」の主人公ドクターを現在演じている俳優(ピーター・カパルディ)はスコットランド訛りで演じている(これが、英語で動画を見る日本人的にはきついものがある)。その先先代はエスチュアリという中間的な英語でしゃべっていた(俳優自身はスコティッシュ)し、そのさらに一代前のドクターは北部イングランド訛りでしゃべった。007で有名なショーン・コネリーなどはずいぶん昔からスコットランド訛りで通していた。BBCでも地方局の放送は方言でやっているらしい。

日本でも、「方言恥ずかしか」という見方が存在する一方、「方言スタンプ」なるものも大活躍している。東京の人は方言に憧れるみたいだ。といっても、東京にだって方言はあるんだから、そいつを忘れちゃあいけねェよ、と思うが。

方言への揺り戻し、のようなものは確かにある。

それはきっと、それが市井の言葉だからだろう。言葉は人々の中で生まれ、生きている。だからそれを離れた言語はもはや言語ではない。きれいな英語がきれいに聞こえるのは、上流階級の間に生きているからであり、それを無理に取り込もうとするとぎこちなくなる。流暢に話すことができるようになるには、心の中も上流階級にならないといけない。だから普通の人にとって、家庭的なものは、訛りの中にある。逆に方言を話せるようにしたい、というのも変な話で、そうするにはその地方に長く生きないといけない。でもきっと本当に琴線に触れるのは、自分の家庭の言葉である。何を聞いて育つのか、それで変わってくる。

言語はやはり生きているのかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

もちろん、名戯曲家バーナード・ショウの原作なだけあって、作品の出来栄えも素晴らしかった。三時間近くあるが、それを感じさせない。笑って、時にハラハラして、そしてまた笑える映画だ。歌はオードリー・ヘップバーンではなく、吹き替えのようだが、やはり彼女の魅力もふんだんに出ている。そして、ヒギンズ教授のキャラクター、あの偏屈さ、あの素直じゃなさが、なかなかリアルでいい。特に最後に「独り身がいい!」といいつつ、イライザを忘れられないのに、素直じゃなさは貫き通すのがいい。そしてそしてフレデリック・ロウの劇中音楽も素晴らしい。特に、イライザのお父さんのうたがわたしは好きである。

なかなか気に入った。

まだ来週も立川や府中、日本橋やさいたまではやっているので、是非見に行っていただければと思う。

あ、あとそれと、あまり紹介できなかった有名な「I could have danced all night」という歌もなかなかいい。

それでは、映画の長さに比例して、文章も長くなってしまったので、この辺で。

ロシュフォールの恋人たち

わたしの月曜日は名画に始まる。何度も紹介してきた、例の「午前十時の映画祭」である。

今週、わたしが見たのは「ロシュフォールの恋人たち」というフランスのミュージカル映画である。監督・脚本はジャック・ドゥミ。全セリフが歌で表現される「シェルヴールの雨傘」でも知られる(三部作らしいのだが、あともう一つを知らない。「キャルフールの買い物かご」だろうか)。映画の原題は「Des moiselles de Rochefort」だから、本来は「ロシュフォールの娘たち」なのだが、どちらの題名でも問題はない。

この映画を見て思ったのは、全編カラッとしてるということだ。

まずミシェル・ルグラン作曲の音楽がスタイリッシュで、快活である。「キャラバンの到着(Arrivée des camionneurs)」という歌は非常に有名で、何かのコマーシャルでも使われていたはずだが、あれもスタイリッシュで快活である。おフランス、という感じである(?)。

また、その音楽のせいか、中身もカラッとしている。映画の中の世界では、かなりいろいろなことが起こっている。恋人に逃げられたり、男が捨てられたり、追いかけてみたり、駆け落ちしたり、はたまた、バラバラ殺人事件まで起こり、まさかの人物が逮捕されたりする。重くもできる内容を、とんでもなく明るく、カラッと描いてしまうのだからこの映画は凄い。

軽いだけかというと、そうではない。前述のようにとんでもない事件も突然起こる。そして何より、この映画は非常にうまく作りこまれている。最初は無関係だった人が全員つながってゆき、ある言葉が別の事柄を予言し、ちょっとした落し物がそのあとの展開を決定づける。最後まで目が離せない。そして、詳細をいうのは控えるが、最後まである意味ハラハラする。いや、やきもき、かもしれない。これ以上は言うまい。この映画の一つの醍醐味がそこにあるのだから。どことなく、カラッとしていて、最後にはいい気分になる上に、うまく作られている感じは、三谷幸喜の作品に似てなくもない。

はじめは、バレエに似たダンスと快活な音楽が流れる感じに慣れなくて、どうも入り込めないし、途中で出てくるジーン・ケリーは、どうしても「雨に唄えば」に見えてしまう。だが不思議と最後のシーンになるまでには、すっかり引き込まれてしまう。

この映画の中で、登場人物たちは、「理想の人」を探している。ある人はそれを夢想しながら絵を描き、ある人は出会いを求めてパリを夢見る。そしてある人は、その理想の人を街中で見つけ、ある人は理想の人を下らない理由で捨ててしまう。万有引力で物体と物体が引き寄せ合うように、人々は理想の人を求めて、理想の人へと近づいてゆく。それがこの映画を単純化してしまえば、図式である。

「時は金なりってあなたは目線で伝えるわ。でもあたしは違うの。あたしにとっては時は愛なり、よ」

というような歌詞があった。この映画が伝えたいのは、大事なのは「愛」なのだということだろう。そんなことはいろいろな映画で言われている、陳腐で、古臭くて、非現実的だ、という人もいるだろう。大事なのは愛だと思っている人も、理想の人を夢見る主人公たちには、「馬鹿らしい」「子供じみている」と思う人もいるかもしれない。

しかし、だ。夢を見ることの何がいけないのだろう。この映画は「愛」こそすべてだ、とその結末も含めて語っているように思われるわけだが、それ以上に夢の大事さも語っているような気がする。何かを夢見ることが、何かを変える契機になる。主人公の双子の姉妹の母が経営するカフェの店員は最後、「パリを見てみたいの」とパリ行きを決心する。その顔は夢に輝いている。

一方で、愛と夢の危うさもこの映画は語る。バラバラ殺人事件の話だ。それはある人の失恋に始まっているのである。理想の女性を夢見る男性に、主人公の一人が、「あなたはこういう事件を起こしそう」と言ってのける。現代的な視点から見ると、うん確かに、と特にこのご時世思ってしまう。そうでありながら、失恋しつつも、最後は綺麗に去る男もでてくるし、一度別れた二人の再会も描いている。

この映画は愛の全てを語り尽くそうとしているのかもしれない。夢と愛。その素晴らしさと儚さと、そして危うさ。いや、もしかすると本当の愛を語りたいのかもしれない。それは肉体を求めるだけのことではない。それは求め続けることではない。あるとても下らない理由で別れた二人が出てくるのだが、そのうちの女性がこういう。「共通の知人を通じて、わたしが金持ちのメキシコ人と結婚したって言ったわ。でもそれは悲しい嘘」嘘をついてしまうのは、相手を愛しているからだ。それは人を殺したいまでに好きになることや、欲情に走ることとは全くもって違う。

それを可憐なダンスと、軽快な音楽に乗せる。なかなかの名画だと思う。なにせ、あのテーマソングが頭から離れなくなる。その歌の歌詞ありバージョンは、この映画の道化役である二人組みの興行師の歌だ。彼らは他の人々と違って、口説いては断られ続けるし、最後に愛を獲得するわけではない。だが、歌って踊って楽しそうである。そういう生き方もある。それもまたこの映画が教えてくれることだ。

 

「Nous voyageons, de ville en ville...(俺たちは旅人さ、街から街へ……)」

 

ああ、またあの歌が離れなくなっちまった。


Arrivée des camionneurs

夢と中野

昨日、中野に劇を見に行った。

劇を劇場まで見に行く、というのはおもえば1年ぶりのことである。

そう、あれは1年前。入試を終えて、わたしは大学に入ることが決定していた。だからわたしは暇な時間を謳歌しようと考えた。その一つが、あの時に見た劇だった。非常にくだらない劇である。英国のコント集団「モンティー・パイソン」原作のミュージカルをユースケサンタマリア、マギー(俳優の方)、ムロツヨシ、という日本の名だたるカタカナ俳優の出演で日本風にアレンジした「モンティー・パイソンのスパマロット」である。ミュージカルなのに、歌を歌うことにいちいち突っ込んだり、さすが、というような内容だった。「爆笑した」以上に何かを言うのは野暮なミュージカルである。

さて、昨日劇にいった話をしようとしていた。

この劇を観るにあたって、二つの初体験があった。まずは、小劇場だったこと。5年ほど前にロンドンで「オペラ座の怪人」を見たときも、あまり大きい舞台ではなかったが(「モンティー・パイソン」は赤坂ACTシアターだから、馬鹿でかい)、今回はそれ以上に小さかった。大学の中規模の階段教室、あるいは映画館の小さめの部屋くらいの大きさで、舞台の大きさも小さかった。そのこじんまりとした感じは、心地がよかった。

もう一つはなんと(!)、出演者に友人がいたことである。

その友人に、女優を目指していると打ち明けられた時は、なかなか驚いた。だって、周りにそういう人がわんさかいるわけではないからだ。そういう人は、現実に周りにいるというよりも、テレビの中や、銀幕の中の住人のような気がしてしまうのは、普通のことだろう(だが、冷静に考えると、目指す人がいなければ誰も俳優になっていないのだから、そういう人が周りにいるという状況もさほど珍しくない)。そして凄いと思ったのは、女優を目指している、と口で言っているだけではなく、なにやら教室に所属して、毎週通っているということである。なかなかできることじゃない。

その友人が、ついに舞台デヴューである。いやはや、とんでもない友人を持っちまった。

舞台はとても面白かった。ギャグ満載、そして最後にはほっこり。ギャグシーンは爆笑しっぱなしだった。我らが「女優の卵」も一番出番が少ないとはいえ、存在感があった(知り合いバイアスがかかっていないと言えば嘘になるけれど)。その存在感の正体は、きっと彼女そのものが舞台にいたことだろう。思わず彼女を知る人はニヤリとしてしまうほどに、わたしたちの知っている彼女が舞台にいた。それでいて違和感はなかった。きっと自分を消すタイプの俳優はすばらしいが、自分が出るタイプの俳優(この例としては、香川照之唐沢寿明阿部寛藤原竜也あるいはムロツヨシがいる)の方が大成する。観客の心に残る俳優になる。なぜなら、演技をするとなると、普通はぎこちなくなって、自然と自分を出すなんてできないのだから。だからそれは悪いことではまったくなく、とてもいいことなのである。そう、思っている。

いやはや、とんでもない友人を持っちまった。

わたしもがんばらないといけない。わたしはこれでも、ライターになりたいと思っている。こんな駄文しか書けないが、夢はある。それはきっと、若人の特権である。

精進しよう。

ヘイル・シーザー!

昨日、朝早く起きて、午前十時の映画祭の「マイフェアレディ」を見に行った。断片的には見たことがあったが、全部通しては見ていない。だから見たかった。

ところが、だ。恐るべし、日曜日。そして恐るべし、オードリー・ヘップバーン。五分前に劇場に着いたら、もう、完売であった。

せっかく朝早く起きて新宿まで出てきたのだ。それを無駄にはしたくない。わたしはそう思って、劇場の時刻表を見て、ちょうどいい時間に何かちょうどいい作品はないか探った。そして見つけたのがジョージ・クルーニー出演の「ヘイル・シーザー!」だった。

「オーシャンズ」シリーズや、「ミケランジェロ・プロジェクト」を見て、わたしはジョージ・クルーニーという俳優が気に入っていた。また、「007」シリーズの新Mであるレイフ・ファインズ(ヴォルデモート俳優といったほうがわかりやすいだろうか)も出ているし、舞台は華やかな1950年代の映画世界だから、この「マイフェアレディ」を見れずに鬱屈した気分のわたしの心を晴れやかにしてくれそうだった。

そういう経緯で、わたしは全くの思いつきから「ヘイル・シーザー!」を見ることにしたわけだ。

結論から言えば、不思議な映画だった。不思議、というのは、悪い、という意味ではない。単純に、不思議なのだ。なんとなく、一筋縄ではいかない。

表面だけ追えば楽しい映画である。西部訛りの強い西部劇俳優が、おしゃれな映画に出演せざるをえなくなり、レイフ・ファインズ演ずる英国人監督に発音を矯正されるシーンは爆笑だった(見逃した「マイフェアレディ」もそうだし、「雨に唄えば」でも出てきたのだが、英語圏の人は発音矯正にトラウマでもあるのだろうか)。当時の映画のオマージュ、というかちょっとばかりネタにしているのも面白い。主軸となる撮影中の映画「ヘイル・シーザー!」も、ナレーションの感じとか、どこかで見たことがあるものだったし、途中のミュージカル映画も、「雨に唄えば」や、「エニシングゴーズ」にそっくりである。ああ、あるよな、こういうやつ、と思いながら笑う。

この映画には何かメッセージがあるのか。そう思うと、わけがわからなくなる。

映画の冒頭はキリスト教の聖歌が流れ、主人公のプロデューサーが懺悔するシーンで始まる。撮影中の映画も、キリスト教へ改宗する古代ローマ将軍の話であり、キリスト教精神を監督は伝えたいのかと思ってしまう。

が、そうではない。主人公は途中、宗教論争をする人たちを一蹴(この論争の荒唐無稽さも、わかる人にはネタとして面白い)するし、最後にはなんと、新婦にアドヴァイスを求めながら、アドヴァイスされたら、「わかってますよ!」とあしらう。

共産主義も登場する。結構重要な役なのだが、彼らは集まって、おたくの会議のようなことをしていてどこか滑稽である。それでいてジョージ・クルーニー演ずるスター俳優ベアードは彼らに影響されたりする。また、なぜかエンドロールは、ロシア語の歌が流れていて、あれ、共産主義の映画なんだっけ、と思ってしまう。しかし、共産主義は無礼極まりないとプロデューサーはスター俳優を殴る。

とにかく、いろいろなものがごちゃまぜで、それを滑稽に描いている。一つの価値観ではなく、いろいろなものがあり、どれにもあまり肩入れをしない、ドライな映画である。アメリカの水爆実験の話も一瞬出るが、それは一瞬で終わり、そのあとは何もなかったようになる。これは異例の映画である。だが、そのほうがリアルなのかもしれない。この映画は、1950年代という時代を丸ごと描こうとしているのかもしれない。

 

だが何はともあれ、笑える映画だ。笑って、何か色々起きたけどなんだったんだろう、と思いつつ、最後はなんとなくまとまっている映画。三谷幸喜の「ギャラクシー街道」に似ている。こちらはあまり評判芳しくなかったが、わたしは嫌いではない。

「ヘイル・シーザー!」がどんな映画なのか、それはぜひ劇場で確認していただきたい。

Uh, UMAMI

旨味は日本人にしか認識できない……そんなたわけたことを言う輩がいる。実際に科学的根拠がある、という野郎もいる。そういう奴らは、やっぱりだしだよね、などとぬかしやがる。だが本当にそう言えるのだろうか? わたしたち日本人が、神によって選ばれた旨味民族だとそういえるのか?

確かに、わたしたち日本人のいう「旨味」はあまり海外で目にすることはない。魚のだし、鰹節のだし、のような、そう、笑福亭鶴瓶がCMで紹介していそうな類のものは、海外にはあまりない。

だが、向こうには向こうの旨味がある。どうしても魚にこだわるのなら、北欧のニシンの燻製などには独特の旨味がある。あれを旨味と言わずして、何を旨味というのだろう? 何が、やっぱりだしだよね、だ。などと、強気に言ってみる。

魚ではないが、タイのトムヤムクンなども、やはり旨味の料理だ。ハーブが大量に入り、独特の甘辛さがあるものだから、あまり旨味のイメージがないかもしれないが、あそこから海老の旨味をぬかしたら、骨抜き料理になっちまう。海老の旨味があるから、あのスープを啜ってこう思わず言うのだ。「うまい!」

そして他の国の旨味といえば、やはり肉の旨味だろう。ヴェトナムに行った時、特にそれを実感した。特に北部ヴェトナム、ハノイは、旨味の宝庫だった。ブンやフォーと言ったヴェトナムの麺料理の汁はと言ったら、最高の旨味である。鶏肉の旨味が凝縮されたスープ。あれを朝早めに起きて、ちょっと肌寒い中すすると、五臓六腑にしみわたってくる。(南部はあまりそういうスープがないが、その代わり、肉がうまい。あれも旨味だと思う)

 

さて、前置き(実は前置きだった)が長くなったが、実は今日、わたしは最高の旨味を持ったエスニック料理に出会ってしまったのである。

わたしの大学のそばにはインドカレーの店がある。わたしと同じ大学の人間なら「ああ、あそこか」と思うだろう。ところがどっこい、おそらくそこではない。もし、「M」で始まる店のことを思っているのなら、そこではない。「S」で始まる店である。少し入りづらい外観なのだが、わたしは最近通い詰めている。

金曜日はカレーの日。それは我々日本人の胸にアプリオリに刻みつけられた、悲しき定め。そんなわけで、わたしは最近金曜日はインドカレーを食うことにしている。それで、その店にわたしは通い詰め、毎回違うメニューを頼み、その店の正解が何かを探っているというわけだ。

正直言うと、あまり芳しくはなかった。シェフの出身の問題だろうか、味付けが少々甘いのと、オニオンが効きすぎているのだ。まあ、こういうものか、と思っていた。そう、今日の正午までは。

今日はラムカレーを頼んだ。もともとラムは大好物だったし、今日はなんとなく、ラムが食いたかった。そして、その直感は正しかった。

まず驚いたのはラムの柔らかさだ。普通のインドカレー屋の羊はパサっとしている。それでもまあうまいのだが、今日のやつはひときわ柔らかい。わたしは肉の硬さにはそんなにこだわりがないが、あそこまで柔らかいと意識してしまう。

ラム肉を口に入れる。ラムの香りは(残念ながら)控えめだが、肉の旨味が噛むとジュワーっと口に広がる。まるで、断食明けの祭りのようだ。今までぐっと抑えられていた旨味たちが、噛むと解放されて、パーっとはっちゃける……うん、この例えはもう使うまい。

だが、それはまだほんの序の口に過ぎなかった。プロローグのようなものだ。スターウォーズでいえばエピソード1である。そのあと、壮大なサーガが待ち受けている。

それはカレーだった。辛味成分で真っ赤になっていたカレー。この店のカレーは比較的辛かったから、少し警戒しつつ、カレーのスープ部分をずすっとすすると、衝撃が走った。うまい。うまいのである。まさに旨味的な意味でうまい。ラム肉の旨味が凝縮されていて、正直なところ、ナンなどいらなかった。カレーだけずっと食べていられる。食べている最中に両隣の客がナンのお代わりをしたが、正直、わたしはカレーの方をお代わりしたかった。ただし、悲しき資本主義、カレーをお代わりしたら二倍の料金を取られるのでやめておいた。

久々にインドカレーを食べて感動した。それもこれも、インドにも旨味があったからだ。そして、ここの店は味付けが甘い、と言っていくのをやめなかったおかげでもある。粘って粘って、ついに正解を見つけた。色々な料理を食うからには、やはりこういう体験がないといけない。うまい、と言えるような体験。すぐに誰かに伝えたい、そんな体験。

食事は素晴らしい。そこには文化やらいろんなものがごった煮されている。そこには旨味がある。だからこれからも、うまいと言える何かを探して、どんどんエスニック料理屋に入っていこう、そう誓うわたしであった。

 

……書いていたらお腹が空いてしまったじゃねえか。