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Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART1〜

1936年、当時フランスの海外植民地であったインドシナ半島で、一つのプロジェクトが完成を迎えた。それは、ヴェトナムの旧都で現在の首都であるハノイからヴェトナム南部のフランス支配の中心地であったサイゴンを結ぶ実に1726kmにわたる長大な列車の開通であった。ところが、第二次世界大戦後、フランスに対する独立戦争である「インドシナ戦争」、そしてサイゴンを中心とする南部に成立した米国の傀儡政権である「南ヴェトナム」とホー・チ・ミン主席率いる社会主義政権「北ヴェトナム」による全ヴェトナム統一をかけた「ヴェトナム戦争」によってヴェトナムは南北に分断され、列車もその機能を停止する。そして1976年、ヴェトナムは「北」による「全土解放」、すなわち日本人に分かりやすい言い方をするなら「天下統一」がなされ、くだんの1726kmを結ぶ列車も再びその役目を果たし始めたのである。そのこともあって、この鉄道は「統一鉄道」「南北線」と呼ばれ、統一されたヴェトナムのシンボルとなっている。

鉄道開通の81年後、そして南北統一の41年後の2月6日。今から実に10日ほど前のこと。私は友人と二度目となるハノイの地にいた。今回の東南アジアの旅は12日に及ぶもので、5日間のカンボジア滞在の後、私たちは無事(実はバクテリア性と思われる胃腸炎カンボジア最終日にかかったので、「無事」ではなかったが、まあ、生きていたんだ、「無事」にカウントしようじゃないか)ハノイ入りを果たした。今回の旅の1つのイベントは、ハノイ観光後に中部のフエまでくだんの南北線に乗ることである。


1. TN7 ハノイ→フエ

 

空港のツーリストインフォメーションで予約したホテルに飛び込み、チェックインの手続きをしていると、
「次はどこに行くの?」とホテルのフロントの女性が言った。
「フエに行きます」
「何で行くの? もう取ってあるの?」と女性はいう。
「列車で行くつもりですが、まだ取っていません」そう、今回はホテルはおろか列車のチケットすらなかった。
「そう。でしたらお手伝いできますよ」これはありがたい。私は早速お願いすることにした。
ところが手伝うわとかってでた割に、手続きをしながら彼女は怪訝そうな顔をして、
「なんで列車なの? みんなバスで行くわ。やすいもの」と言った。私たちは真面目に答える理由もなかったのでとりあえずジャパニーズスマイルでごまかしておく。そうこうするうちに手続きは進んで行く……
なぜ電車にしたかったのか。それはまずもって列車の名前が日本の地下鉄と同じ名前で少々おかしかったこと、いつか乗ってみたいシベリア鉄道の予行練習になりそうだったこと、おんぼろ列車でガタゴトと北から南まで行くというシチュエーションに不思議な魅力があったこと、とまあ色々とあったわけだが、一つ言えるのは、列車を使いたかったから列車を使いたかったのである。これじゃあ、言えるはずもなかろう。
始めは70ドルほどの列車があると言ってきた。100はすると思っていただけに少し安心したが、彼女は50ドルのやつもあるという。そちらの方が各駅停車で夜の20:45発12:15着らしい。私はそちらを選ぶことにしてこう言った。
「チーパー、ベター」
出発は二日後。懐かしのハノイと、世界遺産ハロン湾を巡ったあとのこと、となる。

予想とは裏腹に、この列車の旅は、予想以上に快適であった。
取ったのは、寝台車の「ハードベッドクラス」の「レヴェル2」。といってもよくわからないだろう。要するに、小さな部屋に三段ベッドが二つあり、そのうちの中断を使うということだ。そしてベッドはまるで畳のように硬い。事前にネットで調べていた通り、一夜限りの同居人はみなヴェトナム人だった。寝台車のランク的には下から二番目になる。
と、そんな風に書くと快適さが伝わらないかもしれない。だが、細くて硬いベッド、がたんごとんと揺れる列車には、飛行機や豪華列車にはないような心地よさがある。まず、支給されている毛布をたたんで、その上に枕をポンと置くと、リクライニングシートの如くなり、意外な快適さが出てくる。そして狭いベッドは一夜限りのマイルームのように思えてきて、広い部屋よりもずっと落ち着く。それは、去年の夏に台湾で一週間に及ぶ二畳一間生活を送ったからかもしれない。
そして何より一番いいのは、昼になると部屋の外に出て、窓の外を眺めることができる。これはバスにはない楽しみだろう。

朝起きて車窓の外に見えた北部ヴェトナムは広大な田園風景の世界である。果てしなく続く水田、そしてその水田の世界の中に時折現れる緩やかなカーブを描く緑の山。田園の中には茶色い牛が何頭か佇んでいる。これはカンボジアのバスで見かけた牛が白かったのとは対照的だ。そんな広い広い牧歌的な世界が流れて行く。何か見るべきものがあるわけではない。ただ目に入ってくる世界がある。そんな世界を見ていると、自分の周りにある閉ざされた世界なんざ大したことのないもののように思えてくる。
こんな田園の中で一生を暮らし、そして終えて行く人々はどんな人生を送っているんだろう。そこにはきっと私には得られないような幸福があるはずだ。しかし逆にいえば、私のようにこうやって異国の地の田園を見ながら物思いにふけるなんてことをすることはないだろう。人生は案外平等で、同じようなことを経験し、それでいて互いに互いの人生を経験することはできないのだから。

そんなことを思いながら、私はこの日からの「同居人」となった父娘の様子を見ていた。父親は穏やかな表情の人で、娘は幼稚園児か小学校低学年くらいだろう。交流こそなかったが、その二人の様子を見ているだけで心穏やかになるものがあった。北のどこかの田舎町から南へと移動する。そんな二人は時々窓の外を見てはにこやかに笑っていた。そしてしばらくするとカップ麺を食べ、タッパーいっぱいに詰め込まれた鳥の足をかじっている。母がもたした弁当だろうか。
そんな穏やかな雰囲気の中で電車に揺られていると、むしろ名残惜しくなるほどに列車はすぐにフエに到着した。フエは大雨だった。

数日後までにホーチミンに行かないと、私たちは日本に帰れま10、という状態だったので、フエからホーチミンまでの経路が問題だった。バスで行けば25時間。列車で行くと18時間。飛行機だと驚きの1時間20分である。始めは、ここは飛行機にして、案外初めての「LCC」体験にしようじゃないかと思っていたが、私は南北線を大いに気に入ってしまった。それじゃもう、南北1726km、走破しちまおうじゃねぇか。私は四日に渡る腸の痛みがなくなったこともあってそんなことを思いついた。友人も快諾してくれたため、なんと南北線の中で次も南北線を使うことを決定したのである。(つづく)f:id:LeFlaneur:20170216235340j:imageフエに到着する南北線

残すということ

日本のとある城が修復されるという1つの「事件」があった。その城はかつて白鷺城と呼ばれ、その修復事業はその元のままの白い色を再現しようとして行われたのだった。そしてそれはうまく行き、その城は今や白い白になっている。光りかがやかんばかりの白色に、である。

 

もう数日前のことになるが、私はカンボジアのアンコール遺跡を訪れた。初めは自転車で行こうとしていたがトゥクトゥクと呼ばれるバイクに乗客を乗せる荷車をつけた乗り物の運転手にしつこく勧誘され、根負けしてトゥクトゥクを使った。結果としては正解だったと思う。トータルで二人で2000円だったし、あの広大な遺跡群を案内なしに回れるはずもない。

アンコール遺跡の一帯を首都としたアンコール王朝は日本でいう鎌倉時代から室町時代ごろまで、ヨーロッパでいう十字軍の時代から百年戦争の終わりくらいまで、中国でいう宋代から明代初期まで栄えた王朝である。要するに、長い間東南アジア世界に君臨していたということだ。その勢いはヴェトナム南部を制圧し、タイ東北部とラオスを領有するほどだった。だが、この王朝も他の王朝と同じく、滅びてしまう。壮大な建築事業や果てし無い政争の末に、変わって力を持ったタイのアユタヤ王朝による侵略を許し、アンコール王朝は首都であるアンコールを放棄する。それからカンボジアはタイ、ヴェトナム、そして19世紀に入ってからはフランスによる支配のもとに入ることになる。

そんなアンコール遺跡の中でも有名なのが何と言ってもアンコールワットだろう。巨大であり、かつ精密。ここにそのようなものを作ってしまうような文明があった、それだけでも感動に値する。

だが、私はそのことよりもむしろ「ありのまま」の姿がそこにあることに心揺さぶられた。というのも、ここの遺跡は、無論後世の人の手は加わってはいるものの、冒頭で紹介した白鷺城とは対照的に、そのままの姿なのである。特にバイヨンなどの、アンコール王朝の首都であるアンコールトムに点在する遺跡群は、アンコールワットと比べても「打ち捨てられた」という過去を背負ったような、どことなく哀愁を抱えていた。そしてそれと同時に人間の作った壮麗な文明の賜物である遺跡が、自然との一体化を見せてすらいた。祠に入ると頭上ではそこをすみ方する鳥が鳴き、橋の上にはニホンザルに似た姿の猿が座っている。遺跡の奥まった場所に座って、少し目を閉じてみると、まるで文明などそこにはなく、単にジャングルがそこにあるだけかのようだった。

自然だけではない。「今」という時間がアンコール遺跡では「過去」と1つになっていた。人々は石の上に座り、石段をよじ登るようにして登って行く。遺跡の保存という観点からは由々しき事態である。だが、そこには過去と今の交差点があるように見えた。

時は流れて行く。だから全ては移り変わる。かつて栄えた文明は、木々に覆われて朽ち果てて行く。だが完全になくなるまでにはまだ時間がある。保存とはその時間を伸ばすことだ。間違っても過去を取り戻す事ではないと私は思う。アンコール遺跡は単に政治的理由などから保護することができなかっただけなのかもしれない。だけどそれが結果として、白鷺城などよりもずっと良いものを残しているような気がする。

 f:id:LeFlaneur:20170213103429j:image

 

同じことを私は三日前にヴェトナムのフエという街でも見た。そこは十九世紀に成立した阮朝の首都があったという。ちょうど雨季だったようで(中部だけ雨季だという。ガイドブックにも書かれていなかったし、奇妙なことだとは思ったが、フエの運転手も、電車で出会ったフエの人も同じようなことを言っていたので、これは間違いないのだろう。ガイドブックが正しいってわけではない)、初日はろくに観光もできず、挙げ句の果てにシクロ(自転車力車)にぼったくられかけ、服もびちょびちょで大変だったわけだが、二日目には雨も小ぶりとなってようやくかつての宮殿跡に入ることができた。

宮殿の入場料をごまかされるというセンセーショナルな事件があったが、まあそれはさておき、宮殿の中には穏やかな風が吹いていた。陳腐でなんの面白みもない表現をするなら、悠久の時が流れているかのようである。入場料は千円したし、観光化されてはいるのだが、中は公園のようになっていた、自由に歩き回れる。ヴェトナム戦争中に受けた空爆で大破した跡地、そんなことなど我関せずというようにどっしりと構える邸宅などが軒を連ね、それは決して、見せるためにあるのではなかった。あるから、ある。国は滅びても、失わぬ誇りというものなのだろうか。

ツアーのガイドも良かったのだろう。旗を振って大勢にわーっと話すというよりも小規模のグループに話しかけているように説明をしていた。決して、どうだ、すごいだろう、という風ではなく、まるで物語を語るように静かに語りかけていた。

だからだろう。フエでは過去と現在がやはり1つになっていたのだ。一通り回っても、時間が許すならもう少しここにいたいと思わせる何かがあった。

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時の流れを断絶させずに、保存する。それは難しいことだろう。特に日本人はそれが苦手なように思う。京都や奈良にはそう言った空気感がなくはないが、日本の普通の街並みを見て見ると、やはり断絶の上にあるように思う。だからだろう。日本では保存よりも再現が流行る。新しく立て直す方に良さを感じる。片手の色を取り戻すなどと言った事業をよく聞く。それもまた面白くはあるが、過ぎ去って行った時の流れを今のものとして伝えることはできないのだ。

だが、現代もいつかは古代になる。アンコール遺跡には1800年代の落書きが残っていた。落書きすらも時の流れを背負えるのだ。いつかコクーンタワーやスカイツリーが保存されてくれることを望みたい。

おやじ〜続・プノンペンにて〜

プノンペンにきて二日目、私たちは朝早くにバスに乗り込んで、6時間ほどでアンコール遺跡のあるシェムリアップへと向かうことになっていた。朝食をどこで買おうかと、とりあえずホステルの人に聞いてみるも、満足な答えは帰って来ず、私たちは昨晩見つけたマーケットのようなところに行ってみた。

すると、やたらとたくさんの人が入ったガレージのような店が目に入った。とりあえず入ってみようか、と私たちは店員に何とかして意思を伝えようと、身振り手振りとスマイルも使って何らかの麺料理を頼んだ。

しばらくすると、何処と無くフォーに似た麺料理が運ばれてきた。何肉かはわからないが、とにかく旨みのたっぷりな肉、ハーブ、もやしが一緒になっただしのきいたスープに、米製の麺と、ガーリックで焼いたナッツやネギが入る。これがなかなか旨いのだ。

しばらく食っていると、店員が小皿に魚醤と唐辛子を入れて運んできて、私たちの前にポーンと置いた。それからクメール語ににやら伝えてきた。が、わからない。わからないぞオーラを出していたら、店員は「話になんねぇ」と奥の方から一人の「おやじ」を連れてきた。

するとおやじは肉を箸で掴み、魚醤につけた。なるほど、刺身のように魚醤につけて食べるなか。私たちはすぐにその真似をした。なかなかいける。

おやじは英語を使ってそのソースについて語り始める。曰く、そのソースは市場から買ってきたオリジナルなものであり、配合はおやじの家に伝わる伝統的なものらしい。そしてずっとそこでこの「おやじ麺」を売っているという。そして、新しい客がくるたびにおやじは食べ方を指南しているらしい。

おやじはさらにいう。俺は日本に行ってみたい、と。だが、地震が怖いのだという。そこから、海外の人の日本に対する1つのイメージが垣間見えたような気がした。

それはともかく、その店の客のごった返し方は、店主のおやじが丁寧に食べ方を指南してきた結果でもあるだろう。だがもちろんそれだけではなく、あそこの麺はうまかった。もしかくるとうまさというのは、舌だけで感じられるものではないのかもしれない。

おやじ 〜プノンペンにて〜

それは、カンボジアの首都プノンペンの名前の由来ともなったワットプノムという寺院から伸びるだだっ広い道を一本入ったところにあった。その店では、エプロンをした「おやじ」がひたすらに屋台に陳列された肉やらつくねやらを串に刺しては少々怪しげな緑がかった灰色の汁で煮込んでいる。お客はやってくるとそのおやじの作業を手伝いながら注文し、時にはおやじの10歳くらいの娘さんが一人前の顔をして手伝っていることもある。

ビールをつまみと一緒にやれるところはないかと探していたら、偶然この「おやじ」の屋台にたどり着いた。そこは閑静な場所で、カンボジア名物の「トゥクトゥク」と呼ばれるバイクが引く人力車のような乗り物の勧誘もない(カンボジアの町、特にシェムリアップに足を踏み入れるや否や「Tuk Tuk, sir!」とドライバー達が声をかけてくる。それがない界隈というのはずいぶん珍しいのだ)。おやじはただ一人、黒いエプロンをイクメンのごとくぶら下げて、ひたすらに串焼きになった食べ物をなる作業をしていた。私はとりあえず、目に入ったイカのような形のものを指して、オーダーした。ビールはあるかいと聞くと、ない、という。隣の店で買ってきてくれ、だそうだ。

 

その日、2月1日はカンボジア滞在の初日であった。今回は友人一人との旅路である。到着が夕方であったので、私たちはドミトリーに荷物を置いたら、夕食を探しがてら、ぶらぶらし始めた。ワットプノムという寺院にも行った。そこでは不思議な、ディープな信仰と出会ったのだが、それはまた今度書くとしよう。

公園のそばでチキンラーメン風の面に何処と無くおでんのような具が入っただしたっぷりのスープをかけたものを食べ、私たちはいよいよ中央市場へと入る。焼き鳥、なます、ドリアンやら何やらがごちゃ混ぜになったジュースを飲んだ後で、やはりここにきたからにはここの酒が飲みたいという話になった。とはいえ私たちはもう満腹、一方のお時間はというとまだ8時を回っておらず、どこかで飲むべしと時が告げているようだった。

さて、「おやじ」である。友人にビールを買ってきてもらうと、前菜のハーブ類ときゅうりとなますを「おやじ」が持ってきた。どうやらソースにディップして食べるらしい。ハーブときゅうりとなますを一気にディップさせるとよりうまかった。ハーブは見た感じはそこら辺の葉っぱみたいなのだが、何かと一緒に食べると不思議な旨味を出してくる。香りが独特で、草らしさもあり、硬いって食えないきつさではなく、強いていうなら、いい意味でワイルド、である。

しばらくして、イカのようなものが茹で上がったらしく、出てきた。ところがそれはイカではなかったのだ。日本で言うところの「鶏皮」に肉もくっついたものだった。独特のコリっとした歯ごたえと肉の旨みがうまく合わさっていた。後味が酸っぱい「アンコールビール」を飲みつつ、「おやじの鶏皮」をかじる。店内は客でいっぱいだ。忙しく駆け回るおやじの娘さんに、おやじに声をかけてはその作業を手伝いながら料理を待つ近所の人々。それはまるで一昔前の光景のようだった。きっとそれはどこの国にもあったであろう、古き良き時代の香りだったのだ。

すると新たな「客」がやってきた。それは物乞いの人である。私たちがいるテーブルにもやってきた、手を合わせながらクメール語で何やら呟く彼に、私たちは動じてしまい、何もできず、ただただ目を合わせまいとしてしまった。他の人たちも同じであった。きっとこの国には結構な数いるのだろう。だが、「おやじ」だけは違った。彼は、手を合わせる男に対して、串焼きを一本取り出し、渡した。私は黙って鶏皮を食べた。ベンヤミンという哲学者は、人のために何かをした人を見た何もしなかった傍観者は、その人によって裁かれると言った。その意味で、私たちは「おやじ」に裁かれたのだった。

別れ際、お代の2ドルを支払い、「オークン(ありがとう)」と一言かけると、おやじはまるで私たちが数年来の客のように肩をポンポンと叩いた。また、ここに来たい、そう思った。

 

結局私たちはおやじの店にもう一度行くことは叶わなかった。そのあたりについてもまたいつか話せたら良いと思っている。だが、その理由は私にとって現在進行形の理由であり、そして私たちは今日、東へと向かう飛行機に乗り、ヴェトナムはハノイに入ろうと(ヴェトナム語の表現では、「ハノイに出る」というのだが)思っている。そんなナウな話はかけない。そんなわけで、次はカンボジアで出会ったもう一人の「おやじ」の話でもしようかなと思っている次第である。

Money, Money, Money

数日前のことだが、NHKの「美の壺」という番組を見ていた。

この番組は、色々な芸術品、あるいは民芸とでも言えるような実生活に使われているようなものに焦点を当て、木村多江のしっとりとしたナレーションと、時々草刈正雄のコミカルな演技を交えつつ、その隠れた美をスタイリッシュなジャズをバックで流しながら明らかにしてゆく番組である。テレビをつけっぱなしにしていると、11時くらいから突然始まることがあるので、わたしはたまにこの番組を見ている。

前回は「ぽち袋」がテーマだった。お年玉を入れるぽち袋に秘められた粋と心遣い。確かに今まで何も考えてこなかったが、あのようなものは海外では見ないし、結構あそこに凝った絵が描かれていることもあったと思う。番組によるとその歴史はまだ浅く、明治時代からだという。当時よく描かれていたのは、浮世絵だそうで、それをただ描くのではなく、ピンポイントで一部だけを描くことで、そこに「粋」な美しさを表現したという。

 

その番組を見ている時に、ふと思い出した。それはお金についての話だ。

その番組を見る数日前、英語をバイト先で教えている時のことだった。「How」を使って色々な疑問文を作るという授業だったと思う。そこで英語で「いくらですか?」を意味する「How much」を扱ったのだが、ふと、これって「お金」という言葉が入っていないなと気付いたのだ。

muchというとご存知、「不可算名詞」の量を表す言葉だ。不可算名詞、つまり数えられない名詞というのは、「水」などが代表的だが、個数を数えられない、流動的なものだったり、切り分けてゆくものだったりすることが多いが、不思議なことに英語では、「お金」もまた数えられない名詞という扱いになる。だからこそ、お金がどれくらいか聞く時に、「How much」というわけなのだが、これでは、水の量がどれ位か聞きたい時にも「How much」と聴けるんじゃないかと思ったのだ。だが実際はそうではない。「How much」といえばお金のことであり、水の量を聞くには「How much water」と聞かねばならない。一方でお金を「How much money」と聞くことはまずないだろう。

同じことが日本語でも起きている。

「いくらですか?」というのは、文をそのままとるのなら、単に量を聞いているにすぎない。だから、「東京から京都までいくらですか」と聞いて、「500km」と答えても、「新幹線で大体2時間」と答えてもいいことになる。だが実際には、「8000円」という答えだけが期待されているのだ。「いくら」と言っただけで、なぜだか、金のことを聞いていることになるのである。

はてさて他の国の言葉となると、フランス語では「C'est combien?」で、やはりお金という言葉は一言も発していない。ヴェトナム語では、「Cái này bao nhiêu tiền?」といって、「tiền」がお金を意味しているが、これは省略ができる。ドイツ語の「Wie viel kostet das?」は、「いくらかかる?」という意味であり、こちらもお金という言葉は発していないのである。アラビア語では、「ビ・カム・ハーザー(بكم هذا)」といい、「カム」が「いくら」で、「ビ」が「〜で」、「ハーザー」が「これ」であり、こちらも「お金(ナクドゥンなど)」は言わない。

これは一体どういうことなんだろう?

大して根拠があるわけではないが、それは「お金」にどこか「ケガレ」の要素を感じ取っているからではないか。「お金」という言葉には、どこか汚さが漂う。「カネと政治」というとスキャンダルを意味するし、「金がものを言う」といえば、あまりよくない社会状態を示す。金は人類の大きな発明品だが、金によって苦しめられる人もいるし、金によって人間としての道を踏み外す人もいる。金はどこか、「必要悪」であって、「汚れたもの」であって、あまり口にするのは憚られるのではないだろうか。だからこそ、日本における親指と人差し指をくっつける仕草とか、海外の親指と人差し指をこすり合わせる仕草が生まれたのではないだろうか。そして、もっと身近なところでも、先輩が後輩に、「じゃあ……今日は1でいいよ」ということを言う。これは「1000円」という意味だが、なぜか、「000円」の部分を省略する。「円」という言葉の生々しさを避けようとするが故の言葉ではないだろうか。「1000円でいいよ」というふうに露骨に言うのはあまり好まれず、「1」という。ここにもまた、人間とお金の面白い関係があるような気がする。

金に「ケガレ」のイメージがあるのとともに、金は、人間にとって本当に大事なものを与えてはくれないという事実も、きっと私たちの中にはっきりと存在する。ビートルズは「Can't buy me love」と歌った。だがそれでも、ビートルズは他の歌で「Money... that's what I want!」とも歌う。それだけ金は複雑なものなのである。

 

そう考えると、である。

日本の「ぽち袋」とか「お年玉」は非常に面白いものだ。というのも、「ケガレ」であり、「即物的」なものであり、「必要悪」であるはずの「お金」が、別の価値を持って現れるからだ。

ぽち袋のぽちは、「これっぽっち」の「ぽち」だという。「少ないですけど(これっぽっちですけど)気持ちです」と渡すときの、「これっぽっち」である。面白いことに日本語では、「お金」を、正反対であるはずの「気持ち」と表現してみせる。そしてその「気持ち」を新年にあげるのが「お年玉」だ。どうしてなのだろう? その理由はわからないが、この極東の島国では、「カネ」が「気持ち」に変わる、という事実だけは確かである。あえて、口に出すのは憚られる存在を、すごく尊い存在として語るのだ。

「お金」にも「気持ち」が込められる。そういう発見があったのかもしれない。思えばお金をプレゼントするというのは一見珍しく見える。だが中華文化圏では、割とお金が大事にされているという。その影響を受けたヴェトナムで、でっかい銭型のSONYの看板を見たことがある。また、台湾では何かの儀式で擬似の札束を燃やしていた。そう思うと、実は、お金を良いものとして扱うのも、珍しくはないのだろうか。

だが一つ言えることがある。

金には罪がないのだ。その使い方、その捉え方に「善」や「悪」が宿るのである。「気持ち」を金では買えないが、金は「気持ち」の表現形態とはなる。それは「気持ち」を買うことではなく、金が「気持ち」になることである。そして金の使い方にこざっぱりしたものや、美を見出せば、「粋だねェ」とすら言われるのだ。そして、「コイン」愛好家なんてのもいる。金自体が、芸術になりうる。そう考えると「お金」はとても面白い。

 

‥‥‥と色々と理屈をこねている間にも、金が溜まっていればなあと思うが、これは「ケガレ」た考え方というものだろうか。

Star Wars

新年初投稿、というわけなので、「あけましておめでとう」と言っておこう。今年もよろしくお願いします。このような駄文の集積のようなブログでも、時間をつぶすくらいの役には立つはずだ。

去年の話になるが、12月18日、「ローグ・ワン」という映画が公開された。映画史上に残る大シリーズ「スター・ウォーズ」のスピンオフにあたる作品だ。一昨年の同じ時期に、「スター・ウォーズ エピソードⅦ フォースの覚醒」が十年の沈黙を破って公開され、その次にあたるエピソードVIIIのいわば「中継ぎ」として公開された作品だったが、正直、私としては、「フォースの覚醒」より「ローグ・ワン」のほうが面白かったと思う。何もこれは独りよがりの意見ではなく、このシリーズをずっと制作し続けてきたジョージ・ルーカスもこの「ローグ・ワン」を認めていて、映画評論家の間でも「シリーズ最高の出来」と言われているという。まあ、シリーズ最高の出来、とまでいってしまうと、今までの「スター・ウォーズ・サーガ(スター・ウォーズ・シリーズのことを普通、サーガと呼ぶ。サーガとは北欧神話を集めた「サガ」から来ており、壮大な神話体系のようなこのシリーズにはふさわしいと思う)」はなんだったんだよ、という話になるので、その言い方は避けたいところだが。

さて、スター・ウォーズである。小学校中学年あたりで少年時代の私はこのシリーズにはまり込み、しばらくの鎮静期間を経て、シリーズ再開とともにまた熱〜くなってきているわけだが、きっとわからない人にはわからないだろう。実際のところ、この映画シリーズを一度も見ていない人には、さっきのくだりも全くわからなかったはずだ。だから、ちょっとばかし、今年2017年に実に四十年目を迎えるこのシリーズの歩みを説明してみたいと思う。

1977年、「地獄の黙示録」のコッポラ監督とも親交があった新進気鋭のジョージ・ルーカスが一つの作品を世に出した。それこそが、「スター・ウォーズ」であり、のちにシリーズ化されると、「スター・ウォーズ 新たなる希望」と名付けられる作品だ。この作品は全世界的に大ヒットし、三年後の1980年には続編「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」が公開された。これもまた大ヒット。時のレーガン政権が、当時仮想敵国だったソヴェートを「悪の帝国」と呼び、アメリカによる宇宙規模の軍事作戦を「スター・ウォーズ計画」とニックネームをつけるほどであった。そして1983年、さらに三年後には三部作の完結編「スター・ウォーズ ジェダイの復讐(のちに改称され、「ジェダイの帰還」になる。こちらで知ってる人の方が多いのではないか)」が公開された。

物語の舞台は「遠い昔、遥か彼方の銀河系(A long time ago, in a galaxy far, far away...)」。時は宇宙を支配する「銀河帝国」と、その強権的な支配体制に異を唱える「反乱軍(同盟軍)」による内戦の真っ只中。辺境の砂漠の惑星に住む青年ルーク・スカイウォーカーは、遠い宇宙へと出て行くことを夢見ていた。そんな彼は偶然、ドロイド(ロボット)のR2-D2とC3-POと出会ったことから、自分が、帝国が宇宙を支配する前に銀河を統治していた「銀河共和国」を守る騎士ジェダイの子供だと知る。父の師匠だったベン・ケノービとともに、ルークは、オルデラン星のレイア・オーガナ姫率いる反乱軍に加わることを決意し、闇の運び屋ハン・ソロとチューバッカの操縦する「ポンコツ」船ミレニアムファルコンに乗り込んで、ルークの父を殺したというダース・ヴェイダー卿率いる帝国軍との戦いに挑んでゆくのだった……とまあ、あらすじを言えばそんな感じである。と言ってもこれは「新たなる希望」のあらすじであり、そのあとあんなことやこんなことが起こる。だがそれいついてここに書いてしまってはつまらないので、是非知らない人は本編を見ていただければと思う。

さて、この三部作(旧サーガ)でこのサーガは完結したと思われていた。だがジョージ・ルーカスはさらに、いかにして帝国が生まれ、いかにしてダース・ヴェイダー卿が帝国の将軍となったのかを描く新しい三部作(新サーガ)を計画していた。そうして公開されたのが、1999年の「スター・ウォーズ/エピソードI:ファントム・メナス」である(一番最初の物語ということでエピソードIである。これにより、「新たなる希望」はエピソードIV、「帝国の逆襲」はエピソードV、「ジェダイの帰還」はエピソードVIとなる)。これは大きな注目を浴び、3年後の2002年に「エピソードII:クローンの攻撃」、さらに3年後(ファンの皆さん、スター・ウォーズの公開年の覚え方は、「三年毎」ですよ。次のエピソードVIIIも結果的にVIIの3年後になりそうですしね)の2005年には完結編「エピソードIII:シスの復讐」と続く。私たち、つまり大学生の世代の人間にとって、「エピソードIII」が多分初めての同時代のスター・ウォーズだと思う。

これで、シリーズ(サーガ)は完結した……わけではなかった。ジョージ・ルーカスの会社のディズニーによる買収などを経て、新たなに「続三部作(続サーガ)」が制作されることが決定(構想自体は80年代からあったという)。その中で、スター・ウォーズ・サーガを扱った非公式の小説などが世の中にあまた出ている現状を打開しようと、「カノン(正史)」として公式のスピンオフ制作も決まったのだった(それ以外は「レジェンズ(非正史)」とされる。まるでカトリック教会による「正統/異端」区分みたいである。それだけシリーズも大きくなったというわけだ)。2015年、「エピソードVII:フォースの覚醒」が公開。これはエピソードVIの30年後を物語の舞台としている。そして去年に、初めての公式スピンオフ「ローグ・ワン」が公開された、というわけだ。こちらはというと、「エピソードIV:新たなる希望」の10分前までを舞台としており、エピソードVIでルーク率いる反乱軍航空部隊が破壊する最強兵器デス・スターの設計図を反乱軍の部隊「(自称)ローグ・ワン」が奪う、という物語だ(ちなみにローグ・ワン、にたいしてローグ・ツーというのも存在する。これは実は「エピソードV」に登場する。此の前見返していて気付いたのだが、1980年公開のエピソードVではローグ・ツー、ローグ・ファイヴなどは出てくる一方、ワンは出てこない。これはいわば伏線の回収なのだ)。

 

ローグ・ワン」が良かったのは、一つはスター・ウォーズ愛に溢れているからだったと思う。

私は特に、スター・ウォーズを見始めたきっかけが「エピソードIV:新たなる希望」(旧三部作)をみたことだったから、その10分前を描いている「ローグ・ワン」にはかなり期待していた。行ってみると、期待通りだった。この物語の結末は、少し考えてみると予想できてしまったのだが、それでも十分だった。特に、旧三部作を思わせる戦闘シーン、兵器、登場人物などが出てきたときには、本当に嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。

そういう観点から見ると、「エピソードVII」は少しばかり新しいことを求めすぎていたような気がする。それは、物語の面で、ということではない。形式的なところである。例えば、三部作の中で、一番目の作品では偉大な師を失い、最後は勝利を祝う宴で終わる、二番目の作品では状況が悪化、そんな中で二人の人物の愛が描かれる、三番目の作品はそれぞれの物語の結末が示される……というように進んできた。それは旧サーガも新サーガもである。エピソードVIIでは、この形式が少しいじられ、最後は勝利を歌う宴ではなく、まるで次回予告のような終わり方をしていた。だからなんだ、と言われれば終わりだが、それが少々寂しかったのだ。蛇足のような感もした。正直、終わり方は宴で終わればいいのに、と思った。そして、新しいドロイドとしてエピソードVIIに登場したBB9が、評価する人は結構いたけれど、私はあまり好きではなかった。正直、キャラが他のドロイドと被っている割に、能力では劣る。

もちろん、物語の面では、帝国の再興を求めるカイロ=レンという悪役の思い悩む姿など、今までの悪役にはない、悪の危うさ、というような面が大きく描かれているのは話に深みを出しているようにも思える。ただ、そちらでも、新サーガ(エピソードI〜III)の中で描かれるダース・ヴェイダー卿の誕生の方が、がんじがらめになりながら、もがいている様はこちらにひしひしと感じられてくるものがあった。そこからすると、カイロ=レンなど、ただの反抗期に過ぎないようにも見える。ストーリーはそれなりにいいと思うのに、最後に変なシーンを付け加えてしまったりすることで、別の映画のようになってしまう。もっと上手く描けたんじゃないか、と思う。もっとも、もう一度見てみたら変わるかもしれないが(ちなみに批評家はかなりの評価をしているらしい。それにカナダ人の友達も二回見たと言っていたし、もしや、私が勝手に嫌がっているだけか?)。

一つの要因は、ルーカスが作り上げたスター・ウォーズシリーズなのに、ルーカスの脚本は却下されたということではないか。形式を守る、ということについては、ルーカス自信が「嫌いだ」と言って、否定的だが、やはり本人の脚本の中には、無意識的に、脈々と続くスター・ウォーズの伝統が染み付く。そこにこそやはり、「ああ、これこそがスター・ウォーズだ」というような感覚を生み出させる何かがある。伝統とはそういうものなのだ。そういう意味で「ローグ・ワン」には独特の懐かしさがあった(こちらもルーカスは参加していないが)。エピソードVIIももちろん、ハリソン・フォードキャリー・フィッシャーマーク・ハミル、と旧サーガの面々が出てきてあれは「おぉー」と心踊らされたものだが、やっぱり第一印象としてはまるで別の映画みたいだという感覚が出てしまったのだ。良くも悪くも、あれだけ見てもわかってしまう。まあ、文句をたれる前に、もう一回くらいVIIを見直してみなければならないだろう。

 

スター・ウォーズ」の魅力は、「あそこに行けること」だと思う。ファンファーレが鳴り(ローグ・ワンでは有名なあの歌が流れなくてちょっと寂しかったが‥‥)、前口上が流れると、もう見ているこっちはその世界に入って行ける。それだけ上手くできていて、世界観が完成しているのだ。言語(発音も含めてかなりリアルに出来上がっており、共通語として登場する英語の方も、訛りが反映されている)、種族、惑星、街、哲学(ジェダイは、フォースと呼ばれる宇宙の原理との合一を目指す武士であり、僧侶であり、そして何より哲学者である)……どれを取ってもまるで外国にいるような楽しさを味わせてくれる。歴史の流れもよく研究されていて、銀河共和国が滅亡し、銀河帝国が台頭する流れはまさに、かつての古代ローマ、フランス、ドイツで起きたことを焼き直していている。他のどんなSF映画が、「満場の拍手とともに自由が終わるのね‥‥」などというセリフを入れられるだろうか? この映画は単なるSFではなく、大河であり、ファンタジーであり、ノンフィクションであり、文化であり、伝統であり、思想であり、DVDの再生ボタンを押せば行き着くことができる場所なのだ。そしてそれぞれの登場人物は、それぞれの人生をしっかりと送っている。それぞれが思い悩んでいる。そこに話の厚みがある(もしかすると、エピソードVIIはそこにスポットライトを当てすぎたのかもしれない。厚みも、厚みだけを目指すと、どろりとしてしまう)。かといって、そこばかりではなく、バランスもいい。だからこそ、この物語は、見るたびに新しい発見がある。だから何度見てもいいのである。

そんなスター・ウォーズだが、最近関わってきた人が次々と死んでいる。一昨年には、銀河帝国皇帝が皇帝になる前に弟子としていたドゥークー伯爵役のクリストファー・リーシャーロック・ホームズロード・オブ・ザ・リングの白の魔法使いとしても知られる)がなくなり、去年の暮れには反乱軍トップのレイアを演じていたキャリー・フィッシャーがなくなっている。フィッシャーは、続三部作でも麗亜役として重要な役回りを担っていたため、今後どうするのだろう。これらの別れは悲しいことだが、やはりスター・ウォーズ・サーガは続いてゆくのだと思う。それこそが大きなシリーズの宿命であり、そして伝統の宿命である。

エピソードVIIIはどんな作品になるんだろう。個人的には次のスピンオフがメインキャラクターのハン・ソロの若き日を描くというから非常に興味があるが、やはり続サーガの展開もきになる。そのためにも、もう一度、「エピソードVII」を見直してみるか。また違って見えることを期待して……。

 

それでは最後に、ここまで読んでくれたみなさんに、スター・ウォーズの有名なセリフを送ろう。ある意味で、新年にふさわしい、といえるかもしれない(「なんだか嫌な予感がするぜ」ではない)。

 

「フォースとともにあらんことを(May the force be with you)」

過去の感じ方

イタリアの首都ローマの街を歩いていた時のことだ。

独特の赤みを帯びたベージュ色、とでも言えるような建物が立ち並んでいる道を進み、わたしは古代ローマの神殿「パンテオン」を目指していた。だが一向にパンテオンは現れず、途方に暮れていた。季節は12月だったが、空気は湿っている。足は、午前中にフォロ・ロマーノ(フォールム・ローマーヌム)と呼ばれる古代ローマ時代の中心地だった遺跡を歩いたので疲れていた。

大通り沿いにしばらく歩いていたら、目の前に橋が見えた。といっても、日本橋のような橋ではない。どちらかと言うともっと平凡な、道路がそのまま橋につながっていて、橋には何の装飾もついておらず、ただ柵だけが付いていて、一見すると橋なのかもよくわからないような代物である。

街を歩いていて橋にぶち当たる。そんなことは普通にあることだ。

だが、今回のケースは普通ではなかった。というのも、地図を見てみたら、ローマに流れる「テヴェレ(ティベリス)川」は、わたしが今いると思っていたところからかなり離れたところにあったのである。それだけではない。わたしが今いるところは、地図上では、明らかに橋ではなかったのだ。ははん。これはきっと途中で地図上の自分を見失ったんだろう。本当は川のところにいるんじゃないか。まったくもって、パンテオン探しは徒労だったわけだ。だって、パンテオンは川沿いになんてないんだから。

でもまあ、川を見つけてしまった以上、とりあえず川だけは拝ましてもらおう、そう思って橋の上に行ってみると、驚くべき事実が明らかになった。確かに、わたしは橋の上にいたのだが、橋の下にあったのは、川でも池でも運河でも湖でもなかったのだ。橋の下にあったのは、かつての古代ローマの遺跡、そして今の猫たちのねぐらだったのである(遺跡には猫が住み着いている、というか、遺跡の管理人が餌を与えているという。後でテレビ番組でそれを知った)。

 

ヨーロッパの街を歩くと今のような体験をする確率が高い。もちろん、「川かと思ったら古代ローマ」みたいなノリは、イタリア、それもローマでしか起こらないだろうが、似たような体験はする。

例えば、フランスはパリのカルチエラタンに行った時、今度は夏なのにもかかわらず寒いという状況だったが、坂道を登っていると、突如として左隣に古代ローマ時代の「公衆浴場(テルマエ)」の跡地と思しきものが出現したことがある。古代ローマではなくても、ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ベルリンにはベルリンの古い時代の建物というものは、道を歩いているだけで見つけられるような気がする。それも、不意に、見つかるのだ。ヨーロッパでは古い建物が今の建物に混じっていて、残っている。そこには、残していこうという気概が感じられる。

 

古い建物を見ていると、その街の歴史が見える。その街の人々の手垢がいい意味で一番染み付いているのが、古い建物だからだ。そして古い建物が見えると、その街の歴史が蘇ってくる。だが、どうやって古い建物が残っていて、どうやって接するのかは地域によって違うような気がするのだ。それぞれに、それぞれの方法がある。

 

まずは北米大陸モントリオールケベック・シティに行った時には、よく「オールドシティ(ヴュー・モンレアル、ヴュー・ケベック)」、つまり旧市街を訪れたものだった。ヨーロッパでは混在している古い建物、遺跡が、一箇所に集中している感覚であり、新市街とのコントラストがなかなかすごい。

例えば、モントリオール。新市街の中心地であるダウンタウンから旧市街に行く道筋を辿ってみよう。ダウンタウンは、ニューヨークを思わせるほどの高いビルが建っていて、ビル風がびゅうびゅう吹いている。たくさんの車が走り、とにかく道幅が広い。の割に、信号がすぐに黄色になるから困る(そのうち、黄色くらいなら渡っても良い、という悟りの境地に達するが、あまり真似しないように)。大通りの「サン・カトリーヌ通り」から旧市街に歩いて行くには、とりあえずまず、東の方へと向かう必要がある。要するに、大通りと垂直の方向へ行くのだ。すると、坂が現れる。その坂をぐーっと降りて行くと、途中で「チャイナ・タウン」が出てきて、ここの雰囲気は周りと随分違う。歩いている人もアジア系、漢字の看板がきらめき、アジアなんじゃないかと錯覚させる。そしてビル風は消え失せ、割と穏やかな空気が流れている。チャイナタウンを抜けると、坂が終わる。すると右手に巨大な黄緑色のガラスを張った「コングレ」という建物がある。「コングレス(議会)」かと思いきや、実はただの「展示場」らしい。ここまでくると、再び風が吹いてくる。きっと川の方から来ているのだ。しばらく歩くと目の前にきつい上り坂がある。これを登ると突如として古めかしい大聖堂が現れ、地面も石畳になり、周りの建物は、今までのガラス張りから、石造りになる。そう、旧市街はここから始まるのだ。

そんなわけで、本当に突然、まるでテーマパークのように始まるのが北米の旧市街なのかもしれない。そのせいか、あまり旧市街に生活感がないのだ。

 

逆にアジアは、生活感が溢れている。

ヴェトナムのハノイには、カナダ同様「旧市街」がある。だが行ってみるとどうだろう。あまり、他の地域と変わらない。「新市街」と記されていた場所も行ったのだが、正直、道幅くらいしか違いがない。両方とも、同じように生活感が溢れ、同じように崩れそうな建物が並ぶ。「フレンチ・ディストリクト」の建物は、どちらかというと他のは雰囲気が違って、巨大な石造りの建物が多く、生活感は限りなくゼロに近い。だが、その周りには、「ハノイ」としか言えないような独特の空間が広がっている。

台北は、それぞれの地区でかなり毛色が違ったが、旧市街らしきところも、かなり手垢にまみれている。ヨーロッパ的な「古い建物は残さないと」というような雰囲気はなくて、ただただ、「俺たちゃここに住んでんだ。なんか文句あっか? なんか文句あっか?」という矜持が漂う。本当は歴史ってそういうものなんじゃないかなとも思うのだ。時の流れをぶった切り、過去のものを、さも偉いものかのように保護するより、そこに住み続けている方が、むしろ歴史の流れには合っている。私はだからこそ、台北やハノイの街に、いいな、と思ったのだった。

 

一方で問題は、日本だ。

試しに東京を歩いてみると、ノスタルジックさも何もない。たまに廃墟のようなものや、古めかしい建物があって楽しいが、それはやはり昭和三十年代くらいからの歴史しかなく、やはり戦前戦後の断絶を感じる。それは歴史の悲劇のせいかもしれない。だがやはり、「家と女房は新しい方がいい」というような、日本の考え方が現れているのではないか、と思うと、少し残念である。

そう、思っていた。

だが、友人と歩いていた時のこと。彼は、「ブラタモリ」みたいに、古地図と地形図を頼りにやる街歩きにはまっていたので、そういった本を持っていた。ここの部分は高くなっていて、だからこそ大通りができたとか、だからこそ、幕府はそこから責められることに危機感を持っていたとか、そういう話を聞くと、一つ考えが湧いた。

確かに日本の街には何も残っちゃいない(残っているところももちろんある。京都は顕著だし、昭和の香りは東京にも残る)。しかしそれは、そろそろ誕生日(12/25。お分かりだろう)を迎えるある御仁の言葉を借りるならば「見てはいるが、見ず」という状態であったからこそだったのだ。日本の過去は、地形や区画に宿っている。それはブラタモリが伝えようとしていたことでもあった。それに気づかず、「やはり日本はダメだね」などと抜かすようでは、「街歩キスト」として青かったのである(街歩キストになった覚えはないが)。

だからもしかすると、その街を知るとは、いかにしてその街の生きてきた一生を感じるか、その方法を知ることから始まるのかもしれない。