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旅、映画、食べ物、哲学?

7都市目:バルセロナ(1)〜ピレネーを越えてゆけ〜

トゥールーズのやばいホテルを出たのは七時十五分くらいだったろうか。オーナーは部屋で寝ていたが、声をかけて鍵を返すと笑顔で、「Au revoir!(さようなら)」と言ってくれた。もしかするとそこまで悪いホテルはじゃあないのかもしれない。

駅の方向へと運河のような細い川沿いに歩き、トゥールーズに入った時初めて使った道に出た。これでフランスの旅も一旦終わり。少し感慨深い。駅に着いたのは七時四十分くらいだったが、朝食を買いたいので、わたしは朝食をチェーン店のパン屋ポールで調達した。

これが間違いだった。並んでおり、買えたのは八時くらいだったのだ。列車の時間はなんと八時六分。わたしはチケットに刻印をし、エスプレッソとサンドイッチを手に駅構内を走った。途中でエスプレッソがこぼれたのでゴミ箱に捨て、なんとかホームに着いたときは八時五分。これはもうおしまいだ、と思いながら、何とかして車両に入った。危なかった、と思って時計を見ると八時六分をすぎている。これはどういうことだ?と思ったら、車内放送で、

「この列車は遅れて発車いたします」という。おかげで助かったわけだが、いきなりスペインの洗礼を受けたという感じだ。

今回は一等席だった。それというのも、二等席が満員だったらしく、10ユーロ払えば一等車の予約ができると言われ、そうしたからだった。これもトゥールーズでの節約生活の一つの理由だった。一等車は静かで、アメリカ人の老夫婦のグループがいる。スペイン語も聞こえてくるが、基本的には静かである。子供が泣くわ、みんな喋るわだった二等車とは大きな違いだ。間違いない、わたしは二等車の方が好きだ。

二十分ほどだっただろうか。TGVは動き始めた。ピレネーを直接超えるのではなく、もう一度カルカソンヌやベジエなどのオクシタニアの街方へと引き返し、地中海のそばまで戻って南下して、山の横にあるペルピニャンを通って、山脈を超える。そして、晴れてカタルーニャに入るわけだ。

バルセロナは近年の観光客集中で宿が足りていないらしい。宿探しが大変そうだ。だからわたしは、列車に乗りながら、ネットでホテルを予約することにした。調べてみると案の定立地の良いところは満員が多いが、一箇所、手頃な値段でかつ、メインストリートだというランブラス通りからすぐ入ったところにあるホテルを見つけた。あまり治安の良い界隈ではないようだが、ランブラス通りよりなのでトゥールーズの例のホテルよりはマシなはずだ。調べてみると学生寮を貸し出しているという。それなら安心もできる。わたしはネット上でホテルを予約した。ラクな時代になったものである。

電車は地中海沿いの場所まで引き返し、南下を開始した。窓の外には幻想的な水の景色が広がる。地中海か、湖か。それは実はわからない。それからフランス側のカタルーニャの中心地(カタルーニャ語をしゃべっているらしい。恐るべし、陸続き)のペルピニャンを超えて、いよいよピレネー山脈を超える。山の横を通るはいえ、やはり山がちな光景だ。しばらくしてトンネルに入った。

国境のトンネルを越えると、そこはイベリア半島だった。とは言っても見た目はよくわからない。緑色の山に囲まれた、牧歌的な風景が広がるだけだ。ポンポーンという電子音と共に車内アナウンスがなった。

「Proxima estacion, Figueres」

あ。フランス語じゃない。まぎれもないスペイン語だ。先ほどまではフランス語、スペイン語、英語の順だったものが、スペイン語、フランス語、英語の順に変化した。スペインに入ったのである。いや、スペインに入ったというと問題発言になりかねない。少なくともわたしは今、イベリア半島カタルーニャに入ったのだ。

 

カタルーニャ入りした日にはそんなこと考えもしなかったが、一ヶ月半後の2017年10月1日、カタルーニャ自治州で「独立を問う国民投票」が行われた。カタルーニャ自治州は、プッチダモン自治州首相の下、特に最近独立運動を激化させている。独自の大統領を持ち、独自の議会を持つ自治州であるカタルーニャがそこまでスペイン王国からの独立を望むのはなぜか。一つは経済的な要因であり、それは観光業などで潤うカタルーニャの税金が財政難のマドリード政府の方へと取られて行く現状に腹を立てたから、という。だがもう一つは、根深い反マドリード感情がある。彼らはスペイン語ことカスティーリャ語とは異なるカタルーニャ語を話し、歴史もマドリードを中心とする現スペイン王国とは異なるものを歩んできた。にもかかわらず併合された過去を持つカタルーニャはある種不満を持って当然なのである。

カタルーニャ語は、カスティーリャ語スペイン語)やポルトガル語などの「イベリア・ロマンス語」と違い、むしろフランス語、もっと言えば南仏でかつて話されていたオック語と系統を同じくしている。分かりやすい例で言えば、「〜ください」という時に(英語で言えばPleaseに当たる言葉)、カスティーリャ語では¡Por favor!(ポルファボル!)といい、ポルトガル語ではPor favor!(プルファヴォール)という。しかし、カタルーニャ語では、Si us plau!(スィスプラゥ!)で、むしろフランス語のS'il vous plaît(シルヴプレ)に似ている。ちなみにオック語はSe vos plai(セボスプライ)だそうだ。

どうして、ピレネーの向こう側なのに、こんなことが起こるのか。それは歴史を見れば一目瞭然である。

時は中世。スペインの南半分は北アフリカからやってきたイスラーム王朝ウマイヤ朝が治めていた。ウマイヤ朝の軍隊は一度ピレネー山脈を超えて攻め込んだこともあったが、フランク王国はこれを撃退、ピレネーの南にイスラーム勢力を封じ込めた(いわゆる「トゥール・ポワティエ間の戦い」である)。ウマイヤ朝の侵攻の前、スペインは西ゴート王国が支配していたが、ウマイヤ朝の猛攻の前に国家は崩壊し、北部アストゥリアス地方でゲリラ戦を展開しながら抵抗したゴート貴族のペラーヨが作ったアストゥリアス王国が残るのみであった。フランク王国はそんなスペイン北部、それもアストゥリアス王国のある北西部とは反対側の北東部に進出したのである。

フランク王はスペイン北部を「スペイン辺境伯領」とし、そこに幾人かの「伯爵(グラーフ)」を置いた。そのうちの一人がバルセロナを治めるバルセロナ伯爵だった。歴代のバルセロナ伯爵は徐々に勢力を拡大、いつしかスペイン辺境伯領のほぼ全土を治めるようになる。さらにイスラーム勢力との戦いで武功を挙げ、名誉の死を遂げるものもいた。そのうちの一人は、駆けつけたフランク王に看取られ、その時王は4本の指を血に浸し、バルセロナ伯爵の持っていた金色の盾に縦線を描き、その武功をたたえたという。金地に赤の4本線は、今でもバルセロナ、ひいてはカタルーニャのシンボルだ。

だが、フランク王国の時代は長く続かない。フランク王国は相続の関係上三つに分かれ、スペイン辺境伯領は西フランク王国(のちのフランス王国)の配下となるが、代々国王を輩出してきたカロリング家が断絶してしまうのだ。カペー家のユーグ・カペーが国王に選出されると、予てからフランクの支配下にあり続けることに不満を持っていたバルセロナ伯爵は、ユーグ・カペーの王位を承認せず、事実上独立を果たす。当時のイベリア半島は群雄割拠の時代である。南のイスラーム王朝があるのはもちろん、アストゥリアス王国は首都をレオンに移し、レオン王国と名乗りイベリア半島北西を中心に勢力を拡大していた。また、ピレネー山脈西部には、この土地にローマ時代から住み、独自の言語、独自の文化を持つバスク人たちの国であるナバラ王国があった。

1004年、ナバラ王国でサンチョ3世が即位。彼はナバラ王国と婚姻関係にある諸国を次々と併合。バルセロナ伯領も例外ではなく、臣下にくだらざるをえなくなる。サンチョ3世は、1034年にはレオン王国を武力的に併合、レオン王となるや否や、「イスパニア皇帝」を名乗り、スペイン北部を統一して見せた。が、翌年1035年、サンチョは急死、イベリアは戦国の世に逆戻りする。その中で新たに生まれたのがスペイン中部を拠点とするアラゴン王国だった。さらに、レオン王国内部では有力貴族カスティーリャ伯爵が台頭、ついにはレオン王国を軍門に降らせ、レオン王国全土を乗っ取り、カスティーリャ王国が誕生する。この情勢の変化の中で、バルセロナ伯領はアラゴン王国との友好を図って行くことになる。そして1137年、時のアラゴン国王レミロ2世には男子が生まれず、娘ペトロニーナが一人娘だった。レミロは俗世から離れ、聖職者になることを望んでいたが、当時は強大な軍事力を持つカスティーリャ王国が勢力を拡大する時代であり、この状況で娘に王位を継がせるのは危険と判断した。そこでレミロはバルセロナ伯爵であるラモン・バランゲー4世と娘を結婚させることを考えた。そして、それぞれの国政は変えぬまま合同する「同君連合」を築こうというのだ。バルセロナ伯爵もこれをのみ、ここにアラゴン連合王国が誕生する。

その後アラゴン連合王国はメキメキ力を伸ばして行く。

ペラ2世は軍事に秀で、イスラーム勢力との戦いに身を投じ、ローマ教皇インノケンティウス3世と同盟した。その戦いの中でも有名なラス・ナバス・デ・トロサの戦いでは当時イベリアを支配していたムワッヒド朝に大打撃を与えることに成功し、カタルーニャの南、バレンシア地方の一部を獲得した。一方で親族であったトゥールーズ伯爵レーモン6世(覚えておられるだろうか?)に味方し、アルビジョア十字軍に対抗、一時優勢となったが、その戦いの中でペラ2世自身が戦死してしまう。次のジャウマ1世は教皇と和解、さらにマヨルカ島などを含む島々の王位を手にし、ペラ2世が始めたバレンシア制服の完成へと導いた。このころから、アラゴン連合王国は海の覇者となってゆく。それはバルセロナという良港をもっているためでもあり、さらにイベリア半島カスティーリャ王国が勢力を固めていたこともあった。

その次のペラ3世の時、イタリアの南、シチリア半島で事件が起こる。かつてシチリアはドイツを中心とする神聖ローマ帝国皇帝の治める土地だった。イスラーム文化やオリエントの文化とヨーロッパ文化の交差点であったシチリア島は開かれた空気を持っており、シチリア出身の皇帝フェデリコ2世は教皇庁と対立、その後の代でもその対立は続いた。教皇は自分の息のかかった人物をシチリア島の王位につけようと画策し、フランス王家のシャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。だがこのシャルル、かなりの野心家であった。王位につくや否や、支配層をフランス人に限定して強権的な支配を行い、密かに東のキリスト教の大国ビザンツ帝国の併合を目論む。これに恐れをなしたビザンツ帝国は、地中海の新興国アラゴン連合王国に目をつけた。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはペラ3世と同盟し、シチリア島でフランス人支配に反発した民衆が暴動を起こすと突如シチリア島を攻撃し、シチリア島からシャルルを追い出し、ペラ3世はシチリア王位を手に入れた。その後、アラゴン連合王国はシャルルの子孫が治めていたナポリまでも手にし、イベリア半島東部、地中海の島々、シチリア島イタリア半島南部と、西地中海の覇者に躍り出る。

一方、イベリア半島では「レコンキスタ(国土回復運動)」がカスティーリャ王国の下進行中であった。カスティーリャから独立したポルトガル王国なども共に、南を支配するイスラーム王朝と対決し、徐々に徐々に南へ、南へと領土を広げていた。特にペラ2世が活躍したラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降はものすごいスピードで各地のイスラーム王国(タイファ)が降伏、1400年代後半には南の端にあるグラナダ王国ただ一つを残すのみとなっていた。

ここにきてカスティーリャ王国アラゴン連合王国は、それぞれの制度を残した同君連合という形で国を統合することにする。カスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェラン2世が結婚し、二人がこのスペインの王となった。そして1492年、ついにグラナダ王国が降伏、ついにレコンキスタが完了した。その後、両王国はそれぞれの制度を尊重しつつ、共存してゆく。イサベルとフェランの死後、一人娘フアナの夫でオーストリアハプスブルク家出身のフィリップが王位につくも、急死。精神錯乱となったフアナの摂政となった息子のカルロスがスペイン王位についた。このカルロスはカール5世としてその後ドイツやオーストリアを治める神聖ローマ帝国皇帝としても即位、さらにさらにコロンブスによる新大陸発見以降のめまぐるしい征服活動により、スペインは中南米、スペイン、ポルトガル、イタリア南部、地中海の島、オーストリア、ドイツ、ベネルクスを支配することになった。次の代のフェリペ2世の時代には、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。この時代も、カタルーニャは自国の制度を守り、カタルーニャ語で政治を行っていた。

ことが変わるのは、1700年にスペイン王カルロス2世が死去した時だった。子供のいないカルロスは次の王位をフランス王家ブルボン家のフィリップに譲ると宣言して死去。これに対してハプスブルク家のカールが反発した。

この一件を裏で手を引いていたのはブルボン朝フランス第三代国王ルイ14世である。彼は太陽王と呼ばれ、フランス王国の黄金期を築き上げた国王だった。国内では王自らが政治を行う親政を敷き、所領を持つ貴族たちがそれぞれの領土を経営する封建制度ではなく、国王に忠誠を誓う官僚が中央で政治を行い、各地を支配する体制を築いた。軍隊に来ても、国王の軍が全国を支配していた。ルイ14世は国内の統制を行うと、国外の侵略を目指すようになる。その中で神聖ローマ帝国領土だったアルザス地方の割譲などを行わせるが、スペイン王国にも目をつけるようになる。カルロス2世に次王をブルボン家のフィリップにさせたのも、その戦略のうちだった。

さて、この事態にハプスブルク家カール大公以外に危機感を感じる人たちがいた。それは、他でもないアラゴン連合王国であり、カタルーニャだった。もし、スペイン王国ブルボン家のものになれば、フランス同様貴族の特権は奪われ、国は一つにされる。今までは共同統治という形で権利が守られてきた誇り高いアラゴン連合王国ブルボン朝の下、滅ぼされてしまうのではないか。ハプスブルク家ブルボン家が戦争状態に入ると、同じ危機感を覚えるポルトガルがフランスの拡大に危機感を覚えるイギリスと共にハプスブルク側につき、1705年にカール大公を奉じてバルセロナを占領。カタルーニャはこれを機にブルボン朝に反旗を翻し、ハプスブルク側についた。この戦いはヨーロッパ全土、さらにはインドや北アメリカまで波及してゆく。世に言うスペイン継承戦争である。

カール大公はバルセロナを本拠地とし、バルセロナは最後まで街を守りきった。さらに一度はマドリードを落としている。だが国際情勢は厳しかった。ヨーロッパではフランス優位であり、カール大公が皇帝となるとイギリスはハプスブルク家の拡大に危機感をみせて和平を探るようになる。そして1714年にユトレヒト条約が結ばれるとこの戦争は「終結」した。ただ一つ、カタルーニャを除いては。バルセロナバレンシアなどを失いながらもなんとか持ちこたえ続け、ブルボン朝スペインは包囲を解かない。しびれを切らしたフランス王国は援軍を派遣。その圧倒的な軍事力の前に、ついに1714年9月11日、バルセロナは陥落した。スペイン王国カタルーニャに対して、公的な場でのカタルーニャ語の禁止、自治権の停止を含む「新組織王令」を突きつけ、カタルーニャはここに独立を失った。9月11日は、屈辱の日として、カタルーニャの人々の心に刻まれている。

それからは苦難の時代だった。カタルーニャナバラバスク)とともに経済的な成功を収め、自治権を要求。だがブルボン朝カタルーニャ自治権を認めず、時代は18世紀終わりのフランス革命の時代へとうつってゆく。旧体制との戦いを繰り広げたナポレオンは、ブルボン家が治るスペインとも交戦し、ついに占領する。革命後の共和国派が地方言語を迫害したのに対し、フランスのナポレオンと戦って、その中でスペイン流の改革を志したスペインの共和国派はカタルーニャなどと行動を共にし、中央集権から地方分権を目指した。結局ブルボン朝がスペインでは返り咲き、その夢は潰える。だが、1868年、時の女王イサベル2世が追放の憂き目に会い、イタリアから呼び寄せたアマデオ王が自国に戻ると共和制が発足。カタルーニャも自治州となり発言権を手に入れた。が、さらなる力を求めようとした一部カタルーニャなど自治州の人々の反乱で共和国は倒れ、王政に戻る。その後はまたカタルーニャ自治権は無くなったが、自治権を要求するための地方政党リーガを結成、カタルーニャ語は禁止されていたものの、サッカースタジアム、カンプ・ノウのなかでカタルーニャ語は守り抜いた。バルセロナサッカーの熱気は、失われた祖国への思いでもあるのだ。そして1930年に第2共和制が発足すると、再び自治権を要求した。左派政権はこれを認めたが、右派からは大きな不評を買うことになる。この左派と右派の軋轢はついに内戦となり、スペイン内戦が起こる。

1939年にスペイン全土を右派軍事政権であるフランコ政権が制圧すると、「Si ères español, habla español(スペイン人ならスペイン語を話せ)」のモットーの下、カタルーニャ語を含む地域語は激しく迫害された。その迫害の規模はかつてないものであった。学校でカタルーニャ語を使用しようものなら、懲罰を食らったという。かつてナバラ王国が栄えたバスク地方では、この動きに抵抗し、スペインからの分離独立を求める過激派勢力ETAが結成され、中央政府へのテロも行われた。その一方、フランコ政権は第二次世界大戦ナチスが倒れるや、アメリカに接近。観光国として発展を遂げてゆく。

1975年フランコが死んだ。フランコの遺言通りブルボン朝のフアンカルロスが王位についた。フアンカルロス王はなんと民主化を宣言。スペインは、カタルーニャバスクなどを「自治州」とし、大きな自治権を与える「自治州国家」となる。カタルーニャ語の学校教育も晴れて認められた。バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州の経済規模は首都マドリードと張り合えるほどであった。新たなるスタートを切ったスペイン王国だったが、2000年代に入ると、リーマンショックギリシア危機のあおりを受けて失業率が増加、財政難に陥った。これに不満を持ったのがカタルーニャだった。独自の経済を持ち、さらに近年、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したカタルーニャ出身の建築家ガウディ人気、サッカーチームのバルサ人気などで勢いづいたバルセロナ観光ブームが巻き起こり、富を得たカタルーニャが、なぜか、かつて自分達を無理やり支配し、しかも歴史的に見れば全く違う国だった、財政難にあえぐスペイン王国に税金を払わねばならないのか! そんな中、カタルーニャ自治州の政権は独立派が担うようになり、ついに2017年、自治州首相プッチダモンが独立を問う国民投票を決行したというわけだ。結果はご存知の通り、中央政府による閉鎖などもあったこともあり投票率は40パーセントほどで、賛成派が9割を超えている。カタルーニャ中央政府との交渉のために二ヶ月間独立宣言を凍結し(凍結ということは解凍もできるということだろう)ているが、政府は交渉に応じていない。

さて、600年代から現在まで駆け抜けてしまったので歴史パートがかなり長くなってしまったが、これはカタルーニャという土地を知って欲しかったからだ。カタルーニャフランク王国の家臣からスタートし、一度は地中海の半分を支配した。それがスペイン継承戦争で併合され、フランコ政権では自分の言葉を禁止された。現在の独立運動や彼らの誇りはそんな歴史に裏打ちされている。だからこそ、歴史を知らねばならない。歴史を不完全な知識ながら書かねば、バルセロナの旅を書いたことにもできなかった。

 

さて、バルセロナ・サンツ駅に到着して驚いたのは、フランスのように地上に普通に到着するのではなく、地下に到着することである。地下にあることもあり、プラットフォームは異常に暑い。表示を見ると、一番目立つところにあるのはやはり、カタルーニャ語だった。ひとまず地上を目指す。

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地上に出ると、駅がかなり巨大であるのに気づく。フランスの駅の規模というのは、ずいぶん小さかったみたいだ。わたしは「M(地下鉄)」のマークを見つけ、降りて行った。ホテルはメインストリートのランブラス通りにある「リセウ駅」のすぐそばにとったので、地下鉄で向かうことにしたのだ。初めての「スペイン」で、スリに少しおびえながらチケットを買い、足早に地下鉄のホームへと向かった。

地下鉄のホームは蒸し暑い。久しぶりの地下鉄だ。パリなどとは違って、なぜか駅の線路の向こう側にモニターがあって、「改札はちゃんと出入りしましょう」という動画を流している。電車がやってきたので、リュックを体の前に持ってきて乗りこんだ。放送もやっぱり、「カタルーニャ語スペイン語、英語」の順番だ。ここは、スペインではなく、カタルーニャなのだなと思った。広告も何もかも、カタルーニャ語しか見ない。

リセウ駅までは、サンツから青色の線に乗って、U字状の路線を行く。明らかに遠回りな気がするが、仕方ない。違う雰囲気、違う言語。ついにイベリア半島か、とわたしは少しテンションを上げた。

リセウ駅から地上に出ると、そこはすぐにランブラス通りだ。事前情報も何もなく通りに出てみると、広い通りの真ん中に、歩行者用の道があり、それの周りには並木がある。暑いが、海風のせいか湿気もあり、風が気持ち良い。ランブラス通りの木々はまるで新緑のような、明るい緑色をしていた……とはいいつつも、スリに気をつけつつ、私はおめあてのホテルのある通りに入った。

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その通りの前には客引きがおり、これはまずいところに来ちまったかなと思ったが、工事現場用の足場で覆われた学生寮は、外見はともかく中は清潔そうである。

「Hola!(こんにちは)」と声をかけてみたら、通じた。当たり前だが、Bonjourではない新鮮さをかみしめる。といっても、これ以上は無理なので、英語で予約してあると伝えた。フロントのおばさんは不思議そうな顔をしている。どうやら、直前に予約したために、紙には印刷されていないようなのだ。パソコンからわたしのデータを見つけたおばさんは鍵を出し、外に出るときは鍵を返してくれと伝えた。

「Gracias!(ありがとうございます)」と伝えて、わたしはエレベーターで四階にある部屋へ向かった。一応カタルーニャ語のつもりなのだが、この辺はカスティーリャ語と同じなので困る。

部屋は適度に狭く、ちょうどよかった。黒を基調としたシックな部屋で、きちんとテレビもある。テレビはその国の文化を見る窓。ここに来て見られてよかった。

顔を洗い、レストランの当たりをつけ、わたしは外に出ることにした。

(続く)