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旅、映画、食べ物、哲学?

あの日

30分バスに揺られ、マドリードについた。それから電車を乗り継いでわたしはオスタルに戻ることにした。洗濯物を取り込みたいし、少し休んでから夕食に出かけたかったからだ。

オスタルに戻ると、何やらパーティのようなことをしているらしく、オスタルの人々は忙しそうで、向こうの方からガヤガヤと声が聞こえていた。鍵をもらって、部屋に入り、いつもの癖でテレビをつけて、わたしは部屋に干してあった服をたたんだ。一通り作業が終わったので、テレビに目をやると、暴動のような映像が出ていた。そういえば昨日も南米の方で起きた暴動を報道していた。まだ続いているのか。テレビの中では大勢の人が逃げ惑っていた。

何か、不穏な予感がしたのかもしれない。

この暴動の様子はいったいどこなのだろう、とわたしは突然気になり、画面に出ている地名に目を凝らした。一瞬、なんのことかわからなかった。もちろん、アルファベットだから読めないわけではない。だが、そこに書かれていた文字は、納得のゆくものではなかった。

「BARCELONA」

見間違いか、いや、そうではない。それならたぶん、南米にも同じ名前の町があるはずだ。だって……こんなことがつい昨日までいた町で……

画面が切り替わる。大きな広場の画面だ。見覚えのある幾何学模様だった。紛れもなく、人が逃げ惑っているのは、カタルーニャ広場だった。逃げている人によってスマートフォンで撮影された映像は、紛れもなくランブラス通りだった。そこまで生々しく移されても、わたしは信じることができなかった。

テレビ画面に映る映像はあまりに画質が悪く、嘘みたいだった。それに、もちろんのことテレビはスペイン語なので、何を言っているのかもわからない。わたしは念のためにスマートフォンをつけて、日本ではまだ夜中なのでどれくらいの報道があるかはわからないが、検索してみることにした。案の定、ほとんど出ていなかった。しかし、一つだけ該当するものを見つけたので、見てみると、さらなる衝撃がわたしを襲った。現場は、ランブラス通り。わたしが昨日までよく歩いていた場所だ。そして犯人グループは、トルコ料理屋に立てこもっているという情報もあるらしいが、そのトルコ料理屋は、わたしが見かけたものだった。駅は封鎖されていて、その封鎖に該当されている「リセウ駅」とはわたしの最寄駅だった。全部、知っているところだった。

 

2017年8月17日17時頃、バルセロナでテロが起きた。わたしがバルセロナをたったのは8月16日の午後だから、ほんの1日ずれていれば、巻き込まれていたに違いなかった。車が目抜通りのランブラス通りに突っ込み、13人が死亡、100人以上がけがをした。IS(イスラム国)が犯行声明を出したらしい。スペインではここ数年のヨーロッパのテロに関係したものはあまり起きてこなかったから、衝撃的な出来事であった。

この日のことは、今でも生々しく覚えている。だからこそ、上手く書くことはできないかもしれないが、今後の旅にも、もっといえば今現在にも大きく関わっていることだから、書いておきたい。そんな、記事になる。普段から読んでいない方にも、普段から読んでくれている方にも、良い内容かどうかはわからない。だが、書くことに意味がある。どうか、許してほしい。

 

とりあえず両親に連絡し、ツイッターフェイスブックにも、無事であるという旨のことを投稿した。しばらく整理もつかぬまま、わたしはベッドに横たわり、ただテレビを見ていた。レストランに行く気力はなかった。

昨日、バルセロナで、わたしは本気で延泊するかどうかを悩んでいた。時間帯的に、延泊したとしても巻き込まれなかったかもしれない。だが、それでも間一髪だったのは確かだった。偶然、マドリードに移動したほうが楽で良いと判断した。ほんの偶然だった。それを思うと、胸の奥に、今まで感じたことのないものをかんじた。胸の奥に冷たい釘が縦にすーっと差し込まれ、寒くもないのに、体が震えた。恐怖で震えているのか、それもわからない。わたしは何も感じられなかったし、何も考えられなかった。怒りも、悲しみも、感じなかった。ただ、1日とはいえ、楽しく会話をしたウェイターの無表情なお兄さんや、オスタルのちょっと怖い目のきりっとしたお姉さんや、優しそうなおばさん、駅にいた人たちは今もバルセロナにいるのだということを思うと、胸の底が乱れた。人々が逃げ惑っているあのカタルーニャ広場にいた、シャボン玉を作るおじさんも、そのシャボン玉を果敢に壊しにいく少年少女も、まだバルセロナにいるのだろう。お前はラッキーだった、とその後行く先々で言われた。しかし本音で言えばそのような気になど絶対になれなかった。行ってみて、心から好きになったあの町で、テロが起きたのに、自分のラッキーさに感謝することなんてできない。こういうことがあって、神を信じるようになる人もいるかもしれない。だがわたしは余計に神など信じられなくなった。だって、神がいるなら、全員助けるべきだ。

わたしはしばらく、呆然とテレビを見ていた。たまにツイッターに心配して声をかけてくれる人に返信したり、やっと在バルセロナ日本領事館からの連絡が来たので見ていたりしながら。まだ現実感がない。だが、テレビは淡々と、バルセロナの映像を流した。やはりカタルーニャ広場の映像は、今でも記憶に残っているし、あの時も、見ていて一番苦しかった。それを見るたびに、あのシャボン玉のおじさんと少年少女の攻防戦を思い出すのだ。

時刻は20時を回っていた。とりあえず、食事に行こう。今は少し酒が必要だ。といっても、わたしは酒に強いようなので、どうも酒をあおったところで全てを忘れられるわけではない。だが、バルに行けば、誰かと交流できるかもしれない。今は人とのつながりが必要だ。わたしはベッドから起き上がって、顔を洗った。同時多発でマドリードで起こらないとも限らない。そう思うと胸の奥で何かが動くのを感じたが少し深呼吸して、わたしは外に出た。

 

昨日行けなかったハムのバルを目指したがしまっている。多分バカンスだ。わたしは昨日行ったバルにもう一度行くことにした。マドリードの街はごく普通に動いている。グランビアのところに、昨日は見なかった警察のバンはいるが、他はそこまで大きな変化はない。わたしはなぜか、なんでこんなに普通でいるんだ、と腹が立った。冷静に考えれば、マドリードバルセロナはかつては違う国だったくらいだし、結構距離もある上に、スペインは自治州国家で、バルセロナを中心とするカタルーニャも大きな自治権を持っている。だから、遠い話なのだ。そこまで警戒しないのもわからなくはない。関西に親戚のいない東京の人だって、きっと京都でテロがあっても、「怖いねえ」で済ますに違いない。それでも、警戒していて欲しかった。だからなんだというのかは自分でもわからない。

バルに入ると、相変わらず賑わっていた。自分で行っておいて、どうしてみんな普通なんだと思わなくもなかったが、わたしはそれを必死で抑え、昨日対応してくれたマット・デイモンっぽい店員に声をかけた。

「また来たよ」というと、

「おお、きたね! ビール?」と言った。まるで常連だ。わたしは少し気を良くした。わたしはビールをオーダーし、タパスを一皿取った。昨日気に入った、青魚にドライトマトが載っているやつだ。相変わらず美味い。だが、誰かと話したかった。わたしはたまたま隣にいたおばさんに、¡Hola!と声をかけてみた。おばさんは、¡Hola!と返してきたが、それ以上の展開はなかった。マットも忙しそうで、話し相手にはなってくれなかった。なんだか胸の奥がしぼむような気持ちになった。

結局、数皿食べて、店を後にした。

 

夜道は相変わらず治安が良さそうだ。二軒目に行こうかとも思った。だが、なんだか気分が乗らなかった。オスタルに戻ることにした。

シャワーを浴びながら、今後のことを考えた。まず、明日はバスク地方に移動する予定だったが、列車を使うべきか。さらに、目的地は始め考えていた花火大会をやっているというサン・セバスティアンでいいものか。サン・セバスティアンはやめておくことにした。何が起きるかわからなかったからだ。と言ってもバスク地方は全体的にこの時期は「グラン・セマナ」という祭りの一週間であり、どこに行っても変わりはしない。だが、サン・セバスティアンは最近観光リゾートとして有名になっており、もしテロリストが襲うとしたら、間違いなくサン・セバスティアンだった。だから、バスク自治州の中心地ビルバオに行き先を変更した。さらに、バルセロナからマドリード間は規制がかかっているという話を聞いたので、ビルバオ行きであっても列車はやめておこうと思った。今日行ったバス停から、バスに乗ろう。

 

こういうのは初めてではなかった。一昨年も、ドイツからフランスへタリースという列車を使った直後に、タリースでテロ未遂があった。さらにその旅で泊まったパリの宿のそばで、同時多発テロもあった。だが、こんなにもすぐに、こんなにも思い入れを強めた街で、それもこんなにもホテルの眼の前でテロが起きたことはなかった。いつもは「ギリギリだった」とくらいに思うが、今回はそれでは済まなかった。もし本当に望み通り延泊をしていて、あの時間帯までいたら、死んでいたか、大怪我をしていたか、もっと可能性のあることとしては、ここ数週間はバルセロナから出ることができなかっただろう。そもそも、最寄で使っていた駅が封鎖中なのだ。

次はない。

ふとその言葉が脳裏によぎった。次はない。次起きる時は、巻き込まれる時かもしれない。そんなことはないかもしれないが、そう思って行動する覚悟は持つべきだ。なにせ、この後、一週間パリにいくのだ。パリはシャルリー・エブド事件以降テロが立て続けに起きている。警備はスペインよりすごいが、その警備があっても同時多発テロシャンゼリゼ通りのテロも防げなかった。みんな忘れているが、フランス共和国は今、国家非常事態宣言発令中なのだ。昔なら、バルセロナで事件が起きた今、きっとどこも警備が厳重になって安全になると思ったことだろう。だが、マドリードはのほほんとしている。心を決めておこうと思った。いつも、旅の前は覚悟は決めている。だが、今回思ったのは、そんな覚悟、ただの飾りだということだ。

わたしはテレビを消して寝ることにした。

 

翌日、荷物をまとめた。ずっと持ち歩いていたガイドブックはこっそり部屋に置いてきた。重かったし、今後はおそらく使わないと思った。リュックを背負い、ロビーに向かうと、おじさんは部屋の掃除をしていて忙しそうなので、お兄さんがやってきた。わたしは鍵を渡した。お兄さんもスペイン語しか話せない。

「¿Vuelve a Japón?(日本に戻るんですか?)」と聞いてきたので、

「No. Viajar España(いえ、スペインを旅します)」と答えた。

「¿Donde vas, Barcelona?(どちらに行くんですか? バルセロナ?)」とお兄さんは聞いた。一瞬この人は何を言っているんだろうと思った。いけるのか。いけるものなら行きたい。だがわたしは少し深呼吸をして、

「No. Bilbao(いえ、ビルバオです)」と答えた。

「Ah, Bilibao...bonito, ¿no?(ビルバオかあ、可愛いですよね)」とお兄さんが言ったので、わたしはにっこり笑った。

「¿Dónde aprende español?(どこでスペイン語を勉強したんですか?)」お兄さんは唐突に尋ねた。

「Por radio(ラジオで)」正直に言えば、本やテレビも見ていたが、一番熱心に聞いていたのはラジオだった。にしても、あのラジオだけでそれなりに会話になっているからありがたい。

「¡Por radio! Muy bien.(ラジオでか!いいですね)」オスタルプラダのお兄さんはそう言ってくれた。わたしは、

「Gracias(ありがとう)」と返し、支払いを済ませて、「Adios(さようなら)」と行ってオスタルを出た。グランビア駅までの道のり、わたしはただひたすらに祈っていた。マドリードでは、何も起きませんように。この人たちまで、巻き込みませんように、と。別にわたしがバルセロナを去ったせいで事件が起きたわけではない。わたしはそんな要人ではない。ただの日本人のふらふらした一人の旅人だ。それでも、案じてしまう。

地下鉄でバス停に向かいながら、わたしはやり残したことについて悩んだ。どうすれば悔いが残らないのか、悩んだ。乗り換えは一回あったが、地下鉄は簡単にバス停に着いた。

 

ビルバオ行きのバスは、12:30頃だった。ついたのは朝早かったので、数時間は間があった。だが、マドリードを回る気はなかった。とにかく、何かが起こるのを避けたかった。だからわたしは朝をバス停で食べ、昼もそこで買った。後は本を読んで過ごした。

時間になり、バスが来た。WiFiを切って、リュックサックに詰め込んで、列に従った。わたしは心に重たいものを抱えながら、それと同時にその現実感をきちんと感じ取れないまま、バスに乗り込んだ。どうか、マドリードでは何も起こりませんように、どうか、バルセロナが無事でありますように、と祈りながら。