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旅、映画、食べ物、哲学?

嵐の前の激しさ PART3

「嵐の前の激しさ」

再びガタガタと揺れるバスに乗り、わたしは「士林(チーリン)」駅へと引き返した。昼食の時間だ。わたしは灼熱地獄の中、食べ物屋を探す。そうだ、士林観光夜市まで行ってみよう、と思った。せっかく士林にいるのだ。夜市と言ってもきっと、昼も何かやっているはずである。

だが、駅に沿って歩いてみても、何も見つからない。それもそのはず。先ほども言ったように、士林観光夜市の最寄駅は、非常にややこしいことに、「士林」駅ではなく、一駅前の「劍潭(ジエンタン)」駅だったのである。その時はそんなことにも気づかずに、やみくもに歩いた。だが、灼熱地獄に徐々に気持ちも萎えて行き、博物院で歩き回った足の疲れも出てきたので、駅前であらかじめ見つけてたった台南料理の小さな食堂へ行くことにした。

台南とは、台湾南部の都市のことだ。かつてこの島を支配したオランダ人たちが、「ゼーランディア城」と「プロビデンシア城」を築き、統治の根拠地として以来、台湾最古の都市として、19世紀の半ばに清が台湾の中心を新都市の台北に置き、日本が植民地支配の拠点を台北とするまでの間、政治と経済の中心になっていた都市である。実は台湾で一番訪れたかったのはこの街だった。やはり歴史のある都市は風格が違う。建物はどことなく戦前の雰囲気を湛えているらしいその街は魅力があった。そしてなにより、「小吃(シャオチー)」と呼ばれる屋台料理で有名なのである。歴史と美食、それほどわたしの心を惹きつけるものもない。だが、問題は台風14号であった。あの野郎は、滞在三日目に台湾南部に猛烈な被害を与えようとしていた。それは予想がされていたので、南部行きは断念せざるをえなかった。

その、台南の料理の店が士林にあったというわけだ。士林観光夜市の昼が楽しめなかったことだ。わたしはどぎまぎしつつも店に入り、「にいはお」と挨拶をした。

徐々に気づいてはいたが、かの地で店に入って「にいはお」というと、「你好」と返してくれるが、なんとなく気まずい空気感が流れる。このときもやはり流れた。仕方がないのでじーっと店員を見つめると、「何が欲しいんだい?」というようなことを聞いてくる。だが、何が欲しったって、店先に掲げてあるメニューが読めない。当たり前だが中国語は漢字表記なので、日本人にはそれを発音するのが難しい(これがヴェトナムとは決定的に違う)。そうこうするうちに店員が察してくれ、紙のメニューをくれた。博物館最寄の観光地だ。こういう展開は正直予想ができていた。わたしはメニューを見た。本当は台南名物の「台南担仔麺(タイナン・タンツーミエン)」と呼ばれるものが食べたかった。というのも、かつて日本の台湾料理屋に行って食った時、非常に美味しかったからである。だが、この台南料理屋は頑固なのか、それがない。しかたなく、次点でうまそうな「牛スジ入り牛肉麺」(日本語表記も入ったメニューだった)を指差して、「うぉーしゃんやおじぇーが(コレガ欲シイデス)」と言った。

相変わらず汚い、だが生活感あふれる素晴らしいレストランの店内で、わたしはテーブルについた。なかなか盛況である。台湾人なのか中国人なのか、はたまた日本人なのかわからないやつらがみんなで麺を食ったり、ご飯を頬張ったりしている。いや、これは多分台湾人だろう。ここで学んだのだが、ヴェトナム屋台の店ではテーブルに置かれている紙ナプキン(というかトイレットペーパー)は、台湾では店の壁にくっついており、みんな立ち上がってそこまでいき、ずずっと紙を引き抜いている。

運ばれてきたのは、なんとびっくり、前日に食べた「牛肉拉麺」のようなものだった。

前日、つまり台湾到着初日、わたしはホテルのそばをさまよっていて、小さな市場を見つけた。後で確認するとガイドブックにはただただ「市場」と書かれた場所で、狭い路地に野菜やら魚やら果物やらを売った店がぐちゃっと存在し、その間をぬって、なにやらうまそうなものを煮たり焼いたりしている店が何軒かある。この日の夜はここに決まりだった。わたしはその中でも一番いい香りのした「拉麺屋」に入った。そこのおっさんと体当たり会話をし、メニューを手に入れた。そして一番推しの商品と思われる「牛肉拉麺」を注文したのだった。肉はトロトロに茹でられ、八角の香りがし、肉出汁のでたスープは濃厚でピリ辛で、非常に旨かった。麺はぶっというどんのような麺で、日本のラーメンとは全く違う。初めはパンチのない麺に微妙な気分になったが、食べているうちにこれが病みつきになる。

そして、この日の昼。台湾到着後二件目の店で、再び同じような麺が出てきたわけだ。もう、これを食い続けるしかない。わたしはこの奇遇に面白さを覚えながら麺に手をつけた。なんとなく、昨日のものよりも薄味だ。暑かったから、もっと濃いものがよかったのだが、飲んでいるうちになかなか旨い出汁が出ていることに気づく。肉も昨日ほどやわからくはないが、「肉を食ってるぞ」というワイルドさがあって悪くなかった。

食べ終わって会計をし、わたしは再び灼熱地獄に出た。

この時気づいたのだが、ポケットに入れてあった「1000台湾元」がそろそろ底をつこうとしていた。これはまずい。両替しないといけない。だが、士林駅には銀行がなかった。

台湾に来て感じた最大の誤算は、両替だった。ヴェトナムやタイ、いやひいてはフランスやドイツ、イタリアやカナダでは、街中に両替商がいたものだ。ちょっとした商店の隣にはレートが掲げられ、そこですぐに両替が出来た。だが、台湾では両替には許可が要り、「Money Exchanger」と書かれた銀行でしかできない。これは大きな誤算で、後々まで影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ先のことである。

わたしは銀行を探しに都心に出てみることに決意し、かなり離れた場所にある「台北101/世貿中心」駅へと向かうことにした。トークン型の切符を購入し、改札を通る。その次点でふと、台北郊外にある「淡水」という保養地に行ってみたいと突然思った。だが、金が底をつきそうだし、切符はもう買ってしまった。仕方がないので、ヘトヘトになりつつ、有名な101がどのようなものかワクワクしつつ、わたしは電車に揺られた。

何十分電車に乗っただろうか。電車は高架鉄道から地下鉄へと変わり、最寄の「台北車站」を過ぎ、それからもかなり長い旅路である。台北101駅で降りると、意外にも駅は閑散としていた。

とりあえずわたしは外に出た。すると愕然とした。何もないのだ。ただでかい台北101というタワーが天を貫くようにそびえ立っている。周りにはビルも何もない。これは誤算だった。101はわたしの頭の中で勝手に109的な存在になっていて、周りは栄えていると思ったのだ。だが、何もない。とにかく101の中に入ると、これもまたブティックしかない。ジーパンにTシャツだったわたしには用のない場所だ。案内図があったので銀行を探したが、あるにはあるものの、いつまでたっても見つからない。わたしは諦めて101の外に出た。

駅に戻って、駅周辺の地図を見た。すると、何やらありそうな大通りがあることを発見した。そこまで行けば銀行があるのではないか。わたしはそう思って、灼熱地獄を再び歩みだした。

たしかに、そこは再開発地区だった。映画館やら、ショッピングモールがある。だが、銀行はない。そして火曜日だったせいか、誰も人がいない。わたしは諦めて帰ることにした。体力も限界だった。太陽に照らし続けられたため、軽い熱中症だったのかもしれない。わたしはふらふらになりながら、近くにあった「市政府」駅を降り、電車に乗り込んだ。そして数十分間、台北車站まで、「無の境地」というような表情で電車の椅子に腰掛けた。

無の境地になったせいだろうか、わたしはとんでもなくバカな間違いをしたことに気づいた。というのは、確かにわたしのポケットにあった1000台湾元は底をつこうとしていたのだが、それはわたしが持つ台湾元の全てではなかったのだ。

10,000円でどれくらいのことができるのか、何日暮らせるのか、というのは旅をする上でとても大事なことだ。だからわたしは10,000円分を台湾元に変えていた。総計2,500台湾元ほどになる。そして日本を発つ日、そのうちの1,000台湾元をポケットにくしゃっと突っ込んで、あとは腹に巻いている貴重品入れに入れたのだった。つまり、残り1,500台湾元ほど残っていたのだ。なら、両替などする必要なかった。この事実に気づき、わたしはどっと疲れてしまった。

台北車站に着くと、まっすぐホテルに帰った。時間は2時半か3時くらいだったと思う。エアコンをつけ、ベッドの上に座り、無音のテレビをつけた。ホテルの部屋の大きさは家庭用のユニットバスくらいである。ベッドがあり、小さなテーブルがあり、薄型テレビが壁に張り付いている。テレビの音をつけると音が隣の部屋まで漏れるせいか、テレビは無音だ。ヘッドッフォンをつけないと音がわからない。その日、テレビをつけると日本語の番組をまたやっていて、渋滞に関する例文を女性が言っていた。

しばらく快適なエアコンの風にあたり、ベッドの上でぼーっとする。まだ二日目だったが、わたしにとってはもうここは我が家だった。そのせいか、徐々に力が湧いてくる。コンビニで買ったペットボトルのウーロン茶(このウーロン茶は侮れない。かなりうまい)をゴクゴクと飲み、わたしはふと思った。

「淡水に行こう」と。

嵐の前の激しさ PART2

「文化の宮殿」

士林(チーリン)は、市場で有名らしい。人呼んで士林観光夜市。だが、非常にややこしいことに、士林観光夜市の最寄り駅は「士林」駅ではなく、先ほどまでわたしがいた「劍潭(ジエンタン)」駅らしい。

嵐の前の静けさで晴れ上がっていたことをいいことに、有名な「故宮博物院」に行くことにしたわたしは、「劍潭」でテキトーに降りてみた。だが、持参していた地図には「士林」に行くべしと書かれており、再び電車に乗り「士林」を目指すことにした。「士林」は「劍潭」から一駅先にあり、駅の作りもかなり似ている。まず高架鉄道があり、その下に降りると改札口がある。そのつくりは立川などのモノレールと同じものだ。士林駅を降りると、歩行者天国のようになっており、その両側には食い物屋が並ぶ。だが、残念なことに肝心のバス停が見当たらない。故宮博物院まで行くにはバスに乗らねばならないのだ。強烈な刺すような日差しの中、わたしはバス停を探してさまよった。ああ、バス停。君はどこにあるのだ。気分はまるで、サン=テグジュペリの『人間の大地』 で砂漠に取り残されてさまよう主人公であった。

だが、バス停は意外にも近かった。歩行者天国のような場所をしばらく歩いて右折すると、そこにはすぐバス停があったのだ。バス停の前は人でごった返しており、故宮博物院への道も近いような気もする。わたしはおめあてのバスの路線図を見、今度は直通していることを確認した。

そんな時だ。明らかに狙っていたバスとは違う番号をつけたバスがバス停から50メートルほど離れた場所に停車した。不思議なことに、行き先表示には「故宮博物院」と書かれていた。番号が違う? そんなことがどうしたというのだ。わたしはそのバスに乗り込んだ。だが不安もなくはないので、地図に載っていた故宮博物院の写真を指差しながら、

「ウォーシャンチュー(俺、行きたい)」

とかなり片言の中国語で言ってみた。運転手は「YES」と英語で答える。値段は15台湾元。日本円にするとなんとびっくり六十円である。

かなりガタガタと揺れるバスは満員で、わたしは運転手のそばで立っていた。バス停に着くたびに、現地人たちはsuicaのようなものをピッとやって出て行く。どこもシステムは同じらしい。旅行者用もあるらしいので、今度から試してみよう、などと思いつつ、移り変わる台北の街を見ていた。道の感じは日本とあまり変わらない。だが、建物はどこか中国の猥雑な感じを残しており、信号があまりない感じはヴェトナムのようだった。あらゆるものの交差点、それが台北なのだろうか。

と、そんなことを考えている間にも、バスはかなり揺れていた。これはおそらく、日本ではあまりないことだろう。揺れる揺れる、かなり揺れる。立っている客にはかなり厳しいものがある。まるで起震車だった。そんな揺れの中でも、隣に立っていた女子学生風の人はかなり真剣に何かを読んでいた。ふと見ると、なんとそれは日本語の教材だった。台湾には結構いると聞いてはいたが、やはりいるものなのか。なんとなく嬉しくなって一瞬話しかけようかと思った。だが、突然わけのわからない日本人に「おう、日本語やってんじゃん」と話しかけられるのも迷惑だろう。そう思い、わたしは再びバスの窓の外を眺めることにした。

しばらくバスは走り、日本語の学生は、他の学生たちとともにバスを降りて行った。どうやらこの路線には大学があったようだ。そしてバスが満員だったのも、ほとんどの客が大学生だったからだった。そこから先はかなり空いていた。だがそんな時間もつかの間、すぐにバスは「故宮博物院」に停車したのである。

故宮とは、古い宮殿のことだ。だからわたしは今の今まであれは台湾が清に統治されていた時の総督府跡か何かだと思い込んでいた。だが調べてみると、辛亥革命で政権を取った中華民国政府が公開していた清の所蔵していた宝物を北京を、満州事変などの日本軍の東北部侵攻を機に南部に政府が移し、戦後に始まった国共内戦中華民国と現在の中華人民共和国による戦い)での中華民国の敗北により、台湾に移動させたのが始まりらしい。要するに、かなり最近の建物なのだ。なんと開館したのは1965年だという(余談だが、わたしの両親より若い)。確かに建物はモダンで、ガラス張りの場所があったり、中だってかなり綺麗だった。だがそう知ってみると、かなり驚きの事実である。

バス停を降りると、巨大なタイル張りの広場がある。タイルの色は真っ白で、あの日の激しい太陽の光が反射してかなり暑かった。上からも下からも日光が押し寄せてくる。だが、太陽の光にきらめく故宮博物院は美しかった。広場の端にはヤシだかシュロだかの木がいくつも植えられており、南国の雰囲気を醸し出す。広い広場を抜け、ジグザグの大きな階段を上ると、故宮博物院にたどり着くのだが、これもまた暑い。故宮博物院前の階段を上りきって振り向けば、遠くに山が見えた。そしてもう一度正面を向くと、そこには中国の宮殿「風」の博物館がある。赤地で、左上には青い正方形、そしてその青い窓の中には白い星が輝く中華民国国旗が屋根の上にははためいていた。

中にはホールがあり、みんな荷物を預けていた。荷物の持ち込みは禁止だということは知っていたので、わたしも預けることにした。と言っても、わたしの荷物というのは、本と水と傘を入れたビニール袋だけだったのだが。

勇み足で入り口へ向かうと、係員が何やら中国語で話しかけてきた。わからない。だから「ん?」という表情をすると、チケットが必要だという。そんな気もしていたのだ。だが、どれがチケットカウンターなのかわからず、もしかすると無料かもしれない、などと甘いことを考えていた(一つ弁解させてもらうと、ロンドンの博物館はどんなに有名どころでも無料なので、海外に行くたびに、いつもいわゆる「ワンチャン」無料じゃないかなと思ってしまうのだ)。そのおばちゃんにチケットカウンターの場所を聞き、それでもよくわからず係員に聞くと、目の前だった。

チケット代は250元。日本円にすれば1000円。まあそんなものだろう。わたしは今度こそ意気揚々と博物院に入場した。

作りは、どことなく日本の国立博物館に似ている。大階段があり、それを登って行く。所蔵品はかなり多くあり、特に青磁の陶器は美しかった。椀や壺、杯などはそれぞれが薄く繊細で、シンプルな青い姿をしており、そののっぺりとした姿はどことなく引きつけてくるものがあった。なぜだかはわからない。だがあの、壊れそうなくらいに薄い、色はただ単に水色の陶器たちは、わたしの心を惹きつけたのだ。それは、もしかすると、そのシンプルさがまるで、人間が作ったようには見えないほどだったからかもしれない。誰かが作ったというよりも、まるでおのずから出来上がったかのように見える。

一方で、それとは違った意味で玉器も素晴らしかった。というのは、かなりゴテゴテしているのだが、繊細なのである。小さいにもかかわらず、丹念に彫り込まれている。そこには美しさと同時に、人間の執念があった。執念。それは人の心を固定し、ともすれば誤った道へと導きかねない。だがこの玉器は、執念のない人間なんてつまらない、と語りかけていた。執念があるからこそ、あそこまでのものは作られる。まさにいい意味での執念の塊だった。ただし、その展示室で展示されているはずだった有名な「白菜」と「豚の角煮」を模した玉が、リニューアルオープンした故宮博物院南院の方に写っていたのは残念だった。台湾を訪れたことのある友人に、「故宮博物院の角煮は必見」と言われていたからである。

芸術品は人間の心を映す。それはきっと、芸術家が触れているからだろう。芸術家たちの手垢にまみれているから、その芸術には、その芸術家の心が写り込んでしまっている。人間の執念、そして人間の自然と一致したいという思い。古代の人たちの作った、エキセントリックで、少しばかりシュールな動物たちは、きっと動物という自然からの「使者」たちの持つ、神秘的な部分を写しているのだろう。かなり滑稽に見える動物もたくさんいたが、そこには何かがあるに違いない。もちろん、もしかすると古代人の芸術家が勝手にジョークで作ったのかもしれないのだが。

二時間ばかり博物院を歩き回った後、わたしは駅に戻ることにした。食事時だったからである。暗い美術館から一歩外に出ると、そこは光の王国だった。激しい太陽が照りつけ、目の前は真っ白、灼熱の地獄である。そんな広場で、社会科見学だろうか、クラスTシャツのようなものを着た少年少女たちが、みんなで写真を撮っている。館内でもかなり見たのだが、ここはどうやら社会科見学スポットみたいだ。東京で言えば、上野、だろうか。なんにせよ、この少年たちはまだよくわかっていないだろうが、こうやって文化は継承されて行くのかもしれない。作品が彼らの目にはまったく面白くもなんともなかったとしても、「行ったよね」という思い出は残る。それが一つの文化なのかもしれない。

などと、格好つけてみても暑い。わたしはとぼとぼとバス停へと向かった。

嵐の前の激しさ PART1

「はじまり」

台北滞在二日目

嵐の前の静けさ、という言葉がある。それは、暴風雨が来る前に穏やかな気候になる、という現象からくる比喩だ。暴風がくるからこそ、暖かく、穏やかな天候になる。それはかえって不気味なことで、まるで神が未来を私たち人間にひた隠しにしているようでもある。

九月十三日の火曜日。台風14号莫蘭蒂が台湾南部に迫っていた。そして空は、そのことを隠蔽するかのように雲ひとつない青い空であった。まさに嵐の前の静けさ、ホテルの部屋から青い空を見たときはそう思った。

前の記事にも書いたように、わたしはちょうどこの前日に台北についたばかりであった。ずっと悪天候でも構うものか、当たって砕けろだ。そう思ってやってきて、まさかこんな天気になるとは予定外。わたしは朝食を済ませ、いい気分で外へと出た。目的地は公園だ。ホテルのそばに「二二八和平記念公園」という大きな公園があり、到着した日に行ってみたらよかったので、ハレの日の姿も見てみたかったのである。

朝の公園を歩くのは、今年の春に行ったヴェトナムで身につけた、わたしの旅のひとつの習慣だった。公園は、人々が集まり、思い思いのことをして過ごす場だ。そこには市場に匹敵するほど、人々の生活の跡が見える。ひょっとすると、市場以上かもしれない。だからわたしはヴェトナム以来、カナダに行った時も、散歩をして、公園を見つければ、必ず立ち寄ってベンチに腰掛けていたのだった。ベンチに腰掛け、空を眺め、何かを食べて、本を読み、そして物思いに深ければ、その土地の人々と、なんというか、一体化できる、その土地の人々の呼吸と鼓動を感じられるような気がするのである。

台北の公園は、想像通りというか、体操する人で溢れていた。これはヴェトナムでも同じだった。それも、驚いたのだが、ヴェトナム人がよくやっていた腕をぶらぶらしながら歩くだけの体操を、台湾人もしていたのである。どこも同じだな、と思いつつも、異変に気づかないわけではなかった。というのは、年齢層がかなり高いのだ。時間帯が少し遅かったせいもあるかもしれないが、公園に若者の姿はない。皆年寄りで、年寄りが集まって体操をしていたのだ。それはもしかすると、台湾の社会というものを示しているのかもしれない。そしてそれは、もしかするとだが、日本にも投影されるのかもしれない。若者たちは、年寄りたちから離れ、伝統はどこかの公園に置き去りになる。それが良いとか悪いとか言っているのではなく、単にそうなのだ。

しばらく公園にいた後、わたしはふと、有名な「故宮博物院」に行くことにした。なぜなら、「故宮博物院」は1度目の台湾なら行くべきだろうが少々遠く、これからもし暴風と悪天候が続く毎日がやってきたとすると、行く機会はなくなってしまうような気がしたからだ。コンビニで水を一本買い、駅へと向かう。太陽は徐々に高くなり、気温も上がっていた。やはり暑いな、と思った。

思いつきだったため、故宮博物院への行き方なんて知っているはずもない。だから前日に書店で買った台北の地図を開き、当てずっぽうで行くことにした。どうやら、故宮博物院台北市内の鉄道(MRT)から離れており、バスに乗らないといけないようである。わたしはとりあえず、故宮博物院と道で繋がっていそうな「劍潭(ジエンタン)」駅で降りることにした。

台湾の鉄道は距離に応じて料金が違い、運賃を払って、切符代わりの青いプラスチック製のトークンを買う。ホテルの最寄駅である「台北車站」から「劍潭」まではたしか、25台湾元、すなわちおよそ100円だったと思う。これで5駅分なのだから、日本と比べた時の破格ぶりがわかるだろう。日本で5駅も乗ろうものなら、もっと大量に取られてしまうはずだ。

台北市内を走るMRTというのは、ほとんどの場所が地下を通っている。だからほぼ地下鉄と言ってもいい。だが、目的地である「劍潭」は地上、というかむしろ、高架に駅がある。そう、初めは地下を通っていたMRTは、「劍潭」の一駅前にあたる「圓山(ユェンシャン)」で高架に登り、まるでモノレールのように地上を見下ろしながら進むのである。晴れ渡る青い空の下、まるでズートピアの冒頭のようにスーッと走って行く効果鉄道に乗るのはなかなか気分がいいものだった。

その気分の良さは天気のせいだけではない。台北の鉄道のおかげでもあった。というのは、乗客のマナーが日本と比べてかなりのレベルなのだ。儒教文化があるためか、お年寄りが電車に乗ってくると、多くの若者はすぐに、パッと席を立ち、どうぞ、すわって、と言いに行く。お年寄りの方もお年寄りの方で、すなおに「シエシエ(ありがとう)」と席に着くのだ。譲る側のマナーもよければ、譲られる側のマナーも良い。もちろん、譲らない人もいるし、何も言わずに人ごみを掻き分ける人もいる。だが、日本の電車の中に充満する倦怠感と緊張感はあまり見受けられないように思えた。

さて、「劍潭」駅で降りると、まず問題に直面した。バスがわからない。そこでわたしはとりあえず駅に貼ってあった故宮博物院などが載っている地図を見た。しっかりとバスの番号が書かれていた。そういうわけで、しばらく待とうと思ったのだが、バス停にあったバスの路線図を見ても、どうもそのバスは故宮博物院へと直行していないのだ。むずかしい。難しすぎる。悩んでいると、中国人観光客がやってきて、わたしに何やら話しかけてきた。どこでも現地人と見間違われるので、もう慣れっ子だったわたしはすぐに、「Sorry, I'm a foreigner」と言った。彼女はしばらく固まり、やっちまったという顔になってすぐに去って行った。すまないな、お嬢さん。お前さんを助けることはできない。なんせむしろこっちが教えてほしいくらいなんだぜ。

太陽はさらに昇る。10時くらいだっただろう。暑さはかなり酷いものになった。それは蒸し暑いというものではなく、太陽の直射日光が刺すという感じだった。わたしは現地の人たちに習って陰へとゆき、ふと尻ポケットに入っていた地図を見た。その地図にはツーリスト用の情報が書かれており、そこにあった故宮博物院の写真を見せれば運転手がなんとかしてくれるんじゃないかと思ったのだ。その地図の故宮博物院の解説には、なんということだろう、「士林」駅からバスが出ると書かれていた。「士林」駅は、わたしがいた「劍潭」駅の次の駅だ。やっちまったようだ。わたしはすぐにバス停から離れ、もう一度、今度は20元を払って、MRTに乗って、「士林」駅を目指すことにした。

さようなら、短い一週間

更新しよう、更新しようと思いつつ、書きあぐねている間に滞在期間の一週間が過ぎてしまった。そういうわけで私は今、再び、台北の松山機場にいる。出発まであと一時間ほどあるので、満を持して書こうと思う。

一週間に及ぶ一人旅は、実を言えば私にとって初めての体験であった。だが、使い古された言葉になるが、終わってみるとあまりに短かったと思う。

それは一つは、台風のせいもあるのかもしれない。三日目に台湾南部を台風14号「莫蘭蒂」が襲った。テレビのニュースで知ったが、台湾南部のとした顔が多大な被害をこうむったという。そして昨日、つまり台湾滞在六日目には台風16号「馬勒卡」が今度は台湾の東北部を襲っている。こればっかしは、台北も大雨と暴風雨に見舞われていたのを、身を以て知っている。昨日窓に雨が風にあおられて叩きつけられていたし、一度外に出た時も、ものすごかった。とはいえ、そんな台風も、幸運なことにあまり大きな被害を私の周りでは起こさなかったし、意外なことに、できるだけ外出を控えていた台風の日も、なかなか楽しく過ごせたのだった。だから、今回の一人旅に、台風はそんなに大きな影響は及ぼしていなかったとも言える。

では、なぜこうも短く感じるのだろう。

見るべきところは基本的に見たと思う。台北の保養地でデートスポット「淡水」にも(悲しいかな)一人で行ったし、有名な「故宮博物院」にも行った。「行天宮」という台北の人々の信仰の地にも行き、「臨江街」・「華西」・「士林」の三つのナイトマーケットにも繰り出した。ホテル最寄の「国立台湾博物館」も本館分館両方行き(分館の方が楽しい)、「台湾総統府(旧台湾総督府)」も見たし、孫文を記念する「國父記念館」、蒋介石を記念する「中正紀念堂」もくまなく見て回った。「台北101」は登りはしなかったが下からは眺めたし、台湾の代官山「永康街」や若者文化の発信地「西門町」などのオシャレスポットにも行ってきた。おそらく、これは「旅行」としてはかなり十分満足できるものだっただろう。だが、なんとなく、まだ消化不良が残るのである。

それはきっと、徐々に慣れてきたからだろう。初めは、頑張って拙すぎる中国語をしゃべったりしながら体当たりで店に入っていったりして、そして半ばではそんな生活に疲れ、そして今、やっと慣れてきて、これからもっと楽しめそうだという時に帰国だからこそ、この度は非常に短く感じられるのだ。もう少しいればもっと台北を感じられる。見るだけじゃなく、もっと感じられるはずなのだ。まだ何度も行く常連の店も作っていない。どこの「牛肉麺」(ニュウロウメン:台湾名物でこれがうまい。値段は500円くらいが相場)が一番うまいのか、どこの「魯肉飯」(ルーロウファン:ものすごく安くてうまい。120円くらい。ただ、量が少ないのでお腹がすく)が一番肉たっぷりなのか、まだつかみきれていない。それに何より、台北の人ともっと交流がしたかった。食堂での会計のやり取り、あとは一度だけ日本語が話せるおっさんと電車の中で話しただけだ。もっといろいろなことを聞きたかったし、もっと聞くべきだった。

私にとって旅をすることは、たぶん成長しようとすることだ。日本ではうまく解放できない、この20年間で「出来上がってしまった自分」をもっと解放し、もっと自由になりたい。だからやってみて、反省し、またやってみて、反省する。私は基本的に簡単にグイグイいける人ではないので、そんなことの繰り返しである。だからこそ、一週間は短いのだ。せめて二週間あれば、三週間あれば、と思う。なぜなら、街を見るのではなく、感じたいからだ。

だが、そんな消化不良感はありつつも、やはり楽しかった。それも、一週間が短く感じられる一つの要因だろう。どれが一番うまい牛肉麺かわからないくらい、どの店も牛肉麺はうまかった。それだけじゃない。どの店も、(淡水で食べたイカの揚げたやつ以外は)食事が最高にうまかったのだ。もっといろいろ試したかった。もっとここにいたい。そうすればもっといろいろな面白いものにも、うまいものにも出会える。そう思うと、まだいたいという気になるのだ。

私の乗る飛行機は、おそらく、台風と同じ軌道で飛ぶ。だから、実は今到着遅れによる遅延が起きている。だがなにはともあれ、行かなくてはいけない。次の旅に行くには帰らないといけないからだ。

 

そんな短い一週間の台湾滞在記については、また帰国してから徐々に投稿して行こうと思う。だから、(誰も期待なんざしてないかもしれないが)乞うご期待。

AVANTI!〜台湾1日目〜

志はあるが、全てを支配し尽くすことはできない。だから小さな島を分捕って、そこに理想郷を作る。そんなストーリーはわたしの憧れだった。だから、榎本武揚がその地に共和国を作ろうとした北海道、そして鄭成功蒋介石が夢を託した台湾は憧れの土地でもあった。だから高校を卒業してすぐにわたしは北海道、それも榎本武揚が政府を置いた箱館に初めての一人旅を行ったのだった。そして今、わたしはついに台湾で一人旅をしている。

全ては思いつきから始まった。

カナダから帰ってきて、旅の後の恒例行事、楽しかった日々を思い出してメランコリックになる、という状態になった時、ふと、どこかへ行ってしまおうと思ったのだ。モントリオールで使う金として用意していたのが100000円、実際に使ったのは40000円、則ち60000円も浮いている。それならその金を使って何かができるはずだ。アジアにならいけるに違いない。わたしは雨季だったヴェトナムを避け、今回の目的地を台湾に設定し、すぐに飛行機をとった。

あまりに急のことだったから、アルバイトやらなにやら大変だったのであるが、まあなんにせよ、わたしは台湾行きを決めた。

だが一筋縄で行ったわけではない。出発の二日前、気象庁発表の情報がこの度を消滅の危機へと至らしめた。フィリピン沖で台風が発生し、台湾に直撃するというのだ。色々と悩んだ結果、わたしは行くことにした。理由はと問われるとよくわからない。理由なんてなかった。だが、なんとなくここで行かないという選択肢は見出せなかったのだ。台風が来たら、部屋にいればいい。そこでカップヌードルでも食おう。それも、台湾産のやつを。それもアリだ。わたしはそうしていくことにしたのだった。

そういうわけで、台湾に今いる。

三時間のフライトは前代稀に見る快適さで、機内食も珍しくうまかった。魚がプリプリで、それに絡ませるカレーソースも旨い。つかったEVA航空がサンリオとコラボしているためにチケット、機体、機内のモニター、そしてフォークとナイフまでキティちゃん一色なのは小っ恥ずかしかったが、フライト自体は良かった。それに、三時間はあっという間だった、ということもあるかもしれない。

飛行機があっさりついたように、市内へ向かう地下鉄にもあっさりと乗り、あっさりと目的の台北駅へと到着した。電車は日本よりも入り口が広く、タイのエアポートレイルに近かった。また、切符ではなく、コイン型のトークンを使って乗車するシステムも同じだ。もしかすると、台湾のシステムを、タイが真似したのかもしれない。逆かもしれないが。

台北駅からホテルのある「重慶南路」までは少しあった。そして、天気はあいにくの雨。そこでわたしは台北駅の地下にあって、重慶南路の方へと伸びている「駅前地下街」へと向かった。そこはまるで市場で、中華文化圏らしいわい雑さがあった。色とりどりの服、色とりどりのバッグ、宝くじ屋、そして、やけにうまそうな匂いのする食べ物屋。そしてそこを抜けて地上へ出ると、ガソリンと食べ物とお香の匂いが混ざり合う、ヴェトナムでも経験したあのアジアの空間だった。だが建物はヴェトナムやタイとは違った。建物はずっと高く、ボロボロのコンクリートだった。当たり前だが看板の漢字の比率は多い。そしてネオンがある。しかし写真で見る香港よりは大人しい。空気はまとわり付くようで、歩いているとすぐに汗が出る。その上、雨がしとしとと降っている。しばらくその通りを歩けば、ホテルがあった。

フロントの人はまだチェックイン時間ではないのにもかかわらず、快くチェックインを許してくれた。わたしは言葉に甘えて汗だくになりながらチェックインした。部屋は3畳ほどで、まるで、テレビで見るオリエント急行のキャビンのような狭さだった(寝台列車にしてはでかいが、ホテルとしては狭い)。だが、幸いなことに窓がある。わたしは汗でびしょびしょのシャツを着替え、外に出た。

わたしはしばらく歩き、土地勘をつけることにした。まず、重慶南路を真っ直ぐ歩くと台北駅がある。重慶南路の並びには、繁華街や市場が並ぶわい雑な通りがいくつか走っている。台北駅をさらに奥へと進めば、庶民的な問屋街が現れる。一方、重慶南路を台北駅とは逆方向に歩くと、大きくて、中華風の祠や博物館や二二八事件という中華民国による台湾住民の反乱弾圧事件の慰霊碑がある公園、そして、省庁街、総統府(デモをやっていて近づけなかった。やはり、政治的主張に関しては激しい国なのだな、と実感した。それも、参加者はやはり若者が多いように思えた)のある小綺麗な界隈。そしてそんな小綺麗な界隈をしばらく歩くと、唐突に庶民的な食堂の並ぶ道が現れた。その頃には、初めは鬱陶しかったしとしと降る雨も気持ち良く感じるようになっていた。むしろ傘などいらない。あれだけ蒸し暑いと、むしろ雨に濡れる位が気分がいいのだ。

小綺麗な街の中にひっそりと存在する食堂だらけの道を歩いていると、小籠包を売る店を見つけた。買おうかと思ったが、中国語でどう対応すればいいのか、そもそも自分の中国語が通じるのか、あれこれと不安になってきた。初めて使う言語だ。そして初めての土地だ。そうなると、本当にうまくいくのか不安になる。だがここは勇気を出そうと思った。今までカナダやヴェトナムやタイで、徐々にできるようになっていたことだ。ここでもできるはずなのだ。

「ニーハオ」と、わたしは店に立っているおにいさんとおばさんに言った。

「ニーハオ」

「ウォーシャンヤオ……」まずい。小籠包の発音がわからない。わたしはとりあえず「小籠包」と書かれた看板のほうを指差し、「しょうろんぽう」と言ってみた。だが、店のおばさんは、「ア?」と聞き返す。まずいぞ、と思った刹那、おにいさんが、「ああ、シャオロンポウ」というようなことを言った。伝わった。するとおばさんは頷き、「&%?」と何やら聞いてくる。とりあえず聞き返すも、やはりわからない。わたしはとりあえず、

「ブーヤオ(いりません)」と答えた。

おばさんはにっこり笑って「ブーヤオ」と返した。台湾では拙い中国語を使うと、なぜか言い返してくる。これはとても面白い。

かくしてなんとかわたしは小籠包を手に入れた。どうやって食べようかと思案したが、この小籠包は肉まんのような皮で、丈夫だったので、そのまんま手づかみで、口に頬張った。あまり知るは入っていなかったが、非常にうまかった。やはり、どんどんしゃべるべし、である。

夜になってわたしは昼の散歩で見つけた市場へと向かった。その市場はホテルのそばの通りにあり、通りを歩いていたら突然市場が始まっていて驚いたものだ。とりあえずいろいろ歩き、わたしは一番繁盛していそうな「牛肉拉麺」を食べることにした。とりあえず店主らしき人に声をかけると、何やらペラペラっと喋ってくる。困っていると店主は日本語のメニューを出した。こういうものが結構あるのだろうか。あそこは特別観光客が来そうなところには思えなかった。まあとにかく頼んでみると、うどんのような麺と牛肉を煮込んだものが、茶色いスープに入っていた。麺はうどんそのものと言っていい。牛肉は柔らかくなっていてトロトロ、スープはピリ辛で、肉の出汁が良くてていてうまかった。帰りがけに「ハオチー(おいしい)」と言ってみたら、仏頂面でやはり「ハオチー」と返してきた。気持ちが伝わったのかはわからないが、とにかく初日にしては上出来である。わたしは店を出た。

店を出て少し散歩をした。すると何やらライトアップしているものが見えた。それは昼まデモの影響で見れなかった総統府だった。夜の闇にオレンジ色の光が、赤いレンガを照らし、ノスタルジックな美しさを放っている。こういうものに何の計画もなく出会うと感動する。見に行こうと思っていくのではなく、たまたま目にする方が、まるで(それが単なる勘違いだったとしても)神が用意してくれたプレゼントのように感じるからだ。気を良くして夜の台北をさまよった。爆撃の影響が東京ほどではなかったからか、日本統治時代の建物が多数見受けられた。それもライトアップされ、ノスタルジックだった。そしてその前をバイク達が疾走し、その奥には高層ビルが見え、そこに台湾の歴史が凝縮されているようであった。

そうこうするうちに駅に戻ってきたわたしは、また地下街を通ろうと思い、地下へ入った。すると見慣れない、中野ブロードウェイ的な地下街が現れた。とにかく歩こう。それが間違いだった。わたしはいつしか全く知らない駅へと迷い込んだのだ。調子に乗るのも大概にしないといけない。

それから先は大した話ではない。引き返し、コンビニで台湾ビールを買って、飲んでこれを書いている。これからわたしを待つのは明日という日だ。明日は何をしようか。正直まだ未定だ。だが、明日は明日の風が吹く臭豆腐でも食べようかと思う。

Shalom 'al Outremont

カナダで私1人が経験したことは、ケベックシティの一人旅だけではない。今日はその話をしよう。

ケベックシティ一人旅の翌日のことだ。まずはみんなと再会を果たし、みんなで朝食を店で食べ、そのあとは何をしたのかいまいち覚えていない。昼食の時間になると、私は仲間たちとともに、ヴェトナム料理屋へ食べに行った。というのも、現地人モニター曰く、モントリオールはたくさんのヴェトナム人(ヴェトナム戦争の時に逃れてきた人々だ)が暮らしており、ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理を食わせる店がある、というからだ。今年の2月にヴェトナムを旅していた私は、ぜひともその、「ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理」なるものを食べてみなければ済まなくなった。

入った店は、中華街にあった。しかし店員は皆ヴェトナム語でしゃべっており、窓に書かれた言葉もまごうことなきヴェトナム語である。店内は食堂風で、フォーや、ブン、といったヴェトナムの麺料理をすすっていた。これは期待できそうだ。ヴェトナム料理については覚えがあったので、得意げにみんなに「ああ、これはぜんざいみたいなやつだよ」とか「ブンは細麺で、フォーはきしめん」などと、まるでヴェトナム人のように説明しつつ、わたしは定番の「フォー・ガー」すなわち鶏肉のフォーを頼むことにした。

食べてみると、正直な話、本国のフォーの方が旨いと思った。というのも、あの店のフォーは南部ホーチミン風の味付けだったのだ。ヴェトナムは南北に1500kmほどの長さがあり、南北で文化も味付けも違ってくる。行ってみてふと思っただけなので、正確な情報かはわからないが、北部のフォーと違い、南部のフォーは麺の汁が甘く、出汁があまり聞いていない。一方北部は鳥のダシをふんだんに使っており、うまい。私はそんな北部風のフォーが好きだった(南部は焼いた肉が旨い。ものすごく旨い肉が、甘くてパンチのないシルに使った麺の上に乗っかる、という料理を何度かホーチミンで口にした)。そして、モントリオールのフォーは南部風、南部の人の口には、「本国よりも旨い」のかもしれない。だがわたしにとっては、確実にハノイで食べたあのフォーの方がうまかった。だが、あの店で久しぶりに飲んだ本物の「ヴェトナムコーヒー」(濃く入れたコーヒーに練乳を入れて混ぜる。その濃厚さは、生チョコレートを彷彿させる)は非常に上手くて、懐かしい思いにさせた。

そのあとはみんなでモントリオールの地下街ツアーをした。冬場は氷点下を軽く超えるモントリオールでは、地下街が発達している。東京の地下街もかなりのものだと思うが、モントリオールには負ける。北から南へ、東から西へ、たいていのところには地下を伝っていくことができるのだ。地下という場所はなんだろう、男のロマンを刺激する。地下を歩いているだけで、まるで秘密基地を歩いているような気になるのだ。しばらく地下街を探検した後、私はみんなと別れ、ひとり「ウトゥルモン地区」へ行くことにした。そこは、前々から行こうと思っていて、行く時間を見つけられていなかった場所だった。

 

ウトゥルモン地区、というのは、「山(モン:mont)」の「向こう側(ウートゥル:outre)」という意味であり、旧市街やダウンタウン、大学、中華街がある場所から、前に紹介した「モンロワイヤル」を超えた向こう側にある。そのため、ものすごく行きづらい。レジデンスからだと、地下鉄に乗って二駅のターミナル駅「ベリ・ユキャム」で乗り換え、そこから山の方へと進む地下鉄にものすごい長い時間乗って、市場のあるイタリア人街で有名な「ジャン・タロン」駅で下車、さら乗り換えて、4駅先についに「ウトゥルモン」駅がある。

なぜ、このような辺鄙な場所に行きたかったのか。

それはそこが世界随一のユダヤ人街だったからだ。世界でも大きなユダヤ人コミュニティは、ニューヨークとモントリオールにあるらしい。そのおかげか、モントリオールの伝統料理としてあげられる三つの料理「プティーン」「ベーグル」「スモークミート」のうち、「ベーグル」と「スモークミート」の二つはユダヤ文化由来のものである。

紀元135年以来、世界中に離散せざるをえなくなるという厳しい宿命に出会いながらも、自らの文化を守り続けてきた民族、いや、それだけではなく、ところどころに他の文化を受容し、周りの文化に対しては多大なる影響を与え続けている民族。そしてその文化と学問を重視する姿勢から、文化の担い手であり続けた民族。それがユダヤ人だ。哲学者としても、わたしがもっとも気に入っているアンリ・ベルクソン現象学の父フッサールレヴィナス、哲学に大きな爪痕を残したデリダ社会主義の大成者マルクス、もっと昔だとスピノザなど、科学者としては言わずと知れたアインシュタインノイマン、ボーアなど、芸術家だとシャガールなど……その名をあげたら止まらない。そんなユダヤ人たちが住んでいる町ウトゥルモンを是非とも覗いてみたかった。とくに、ウトゥルモンはユダヤ教ハシディズム派という独特な文化を持つ人たちの街だった。どんな街なのか、好奇心があったのである。(ユダヤ音楽にも興味があった。それについて調べてWEB雑誌に書いた記事があるので、もしよければ読んでいただけたら、と思う。《歴史・文化》哀愁と楽しさのあいだ〜ユダヤ音楽の世界〜 - すべての人に贈るウェブ雑誌TODOS)などといいつつ、本当は本物のユダヤ人たちが食べているベーグルやスモークミートが食べてみたかった、という気持ちが一番大きかった、という不都合な真実があることは否定できない。

さて、ウトゥルモン駅で下車し、街へ繰り出してみて愕然とした。まず、人がいない。そして、店もない。そしてなにより、ユダヤ人感が全くない。この駅で降りたら、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語の文字の一つや二つ、あると思っていた。だが、ないのだ。ただただ、閑散とした大通りがある。強いて言うなら、その大通りの名前がユダヤ人風のドイツ系の名前だった、というくらいだ。

しばらく歩いてみても、ただ暑いだけだった。どうしたものか。本当にここはユダヤ人街なのか。私の脳裏には疑念が浮かんでいた。引き返して、「ジャンタロン」のマーケットに行ったほうが楽しいのではないか。だがせっかく来たのだ。歩こう。私はさらにその大通りを歩いた。そうしていたらついに、ヘブライ語の文字が目に飛び込んできた。それは、なんたらなんたらの「家(バイト)」というもので、おそらくシナゴーグ、すなわちユダヤ教の寺院だった。しばらく遠くから見ていると、出口と思しきところから、ベールをかぶった男性が出てきて、なにやらぶつぶつ言っていた。これは確実にお祈りだろう。やはりここは、ユダヤ人の街だったのである。

他にも何か出てくるかもしれない、と大通りを歩いたが、全く見つからない。私は引き返し、シナゴーグのところへ再びやってきた。男は消えていた。シナゴーグのある通りへと右折し、木が生い茂った住宅地へと向かってみる。そこは生活感で溢れていて、どこにでもある北米の住宅地だった。ただ一つ違う点がある。暮らしている人の装束が、男性は黒いローブに黒い帽子、髪の毛は長く伸ばして、巻いて、左右に垂らしており、女性は頭に被り物を被って、薄いブルーのベストをつけ、ロングのスカートを履いていた。そう、それこそいわゆるユダヤ人の格好であり、ここに暮らす「ハシディーム」の服装だったのだ(面白い点がもう一つある。教育熱心で知られるユダヤ人だが、まさにその通りで、ほとんどが子連れなのだ)。

キッパ、とよばれる丸くて平たい帽子をかぶった十代の少年が本を抱えて歩いている。学校行事か何かがあるのだろうか。小さな公園では同じ格好の、もう少し小さな子供達が遊び、それを黒ずくめの親が見守っていた。しばらく歩いていると、年配の2人のハシディームが、なにやら喋りながら歩いていた。その言葉は、英語でもなければ、フランス語でもなかった(他のユダヤ人たちはフランス語をしゃべる人が多そうだった)。ドイツ語に似た響き、間違いない、ユダヤナイズされたドイツ語である「イディッシュ語」だった。絶滅危惧種の言語で、イスラエルではヘブライ語に取って代わり、ニューヨークでは英語にとって変わりつつあるイディッシュ語。それをここで耳にしたのは一つの感動であった。だが一方で、その人たち以外はフランス語をしゃべっているという現実に、感傷を覚えもした。言語は実用的なものだ。使われれば拡まるし、そうでなければ消えてしまう。消えゆく言語に情けをかけるのは、全くもって無意味なことだ。だが、イディッシュ語で歌われるユダヤ音楽を、所属するweb雑誌の活動の一環で調べていただけあって、イディッシュ語が消えゆく姿は寂しいものがあった。

本当は、ユダヤ人街を歩いて、人々としゃべってみたかった。ハシディズムのこととか、イディッシュ語のこととか、聞いてみたいこともあったし、話してこそわかることも多い。だが、それは思い留めることにした。なぜなら、ただただ興味本位に過ぎなかったからだ。興味がある、という人に別に嫌な気分はしないだろうが、なんとなく、別にユダヤを専門にしているわけでもなく、物書きであるわけでもない私が、「すみません、暮らしについて教えてください」というのは変な気がしたのだ。本当はそんな迷いなしにグイグイいければいいのだが、一度考えると動けなかった。そもそも、こうやって興味本位の観察者が、ユダヤ人街をうろうろすること自体が失礼にあたるのではないか、などとも思った。話しかけないほうが失礼かもしれない。ただただ、見ている。それほど気持ちの悪いことはない。色々考えるうちに、なんだか私は非常に気味が悪い覗き魔になったような気がして、自己嫌悪感を覚えた。ただ静かに暮らしている彼らを見て、おおユダヤ人だ、と見ている私は、なんと失礼で、なんと気持ち悪いやろうだろう。私は住宅街を抜け、繁華街に出た。

しばらく歩いていると、スーパーがあった。ユダヤ人用のスーパーに違いない。ちょうど喉も渇いていたし、私はとりあえず中に入ることにした。そこにはユダヤ人の生活があり、そこで一緒になって何かを買えば、「覗き魔」ではなくなれるような気がしたのだ。

案の定、そのスーパーは非常に面白かった。スーパーの中にはハシディームたちがいて、店内にある商品もどこか変わっていた。ヘブライ語の商品もたくさんあった。それはおそらく、コシェル、と呼ばれるユダヤ人の宗教上の戒律に従った食料品なのだろう。私は「マイム」とヘブライ語で「水」を表す言葉の入ったペットボトルの水(有名なフォークダンスの曲の「マイムマイム」は水が沸いたことを神に感謝する歌である。だから、キャンプファイアーに向かって「マイムマイム」と言いながら踊るのは非常に奇妙なことなのだ)を買って、外に出た。

そうこうするうちに、文化人類学者がフィールドワークと称して調査対象と共に暮らす理由がわかったような気がした。大学で文化人類学の授業を取っていたから、理由は知っていたが、この時はじめて、実感としてわかったのである。一緒に暮らさなければ、ただの観察者になる。それでは本当のことはわからない。インタビューしたところで、怪しい興味本位だけの人に成り下がるだけだ。でも同じ場所で買い、食べ、飲み、眠る、という生活をすれば、内側からその人たちのことがわかるようになってくる。だから、1日の暇な時間を見つけて、「そうだ、ユダヤ人街行こう」とやってきた私はそもそも、ただの興味本位の観察者に過ぎないわけで、本当のことなど分かるはずもないのだ。本当に「mixed culture」を知るためには、ユダヤ人街に住まないといけない。そんなことを、水を買った時に思ったのであった。

そこで私は公園を探すことにした。足も疲れていたし、公園のベンチに座ってこの土地の風を感じたかった。ウトゥルモンの大きな公園は、繁華街から少し歩いたところにあった。その公園は大きな池を中心に作られていて、落ち着いた雰囲気があった。池の前にあるベンチに座って、「マイム」を飲みながら、水面を眺めていた。風は穏やかで、ヘブライ語の挨拶「シャローム」が意味するところの、「平和」そのものだった。今度来た時は、もっと中へ入って行こう。もっと時間をかけよう。そう思った。ただ人々を眺めるのは気味悪いし、どこか失礼だし、それにそれじゃあなにもわからない。わかった気になるだけだ。だからもっと、いろんな人と言葉を交わし、生活したい。

小一時間公園でのんびりし、私は公園の小屋にあるトイレに入ろうと考えた。だが、どちらが男性トイレなのかがわからない。うろうろしていると、小屋の近くのベンチに座っていた、帽子をかぶった「ダンディ」そのものというような初老の男性が、

「向こう側だよ」

と声をかけてきた。一瞬なんのことかわからずに、聞き返すと、

「トイレだろ? 向こう側だ」

といった。

「ありがとう」

「いいんだ」

やはり、言葉を交わさないと(いろんな意味で)わからないことがある。

ケベックシティ冒険譚

 

   そろそろ、今まで書いていなかったことを書こうと思う。それは、ケベックシティへの一人旅の話だ。

 今回のプログラムでは、二週間目の週末に、それぞれがオプションでアクティビティーを選んで参加できるようになっていた。ナイアガラの滝旅行、ネイチャーアクティビティー(豪雨ともろもろの事情により「ヘルアクティビティー」の様相を呈していたという)、ホームステイ体験、そして宿泊先にとどまって自由行動、の四つから選ぶことになっていた。わたしは最後のものを選んだ。こんなにたくさんのものからよくそんな地味なものを選んだ、と言われたが、「自由行動」ほどすばらしいものはない。何処にだって行けるのだ。他の自由行動メンバーはモントリオールでショッピングやミュージカル鑑賞をしていたが、わたしが黙ってモントリオールに滞在し続けるはずがない。独りでケベックの州都ケベックシティ行きを敢行したのだった。


 だが、その道のりはなかなかハードだった。いや、ハードではない。単純にいろいろな事情がかさなって、ピンチピンチの連続だったのである。

ケベックシティに日帰りで行ってもいい?」と現地人モニターに尋ねたら、実力者Kに話を通してくれ、案外二つ返事でオーケーが貰えた。その交換条件は、「いつでもつながる携帯電話を用意すること」だった。「SIMカード」を入手すればそれができる、と聞いたので、わたしは早速SIMを入手した。
 出発は値段を考慮した結果朝の六時だったから、朝の五時には宿舎を出ねばならない。そこで四時三十分頃に起床し、シャワーを浴び、出発の一五分前くらいにSIMカードを携帯電話に入れた。愕然とした。「このSIMカードは無効です」と来たもんだ。実は日本の普通のiPhoneは海外のSIMカードに対応していないらしい。それを知らぬままにいれ、しかもエラーの内容の意味もわからない。
 そうこうしているうちに出発の時間が来た。わたしはとにかくビニール袋にもって行くものを入れ、部屋を出た。ホテルを出て雨が降っているのを感じ、気づいた。傘を忘れた。だが時間がない。そしてバスターミナル行きの市バスに乗り、気づいた。チケットの紙を忘れたのだ。このたびばかりは死ぬかと思った。だが、見送りにきてくれていたモニターのティムが、メールでチケットのデータが来ているんだから、そのメールを見せればのれるはず、という思慮深い発言をし、ことなきを得ることになった。本当に感謝しかない。焦りは禁物だ、とわたしは胸に刻み付けるのだった。

 

 そんなこんなで、わたしのケベックシティ一人旅は最悪のスタートを迎えた。バスの中で読もうと思っていた本も忘れ、なぜか前日に友だちから選別として渡されたベーグルとクリームチーズだけが袋に入っているという有様。イアフォンがあるのにiPodがないという失態。加えてバスの旅は三時間もかかるのである。まるで、ゴジラに新聞紙を丸めた棒で挑むような気分であった。
 だが、何が幸いするかわからない。何も娯楽がなかったこと(途中でバスにワイファイが入ることに気づき、スマートフォンからラジオアプリに入って、そのラジオを聞きながらバスに乗っていたから、三時間無娯楽の状態だったわけではないが)がバスの旅の醍醐味を味わわせてくれたのである。宿舎を出たときまだ暗かった空が明らみ、バスに乗って早々はねていた乗客たちが徐々におき始める。みんなそれぞれ盛っている朝食を食べ、窓の外を眺める。それは電車の旅では味わえない良さだった。ヨーロッパに行った時、六時間ほど電車に乗り続けていたことがあったが、電車だとやはり、どこか個人個人が分かれて座っている感じが強い。だがバスのような人が密集している場所だと、なんだか共同生活をしているような感じがするのだ。別に誰かとしゃべったわけではない。しゃべったとしても、「このバス停がケベックシティですか?」程度の会話しかしていない。だが、あの乗客たちと同じ朝を迎え、同じ行き先へと向かっている。そんな不思議な連帯感が生まれたのだ。あの独特な雰囲気は、ぜひまた味わってみたいなと感じた。

 

 ケベックシティには予想よりも早くたどり着いた。
 バスターミナルで町の地図を貰い、外へ向かう。手荷物はビニール袋だけ。簡素な一人旅の始まりである。
 が、外に出てみて愕然とした。全く方向感覚がつかめないのだ。バスターミナルの場所くらいは一応確認していたが、どちらにいけば町の中心である旧市街へと行けるのか、全くわからない。日本にはありがちなけばけばしい「おいでませ、旧市街」というような看板もない。ただ、だだっ広い道路があって、そこを車が走っている。しかも、朝の九時頃のため、人が極端にいないのである。わたしはとりあえず道を歩いている人に旧市街の場所を聞いた。
「この道を歩きなよ。そうすれば多分旧市街につくよ。ごめんな、俺はカナダ人じゃないんだ。でも、つくよ」
 道を聞いたおじさんはにこやかにそういうと、レンタサイクルの店へと吸い込まれて行った。わたしは言われた通り歩いた。そうするとどうだろう、確かに旧市街らしきところについた。だが、人がいない。どうしたものかと思って歩いているうちに、だんだんと地図上のどの地点にわたしがいるのかがわかり始めた。そこは旧市街でも「ロウワータウン」と呼ばれる、崖の下側の場所だった。旧市街の本体は、崖の上、すなわち「アッパータウン」にあったのである。
 しかしロウワータウンもロウワータウンで、なかなかよい場所だった。閑散としているが、落ち着いた雰囲気があり、観光客のこない旧市街、というような雰囲気があった。そこには確かに人がいきていた。こじんまりとした教会があり、町にはアートが飾られていた。それはそこか、リヨンの町並みにも似ていた。リヨンを訪れた時は、旧市街の山の頂上にあるユースに宿泊したが、その近くは似たような感じの静かな町並みがあった。エキサイティングとは言えないが、そこには独特の風格と良さがある。


 首折り坂という強烈な坂を上ると、巨大な塔が見える。それがケベックシティのランドマークであり、ホテルとしても使用されている城館だった。今では一階にスターバックスが入っている。その建物の前には巨大なサミュエル・ドゥ・シャンプラン像がある。シャンプランはフランス人探検家で、ケベックの地にフランスの植民地を建てた、いわばカナダの父だ。像のあたりは広場になっており、大道芸人がパフォーマンスをしていた。ラテン語、フランス語、英語、そしてなんと中国語の歌を歌いこなす女性、巨大なフラフープをまわす男など、いろいろな人がそれぞれの芸を見せていた。そこはロウワータウンとは違って、朝早いのにもかかわらずかなり盛り上がっていた。まるでお祭りである。

 

 しばらくして、わたしは旧市街をいったん出て、新市街からバスに乗って、「滝」を見に行くことにした。その滝はティムとは違うモニターが教えてくれた滝で、正直言えば、「写真とって来てよ」と言われたから、まあ一応いくか、程度の思い入れしかなかった。たまにはおすすめの場所にいくという旅もいい、と思ったということもある。滝の名前は「モンモランシーの滝」。わたしは市バス800番に乗り、「モンモランシー」というバス停で降りた。
 これが間違いだった。モンモランシーは、ガソリンスタンドしかないへんぴなバス停だったのだ。この近くにあるのか? そう思いながら歩いてみるも、照りつける太陽の暑さに気がめいってくる。それに、見るからに滝がなさそうな場所なのである。わたしは通りの名前を確認し、地図を見た。案の定、明らかに違う。もっとバスに乗っていなければいけなかったようだ。わたしは次のバスを待ち、今度は間違うまい、と運転手にこう尋ねた。
「Je veux aller à la chute de Mont Morency(モンモランシーの滝にいきたい)」
 フランス語を使ったのは、フランス語話者がモントリオールよりも多いと聞いたからだった。
「Ten minutes(十分くらいだよ)」
 なぜだろう、運転手はすぐに英語で返してきた。
 なんとなく屈辱を覚えつつ、席に着いた。だが不安は募る。一泊する旅立ったら別にいい。だが今回は日帰りだ。もしたどり着けず、戻ることもできなかったら? そう思うと不安でいっぱいになった。運転手はバス停の名前を言ってくれなかった。だからわたしは後ろの席の女性に尋ねた。
「滝に行きたいんですけど、どこでおりればいいかわかります?」
「ごめんなさい、カナダ人じゃないの」
 どうやらこの町にカナダ人はいないらしい。わたしは仕方なくバスの運転手のところへ行き、バス停の名前はなんて言うんですか、と聞いてみることにした。というのも、予定の「十分くらい」がもう過ぎていたからだ。
「バス停の名前………うーん、多分モンモランシーの滝じゃねえかな。後十分くらいでつくよ」

 この辺りで何かがふっきれた。もう、このままバスに乗っているしかないじゃないか。そのうちつく。多分つく。つかなかったらつかなかったでいいじゃないか。わたしはとりあえず席に着いて、窓の外を眺めた。あいかわらず、カナダの土地は広かった。
 しばらくバスに揺られていると、運転手が親切にも
「ここが滝だよ」とアナウンスをしてくれた。わたしは運転手に礼を言って、バスを降りた。
 だが、降りてみても滝がどこにあるのかはわからない。とにかく公園らしきところに入ると、昔の土塁のようなものが広がる平原に出た。その平原を少し歩いたところに東屋があって、何やらそこにたくさんの人がいる。もしやと思ってそちらへ向かうと、そこは滝だった。
 義理のつもりで来てみたが、その滝は予想以上のすごさだった。轟音と、流れ落ちる水の塊は、圧倒的な自然の力を見せつけていた。そんな力強い姿を見せる一方、滝と水面の間にはくっきりとした虹がかかっていた。滝は東屋から見ることができるだけではなく、そこから長い階段を下りて、真下から眺めることもできる。せっかくだ、行ってやろうじゃないか。わたしはそう思って階段を下り、滝の真正面にある舞台へと向かった。
 そこは圧巻そのものだった。水が吹き付け、シャツも眼鏡もズボンもずぶぬれになった。風が吹き付け、滝の威力を物語る。わたしはただただそこに立って、水が落ちるのを見ていた。

 その後公園で寝そべったり、滝を吊り橋から見下ろしてみたりして時間をつぶし、正午頃にわたしは再びケベックシティの旧市街へと戻った。時間が時間なだけあって、町には活気が生まれていた。なかでも「サンジョン通り」はすごかった。歩行者天国になっており、ストリートミュージシャンがそこら中で演奏をしている。店のテラスには観光客やら何やらが座ってビールを飲み、にぎわっていた。先ほどまでは自然に包まれていたが、いまや、人々の活気に包まれている。そんなことを思いながらわたしは、レバノン料理屋で肉団子のピタパンサンドを買い、ストリートミュージシャンの演奏を聴くことにした。
 ちょうどレバノン料理屋の前で、髭のおっさんが歌っていた。手にはトランペットをもち、たまにこれを吹き鳴らす。歌っている曲は、「プリティウーマン」など往年のヒットナンバー。おっさんの周りにはひときわ人垣ができていた。わたしは他の観客たちとともに道路に座り、おっさんの渋いけれど美しい歌声を聴いていた。最悪のスタートだったのに、今や最高の昼を迎えている。天気も快晴(モントリオールではそのとき雨が降っていたという)、本当に最高だった。

 そのあとは、何をしたわけでもない。シャンプラン像のある広場でぼーっとしながら大道芸を見たり、シタデルという昔の城塞の周りを散歩したり、絵画や写真の蚤の市を見て回ったり、ケベックシティの午後を満喫していた。バスは六時半に出発だったから、早めの夕食をとらねばならない。そのための店探しもしていた。折角ケベックシティに独りでやってきたのだから、なにかうまいものが食いたい。そう考えた時に、ふと、あのロウワータウンにならいい店があるんじゃないか、と思った。
 そこで、わたしはロウワータウンへと戻ってみた。とはいえ、戻ったのはレストランに入るデッドラインと心に決めていた五時より全然早かったので、とりあえず散策することにした。ロウワータウンも、この時間になるとずいぶんと活気が出てきていた。ビールを出している店も盛況だったし、教会の前には人だかりができていて、何やら結婚式のようなものをしていた。
 歩いていると、突如として市場を発見した。旧市街から一歩外に出たところにある、「ヴューポール市場(古い港市場)」である。市場を見つけたからには、入らざるを得ない。市場には人の生活があり、人の生活があるところほど、エキサイティングなところはない。何も買わなくとも、ただ見て回るだけで楽しいのだ。
 市場は、規模はあまり大きくないが、果物や魚介でいっぱいだった。ふと、ここでならフランス語が使えるのではないか、と思ったわたしは、スパイス専門店のようなものに入って水を一本買うことにした。実は行きに水を買っておらず、三時間水なしはかなりつらかった、という理由もある。
 ケベックシティでは、あまりアジア人がいないのか、すぐに観光客だとばれる。だから、フランス語を使っても英語で返されることが多かった。商店の人にフランス語で話しかけると、少々驚きの表情をされたが、がんばってフランス語で通してみた。そうすると、なんとなく歓迎の表情を浮かべてくれた。やはり相手の言葉を使うというのは大事なのかもしれない。

 そんなこんなで時間も時間となり、わたしは一番人気がありそうなレストランに入った。店長のひげ面のおじいさんは鼻歌を歌いながら作業をしていて、見るからに楽しそうだ。わたしは、鴨肉のコンフィと、ケベック産のロゼワインを頼んだ。かなり混雑しているのに、食事が出てくるのは速かった。ロゼワインはなぜか、白ワインに変わっていたが、独特の癖があっておいしかった。鴨肉の方はと言うと、ありえないくらい柔らかく、非常にうまかった。パリで食べたかもがものすごく固かったので、実はあまり期待していなかったのだが、ここの料理はかなりうまかった。やはり、どうやら人がたくさん入っている店を選ぶことが大事なようである。またひとつ、大切なことを学んだ。そしてなにより、うまかった。

 

 かくしてケベックシティ一人旅は終了した。またバスに乗り、三時間かけてモントリオールへと帰還した。途中豪雨が降り始めた時には、どうしたものかと思ったが、モントリオールに帰る頃には小雨になっていた。だから傘を忘れていたものの、その辺はことなきを得たのだった。

Farewell, My....

すべてのものには始まりがあって終わりがある。某国民的アイドルグループが解散を発表し、今年もオリンピックが幕を下ろしたように。永遠に続くものなどはなにもない。全ては始まり、そして終わりへと向かって行く。それを私たちは黙って受け入れるしかない。

三日前。三週間に及んだモントリオールでの語学研修が終わった。「三週間」という期間は初めは長いように思えたが、過ごしてみると一瞬のようだった。光陰矢の如し、とことわざにはあるけれど、ここまで早いなんて誰も想像していなかったに違いない。

それにしても初めてだったことは、あの語学研修に参加していた人々のほとんどが「帰りたくない」と言っていたことだった。というのも、去年学科のメンバーでヨーロッパに行った時は、「やっと帰れる!」という声が大半だったからである。思えば四年前に行った英国の語学研修でも、「帰りたい!」という人が多かった。そんな帰りたい人々の中にあって、わたしは一人、「ああ、帰りたくない」と言っていたものだった。だが今回は違う。ほとんどみんなが「帰りたくない」と言っていた。「フェアウェルパーティー」という最終日の送別会では涙する人も少なくなかったほどである。

それは、ある意味当然だったのかもしれない。それほどにあの語学研修はいい意味で濃厚だった。予定が詰め込まれて忙しかったが、いい忙しさだったような気がする。

一週間目は、このブログにもその様子を少しばかり書いたと思う。わたしは基本単独行動で、モントリオールの街を歩き回っていた。山の方へ登り、コンビニ(デパヌールという個人商店)で水やビールを買い、夜の旧市街に繰り出し、南米フェスで盛り上がった。週末には、語学研修の仲間たちとカナダの首都オタワへと小旅行に行った。オタワはトロントモントリオールに比べて地味なイメージがあったが、意外な都会感に驚いたものだった。

二週間目は風のように過ぎていった。CBC、いうなれば「カナダ放送協会(NHKみたいなやつ)」で放送体験をしたり、手巻き寿司をみんなで食ったり、色々と予定がてんこ盛りだったのだ。だがどれも楽しかったと思う。そしてこの週の終わりは、「”大都市”トロントと”魅惑の”ナイアガラの滝の旅」、「”雄大な”カナダの大自然体験」、「カナダ人宅訪問、ホームステイ体験」、そして「レジデンスにそのまま滞在」の四つのグループに分かれてそれぞれアクティビティーをした。あいにくの天気と諸々の事情により「”雄大な”カナダの大自然体験」はあまり芳しくない結果に終わったようだったが、それぞれがそれぞれの週末を楽しんだようだった。わたしは、というと、レジデンスにそのまま滞在した。といっても、引きこもったわけではない。単身、ケベック州の州都ケベックシティーへと日帰りで乗り込んだのである。その模様はまたいつか書くとしよう。だが、最高の体験だったと言える。初めての長距離バス旅行だったし、成り行きで滝も見れたし、なによりうまい鴨料理にありつけた。

三週間目の印象は、「練習」の2文字だった。先ほども少し触れたが、出発の1日前に「フェアウェルパーティー」という送別会が開かれる予定になっていたのだが、そこで出し物をしなければいけない。だから、そのための練習をしていたというわけだ。出し物はレジデンスの階ごとに決められたグループ単位で行われる。わたしのいたグループはなぜだか妙に仲が良く、出し物も一週間目の終わりくらいには決まっていた。そして、練習は二週間目から始まっていたと思う。私たちの出し物はダンスと歌だったが、みんなダンスや歌が好きだった。だからある程度二週間目で練習が落ち着いていたものの、みんな進んで三週間目にも練習をしていたのだ。みんなで何かを作るというのはとても面白い。不思議な結束力が生まれる。初めから不思議な結束力で結びつけられていた私たちのグループは、さらに結束力が強まり、「帰りたくない」という気持ちはますます強まっていた。

そして、フェアウェルパーティーである。わたしは本番でダンス(足の位置を間違えた)も歌(なぜだか音程が外れた)も失敗してしまったが、最後のあのやりきった感じは忘れられない。歌が終わった時にはもう、みんなが家族のようであった。みんな数年来の親しい仲間みたいだった。フェアウェルパーティー自体も素晴らしかった。みんなが着飾り、それぞれのショーをする。あの空気感はなんとも言えない良さがあったし、ついにここまで来たという気持ちがあった。だが、その一方でこれで終わる、という実感は沸かなかった。このまままた新しい週が始まるような気もどこかでしていた。だが、そうはいかなかった。そう、すべてのものには始まりがあって終わりがある。終わりがなければ始まりもないし、始まりがあれば終わりがあるのだ。

そうして今に至る。

あの日から三日が経った。

時々寂しくなる。それはあの仲間たちにしばらく会えないから、という理由だけではないかもしれない。それはむしろ、あの生き生きとした現実だったものが、いつの間にか一夜の夢のように感じられてしまうことが寂しいからかもしれない。わたしは確かにモントリオールにいた。そしてあそこでいろいろなことをし、考えた。だがそんな日々は、日本に帰ってくると、いつの間にか夢のようになってしまう。あまりにいろいろなことがあったからだろうか、まるで現実感がなくなってしまうのだ。

思えば、あそこでやり残したこともたくさんあった。三週間は長いと思っていたから、次がある、次がある、といろいろなことを先送りにしていた。お気に入りだった公園にも二回行ったっきりだったし、公園のそばでスモークミートを食べることもなかった。旧市街でディナーも食べなかったし、その他にもいろいろなことをやり逃したように記憶している。そんなやり逃したことも、今ではもうできない。もうあの、夢の世界には戻れない。そう思うと、ため息が出る。

心残りのない旅はないし、いつしか心の中で現実味のない夢のようなものなってしまわない旅もない。それはどこかに行くたびに思い知らされる。帰ってくるたびにそれを思い寂しい気持ちになる。そろそろ慣れてもいいはずなのに、それでもわたしはいつもそんな気分になる。

だからかもしれない。わたしがこれからも旅に出るのは。旅を夢にしてしまわないために、そして心残りをただの後悔で終わらせないために。過去を未来へとつなぐために。

だからこそ、あの仲間たちにもまた会いたい。そうすればあの日々はまた蘇るような気がするのだ。そして、あの楽しかった日々は、未来の楽しい日々に生まれ変わる。

そんなことを思いながら、わたしは次の旅の計画でも立てようかと思う。次はアジア圏だろうか。ヴェトナム再訪、あるいは中国文化圏も悪くない、だがロシア旅行も捨てきれない、悩ましい限りである……

一人歩きの夜

みんなでしゃべったりしながら、いろいろなところに行くのは楽しいことだ。ふざけてみたり、笑ったり、色々と話したり、なかなか楽しい。わたしは喋るのが好きだし、わりと寂しがり屋だからだ。

だが、個人行動ほど楽しいものもない。一人宿舎を抜け出し、喧騒の街へと繰り出す。この、よくわからない背徳感と、そして自立感がたまらない。作家の沢木耕太郎は、一人でいると自分に話しかけるしかないから、内へ内へと行く旅ができる、と言っていた。まさにそのような感じで、一人で街へ出ると、なんだろう、ものすごく充実した気分になるのである。

数日前のこと、夕飯の後の時間は自由だと言われて、わたしは困り果てた。ブログでもかくか、それともポケモンでも捕まえるか。だが、それはなんだかもったいない気がした。そこでわたしは思い切って、夜のモントリオールへと向かうことにしたのだ。

一人では絶対に出るな、と言われていたので、わたしは同室のイタリア人を誘った。だが彼の答えはツレなかった。疲れたから寝る、というのである。こうなったら、ぜひに及ばず。わたしは一人ホテルを抜け出し、とにかく外に出たのだった。

プランなんてものは、全くない。だからわたしは何か思いつくのを待ちつつ歩いた。そうするとアイデアがわたしの頭に降ってきた。「川へ行こう。この前は遠いような気がして諦めてしまったけど、さっき調べたら以外と旧市街から近かったじゃないか。なら行ってみよう。今から夕暮れになる。きっときれいだろう」

そういうわけでわたしは川へと針路を切り替えた。モントリオールの川は、サンローラン川という。旧市街を超えたところにあって、前回の散策では諦めて引き返してしまったのだった。ぜひ川は見たい。なぜなら、ホーチミンでも、バンコクでも、ホイアンでも、わたしは川のほとりがいいなと思っていたからである。わたしは途中で「世界の女王マリア教会」なる大仰な名前の教会(ビジネス街のど真ん中にある、ドームの教会だった。バチカンの「サンピエトロ大聖堂」のレプリカらしい)に寄ったりしつつ、旧市街へと入った。この前入ったところとは違って、こじんまりとしたビストロがならび、夕日が映えている。ノスタルジックな石造りの通りをしばらく歩くと、川のそばの公園に出た。そこは、現在も幾つかの船が止められている場所だった。そのためか、大声でしゃべっているガタイのいいあんちゃんたち、ポケモンを捕まえるガタイのいい兄ちゃんたちがワイワイとやっていて、お世辞にもあまりいい雰囲気とは言えない。また、川のそばには、1センチ大の白い羽虫が盛んに飛んでいて、少しばかり気色が悪かった。しかししばらく歩くと、その虫も消え、雰囲気も変わってきた。どうやら観光地的な場所に出たようだった。

そこには幾つかの露店が並び、賑わっていた。ちょうど夕暮れ時(といっても21時である)で、オレンジ色の空が旧市街と川を照らしていた。黄昏時の風がスーッと吹き、にぎやかな音が聞こえてくる。わたしは夕食をしっかりと食べてしまったことに後悔した。なぜなら、サンドイッチやら何やらを食わせている屋台が幾つかあったからである。それを知っていれば、もっと軽く済ませていたものを!だが仕方がない。わたしはとりあえず歩くことにした。屋台街のそばにはアスレチックパークがあって、その奥には高い塔がある。そこからライトアップされたワイヤーが川の向こう岸までずーっと続いており、そのワイヤーを滑車で、ターザンのようにシャーっと降下してゆく遊びをやっていた。とてもやりたかったが、どうも一人でやるのは侘しい。そう思ってわたしはまた屋台街をほっつき歩きながら、夕日に向かって帰途に着いたのだった。

そういえば今日も個人行動をした。

まず午前中、時間が空いたので、初日に行った「サンルイ公園」へと言った。そのそばのサンローラン通りは、旧市街とは全く違う良さがあった。あそこには人が生きている。普通の人が普通に買い物をして、何かを食っている。そんな面白さがあった。平凡な街ながらも、モントリオールの人々の暮らしが覗ける場所だった。また文化の十字路でもある。イタリア語の看板、スペイン語の看板、ポルトガル語の看板、そしてヘブライ語の看板。日本語もあったし、中国語もある。モントリオールは多文化の街だ。だが旧市街やダウンタウンにいる限りそれは見えない。だがここではそれを感じられた。移民問題などで、文化の交流なんて夢物語だという人もいるだろう。だが、文化は確かに交流している。入り乱れ、変容し、そしてエキサイティングでダイナミックな街となって生きている。それを肌で感じられた。ぜひユダヤ料理の店に入りたかったが、今日は昼食に約束があったので、入るのはやめておいた。そしてサンルイ公園でぼーっとしたり、本を読んだりと、一時間以上時間を潰したのだった。

午後のアクティビティの後、わたしは洗濯をし、その出来上がりを待つ間、水を買いに出た。ここ数日で顔なじみになっていたコンビニのおっさんが、「モントリオールの冬は寒くて長い。だから夏になるとみんなクレイジーになるんだ」といっていた(蛇足になるがこのおっさんとのトークにはもう一つエピソードがある。旧市街と川の散策の後、いい気分になってビールを買ったら「歳はいくつだ?」と聞かれたので、「20だよ」と答えたのだが、なぜか今回も聞いてくる。しかも今回は水しか買っていないのである。「20だよ」というと、「ちょうど20なのか?」と聞いてくる。「ああ」といえば、「ふうん、本当かなあ」という。なぜか信頼してもらえない。多分若く見えるのだろう)。それで思い出した。宿泊先のそばで、先住民の祭りをやっているらしい、ということを。そこでわたしは洗濯をすっかりほったらかしにして祭りへと向かった。先住民は一瞬しか登場せず、「南米フェス」の方がメインだったが、南米のビートに飲まれて非常に楽しかった。

そしていい気持ちになって帰ってきて、今に至るというわけだ。

明日は6:00に朝食だという。全くもって早い。というのも、カナダの首都オタワへの旅が待っているからだ。オタワではどんなことが待ち受けているんだろう。そう思いながら、そろそろ寝ることにしようと思う。

丘の上に立つ

ケベックモントリオール滞在五日目。

モントリオールは快晴である。青い空、白い雲、とはまさにこのこと。太陽の光が道を歩く私たちにググッと差し込んでくる。多少蒸してはいるが、過ごしやすい。ここの気候は気持ちのいい5月を連想させる。

今日、わたしは山に登った。山、というのは「モントリオール」すなわち「王の山(モンレアル)」の名の由来にもなった「モン・ロワイヤル」である。だが、日本人の感覚ではあれは山ではなく、どちらかといえば「丘」と言った方が正しい。大きな丘、である。この大きな丘にはクラスのメンバーで行ったのだが、やはり丘だけあって、たいして体力を奪われることはなかった。もちろん多少の汗はかいたが、足はまだ全然元気である。

モントリオールという街は、この「大きな丘」を中心に成り立っている。

まずど真ん中に「モン・ロワイヤル」があって、そこを起点に場所を把握できる。モンロアイヤルの南東にはダウンタウンと高級ホテル&ブティック街、さらに南東に行けば中華街と旧市街があって、その奥には「サンローランス川」という馬鹿でかい川がある。北東に行くと、サンルイ公園という落ち着いた公園があり、静かで穏やかな空気に包まれている。モン・ロワイヤルの西側には、巨大な墓地があり、その奥にはモントリオール大学があるらしい。また、ユダヤ人街もこのゾーンに存在する。西側はまだ行ったことがない。というのは、わたしが滞在しているのは山の東側であり、西側とは少しばかり交通が遮断されている感があるからだ。ぜひ、これから開拓していこうと思う。

さて、そんなモントリオールのど真ん中にあるだけあって、山の頂上に立てば、街を一望することができた。西側には開けていなかったので、東側の、滞在している場所や、通っている学校、そして何度も散歩したダウンタウンが上から見えた。それはまさに圧巻だった。それはきっと、モン・ロワイヤルが、山ではなくて「大きな丘」だったおかげだろう。高すぎるとまるで街はおもちゃのように見えるが、モンロワイヤルからは、ビル群が自分の目の位置に存在していた。その光景はもう、まるで飛んでいるような、そういうなれば自分がドローンに乗っている気分であり、なかなか壮大だった。

そしておもしろかったことがもう一つある。散歩をしていると、非常に大きな街で、川はずいぶん遠くに流れていると思っていたのだが、このモンロワイヤルから見ると、実はモントリオールは小さな街なのだ。全てがほんの小さな区画に収まっている。川の向こうには、自然が見える。山が二つほどあって、遠くの方は霞んで見えない。これが、アメリカ大陸なのか。そう、ふと思った。

モントリオールの暑い日

さて、カナダはケベック州モントリオール滞在もいよいよ四日目と相成った。

授業も始まり、カナダ文化のこと、英語の発音のこと(かなり体系的にやっている。おお、さすが大学生、という感じの授業である。まさかカナダに来て「前舌音」「後舌音」「硬口蓋」なんてやるとは思ってもみなかった)などを学んでいる。部屋にはイタリア人のMくんが同居人としてやってきた。なんと高校生で、今進路のことで悩んでいるらしい。三ヶ月間北米の英語圏を回って行く予定で、今は二ヶ月目だそうである。初々しいなと感じつつも、わたしだってすぐ二年後には決断を迫られることになるのだから、他人事ではない。

とにかく、いろいろなことが始まったのだ。やっと、モントリオールの暑い日々が幕をあけた、というわけである。

1日目は授業の後、私たちが滞在している大学のキャンパスを見せてもらった。私たちが授業をしているのは違う建物なので、キャンパスに入るのは初めてだったのだ。感想から言えば、ひたすらにでかい。広くて長い道が本館のほうへとつながり、本館はそびえ立っている。そしてそびえ立つ頂点には、校旗がはためく。本館の目の前には植え込みがあり、モニュメントが立っていた。案内してくれた人によれば、その下には大学の創設者の骨が半分だけ埋葬されているらしい。まるでブッダである。

大学内には図書館はもちろん、博物館もあった。そこには大きな鯨の骨や、恐竜の骨が飾られており、まさに圧巻そのもだった。

キャンパスツアーが終わると、わたしは大学の前のコンビニエンスストアモントリオールでは、「デパヌール」というらしい)で水を一本買って、再び散歩に出かけた。散歩の途中で、わたしの所属しているグループのミーティングがある、という情報を突然もらって、大慌てで宿舎に戻る、という事件があったものの、その他はいい散歩ができた。行かなかった場所を、頭の中の地図に組み込む。わたしはおととい行かなかった場所を中心に歩いてみた。「プラスデザール(Place des Arts)」という駅の近くに謎の芸術空間があって、そこはまるで異空間の様相を醸し出していた。というのも、地下鉄の駅の改札の横に、謎の「EXPO」という道があり、そこをとにかく歩いたら、いつの間にやらその空間に迷い込んだからである。そこは日差しのおかげで暖かく、歩行者天国だったので、誰もが悠々自適に歩いていた。なんだか、お祭りに迷い込んだようでもあった。

その他にも、高級そうなブティックが並ぶ界隈をうろついたりして昨日は過ぎ去った。二日目、すなわち今日もクラスのメンバーでモントリオール版の「ドトール」「ベローチェ」のような「Tim Hortons」という店でコーヒーを飲んだりした。そんな中で改めて気づいたことがある。それはやはり、ほとんどの人がフランス語を使っていることだ。街中のポスターもフランス語、看板もフランス語、メニューもフランス語、歩いている人はフランス語でしゃべれば、店員だってまずは「ボンジュール」と声をかける。ちょっと「気の利いた」店だと、「ボンジュール、ハーイ」と二ヶ国語で話しかけてくる。

わたしはフランス語を勉強しているが、どうもどぎまぎして英語で話してしまう。だが、フランス語で声をかけると、フランス語で頼んでみたりもする。そしてそのあとでどぎまぎする。事後どぎまぎである。せっかくケベックにいるのだ。これからはフランス語も使ってみようか、そう、思うのだった。

おお、カナダ

突然だが、わたしは今カナダのモントリオールにいる。語学研修というやつで、三週間滞在することになっている。それで今日は二日目だ。本当は昨日の話を昨日書こうと思っていたのだが、ものすごい眠気によってそれは辛くも中断せざるをえなくなった。

1日目のことを書きたい、そう思ったのには理由がある。飛行機に乗って、十二時間かけれモントリオールにつき、それで宿泊先についた1日だったが、それ以上のことが起きすぎたからだ。本当に濃厚な1日だった。

というのは、だ。日本からカナダ国内の経由地トロントまでの飛行機は割と順調に進んだのだが、トロントからモントリオールまでのたった一時間のフライトがとんでもないことになったのである。空港について、トランジットのモニターを見たとき、30分の遅れと書かれていた。まあ、そういうこともあるか、と平気な顔でチェックインし(入国審査で「Why Canada?」と聞かれて、「どうして行先は星の数ほどあるのに、よりにもよってカナダを選んだの」と聞かれたのかと思って狼狽するという事件はあったがそれ以外は順調だった)、それから待合席に座った。だがどういうわけか、予定の時間になっても呼び出されない。おかしいな、とまたモニターを見ると、いつの間にか一時間の遅れになっている。まあそれくらいはある。そうは思ったものの、それでも予定時間になっても呼ばれない。おかしいな、と思っていたら、呼び出しの声がかかった。

だが、それでも、話はまだまだ続く。

客室に乗り込んで座っていると、いつまでも飛行機は動き出さないのだ。これはおかしい。明らかにおかしい。誰もがそう思っていた。だが、アナウンスは声がこもっていて上手く聞こえない。だからわたしには「キャビン」と「メキャニカル・トラブル」くらいしかわからないのだ。でもとにかく何かが起きているのは確かである。私たちは待った。ただひたすらに待った。それでも呼ばれず、疲れからか、わたしもみんなもふっと眠りに落ちてしまうことがなんどもあった。だが、何度寝落ちして、何度起き上がっても、飛行機は動き出さないのである。そうこうするうちに、「メキャニカル・トラブル」は「フィックス」された、という連絡が入り、客室乗務員が「リクライニングシートをあげろ」だのなんだの言い始めた。いよいよ出発だ。希望の光は見えた。始めは明るかった空も、今では暗くなるほどに待たされたが、これで先に進める。

そう思った、矢先のことである。

確かに、飛行機は動き出した。だが、決して飛び立とうとはしなかったのだ。まるで車のようにずーっとずーっと走り続けている。走り続けるのはいいことだが、飛び立たなければ意味がない。またも私たちはウトウトし始めた。寝ては起き、寝ては起き、を繰り返し。それでもまだ、目の前にある窓の外はトロントのまま。これに一時間ほど要して、ついに飛行機は飛び立った。

待たされて、待たされて。私たちは憔悴しきった体でそれをやられたために、飛行機内では愚痴をいい続けていた。だが、思いがけないプレゼントもあった。まず、夜景だ。カナダのだだっ広くて計画された街に光が灯る姿を飛行機の上から眺め見ることができたのである。それは、トロントモントリオールの二回楽しめた。そして二回目、つまりモントリオールの夜景は一足違った。遠くの方で、何かが光っているのだ。それは花火だった。テレビでしか見ることのない、「花火を真上から見てみよう」をやってしまったのだ。形が分かりにくいやつだと、泡がはじけるようにしかみえなかったが、丸いやつだと、一個の球があるようだった。かなり低空だったので、花火ってのは意外と近い世界なんだなあと思った。隅田川花火大会の日に、空からモントリオールの花火を見るなんて、神様は随分と粋な働きをしてくれるじゃねえか。などと、たいして進行してもいない神に褒め言葉をかけ、悪いことがあったらいいことがある、この世界はうまくできているもんだ、と思ったのだった。

それが1日目のハイライトである。二日目は自由時間を有効利用して、例のごとく個人行動をとった。街の雰囲気を知るために、あえて強行ルートをとった、といえばまるで計画性のあったもののようだが、実際は違う。テキトーに歩いていたら、いつの間にやらいろいろなところに行っていたのである。まず、宿舎からそう遠くないところにとてもいい公園を発見し、朝、ヘルパー的な役回りの人に貰ったリンゴをかじった。それから宿舎らへんをうろつき、宿舎で昼食をとった。そのあとはみんなが買い物に行くのを「楽しそうだなあ」と少しばかり思いつつ、モントリオールの山の麓に登ってぶらぶら、降りてきてダウンタウンをぶらぶら、公園で「$%&#ライト」というカナダ産ではなさそうな謎のビールを成り行きで買って、風を感じながらごくりと飲んだ。そのあとは、ユダヤ人街があるというウトルモン(OUTREMONT)にいこうとして地下鉄のパスがまだ有効期間でないせいで行けなかった。

「ならばモントリオールの川を見よう、「山」と来たら「川」と来る、と赤穂浪士も言っていたじゃないか」と川の方に向かった。とはいえ、川は遠かった。全くたどり着かない。そうこうするうちに面白い建物が並んでいる界隈や、ちょっと危ない感じの猥雑な界隈や、ヴェトナム料理やが並ぶ界隈や、中華街にたどり着いた(危ない界隈でも、普通のダウンタウンでも、この街では多くの物乞いを目にした。ヨーロッパよりいる。なんだか、頭の中に地図を作るという伊能忠敬ばりの行動は、暗い現実まで地図に組み込むことを強いる行動でもあったようだ)。ええい、こうなったらなんとでもなれ、と中華街をグーっと抜けて(ここに来ると人種が一気にアジア系になり、観光客が一気にヴェトナム人になるのが面白い)川の方へとひたすら歩いた。だが、川にはつかない。いつの間にかわい雑だった街並みは、清楚な官庁街になった。どうなるのかなと歩いていたら、いつの間にか、パリのシテ島界隈にあるような古い建築物が目の前に現れた。「ああ、これが旧市街というやつか」わたしはちょっと旧市街を歩こうという気になった。かくして旧市街を回り、なんとか宿舎に着いたのだが、なんと明日も旧市街に行くらしいではないか。まあいい。これで、頭の中になんとなくモントリオールの地図ができたのである。これはきっといつか役に立つだろう、と自分を納得させるわたしであった。

そういうわけで、二日目が終わった。今日から部屋に同居人のイタリア人が来るらしい。イタリア人にイタリア語で話しかけて怒られた経験があるので、少しばかり怖い。だが、なんとかなるだろう、と思っている。

失って気づくもの

二週間ほど前、風邪をひいた。

夏風邪の時期だ。珍しいことではない。

「あなたの風邪はどこから?」というコマーシャルがあるが、わたしの風邪は鼻からである。あの時も、部屋にいたら突如としてくしゃみを10連発ほどし、それから滝のように鼻水が流れ始めた。そして翌日、案の定風邪をひいた。

だから、わたしは風になると鼻の機能が低下する。今回の場合はあまり鼻はつまらなかったが、鼻の奥の方がはれたようで、耳がなんとなくボアーっとしていた。そういう場合、息ができるものの、口の中に入れた食べ物の香りを感じることができなくなる。これがなかなかの苦痛だった。

食べ物は舌だけでは味わえない。いや、味わうことはできても、それがうまいのかまずいのか、そういう判断は下せなくなる。むしろ、すべてのものがまずいような感じになる。今回はそれを身を以て実感した。

例えば、ローストビーフを食べる。同じものを食べている人たちはみんな、「おいしい」と言っているが、わたしには全くわからない。というのも、あの牛肉の香りや、ソースの香りや、西洋ワサビの鼻にツーンとくる感じが全て感じ取れないからである。わたしがわかるのは、ソースのしょっぱさ、肉の感触、そんなものだ。だから心からうまいとは言えないのだ。

あるいは、そばを食べる。啜ってみても蕎麦の香りは全く鼻に届かない。ただ、しょっぱいめんつゆに使った麺類を食らう、それだけでしかない。どうも、おいしくない。

もしかすると、それはわたしが元から香りのある食べ物が好きだから、かもしれない。ラム肉、鴨肉、青魚の刺身などわたしは非常に香りのある食べ物が好きだ。そういえば前、ラムカレーがうまいと力説したとき、「でもラムって臭みがありますよね?」と聞かれて何も言えなくなったときがあった。なんとなれば、わたしはあの臭みが好きだからだ。「あれがいいんじゃないか」と言ってもラチがあかないので何も言わなかったが、わたしは香りで食べているところがある。

正直言って他の人が何に重きを置いて食べているのかは、わたしにはわからない。聞いてみなければわからない。だが、香りがかなり重要なファクターであることは賛成してくれる方も多いのではないだろうか。

そう思うと、食べ物というものを私たちは舌で味わっているわけじゃないのかもしれない、と思う。「おいしい」とか「味がいい」とか「うまい」とか言ってしまうと、まるで舌で味わっているようだが、私たちが本当にうまいと言えるものは、香り、歯ごたえ、味付け、などのいろいろなものを込みにして「うまい」と言えるものなのだろう。見た目や、肉の焼ける音なんていうのも、その一つのファクターかもしれない。わたしはそんなことに気づかされた。

そんなことはもしかすると常識かもしれない。だって、小学生だって、牛乳が嫌いな人は鼻を摘んで飲むと大丈夫という情報を知っているのだ。この情報は、まずい牛乳の香りの部分をなくしてしまうことで、おいしくはないけどまずくもないものに牛乳を変えてしまうことで、飲めるようになるというトリックに基づいている。そんな情報を小学生でも知っているのだから、もっと上の人は当然のごとく知っているだろう。だが、知識としてわかってはいても、実際に体験してわたしは面白いなと思った。

人は一つの器官で何かを感じるのではないのだ。もっと全体的に、何かを感じ取っているのである。それはもしかすると、他のものにも言えるかもしれない。例えば、夕日に感動するとする。これは一見すると美しい夕日を見て感動している。だが、それだけではないかもしれない。例えば吹いてくる風の感触、その風の匂い、そしてその場の音、全てに包まれながら、わたしたちは感動しているのではなかろうか。

写真や、動画や、あるいは文章は、そんなもののうちの一部しか私たちに見せてはくれない。例えば、夕日の写真を見せてもらっても、それは写真を撮った人があのとき感じた夕日ではない。食べ物の話をしてもらっても、それは食べた人の食べたあのうまさを表現できない。だがそれでも、確かになんとなく再現してくれるようなものはある。そういうものが、いい写真だったり、いい動画だったり、いい文章だったり、あるいは完璧な食レポのようなものなのだろう。

うまいということは、味がいいということではない。香りがなければ始まらない。そう思うと、つくづく、鼻が通じてよかったなあと思うのである。

さらば、愛しき南店

そこにはやはり予感というものがあった。

いつもと変わらない姿を見せているように見えても、実はそこには刻々と迫る終わりの時の予感があったのだ。寂しげな、その予感が。

昨日、わたしは新宿の南口にある紀伊国屋書店へ足を伸ばした。

紀伊国屋は新宿に大きいものが2店舗ある。まずは東口にあるもので、本店だ。もう一つのものが、南口(正確には新南口)にある新宿南店だ。本店も本店でいいのだが、わたしは南店も好きだった。どちらの方がいいというのではない。両方とも好きだった。というのは、古風な見た目で紀伊国屋書店の歴史を感じさせてくれる本店とは違い、新宿南店はおしゃれで、モダンな雰囲気を漂わせていたのだ。それに、新宿南店はかなり大きくて、いろいろと揃っていたから使い勝手が良かったということもある。

そんな新宿南店が、この8月7日に和書コーナーを閉じる。存続が決まっている洋書コーナーは6階だけだから、事実上の閉店と言ってもいい。それなりに繁盛していたように見えたし、わたし自身よく使っていたから、このニュースが春に飛び込んできた時は耳を疑った。理由はいろいろあるようで、まあ一種の「大人の事情」のようである。とにかく、新宿南店は幕を降ろすわけだ。

なんとなく寂しい気分に苛まれながら、わたしは何度か新宿南店を訪れてみたが、閉店するような雰囲気は全くなかった。もしや、ここでかなりの買い物をすれば閉店を免れるのではないか、などというテキトーな夢想をよくしたものだ。それほどに普通だったし、南店ラヴァーが閉店を惜しんでやってきていたため、いつも以上に繁盛しているように見えた。

だが、昨日は違った。

新宿駅新南口は、少し高いところにある。駅の改札口を抜け、紀伊国屋に入ると、そこは不思議なことに3階ということになる。3階は旅行の本などが置いてあって、よくそこの寄稿文のコーナーで本をめくりながら、ああ、旅したい、などと思ったものだ。この階は、昨日もいつも通り盛り上がっており、人でいっぱいだった。なんだ、7月になっても大して変わらないじゃないか。そう思いながらわたしは4階の文庫コーナーへ行き、そのコーナーも大して変化がないことに安心感を覚えた。

違ったのは5階だった。

エスカレーターで5階へ登ると、瞬時に空気感の違いを感じた。そのコーナーは学術書や語学書などが置かれていたのだが、なんとなく寂しい感じがあったのだ。その正体は、いつもはズラーッと本が並んでいた書棚がガラガラになっていたことにある。本が一冊も並べられていない書棚もあったし、本が並んでいる書棚も、まるまる一段は何も置かれていない、という状況であった。例えば、わたしがよく立ち読みをしていた語学書のコーナーは、四段書棚があったのだが、そのうちの一番上の一段には、何も本が入っていなかった。書棚の前に立つと、どことなく、寂しさを感じた。ああ、やはりこの書店は閉じてしまうのか、そう、思わせる何かがあったのだ。わたしはなんとなくその場にいづらくなって、哲学書のコーナーやら、国際関係書のコーナーやらに行ってみたが、どこもかしこも同じ状態だった。レジ近くの企画コーナーで、二人の店員が、もう店頭に置かなくなった本を運んでいた。ここの、もう売られなくなった膨大な量の本は、どこへと運ばれ、どこで売られるのだろう。ふとそんなことを思った。

レジの前を通ると、店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。いつもそうだった。だが、昨日はなぜか、何も買わない(というか、所持金が300円くらいしかなかったため何も買えない)で立ち去る自分を恥じざるをえなかった。

6階の洋書コーナーは逆に、新たなる門出(洋書コーナーだけはリニューアルオープンするということになっている)のための準備で忙しそうだった。ここも何もない書棚があったが、それは、「今後何かを入れるための」書棚だった。確かにここの洋書コーナーはかなり充実していた。それが残るのはせめてもの救いであった。

エスカレーターで6階から降りて行く途中、ふと考えた。1階から5階までが紀伊国屋でなくなるなら、一体何になるのだろう。洋服屋や、そんなようなものになるんだろうか。そう思うとなんとなく残念だ。あそこは今の今まで、本で埋め尽くされた、本の世界だった。別に洋服屋が嫌いなわけじゃないし、「低俗だ」なんて言うつもりはない。だが、洋服屋やそういった類のものなら、隣の高島屋にもある。もしそういったものが紀伊国屋に来てしまったら、全部同じになってしまうじゃないか。なんとなく、あの建物がいつの間にかごく普通のデパートになってしまうのが寂しかったのだ。

いろいろな店が、現れては消えてゆく。それは資本主義社会の定めだ。だが、それは少し寂しくもある。古ければいいとは思わないが、長い間存続し続けるものには独特の価値が出てくる。私たち人間だって、(母親からは異議を申してられるかもしれないが)赤ちゃんの時代はみんな同じようなものである。だが年齢を重ねて個性的になって行く。新しいものを追求して行く結果、同じようなものを量産してはいないか。どこもなんとなく同じものがあって、なんとなく同じ雰囲気がある。それではつまらないじゃないか。

だから、あのビルには是非、6階の洋書コーナーと相性がいいようなものを入れて欲しい。そう、願うばかりである。

the Big Slump

ここ数日、いや一ヶ月以上になるが、ここに投稿していなかった。この一ヶ月何もなかったわけではない。それどころか、いろいろなことがあった。まず先月の18日、わたしは無事二十歳になった。そしてその少し前見た「ハリーとトント」という映画はなかなか良かったし、そのあともいろいろ映画を見た。自分への誕生日ブレゼントに買ったローリングストーンズのCDは良かったし、最近読み始めたアンリ・ベルクソンという哲学者の著作はなかなかいい。7月に入ったら風邪を引いたが、おかげであることを知ることができた。だが、それでも投稿をしなかったのだ。

なぜか。その理由は単純だった。わたしはいわゆる「スランプ」に陥っていたのだ。

単なるブログ執筆者がスランプとは生意気な。そう思われるかもしれない。そりゃそうだろう。ブログでスランプってのはなかなか聞かないからだ。

ことは数年前に遡る。わたしは高校の文芸部にいた。文芸部というと、他の部活の人にとっては何をしているかわからないところだろう。そんな人のために言っておくと、文芸部では大抵は小説などを書いて発表している。そういうわけでわたしも小説を書いていた。あのときからだ。わたしにはよくスランプというものが訪れていた。わたしの部活では季節ごとに一つ小説を発表していたのだが、わたしの場合、一度書くと、次の発表の機会がある時にスランプが訪れていたものだ。そして、大概そんなスランプが終わるのが、締め切りの二日前や一日前と決まっていた。そんなわけで、わたしはいつも小説をものすごいスピードで作り上げるという不健康なことをしていたものである。

スランプというのがどういうものなのかというと、要するに書けないのだ。スランプではない時期には、文章を書きたくて書きたくてたまらない。誰が読んでいようと関係なく、書きたくて仕方がない。そんな狂った状態が通常営業だ。だが、スランプに陥ると、まず集中力が持たない。パソコンの前に座って、書き始めても、途中で別のことをしてしまう。そのせいで思考の糸というやつが切れてしまい、もう書くことができなくなるのである。書きたいことはあっても、うまく書けない。そんな歯がゆい状態が続くと、なんとなく疲れてしまって、書くことが嫌になる。

そんな時期を乗り越えるには、自分の力だけでは不十分なことが多いように思う。書こう書こうと頑張ってみても、書けないものは書けない。だから散歩に出てみたりするが、それでも書けない。そんな時は書かないことが一番いい。といっても、書かなければ治るというわけでもなくて、また書き始めなければ、スランプなんぞ一生治らないだろう。

書きたいことを胸の奥に貯め続けるというのも、スランプから抜け出す一つの方法だ。そうすれば少なくとも書きたい気分になる。そうし続けて、イライラを重ね、そんなある時、ふとまた書けるようになっているものだ。

そういうわけでわたしは今、こんなことを書き連ねている。リハビリである。リハビリを人に読ませるっていうのも、なんとなく問題を感じるが、まあ仕方ない。

そんなに疲れそうな思いをしながら書く必要なんてないじゃないか、と思う人もいるだろう。ご説ごもっともだ。だが、なぜだかわからないけど、わたしは文章を書きたいみたいなのである。