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旅、映画、食べ物、哲学?

モントリオールの暑い日

さて、カナダはケベック州モントリオール滞在もいよいよ四日目と相成った。

授業も始まり、カナダ文化のこと、英語の発音のこと(かなり体系的にやっている。おお、さすが大学生、という感じの授業である。まさかカナダに来て「前舌音」「後舌音」「硬口蓋」なんてやるとは思ってもみなかった)などを学んでいる。部屋にはイタリア人のMくんが同居人としてやってきた。なんと高校生で、今進路のことで悩んでいるらしい。三ヶ月間北米の英語圏を回って行く予定で、今は二ヶ月目だそうである。初々しいなと感じつつも、わたしだってすぐ二年後には決断を迫られることになるのだから、他人事ではない。

とにかく、いろいろなことが始まったのだ。やっと、モントリオールの暑い日々が幕をあけた、というわけである。

1日目は授業の後、私たちが滞在している大学のキャンパスを見せてもらった。私たちが授業をしているのは違う建物なので、キャンパスに入るのは初めてだったのだ。感想から言えば、ひたすらにでかい。広くて長い道が本館のほうへとつながり、本館はそびえ立っている。そしてそびえ立つ頂点には、校旗がはためく。本館の目の前には植え込みがあり、モニュメントが立っていた。案内してくれた人によれば、その下には大学の創設者の骨が半分だけ埋葬されているらしい。まるでブッダである。

大学内には図書館はもちろん、博物館もあった。そこには大きな鯨の骨や、恐竜の骨が飾られており、まさに圧巻そのもだった。

キャンパスツアーが終わると、わたしは大学の前のコンビニエンスストアモントリオールでは、「デパヌール」というらしい)で水を一本買って、再び散歩に出かけた。散歩の途中で、わたしの所属しているグループのミーティングがある、という情報を突然もらって、大慌てで宿舎に戻る、という事件があったものの、その他はいい散歩ができた。行かなかった場所を、頭の中の地図に組み込む。わたしはおととい行かなかった場所を中心に歩いてみた。「プラスデザール(Place des Arts)」という駅の近くに謎の芸術空間があって、そこはまるで異空間の様相を醸し出していた。というのも、地下鉄の駅の改札の横に、謎の「EXPO」という道があり、そこをとにかく歩いたら、いつの間にやらその空間に迷い込んだからである。そこは日差しのおかげで暖かく、歩行者天国だったので、誰もが悠々自適に歩いていた。なんだか、お祭りに迷い込んだようでもあった。

その他にも、高級そうなブティックが並ぶ界隈をうろついたりして昨日は過ぎ去った。二日目、すなわち今日もクラスのメンバーでモントリオール版の「ドトール」「ベローチェ」のような「Tim Hortons」という店でコーヒーを飲んだりした。そんな中で改めて気づいたことがある。それはやはり、ほとんどの人がフランス語を使っていることだ。街中のポスターもフランス語、看板もフランス語、メニューもフランス語、歩いている人はフランス語でしゃべれば、店員だってまずは「ボンジュール」と声をかける。ちょっと「気の利いた」店だと、「ボンジュール、ハーイ」と二ヶ国語で話しかけてくる。

わたしはフランス語を勉強しているが、どうもどぎまぎして英語で話してしまう。だが、フランス語で声をかけると、フランス語で頼んでみたりもする。そしてそのあとでどぎまぎする。事後どぎまぎである。せっかくケベックにいるのだ。これからはフランス語も使ってみようか、そう、思うのだった。

おお、カナダ

突然だが、わたしは今カナダのモントリオールにいる。語学研修というやつで、三週間滞在することになっている。それで今日は二日目だ。本当は昨日の話を昨日書こうと思っていたのだが、ものすごい眠気によってそれは辛くも中断せざるをえなくなった。

1日目のことを書きたい、そう思ったのには理由がある。飛行機に乗って、十二時間かけれモントリオールにつき、それで宿泊先についた1日だったが、それ以上のことが起きすぎたからだ。本当に濃厚な1日だった。

というのは、だ。日本からカナダ国内の経由地トロントまでの飛行機は割と順調に進んだのだが、トロントからモントリオールまでのたった一時間のフライトがとんでもないことになったのである。空港について、トランジットのモニターを見たとき、30分の遅れと書かれていた。まあ、そういうこともあるか、と平気な顔でチェックインし(入国審査で「Why Canada?」と聞かれて、「どうして行先は星の数ほどあるのに、よりにもよってカナダを選んだの」と聞かれたのかと思って狼狽するという事件はあったがそれ以外は順調だった)、それから待合席に座った。だがどういうわけか、予定の時間になっても呼び出されない。おかしいな、とまたモニターを見ると、いつの間にか一時間の遅れになっている。まあそれくらいはある。そうは思ったものの、それでも予定時間になっても呼ばれない。おかしいな、と思っていたら、呼び出しの声がかかった。

だが、それでも、話はまだまだ続く。

客室に乗り込んで座っていると、いつまでも飛行機は動き出さないのだ。これはおかしい。明らかにおかしい。誰もがそう思っていた。だが、アナウンスは声がこもっていて上手く聞こえない。だからわたしには「キャビン」と「メキャニカル・トラブル」くらいしかわからないのだ。でもとにかく何かが起きているのは確かである。私たちは待った。ただひたすらに待った。それでも呼ばれず、疲れからか、わたしもみんなもふっと眠りに落ちてしまうことがなんどもあった。だが、何度寝落ちして、何度起き上がっても、飛行機は動き出さないのである。そうこうするうちに、「メキャニカル・トラブル」は「フィックス」された、という連絡が入り、客室乗務員が「リクライニングシートをあげろ」だのなんだの言い始めた。いよいよ出発だ。希望の光は見えた。始めは明るかった空も、今では暗くなるほどに待たされたが、これで先に進める。

そう思った、矢先のことである。

確かに、飛行機は動き出した。だが、決して飛び立とうとはしなかったのだ。まるで車のようにずーっとずーっと走り続けている。走り続けるのはいいことだが、飛び立たなければ意味がない。またも私たちはウトウトし始めた。寝ては起き、寝ては起き、を繰り返し。それでもまだ、目の前にある窓の外はトロントのまま。これに一時間ほど要して、ついに飛行機は飛び立った。

待たされて、待たされて。私たちは憔悴しきった体でそれをやられたために、飛行機内では愚痴をいい続けていた。だが、思いがけないプレゼントもあった。まず、夜景だ。カナダのだだっ広くて計画された街に光が灯る姿を飛行機の上から眺め見ることができたのである。それは、トロントモントリオールの二回楽しめた。そして二回目、つまりモントリオールの夜景は一足違った。遠くの方で、何かが光っているのだ。それは花火だった。テレビでしか見ることのない、「花火を真上から見てみよう」をやってしまったのだ。形が分かりにくいやつだと、泡がはじけるようにしかみえなかったが、丸いやつだと、一個の球があるようだった。かなり低空だったので、花火ってのは意外と近い世界なんだなあと思った。隅田川花火大会の日に、空からモントリオールの花火を見るなんて、神様は随分と粋な働きをしてくれるじゃねえか。などと、たいして進行してもいない神に褒め言葉をかけ、悪いことがあったらいいことがある、この世界はうまくできているもんだ、と思ったのだった。

それが1日目のハイライトである。二日目は自由時間を有効利用して、例のごとく個人行動をとった。街の雰囲気を知るために、あえて強行ルートをとった、といえばまるで計画性のあったもののようだが、実際は違う。テキトーに歩いていたら、いつの間にやらいろいろなところに行っていたのである。まず、宿舎からそう遠くないところにとてもいい公園を発見し、朝、ヘルパー的な役回りの人に貰ったリンゴをかじった。それから宿舎らへんをうろつき、宿舎で昼食をとった。そのあとはみんなが買い物に行くのを「楽しそうだなあ」と少しばかり思いつつ、モントリオールの山の麓に登ってぶらぶら、降りてきてダウンタウンをぶらぶら、公園で「$%&#ライト」というカナダ産ではなさそうな謎のビールを成り行きで買って、風を感じながらごくりと飲んだ。そのあとは、ユダヤ人街があるというウトルモン(OUTREMONT)にいこうとして地下鉄のパスがまだ有効期間でないせいで行けなかった。

「ならばモントリオールの川を見よう、「山」と来たら「川」と来る、と赤穂浪士も言っていたじゃないか」と川の方に向かった。とはいえ、川は遠かった。全くたどり着かない。そうこうするうちに面白い建物が並んでいる界隈や、ちょっと危ない感じの猥雑な界隈や、ヴェトナム料理やが並ぶ界隈や、中華街にたどり着いた(危ない界隈でも、普通のダウンタウンでも、この街では多くの物乞いを目にした。ヨーロッパよりいる。なんだか、頭の中に地図を作るという伊能忠敬ばりの行動は、暗い現実まで地図に組み込むことを強いる行動でもあったようだ)。ええい、こうなったらなんとでもなれ、と中華街をグーっと抜けて(ここに来ると人種が一気にアジア系になり、観光客が一気にヴェトナム人になるのが面白い)川の方へとひたすら歩いた。だが、川にはつかない。いつの間にかわい雑だった街並みは、清楚な官庁街になった。どうなるのかなと歩いていたら、いつの間にか、パリのシテ島界隈にあるような古い建築物が目の前に現れた。「ああ、これが旧市街というやつか」わたしはちょっと旧市街を歩こうという気になった。かくして旧市街を回り、なんとか宿舎に着いたのだが、なんと明日も旧市街に行くらしいではないか。まあいい。これで、頭の中になんとなくモントリオールの地図ができたのである。これはきっといつか役に立つだろう、と自分を納得させるわたしであった。

そういうわけで、二日目が終わった。今日から部屋に同居人のイタリア人が来るらしい。イタリア人にイタリア語で話しかけて怒られた経験があるので、少しばかり怖い。だが、なんとかなるだろう、と思っている。

失って気づくもの

二週間ほど前、風邪をひいた。

夏風邪の時期だ。珍しいことではない。

「あなたの風邪はどこから?」というコマーシャルがあるが、わたしの風邪は鼻からである。あの時も、部屋にいたら突如としてくしゃみを10連発ほどし、それから滝のように鼻水が流れ始めた。そして翌日、案の定風邪をひいた。

だから、わたしは風になると鼻の機能が低下する。今回の場合はあまり鼻はつまらなかったが、鼻の奥の方がはれたようで、耳がなんとなくボアーっとしていた。そういう場合、息ができるものの、口の中に入れた食べ物の香りを感じることができなくなる。これがなかなかの苦痛だった。

食べ物は舌だけでは味わえない。いや、味わうことはできても、それがうまいのかまずいのか、そういう判断は下せなくなる。むしろ、すべてのものがまずいような感じになる。今回はそれを身を以て実感した。

例えば、ローストビーフを食べる。同じものを食べている人たちはみんな、「おいしい」と言っているが、わたしには全くわからない。というのも、あの牛肉の香りや、ソースの香りや、西洋ワサビの鼻にツーンとくる感じが全て感じ取れないからである。わたしがわかるのは、ソースのしょっぱさ、肉の感触、そんなものだ。だから心からうまいとは言えないのだ。

あるいは、そばを食べる。啜ってみても蕎麦の香りは全く鼻に届かない。ただ、しょっぱいめんつゆに使った麺類を食らう、それだけでしかない。どうも、おいしくない。

もしかすると、それはわたしが元から香りのある食べ物が好きだから、かもしれない。ラム肉、鴨肉、青魚の刺身などわたしは非常に香りのある食べ物が好きだ。そういえば前、ラムカレーがうまいと力説したとき、「でもラムって臭みがありますよね?」と聞かれて何も言えなくなったときがあった。なんとなれば、わたしはあの臭みが好きだからだ。「あれがいいんじゃないか」と言ってもラチがあかないので何も言わなかったが、わたしは香りで食べているところがある。

正直言って他の人が何に重きを置いて食べているのかは、わたしにはわからない。聞いてみなければわからない。だが、香りがかなり重要なファクターであることは賛成してくれる方も多いのではないだろうか。

そう思うと、食べ物というものを私たちは舌で味わっているわけじゃないのかもしれない、と思う。「おいしい」とか「味がいい」とか「うまい」とか言ってしまうと、まるで舌で味わっているようだが、私たちが本当にうまいと言えるものは、香り、歯ごたえ、味付け、などのいろいろなものを込みにして「うまい」と言えるものなのだろう。見た目や、肉の焼ける音なんていうのも、その一つのファクターかもしれない。わたしはそんなことに気づかされた。

そんなことはもしかすると常識かもしれない。だって、小学生だって、牛乳が嫌いな人は鼻を摘んで飲むと大丈夫という情報を知っているのだ。この情報は、まずい牛乳の香りの部分をなくしてしまうことで、おいしくはないけどまずくもないものに牛乳を変えてしまうことで、飲めるようになるというトリックに基づいている。そんな情報を小学生でも知っているのだから、もっと上の人は当然のごとく知っているだろう。だが、知識としてわかってはいても、実際に体験してわたしは面白いなと思った。

人は一つの器官で何かを感じるのではないのだ。もっと全体的に、何かを感じ取っているのである。それはもしかすると、他のものにも言えるかもしれない。例えば、夕日に感動するとする。これは一見すると美しい夕日を見て感動している。だが、それだけではないかもしれない。例えば吹いてくる風の感触、その風の匂い、そしてその場の音、全てに包まれながら、わたしたちは感動しているのではなかろうか。

写真や、動画や、あるいは文章は、そんなもののうちの一部しか私たちに見せてはくれない。例えば、夕日の写真を見せてもらっても、それは写真を撮った人があのとき感じた夕日ではない。食べ物の話をしてもらっても、それは食べた人の食べたあのうまさを表現できない。だがそれでも、確かになんとなく再現してくれるようなものはある。そういうものが、いい写真だったり、いい動画だったり、いい文章だったり、あるいは完璧な食レポのようなものなのだろう。

うまいということは、味がいいということではない。香りがなければ始まらない。そう思うと、つくづく、鼻が通じてよかったなあと思うのである。

さらば、愛しき南店

そこにはやはり予感というものがあった。

いつもと変わらない姿を見せているように見えても、実はそこには刻々と迫る終わりの時の予感があったのだ。寂しげな、その予感が。

昨日、わたしは新宿の南口にある紀伊国屋書店へ足を伸ばした。

紀伊国屋は新宿に大きいものが2店舗ある。まずは東口にあるもので、本店だ。もう一つのものが、南口(正確には新南口)にある新宿南店だ。本店も本店でいいのだが、わたしは南店も好きだった。どちらの方がいいというのではない。両方とも好きだった。というのは、古風な見た目で紀伊国屋書店の歴史を感じさせてくれる本店とは違い、新宿南店はおしゃれで、モダンな雰囲気を漂わせていたのだ。それに、新宿南店はかなり大きくて、いろいろと揃っていたから使い勝手が良かったということもある。

そんな新宿南店が、この8月7日に和書コーナーを閉じる。存続が決まっている洋書コーナーは6階だけだから、事実上の閉店と言ってもいい。それなりに繁盛していたように見えたし、わたし自身よく使っていたから、このニュースが春に飛び込んできた時は耳を疑った。理由はいろいろあるようで、まあ一種の「大人の事情」のようである。とにかく、新宿南店は幕を降ろすわけだ。

なんとなく寂しい気分に苛まれながら、わたしは何度か新宿南店を訪れてみたが、閉店するような雰囲気は全くなかった。もしや、ここでかなりの買い物をすれば閉店を免れるのではないか、などというテキトーな夢想をよくしたものだ。それほどに普通だったし、南店ラヴァーが閉店を惜しんでやってきていたため、いつも以上に繁盛しているように見えた。

だが、昨日は違った。

新宿駅新南口は、少し高いところにある。駅の改札口を抜け、紀伊国屋に入ると、そこは不思議なことに3階ということになる。3階は旅行の本などが置いてあって、よくそこの寄稿文のコーナーで本をめくりながら、ああ、旅したい、などと思ったものだ。この階は、昨日もいつも通り盛り上がっており、人でいっぱいだった。なんだ、7月になっても大して変わらないじゃないか。そう思いながらわたしは4階の文庫コーナーへ行き、そのコーナーも大して変化がないことに安心感を覚えた。

違ったのは5階だった。

エスカレーターで5階へ登ると、瞬時に空気感の違いを感じた。そのコーナーは学術書や語学書などが置かれていたのだが、なんとなく寂しい感じがあったのだ。その正体は、いつもはズラーッと本が並んでいた書棚がガラガラになっていたことにある。本が一冊も並べられていない書棚もあったし、本が並んでいる書棚も、まるまる一段は何も置かれていない、という状況であった。例えば、わたしがよく立ち読みをしていた語学書のコーナーは、四段書棚があったのだが、そのうちの一番上の一段には、何も本が入っていなかった。書棚の前に立つと、どことなく、寂しさを感じた。ああ、やはりこの書店は閉じてしまうのか、そう、思わせる何かがあったのだ。わたしはなんとなくその場にいづらくなって、哲学書のコーナーやら、国際関係書のコーナーやらに行ってみたが、どこもかしこも同じ状態だった。レジ近くの企画コーナーで、二人の店員が、もう店頭に置かなくなった本を運んでいた。ここの、もう売られなくなった膨大な量の本は、どこへと運ばれ、どこで売られるのだろう。ふとそんなことを思った。

レジの前を通ると、店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてきた。いつもそうだった。だが、昨日はなぜか、何も買わない(というか、所持金が300円くらいしかなかったため何も買えない)で立ち去る自分を恥じざるをえなかった。

6階の洋書コーナーは逆に、新たなる門出(洋書コーナーだけはリニューアルオープンするということになっている)のための準備で忙しそうだった。ここも何もない書棚があったが、それは、「今後何かを入れるための」書棚だった。確かにここの洋書コーナーはかなり充実していた。それが残るのはせめてもの救いであった。

エスカレーターで6階から降りて行く途中、ふと考えた。1階から5階までが紀伊国屋でなくなるなら、一体何になるのだろう。洋服屋や、そんなようなものになるんだろうか。そう思うとなんとなく残念だ。あそこは今の今まで、本で埋め尽くされた、本の世界だった。別に洋服屋が嫌いなわけじゃないし、「低俗だ」なんて言うつもりはない。だが、洋服屋やそういった類のものなら、隣の高島屋にもある。もしそういったものが紀伊国屋に来てしまったら、全部同じになってしまうじゃないか。なんとなく、あの建物がいつの間にかごく普通のデパートになってしまうのが寂しかったのだ。

いろいろな店が、現れては消えてゆく。それは資本主義社会の定めだ。だが、それは少し寂しくもある。古ければいいとは思わないが、長い間存続し続けるものには独特の価値が出てくる。私たち人間だって、(母親からは異議を申してられるかもしれないが)赤ちゃんの時代はみんな同じようなものである。だが年齢を重ねて個性的になって行く。新しいものを追求して行く結果、同じようなものを量産してはいないか。どこもなんとなく同じものがあって、なんとなく同じ雰囲気がある。それではつまらないじゃないか。

だから、あのビルには是非、6階の洋書コーナーと相性がいいようなものを入れて欲しい。そう、願うばかりである。

the Big Slump

ここ数日、いや一ヶ月以上になるが、ここに投稿していなかった。この一ヶ月何もなかったわけではない。それどころか、いろいろなことがあった。まず先月の18日、わたしは無事二十歳になった。そしてその少し前見た「ハリーとトント」という映画はなかなか良かったし、そのあともいろいろ映画を見た。自分への誕生日ブレゼントに買ったローリングストーンズのCDは良かったし、最近読み始めたアンリ・ベルクソンという哲学者の著作はなかなかいい。7月に入ったら風邪を引いたが、おかげであることを知ることができた。だが、それでも投稿をしなかったのだ。

なぜか。その理由は単純だった。わたしはいわゆる「スランプ」に陥っていたのだ。

単なるブログ執筆者がスランプとは生意気な。そう思われるかもしれない。そりゃそうだろう。ブログでスランプってのはなかなか聞かないからだ。

ことは数年前に遡る。わたしは高校の文芸部にいた。文芸部というと、他の部活の人にとっては何をしているかわからないところだろう。そんな人のために言っておくと、文芸部では大抵は小説などを書いて発表している。そういうわけでわたしも小説を書いていた。あのときからだ。わたしにはよくスランプというものが訪れていた。わたしの部活では季節ごとに一つ小説を発表していたのだが、わたしの場合、一度書くと、次の発表の機会がある時にスランプが訪れていたものだ。そして、大概そんなスランプが終わるのが、締め切りの二日前や一日前と決まっていた。そんなわけで、わたしはいつも小説をものすごいスピードで作り上げるという不健康なことをしていたものである。

スランプというのがどういうものなのかというと、要するに書けないのだ。スランプではない時期には、文章を書きたくて書きたくてたまらない。誰が読んでいようと関係なく、書きたくて仕方がない。そんな狂った状態が通常営業だ。だが、スランプに陥ると、まず集中力が持たない。パソコンの前に座って、書き始めても、途中で別のことをしてしまう。そのせいで思考の糸というやつが切れてしまい、もう書くことができなくなるのである。書きたいことはあっても、うまく書けない。そんな歯がゆい状態が続くと、なんとなく疲れてしまって、書くことが嫌になる。

そんな時期を乗り越えるには、自分の力だけでは不十分なことが多いように思う。書こう書こうと頑張ってみても、書けないものは書けない。だから散歩に出てみたりするが、それでも書けない。そんな時は書かないことが一番いい。といっても、書かなければ治るというわけでもなくて、また書き始めなければ、スランプなんぞ一生治らないだろう。

書きたいことを胸の奥に貯め続けるというのも、スランプから抜け出す一つの方法だ。そうすれば少なくとも書きたい気分になる。そうし続けて、イライラを重ね、そんなある時、ふとまた書けるようになっているものだ。

そういうわけでわたしは今、こんなことを書き連ねている。リハビリである。リハビリを人に読ませるっていうのも、なんとなく問題を感じるが、まあ仕方ない。

そんなに疲れそうな思いをしながら書く必要なんてないじゃないか、と思う人もいるだろう。ご説ごもっともだ。だが、なぜだかわからないけど、わたしは文章を書きたいみたいなのである。

常連もどき

今日、TOEFLを大学で受け、その帰りにトルコ料理屋に寄った。

そのトルコ料理屋は、わたしがエスニック好きになるきっかけを与えてくれたところだった。思えば去年の春、わたしは独り、あの非常に入りづらい、物理的な意味での「狭き門」を押し開け、エスニックの世界に入ったのだった。

しかし、あの店には去年の9月以来行っていなかった。だから、久しぶりだったわけだ。

言っていなかった理由は、単純に大学から少々遠いことと、金がなかったことと、空前の東南アジアブームがわたしの中で起こってしまったことがあるが、もう一つ理由があった。

それは、去年の秋のこと。わたしはアルバイトとしてライターをやろうと考えていた。そういうわけでとあるサイトに登録して、まずは東京のトルコ料理屋の記事を書くこといした。その当時はあの店を見つけていて、もう、トルコ料理の虜になっていたから、ちょうどいい題材だと思ったのだ。

そういうわけで幾つかのトルコ料理屋を回って、飲食し、それをつらつらと書き連ねた文章を先方に送り、報酬も受け取った。だが、折しも、そのサイトは何やら再編される時期だったらしく、わたしは自分の文章がどこにどういう形で乗っているのか、よくわからなくなってしまった。記事が載ってから例の店に行こう、そう思っていたものだから、完全に次の来訪の機会を失ってしまったのである。だからわたしは半年近く、かの店を訪れることができなかった。

そして、今日、訪れた。店員のお兄さんは、わたしのことを覚えているのか、そうではないのか、とにかくにこやかに迎え入れてくれた。わたしは、一人です、といって、席に着いた。思えば取材の日も、初めて訪れた日も、一人だった。「ぼっちメシ」はつらいことだと人はいう。だが、一人で食うトルコ料理も悪くはない。いや、料理の種類にかかわらず、一人飯も悪くはない。だから、独り身なのかもしれない。

まあとにかく、メニューを開くと、前よりも値上げしていた。昨今のご時世だ。しかたない。わたしはこの店の「イスケンデルケバブ」という料理が大好きだったが、懐事情により、日替わりメニューを頼んだ。

いつものスープ、いつものサラダ、そしていつものエキメッキ(パンみたいなやつ)がサーヴされる。そしていつものように、店員さんは無言で皿を置く。スープは前よりも絡みがあったが、うまかった。エキメッキをちぎっていると、謎の料理が出てきた。トマトソースにじゃがいも、鶏肉、米が添えられている。肉を口に放り込む。やはり、トルコの味だ。イタリア料理でも似たようなシチュエーションがあるが、トルコ料理はやはり、トルコ料理だ。そしてそれがわたしは好きである。

以前のように、「もちもちプリン」と言われるデザートが置かれ(白いクレームブリュレみたいなやつで、甘くてもちもちしていて美味しい)、チャイと呼ばれる濃い紅茶が出てきた。以前はやっていなかったが、「テシェッキュル」とトルコ語で礼を言ってみた。そうしたら店員は満面の笑みで「テシェッキュル」と返してくれた。今までは砂糖なしで飲んでいたが、今回は変えてみよう。そう思ってわたしは砂糖を4つほど入れた。向こうの人はたくさん入れるらしいからだ。

やはり元が苦いだけあって、甘すぎる、なんてことはなかった。むしろ深みが出ていてよかった。こういう飲み方もありだと思った。やはり郷に入っては郷に従え、だ。

チャイを飲み干すと、店員さんが歩いてきた。

「チャイのお代わりいかかですか?」

覚えていてくれたのだろうか、と一瞬思った。本当のことはわからない。だがわたしは好意に甘えることにした。熱々のチャイは、わたしの舌を焼き尽くしたが、なんとなく嬉しいものでもあった。

もしかすると、もう半年も行っていないのだから、常連ではないかもしれない。だが、もしかすると覚えていてくれているかもしれないという店があるのは気持ちがいい。

かつてタイ料理屋のおばあさんに顔を覚えられていたことがあったが、あれ以来行っていない。あの時はなんとなく気恥ずかしかったのだ。かつてインド料理屋のお兄さんに「お久しぶりですね」と言われたことがある。あれ以来行っていない。それは別のインド料理屋に浮気しているからだ。また、行ってみようかと思う。エスニック料理やは第二の外国であり、もしかすると第二の故郷なのかもしれない。

 

‥‥‥などと言いつつ、現在金欠なのである。

My Fair Lady

満を持して、観た。ついに、観た。

前にも書いたが、「ヘイル・シーザー!」を見た日は、本当は「マイフェアレディ」を見る予定だった。しかし、恐るべしオードリー・ヘップバーン。完売していて見ること能わず、だった。

それを今日、ついに見たということだ。新宿の仇を立川で、ってなわけである。

メインの登場人物は三人。まず、オードリー・ヘップバーン演じる花売り娘のイライザ・ドゥーリトル(ほとんど何もしない、って意味か?)。次にレックス・ハリソン演じる偏屈な言語学(音声学)の教授ヘンリー・ヒギンズ。それから、ウィルフリッド・ハイド=ホワイト演じる、ヒギンズの友人で同じく言語学者のヒュー・ピカリング大佐だ。そして、彼らとは別に、イライザの父アルフレッドの話も途中で何度か挟まっていく。

英国は方言のオンパレードの国だ。ロンドンの下町ではコックニー訛りが、アイルランドではアイルランド訛り、スコットランドではスコットランド訛り、北部イングランドでは北部訛り、上流階級はいわゆるクイーンズイングリッシュを喋る。出身大学でも差が出たりする。もっと広い目で見れば、アメリカではアメリカ英語、カナダではカナダ英語、アイルランドアイルランド英語、オーストラリアはオーストライリア英語、ニュージーランドにもニュージランド英語、インドでは「ヒングリッシュ」、シンガポールでは「シングリッシュ」である。地域でバラバラだし、そして、階級によっても違う。

この映画の背景にはそれがある。イライザはロンドンの下層階級の女性で、コックニーと言われる訛りがきつい。この訛りは一時期、ISの戦闘員ジハーディージョンが喋っていて注目を浴びたことがあったが、上流階級の「エイ」となるものが、「アイ」となる(これはオーストラリアでも同じだ。「グッダイ! マイト!(Good day, mate!)」)、Hが抜ける(作中でも「ヘンリー・ヒギンズ」は「エンリー・イギンズ」となる)、語末のtが詰まったような音になる(劇中の「A little bit of luck 」という歌は、「リウビッオロック」と聞こえる)、thがvやfになる(劇中には取り上げられないが、よく聞いているとわかる)など、上流階級式の英語とは全く違う音が出る。音の高さも、低い。

音声学の権威で、英国の方言のほとんどに通じているヒギンズ教授は、階級格差が生まれるのは下層階級の発音が悪いからだと思っている(ミュージカルなのでここで歌が始まり、発音について教授が語る。途中で「アラビア人はアラビア語を習う」とあるが、実際のアラビア語は文語と交互がはっきり分かれていて、エジプト人はエジプト訛り、モロッコ人はマグリブ訛りで話す。その状況は英国のそれとほとんど変わらない……などということを気にしながら見ちゃいけない)。極度の女性嫌いの彼は、コックニー訛りで発音するイライザを散々罵倒し、「もしわたしが訓練すれば、お前は半年で社交界デビューだ」と大口を叩く。

それを本気にしたイライザはヒギンズ宅へと向かい、「あたいをレディにしてくれ」とレッスンを頼む。何度も言うが、ヒギンズは過度の女性嫌い。「うちにおいてやってもいいが、ゴミ箱の中で暮らせ」と悪態をつく。しかし、実はこのレッスンには乗り気である。実験素材ができたからだ。それに拍車をかけるように、大佐が「このひどい訛りの女性を上流階級にかけるのは無理だ。賭けよう」と、イライザのレッスン代もろもろ全部をベットすることを提案。隠して奇妙な同居生活が始まる。

指導は初めは上手くいかない。「スペインの雨は主に平野に降る(The rain in Spain stays mainly in the plein)」を発音させれば、「ヴァ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリ・イン・ヴァ・プライン!」、 「ハートフォードとハーフォードとハンプシャーではハリケーンは起こらない(In Hartford, Hereford, and Hampshire, hurricanes hardly happen)」は、「イン・アートフォー、エァーフォー、アンド・アンプシャー、アリカインズ・アードゥリ・アプン」。無理もない。言語学的には、「音素」というものがあって、おそらくコックニー訛りの人には「アイ」と「エイ」、「h」とそれが抜けている音は同じように聞こえるのである。それは日本人にとって、「r」と「l」、「s」と「th」あるいは「z」と「th」、「b」と「v」が同じように聞こえるのと同じだ。なかなかこの区別には時間がかかる。だからイライザも「言ってるじゃないの!」と怒る。そしてヒギンズも「ちゃんと発音しろ!」と怒る。

それがある時、突然言えるようになり、話は展開していく。初めは憎み合っていたはずのヒギンズとイライザの間に、徐々に愛情のようなものが生まれてゆく……。アスコット競馬場や大使館の舞踏会で、レディとして通用するか実験をしてゆき、最後にはついに、イライザはハンガリーの王女なのではないかと誤解されるに至る。実験は成功。だが二人とも素直ではないので二人は喧嘩をし……。

まあ、この辺で止めておこう。

面白いのは、これが発音の矯正の話なのだが、途中で出てくるコックニー訛りが温かく響くことだ。確かに、イライザがついに発音を矯正した時の発音は美しい。そして初めのダミ声で喋るイライザはなかなか迫力がある(いい意味ではない)。だが、途中のイライザのお父さんの歌などは、ロクデモナイ歌詞なのに、なんだかいいな、と思ってしまう。ダミ声で、みんなで酒を飲みながら歌うような歌。それは生きた音楽だ。そういうものの方がなんとなく楽しい気分になる。

きっとこれは、わたしの個人的な趣味ではなく、映画の隠されたメッセージでもあるのだろう。イライザが教授の家から家出をし、元いた市場に戻るシーンで、誰も自分のことを気づいてくれない寂しさを描く場面がある。そこでお父さんと再会するが、お父さんも教授の計らいで「英国一の独創的道徳家」として中流階級の仲間入りをしてしまって、なんだか今まで通りに行かない。そして、最後のシーンで教授がイライザを思い出そうと、昔のレッスン時のテープを聴くシーンで流れるのは、「あたいはレッスン代に1シリングしかださないよ、それ以上ってんなら無理だい!」という訛りのきつい音声。やはりその人を出すのは訛りなのかもしれない。

現代で、女王陛下を差し引いて、かなりきれいな英語を喋る人といえば、デヴィッド・キャメロン首相だろう。彼の英語は本当に美しい。そういう人がいる一方で、今の英国では方言キャンペーンがあるらしい。例えば、英国の長寿SF番組「ドクター・フー」の主人公ドクターを現在演じている俳優(ピーター・カパルディ)はスコットランド訛りで演じている(これが、英語で動画を見る日本人的にはきついものがある)。その先先代はエスチュアリという中間的な英語でしゃべっていた(俳優自身はスコティッシュ)し、そのさらに一代前のドクターは北部イングランド訛りでしゃべった。007で有名なショーン・コネリーなどはずいぶん昔からスコットランド訛りで通していた。BBCでも地方局の放送は方言でやっているらしい。

日本でも、「方言恥ずかしか」という見方が存在する一方、「方言スタンプ」なるものも大活躍している。東京の人は方言に憧れるみたいだ。といっても、東京にだって方言はあるんだから、そいつを忘れちゃあいけねェよ、と思うが。

方言への揺り戻し、のようなものは確かにある。

それはきっと、それが市井の言葉だからだろう。言葉は人々の中で生まれ、生きている。だからそれを離れた言語はもはや言語ではない。きれいな英語がきれいに聞こえるのは、上流階級の間に生きているからであり、それを無理に取り込もうとするとぎこちなくなる。流暢に話すことができるようになるには、心の中も上流階級にならないといけない。だから普通の人にとって、家庭的なものは、訛りの中にある。逆に方言を話せるようにしたい、というのも変な話で、そうするにはその地方に長く生きないといけない。でもきっと本当に琴線に触れるのは、自分の家庭の言葉である。何を聞いて育つのか、それで変わってくる。

言語はやはり生きているのかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

もちろん、名戯曲家バーナード・ショウの原作なだけあって、作品の出来栄えも素晴らしかった。三時間近くあるが、それを感じさせない。笑って、時にハラハラして、そしてまた笑える映画だ。歌はオードリー・ヘップバーンではなく、吹き替えのようだが、やはり彼女の魅力もふんだんに出ている。そして、ヒギンズ教授のキャラクター、あの偏屈さ、あの素直じゃなさが、なかなかリアルでいい。特に最後に「独り身がいい!」といいつつ、イライザを忘れられないのに、素直じゃなさは貫き通すのがいい。そしてそしてフレデリック・ロウの劇中音楽も素晴らしい。特に、イライザのお父さんのうたがわたしは好きである。

なかなか気に入った。

まだ来週も立川や府中、日本橋やさいたまではやっているので、是非見に行っていただければと思う。

あ、あとそれと、あまり紹介できなかった有名な「I could have danced all night」という歌もなかなかいい。

それでは、映画の長さに比例して、文章も長くなってしまったので、この辺で。

ロシュフォールの恋人たち

わたしの月曜日は名画に始まる。何度も紹介してきた、例の「午前十時の映画祭」である。

今週、わたしが見たのは「ロシュフォールの恋人たち」というフランスのミュージカル映画である。監督・脚本はジャック・ドゥミ。全セリフが歌で表現される「シェルヴールの雨傘」でも知られる(三部作らしいのだが、あともう一つを知らない。「キャルフールの買い物かご」だろうか)。映画の原題は「Des moiselles de Rochefort」だから、本来は「ロシュフォールの娘たち」なのだが、どちらの題名でも問題はない。

この映画を見て思ったのは、全編カラッとしてるということだ。

まずミシェル・ルグラン作曲の音楽がスタイリッシュで、快活である。「キャラバンの到着(Arrivée des camionneurs)」という歌は非常に有名で、何かのコマーシャルでも使われていたはずだが、あれもスタイリッシュで快活である。おフランス、という感じである(?)。

また、その音楽のせいか、中身もカラッとしている。映画の中の世界では、かなりいろいろなことが起こっている。恋人に逃げられたり、男が捨てられたり、追いかけてみたり、駆け落ちしたり、はたまた、バラバラ殺人事件まで起こり、まさかの人物が逮捕されたりする。重くもできる内容を、とんでもなく明るく、カラッと描いてしまうのだからこの映画は凄い。

軽いだけかというと、そうではない。前述のようにとんでもない事件も突然起こる。そして何より、この映画は非常にうまく作りこまれている。最初は無関係だった人が全員つながってゆき、ある言葉が別の事柄を予言し、ちょっとした落し物がそのあとの展開を決定づける。最後まで目が離せない。そして、詳細をいうのは控えるが、最後まである意味ハラハラする。いや、やきもき、かもしれない。これ以上は言うまい。この映画の一つの醍醐味がそこにあるのだから。どことなく、カラッとしていて、最後にはいい気分になる上に、うまく作られている感じは、三谷幸喜の作品に似てなくもない。

はじめは、バレエに似たダンスと快活な音楽が流れる感じに慣れなくて、どうも入り込めないし、途中で出てくるジーン・ケリーは、どうしても「雨に唄えば」に見えてしまう。だが不思議と最後のシーンになるまでには、すっかり引き込まれてしまう。

この映画の中で、登場人物たちは、「理想の人」を探している。ある人はそれを夢想しながら絵を描き、ある人は出会いを求めてパリを夢見る。そしてある人は、その理想の人を街中で見つけ、ある人は理想の人を下らない理由で捨ててしまう。万有引力で物体と物体が引き寄せ合うように、人々は理想の人を求めて、理想の人へと近づいてゆく。それがこの映画を単純化してしまえば、図式である。

「時は金なりってあなたは目線で伝えるわ。でもあたしは違うの。あたしにとっては時は愛なり、よ」

というような歌詞があった。この映画が伝えたいのは、大事なのは「愛」なのだということだろう。そんなことはいろいろな映画で言われている、陳腐で、古臭くて、非現実的だ、という人もいるだろう。大事なのは愛だと思っている人も、理想の人を夢見る主人公たちには、「馬鹿らしい」「子供じみている」と思う人もいるかもしれない。

しかし、だ。夢を見ることの何がいけないのだろう。この映画は「愛」こそすべてだ、とその結末も含めて語っているように思われるわけだが、それ以上に夢の大事さも語っているような気がする。何かを夢見ることが、何かを変える契機になる。主人公の双子の姉妹の母が経営するカフェの店員は最後、「パリを見てみたいの」とパリ行きを決心する。その顔は夢に輝いている。

一方で、愛と夢の危うさもこの映画は語る。バラバラ殺人事件の話だ。それはある人の失恋に始まっているのである。理想の女性を夢見る男性に、主人公の一人が、「あなたはこういう事件を起こしそう」と言ってのける。現代的な視点から見ると、うん確かに、と特にこのご時世思ってしまう。そうでありながら、失恋しつつも、最後は綺麗に去る男もでてくるし、一度別れた二人の再会も描いている。

この映画は愛の全てを語り尽くそうとしているのかもしれない。夢と愛。その素晴らしさと儚さと、そして危うさ。いや、もしかすると本当の愛を語りたいのかもしれない。それは肉体を求めるだけのことではない。それは求め続けることではない。あるとても下らない理由で別れた二人が出てくるのだが、そのうちの女性がこういう。「共通の知人を通じて、わたしが金持ちのメキシコ人と結婚したって言ったわ。でもそれは悲しい嘘」嘘をついてしまうのは、相手を愛しているからだ。それは人を殺したいまでに好きになることや、欲情に走ることとは全くもって違う。

それを可憐なダンスと、軽快な音楽に乗せる。なかなかの名画だと思う。なにせ、あのテーマソングが頭から離れなくなる。その歌の歌詞ありバージョンは、この映画の道化役である二人組みの興行師の歌だ。彼らは他の人々と違って、口説いては断られ続けるし、最後に愛を獲得するわけではない。だが、歌って踊って楽しそうである。そういう生き方もある。それもまたこの映画が教えてくれることだ。

 

「Nous voyageons, de ville en ville...(俺たちは旅人さ、街から街へ……)」

 

ああ、またあの歌が離れなくなっちまった。


Arrivée des camionneurs

夢と中野

昨日、中野に劇を見に行った。

劇を劇場まで見に行く、というのはおもえば1年ぶりのことである。

そう、あれは1年前。入試を終えて、わたしは大学に入ることが決定していた。だからわたしは暇な時間を謳歌しようと考えた。その一つが、あの時に見た劇だった。非常にくだらない劇である。英国のコント集団「モンティー・パイソン」原作のミュージカルをユースケサンタマリア、マギー(俳優の方)、ムロツヨシ、という日本の名だたるカタカナ俳優の出演で日本風にアレンジした「モンティー・パイソンのスパマロット」である。ミュージカルなのに、歌を歌うことにいちいち突っ込んだり、さすが、というような内容だった。「爆笑した」以上に何かを言うのは野暮なミュージカルである。

さて、昨日劇にいった話をしようとしていた。

この劇を観るにあたって、二つの初体験があった。まずは、小劇場だったこと。5年ほど前にロンドンで「オペラ座の怪人」を見たときも、あまり大きい舞台ではなかったが(「モンティー・パイソン」は赤坂ACTシアターだから、馬鹿でかい)、今回はそれ以上に小さかった。大学の中規模の階段教室、あるいは映画館の小さめの部屋くらいの大きさで、舞台の大きさも小さかった。そのこじんまりとした感じは、心地がよかった。

もう一つはなんと(!)、出演者に友人がいたことである。

その友人に、女優を目指していると打ち明けられた時は、なかなか驚いた。だって、周りにそういう人がわんさかいるわけではないからだ。そういう人は、現実に周りにいるというよりも、テレビの中や、銀幕の中の住人のような気がしてしまうのは、普通のことだろう(だが、冷静に考えると、目指す人がいなければ誰も俳優になっていないのだから、そういう人が周りにいるという状況もさほど珍しくない)。そして凄いと思ったのは、女優を目指している、と口で言っているだけではなく、なにやら教室に所属して、毎週通っているということである。なかなかできることじゃない。

その友人が、ついに舞台デヴューである。いやはや、とんでもない友人を持っちまった。

舞台はとても面白かった。ギャグ満載、そして最後にはほっこり。ギャグシーンは爆笑しっぱなしだった。我らが「女優の卵」も一番出番が少ないとはいえ、存在感があった(知り合いバイアスがかかっていないと言えば嘘になるけれど)。その存在感の正体は、きっと彼女そのものが舞台にいたことだろう。思わず彼女を知る人はニヤリとしてしまうほどに、わたしたちの知っている彼女が舞台にいた。それでいて違和感はなかった。きっと自分を消すタイプの俳優はすばらしいが、自分が出るタイプの俳優(この例としては、香川照之唐沢寿明阿部寛藤原竜也あるいはムロツヨシがいる)の方が大成する。観客の心に残る俳優になる。なぜなら、演技をするとなると、普通はぎこちなくなって、自然と自分を出すなんてできないのだから。だからそれは悪いことではまったくなく、とてもいいことなのである。そう、思っている。

いやはや、とんでもない友人を持っちまった。

わたしもがんばらないといけない。わたしはこれでも、ライターになりたいと思っている。こんな駄文しか書けないが、夢はある。それはきっと、若人の特権である。

精進しよう。

ヘイル・シーザー!

昨日、朝早く起きて、午前十時の映画祭の「マイフェアレディ」を見に行った。断片的には見たことがあったが、全部通しては見ていない。だから見たかった。

ところが、だ。恐るべし、日曜日。そして恐るべし、オードリー・ヘップバーン。五分前に劇場に着いたら、もう、完売であった。

せっかく朝早く起きて新宿まで出てきたのだ。それを無駄にはしたくない。わたしはそう思って、劇場の時刻表を見て、ちょうどいい時間に何かちょうどいい作品はないか探った。そして見つけたのがジョージ・クルーニー出演の「ヘイル・シーザー!」だった。

「オーシャンズ」シリーズや、「ミケランジェロ・プロジェクト」を見て、わたしはジョージ・クルーニーという俳優が気に入っていた。また、「007」シリーズの新Mであるレイフ・ファインズ(ヴォルデモート俳優といったほうがわかりやすいだろうか)も出ているし、舞台は華やかな1950年代の映画世界だから、この「マイフェアレディ」を見れずに鬱屈した気分のわたしの心を晴れやかにしてくれそうだった。

そういう経緯で、わたしは全くの思いつきから「ヘイル・シーザー!」を見ることにしたわけだ。

結論から言えば、不思議な映画だった。不思議、というのは、悪い、という意味ではない。単純に、不思議なのだ。なんとなく、一筋縄ではいかない。

表面だけ追えば楽しい映画である。西部訛りの強い西部劇俳優が、おしゃれな映画に出演せざるをえなくなり、レイフ・ファインズ演ずる英国人監督に発音を矯正されるシーンは爆笑だった(見逃した「マイフェアレディ」もそうだし、「雨に唄えば」でも出てきたのだが、英語圏の人は発音矯正にトラウマでもあるのだろうか)。当時の映画のオマージュ、というかちょっとばかりネタにしているのも面白い。主軸となる撮影中の映画「ヘイル・シーザー!」も、ナレーションの感じとか、どこかで見たことがあるものだったし、途中のミュージカル映画も、「雨に唄えば」や、「エニシングゴーズ」にそっくりである。ああ、あるよな、こういうやつ、と思いながら笑う。

この映画には何かメッセージがあるのか。そう思うと、わけがわからなくなる。

映画の冒頭はキリスト教の聖歌が流れ、主人公のプロデューサーが懺悔するシーンで始まる。撮影中の映画も、キリスト教へ改宗する古代ローマ将軍の話であり、キリスト教精神を監督は伝えたいのかと思ってしまう。

が、そうではない。主人公は途中、宗教論争をする人たちを一蹴(この論争の荒唐無稽さも、わかる人にはネタとして面白い)するし、最後にはなんと、新婦にアドヴァイスを求めながら、アドヴァイスされたら、「わかってますよ!」とあしらう。

共産主義も登場する。結構重要な役なのだが、彼らは集まって、おたくの会議のようなことをしていてどこか滑稽である。それでいてジョージ・クルーニー演ずるスター俳優ベアードは彼らに影響されたりする。また、なぜかエンドロールは、ロシア語の歌が流れていて、あれ、共産主義の映画なんだっけ、と思ってしまう。しかし、共産主義は無礼極まりないとプロデューサーはスター俳優を殴る。

とにかく、いろいろなものがごちゃまぜで、それを滑稽に描いている。一つの価値観ではなく、いろいろなものがあり、どれにもあまり肩入れをしない、ドライな映画である。アメリカの水爆実験の話も一瞬出るが、それは一瞬で終わり、そのあとは何もなかったようになる。これは異例の映画である。だが、そのほうがリアルなのかもしれない。この映画は、1950年代という時代を丸ごと描こうとしているのかもしれない。

 

だが何はともあれ、笑える映画だ。笑って、何か色々起きたけどなんだったんだろう、と思いつつ、最後はなんとなくまとまっている映画。三谷幸喜の「ギャラクシー街道」に似ている。こちらはあまり評判芳しくなかったが、わたしは嫌いではない。

「ヘイル・シーザー!」がどんな映画なのか、それはぜひ劇場で確認していただきたい。

Uh, UMAMI

旨味は日本人にしか認識できない……そんなたわけたことを言う輩がいる。実際に科学的根拠がある、という野郎もいる。そういう奴らは、やっぱりだしだよね、などとぬかしやがる。だが本当にそう言えるのだろうか? わたしたち日本人が、神によって選ばれた旨味民族だとそういえるのか?

確かに、わたしたち日本人のいう「旨味」はあまり海外で目にすることはない。魚のだし、鰹節のだし、のような、そう、笑福亭鶴瓶がCMで紹介していそうな類のものは、海外にはあまりない。

だが、向こうには向こうの旨味がある。どうしても魚にこだわるのなら、北欧のニシンの燻製などには独特の旨味がある。あれを旨味と言わずして、何を旨味というのだろう? 何が、やっぱりだしだよね、だ。などと、強気に言ってみる。

魚ではないが、タイのトムヤムクンなども、やはり旨味の料理だ。ハーブが大量に入り、独特の甘辛さがあるものだから、あまり旨味のイメージがないかもしれないが、あそこから海老の旨味をぬかしたら、骨抜き料理になっちまう。海老の旨味があるから、あのスープを啜ってこう思わず言うのだ。「うまい!」

そして他の国の旨味といえば、やはり肉の旨味だろう。ヴェトナムに行った時、特にそれを実感した。特に北部ヴェトナム、ハノイは、旨味の宝庫だった。ブンやフォーと言ったヴェトナムの麺料理の汁はと言ったら、最高の旨味である。鶏肉の旨味が凝縮されたスープ。あれを朝早めに起きて、ちょっと肌寒い中すすると、五臓六腑にしみわたってくる。(南部はあまりそういうスープがないが、その代わり、肉がうまい。あれも旨味だと思う)

 

さて、前置き(実は前置きだった)が長くなったが、実は今日、わたしは最高の旨味を持ったエスニック料理に出会ってしまったのである。

わたしの大学のそばにはインドカレーの店がある。わたしと同じ大学の人間なら「ああ、あそこか」と思うだろう。ところがどっこい、おそらくそこではない。もし、「M」で始まる店のことを思っているのなら、そこではない。「S」で始まる店である。少し入りづらい外観なのだが、わたしは最近通い詰めている。

金曜日はカレーの日。それは我々日本人の胸にアプリオリに刻みつけられた、悲しき定め。そんなわけで、わたしは最近金曜日はインドカレーを食うことにしている。それで、その店にわたしは通い詰め、毎回違うメニューを頼み、その店の正解が何かを探っているというわけだ。

正直言うと、あまり芳しくはなかった。シェフの出身の問題だろうか、味付けが少々甘いのと、オニオンが効きすぎているのだ。まあ、こういうものか、と思っていた。そう、今日の正午までは。

今日はラムカレーを頼んだ。もともとラムは大好物だったし、今日はなんとなく、ラムが食いたかった。そして、その直感は正しかった。

まず驚いたのはラムの柔らかさだ。普通のインドカレー屋の羊はパサっとしている。それでもまあうまいのだが、今日のやつはひときわ柔らかい。わたしは肉の硬さにはそんなにこだわりがないが、あそこまで柔らかいと意識してしまう。

ラム肉を口に入れる。ラムの香りは(残念ながら)控えめだが、肉の旨味が噛むとジュワーっと口に広がる。まるで、断食明けの祭りのようだ。今までぐっと抑えられていた旨味たちが、噛むと解放されて、パーっとはっちゃける……うん、この例えはもう使うまい。

だが、それはまだほんの序の口に過ぎなかった。プロローグのようなものだ。スターウォーズでいえばエピソード1である。そのあと、壮大なサーガが待ち受けている。

それはカレーだった。辛味成分で真っ赤になっていたカレー。この店のカレーは比較的辛かったから、少し警戒しつつ、カレーのスープ部分をずすっとすすると、衝撃が走った。うまい。うまいのである。まさに旨味的な意味でうまい。ラム肉の旨味が凝縮されていて、正直なところ、ナンなどいらなかった。カレーだけずっと食べていられる。食べている最中に両隣の客がナンのお代わりをしたが、正直、わたしはカレーの方をお代わりしたかった。ただし、悲しき資本主義、カレーをお代わりしたら二倍の料金を取られるのでやめておいた。

久々にインドカレーを食べて感動した。それもこれも、インドにも旨味があったからだ。そして、ここの店は味付けが甘い、と言っていくのをやめなかったおかげでもある。粘って粘って、ついに正解を見つけた。色々な料理を食うからには、やはりこういう体験がないといけない。うまい、と言えるような体験。すぐに誰かに伝えたい、そんな体験。

食事は素晴らしい。そこには文化やらいろんなものがごった煮されている。そこには旨味がある。だからこれからも、うまいと言える何かを探して、どんどんエスニック料理屋に入っていこう、そう誓うわたしであった。

 

……書いていたらお腹が空いてしまったじゃねえか。

大久保オンマイマインド

夕方になるとどっと疲れる割に、朝になって太陽を浴びると元気になるのだから困ったものだ。そして昼間活動的になって、そして家に帰ると再びどっと疲れる。そんな毎日の繰り返しである。

さて、昨日のことだ。わたしは午前十時からバイトの研修が入っていた。そういうわけで、わたしは眠たい体を無理やり起こし(前日は疲れすぎていて逆に寝るのが遅くなってしまった)、バイトの研修を受け、それから職場の近くにあったインドカレー屋で「ほうれん草とインドのカッテージチーズのカレー」を食ったわけだが、店から出ると、天気がいいのである。

あんなに昨日は疲れていて、あんなに朝は眠かったというのに、太陽を浴びると、どうしてだろう、歩かねばならないような気分になる。いや、歩きたい気分になるのだ。少し新宿の方に向かって歩こう、とわたしは思った。なぜ新宿なのか。それは、予てからよく通っていた、紀伊国屋新宿南口店が近々閉店するという噂を聞いたからだ。見納め、とまではいかないが、なんとなく行っておきたかった。

ところが問題があった。それは、この前日の夜も同じ道を歩いたという問題だ。あの日の夜、なんとなく風が気持ちよく、わたしは歩いて新宿まで行こうと思ったのだった。それだから、二日連続で同じ道を歩くということになる。わたしはなんとなくそれが嫌だった。

途中で知らない路地に入る。細い路地だった。昭和の昔からありそうなスナックが立ち並んでいる。その猥雑な感じは悪くなかった。きっと夜はスナックのママになるのであろうおばあさん(ベテラン女子というべきか)が洗濯物を干している。その路地の昼は、心地の良い眠りについているような感じがした。わたしの大学のそばの道なのに、こんなところがあるのか。わたしの知らない世界であった。時間は午前1時ごろ。それならもう、いっそのこと、新宿南口店など放っておいて、どんどん知らない道へと歩いて行こう、そうわたしは思うのであった。

その路地を抜けると大通りへと行き、大通りの向こう側に、商店街が現れた。おそらく、新宿の中心部に近づいて入るのだが、その商店街はいわゆる新宿のイメージとは違う。時間がゆっくりと流れていて、気持ちいい風が吹いていた。しばらく歩くと不思議なコンビニが見えてきた。

そのコンビニは「アジアン市場」のような名前だった。正確なところは覚えていないが、まあ、そんなところである。気になるじゃねえか。第一そんなコンビニを見たことがない。わたしは思い切って入ってみることにした。

そこは異世界だった。まず、客の女子高生がみな韓国語をしゃべっている。普通だと、「〇〇ちゃんの彼氏がー、まじでー」のようなことを言いそうなものだが、それが全編韓国語なのである。そして店員のおばちゃんと客のお母さんも韓国語で話す。むろん、店内にある食べ物は全部ハングル表記。これはとんでもないところに迷い込んじまった。わたしは何か買ってみようかと思ったが、所持金が限りなくゼロに近かったので、とりあえず去るしかなかった。

後で知ったのだが、そのあたりには「韓国学校」があるらしい。いたるところの看板が韓国語で、在日韓国人向けの広報が置いてある。普段は気付かないが、東京には確かに韓国が存在する。そう思うと、なぜだろう、心躍った。ところでわたしはこの夏カナダのモントリオールに語学留学をするのだが、そのガイダンスで「どうしてモントリオールを選んだんですか」と聞かれた。わたしはこう答えた。その時、パッと思い浮かんだ理由だ。「混ざり合った文化に興味があるからです。モントリオールは、フランスとか、英国とか、ユダヤとか、アジアとか、いろいろ混ざっているので」わたしは混ざりあった文化が好きなのだ。

ふと思いついた。そういえば、もっと大規模な韓国が東京にはあるじゃないか。「大久保」だ。そこにいこう。

偶然だろうか、神の思し召しだろうか、大久保はその場所のそばにあった。もちろん、そばとはいえど、結構な長さの道を歩いた。すると突然だ。人だかりがある。それが大久保だった。建増しを繰り返したような建物、それから看板に溢れるハングル。店内から聞こえるのは韓国語。匂ってくるのはニンニク、ごま油。そしてKPOPの音楽が響く。行ったことはないが、韓国とはこのようなところなのではないか、と思った。

おもしろかったのは、大久保はコリアンだけの町ではないということだった。道にあふれているのは韓国料理だけではなく、トルコのケバブ屋、ヴェトナムのフォー屋、そして大量のネパール料理屋(インドでもパキスタンでもなく、ネパール)……。そこはもう、エスニック料理の聖地だった。素晴らしいケバブの香りが漂い、ヴェトナムの旗がはためく。太陽の光を浴びながら歩けば、もう、旅人気分である。

そんな雑踏が路地裏まで広がっている。客引きが立っていて、音楽が響いている。それはまるで東南アジアか何かのようなだった。人々も開放的だ。余談だが、突然おばあさんに呼び止められて、「かっこいいじゃない」とナンパされるという謎エピソードもあった。おばあさんだったので若干残念(?)ではあったが、まあとにかく、わたしは歩き続けた。KPOP女子たちは、道端を歩く無名のアイドルユニットを見て黄色い声援を送り、市場のようなものの中ではおばちゃんがキムチ鍋を煮ている。ここでも何か買いたかったが、懐具合と胃袋具合がそれを許さない。

だがそれは序の口だった。ハングルに少々飽きていたわたしは、新大久保駅を抜け、大久保駅の方へと向かった。そこにはもうKPOP女子も、開放的なおばあさんもいなかった。普通の町、一見するとそうだった。だが、確かに看板にはハングルが並んでいるし、ただならぬ空気はあった。

試しに路地に入ってみた。そこは異世界だった。

ネパール料理屋の横に、今まで見なかった旗がある。おそらく、インドネシアの旗だった。ちょっと歩いてみると、「ARABIC」の文字。ケバブを焼いている。周りにはインドネシア人なのだろうか、いろいろな人種の人が溜まっていた。向かいの店はヴェトナムフォー。そしてケバブの店の隣には、インド系の人が買い物をしている青果店があった。食事はできないが、この雰囲気、ぜひからで感じたい。わたしは青果店のそばへ歩いて行ってみた。その時だ。つーんと鼻をつく野菜の香りがした。間違いない。これはわたしがヴェトナムの市場で嗅いだ匂いだ。なんとなく涙が出そうになった。

そんな郷(?)愁の青果店を抜けると、突如ヴェトナムの国旗が掲げられている建物があった。その前にはトラックが止められ、おそらくインドネシア系と思しき人たちがトラックの中に座っている。大通りに戻ると、インドネシア系の子供がぶらぶらしている。まるでアジアだ。心が震えた。

最近なんとなく忙しいものだから、疲れが溜まっていた。ああ、どこかに行ってしまいたいとふと思う時もある。旅に出たいとは常に思っているが、特に思っていた。だからだろう、大久保はわたしにインパクトを与えた。また行ってみたい。いつも旅から帰るとわたしは極端に無気力になる。そういう時も大久保へ行けばいい。そう、大久保は呼んでいるのだ。

手ぶら族の夏

わたしは基本的に手ぶらだ。もちろん、大学に行くときはバッグを持っているが、それ以外では手ぶらだ。

かつてはそんなことが普通のことだと思っていた。少々男女差別的な発言かもしれないが、男は手ぶらなものだ、などと思っていたのだ。

だが、高校から大学になって、友達と学外であったりすると、「手ぶら⁈」と、まるで魑魅魍魎を見るような目で言われるのである。何をそんなに驚いているのだろう、と疑問に思っていたが、会う人会う人にことごとく言われる。どうやらおかしいのは世界ではなく、わたしのようであった。

それにしても、皆さんは何をそんなに持っている必要があるのだろう。スカートを履いている女性ならわかる。ポケットがないからである。だが、ポケットがあるのにそんなにバッグにこだわる理由がわからない。ただかさばるだけではないだろうか。

まあ、喧嘩はよそう。

ところで、「手ぶら族」のわたしにとって危機の時代の始まりが告げられた。それは、夏の到来だ。コートを着ないから必然的にポケットの数が減り、特にケータイと、本をどこに入れればいいかわからなくなる。去年は尻ポケットに本を入れて、数多くの本をダメにした。そして、ズボンのポケットに何かを入れるとものすごく暑いのである。

そういうわけで、全地球を挙げての、我ら手ぶら族の迫害が始まるわけだ。

先日、わたしは気づいてしまった。もはや、何か入れるものを持った方がいい、と。暑さを避けるためだ。そこでわたしは、バックパッカーの知恵に頼ることにした。それは、バッグを買わずに入れ物を工面する魔法の技である。そう、ビニール袋を持ち歩くのだ。そこに本やらケータイを入れる。かの沢木耕太郎もやっていた。

これがなかなかいい。バッグより密着率が低く、暑くならないし、金もかからない。いらなくなったらくしゃっとできるし、捨てられるからかさばらない。それでいて、見栄えだって(いいというわけではないが、コンビニ帰りの人くらいには)そこまでみっともないわけじゃあない。

これが流行ればいいと思う。表参道や、スクランブル交差点や、シャンゼリーゼや、ピカデリーサーカスや、タイムズスクエアが、ビニール袋で溢れればいいと思っている(誇張)。まあとにかく、同じ悩みを持つ手ぶら族の皆様が、これで救われることを望む。まぁ、もっとも、ビニール袋を手にしたわたしはもはや手ぶら族ではない、などと言われたらぐうの音も出ないが。

「旅情」

昨日のことだ。わたしは例によって映画館で、「旅情」をみた。
この映画は、キャサリン・ヘップバーン(有名な方のヘップバーンではない)演じるハドソン夫人(シャーロッキアンはちょっとこの名前を出されるとあの人を思い出してしまう。悲しい性である)がイタリアはヴェネチアに一人旅に出かけるところから始まる。彼女の目的は、「奇跡」「ときめき」「失ってしまったものを取り戻す」こと。
この映画は一つのラブロマンスとしての側面がある。イタリアを旅する外国人女性の常、彼女はとある妻子持ちのイタリア人に口説かれ、反発しつつも恋に落ちて行くからである。といっても、濃厚な恋ではなく、あえて主人公はそれが濃厚になる前にかの地を発つ決心をする。
だが一方で、旅人の映画、という側面がある。何かを期待して旅立つも、写真を撮るばかりで、外界には少し距離を取ってしまう。わたしは後半のロマンス部分よりも、前半の主人公の様子のリアルさが記憶に残っている。誰しも旅をするとこうなのかもしれないと思った。例えば、檀一雄などの作家は、海外に行くと、あたかも何の障害もないかのように、どんどん現地の店に入るが、いきなりそうなる人というのはまずいないだろう。むしろ彼女のように、何かのきっかけ(彼女にとってはそれはイタリア男との出会いだったが)で、カメラを捨て(前半ではいつでも持ち歩いていたカメラが、ある時を境に登場しなくなる。異論はたくさんあるだろうが、わたしは本当にいい旅というのは、カメラを捨てられる旅だと思っている。なぜなら本当にエキサイティングな経験をしているときは、私たちはカメラを握る暇がないからである)、過度の警戒心を捨て、そして求める奇跡というやつへと進んで行く。
わたしは旅が好きだが、やはりどうも警戒心などを拭うのが大変なタチでもある。初めての一人旅を函館で行ったときは、話しかけたそうな老夫婦が隣のテーブルにいたのを気づきながら、どこかガードしてしまった。だが話してみるといい人たちだった。あのガードを外せていたら、そう思ったものだ。タイやヴェトナムでも、店に入るのは一苦労だった。これは普通の人なのではないかと私は思う。
劇中に印象的な言葉があった。それはホテルの女主人が言っていたことだ。「奇跡を生むのは積極性よ」
そうなのかもしれない。ほとんどの人は旅の中で、やはり慣れない土地に警戒し、積極性を失う。だが、やはり奇跡を起こすのは積極性なのだ。一方で主人公は「待つことも大事なのかもしれない」という。これにも納得できる。積極性だけ見せるというのも何かが違う。的確なタイミングに気付けなければ意味がない。
大切なのは、もしかすると、何かに出会ったときに、それを受け入れられる力なのかもしれないと思った。わたしはそれがあまりできない。だからこれからはもっと受け入れる積極性を磨いていきたい。そうしないと、逃し続ける旅になってしまう。いや、もしかすると、逃し続ける人生にもなってしまいかねない。
そう、肝に銘じるわたしであった。

吉祥寺が教えてくれたこと

五月が好きだ。太陽が輝いている。新緑ももちろんいいが、わたしは太陽が好きだ。暑くなってきているのは確かだが、8月の暑さとは違って、気分のいい暑さである。

今日、わたしは吉祥寺へ向かった。吉祥寺は我が家からも近く、諸事情により無料でいけるため、最近はよく言っている。一人で夜に食事をするときは特に、値段も安いところが多いし、ヴァリエーションも豊富だから吉祥寺は使い勝手がよくて重宝している。だからわたしは夜の吉祥寺に慣れている。だから今日真昼の吉祥寺に行ったのは珍しい体験でもあった。

太陽が輝き、ジリジリと肌を焼く。これを嫌う人もいるが、わたしは嫌いではない。確かに生きている、そう思わせてくれるからだ。昼食は家族と食べ、そのあとは、吉祥寺の昼を満喫したかったため、家族から離れて一人、喧騒の中へと飛び込んだ。

吉祥寺は活気がある街だが、今日はゴールデンウィークのせいかその活気たるやバンコクのごときものがあった。人並みは商店街に流れ、わたしは歩くスピードを遅くして歩いた。なんとなく、そうしたかったからである。

ところで、わたしはよく、歩くスピードが速いと言われる。父もそうなので、我が家系の悲しき定めなのかもしれない。しかし今日、あえて歩幅を狭く、ゆっくりゆったりと歩くことで気づいたことがあった。それは、歩く速さが速いというのは、もしかすると、何かを怖がっているからなのかもしれないということだ。

危険な匂いのするところでは誰しもスピードを速めるものだ。それをいつもやるというのは極端に臆病なのかもしれない。現に、歩行スピードをゆっくりにするとなんとなく恐怖心を覚えた。

わたしは気づいた。わたしは臆病だったのだと。しかし本当にいい散歩をするには、もっと外の世界と関わらないといけない。だからゆっくりと歩いて、積極的に世界と関わらないといけないのではないか。

今日、わたしはゆっくりと歩きながら、ベーコンの串焼きのようなものを買って食べた。うまかった。速く歩いていたら、そんなことしなかっただろう。思えば今年の頭にバンコクに行った時も、少々速く歩きすぎたのかもしれない。だから、焼き鳥もあまり買えなかった。これからは怖がらず、ゆっくり歩いて行こう。それが楽しい旅の鍵になる。

そう、誓うのであった。