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旅、映画、食べ物、哲学?

たんたんと。

「今年はどんな年だった?」

そう言われて、ふと出た言葉が、

「光と闇」だった。

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(1) 2024年無職の旅

2024年、世界も動いたが、私の人生も動いた。

冒険に出る、という新年の抱負を掲げ、それを成就させたと言ってよいと思う。

 

まず、5月。3年間勤めていた仕事を辞めた。その仕事は、コロナ禍の就活という二重の苦難の中で、たまたま転がり込んだ仕事だった。仕事の中身に全く興味がないわけでもなかったが、仕事の本筋には一切関心がわかなかった。

このままでは人生に対する責任を取ることができない。死ぬ時に、このままでは、ただただ内心と外面の乖離を残したまま、不満たらたらで死ぬだけだ。それは嫌だ、という変なダンディズムを捨て切ることもできない。だが今でなくてもいい、という甘えから、「船出」を延期し続けていた。

だが、一昨年から勤めていた職場は環境が悪く、部署内の閉塞的で悪口に満ちた空気が苦手だった。今まででは考えられないほどの頻度で体調を崩していたし、精神的にも、深いところが見えず、浅瀬で漂う落ち葉のような感覚でいた。このままでは、先延ばしにしている船出をする体力や精神力まで奪われてしまうように思えた。

本当はもう少しいたほうがよかったのかもしれない。今は時々思う。だが、あの時見つけた「時宜」はまさにあの4月末でしかあり得なかった。

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ショック療法〜インド一周〜

飛び出した私が最初に向かったのは、インドだった。

インドは文化や言語に関心があり続けた土地で、いつか長い時間ができたらじっくりと旅したいと思ってきた場所だった。このタイミングを逃せばもう時間などないかもしれない、と、インド行きを決めた。ついでに、航空キャリアの関係で、大学時代よく訪れていたヴェトナムのハノイにもよることになった。

コロナ禍と呼ばれる事態が始まってから、海外旅行はというと、香港、マカオ、台湾といった中華圏だけしか訪れてこなかった。その意味で、インドの旅は久しぶりの「異文化」だったし、初めての、それも少しばかり「難しい」土地への旅だった。

結論から言えば、日本でしばらく閉ざされていた精神にとって、インドの旅はなかなか過酷なものだった。リハビリにとヴェトナムを加えてみたものの、勝手知ったるハノイの街は何のリハビリにもならなかった。摂氏50度近いデリーのコンノートプレイスで、私はいわゆる「ぼったくり旅行会社」に引っかかってしまったのだ。

詳細はまたどこかに書こうかと思うが、その結果として、私は退職金のほとんどをインドの旅行会社に振り込んでしまった。というと、まるで「詐欺」のようだが、そこまでひどい事態ではない。

純粋に高くはあったが、北インドから南インドまでを回るための鉄道と航空券、宿、ピックアップ、一部ガイドが手配された。宿も朝食付きの一人部屋で、夕飯も三食分なら無料だった。だが、自分で手配したほうが遥かに安かったろうし、一部二重取りがあったり、常に猜疑心を働かせなければならないと言うストレスもあった。つまり、望んでいたようには心を自由に旅することができなかったのである。

デリーからはじめて、ジャイプル、アグラ、ワラナシ、コルカタ、チェンナイ、コチ、ゴア、ムンバイを回ってデリーへもどる。文字通り、私はインドを一周した。

ぼったくられたこと、今後のこと、心穏やかな旅とは言えなかった。だが、逞しく生きること、人とコミュニケーションを取ることなど、ここ数年で低下していた「サバイバル能力」を取り戻すには十分だった。

それに、時に図々しくあることの重要さ、金を失っても経験で取り返すことができることなど、教訓があった。あの一ヶ月で確実に私は鍛えられたと思う。

インドでの「冒険」は私にとって「ショック療法」であり、修行だった。人生観が変わったまでは言わないが、確かに成果はあった。

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友人と行く偶然性の遊び〜四国半周〜

疲れが出たのか、6月はほとんど休眠状態だった。

7月に入り、旅を再開した。次は同じく仕事を辞めた友人との四国の旅だった。お尻は決めず、大阪で落ち合った。

もともと「高知へ行こう」という企画趣旨だったのだが、お互い自由の身だったため、簡単にはいかなかった。というのは、あえて、気まぐれに行動したからだ。テレビで祇園祭の報道を見て、「明日行ってみるか」と京都へ向かったりなど、四国入りも遅かった。船で和歌山から徳島へ入ってからも、偶然見かけた「四国みぎした切符」なる割引切符を使い、電車とバスで室戸岬経由で高知に入った。本当は香川経由で帰るつもりが、いつの間にやら松山・道後まで回って、四国全県を踏破した。

偶然の出会いに乗る。時間的自由がなければ成立しない行動は、一種の逃避行でありながらも、普段では予定などを優先しがちな自分にとって良い薬だった。

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大嵐の最中で〜台湾縦断〜

本当は四国を一周したかったが、一週間もいると別の制約があって、半周で東京に戻った。

別の制約というのは、実は次の旅であり、別の友人との台湾旅行だった。

仕事がある友人より早く台湾入りし、台湾西部の台北、台中、嘉義を回って、台南で友人と落ち合う、というのが計画だった。だが、カネが気になり、旅程は最低限のものとなってしまった。

そこに舞い込んだのは、台風の襲来である。ちょうど台北入りの日、台風が台湾に上陸した。その後1日で台風は過ぎたが、雨風は残っていて、中南部に被害が出た。飛行機は遅れ、台中や嘉義は雨模様。途中の鉄道路も寸断。だが、滅多にできない経験である(詳しくはnoteに書いたので、よければ読んでほしい)。

一方、友人が来てからの台南の旅は、比較的順調だった。天気良好、料理もうまく、祭りにも遭遇した。個別行動をメインにして、夕飯だけ一緒に取るというのも悪くなかった。

いずれにしても、インドではできなかった、自分の選択と判断で前へ進んでいく体験が、この台湾の旅にはあった。

note.com

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自分の位置を知る〜北海道・東北縦断〜

次に旅に出たのは8月の終わりだった。財政は傾きつつあったが、やるべき旅があった。

今回は目的があったのだ。「友人と」行く旅の次は、「友人に会いに」行く旅だった。北海道の札幌と函館にそれぞれ大学時代の友人が移り住んでいた。

まずは茨城の大洗へゆき、そこから船に乗り込んだ。船旅とは豪華に聞こえるが、値段は飛行機代や新幹線とあまり変わらないばかりか、少し安い。一晩かけて太平洋を北上し、苫小牧に入る。苫小牧から札幌は距離が遠くない。

白老(ウポポイ)、小樽を経て札幌へ。友人に案内をしてもらい、ジンギスカンとウィスキーを片手に久々に話した。夏の間の特別切符を使い、鈍行で函館へ。何と八時間かかるが、ニセコ長万部ではおりることができる。函館では友人が車で迎えに来てくれて、海の食材が食べられる店へ連れて行ってくれた。翌日は江差へ行った。

それから、特別切符を再び発動させるべく、「連絡船」で青森へゆく。そう、復路は陸路で、青森、弘前、盛岡、花巻、仙台ときて、福島へゆき、そこからは有効期間の関係でバスで帰宅した。北海道も東北も、面でゆっくりと旅するのは初めてだった。

 

札幌の友人にウイスキーを飲みながら言われたことが心に残っている。

「自分は精神的な調子が乱れた時、一年は再起できなかった。だから、一年は休んでいいと思う。もちろんお金のこともあるだろうけど、休むことの方が大事だと思う」

この言葉を聞いた時、彼が私が就活やコロナ禍で塞ぎ込んでいたことを知っていたからこそ、自分の状態がある意味で「あるべき状態」とかけ離れていて、休むことを必要としているのかもしれないな、と感じた。その「あるべき状態」というのは、目指すべき姿ではなく、かつて哲学対話をしたり、文章を書いたり、旅をしたりしていた大学時代の自分の在り方のことだ。

2020年の危機を経て、私は「変わった」と思っていた。自分の弱い部分を自覚するようになったし、「本来」あまり人と付き合うのが得手ではないとわかったのだ、と。だから、職場でもおとなしくしていたし、積極的に何かを働きかけつこともなかった。要するに、殻に閉じこもろうと決めたのだ。だが、ひょっとするとそれは後遺症で、大学時代、比較的活発にしていた頃の方が、本当の「あるべき」姿なのではないか。閉じこもる方が楽なので、自分が「異常事態」だと認識していないのではないか。

 

その話を同じく旧来の友人である函館の友人にしたら、

「人は変わるものだと思うから、昔に固執することはないと思うけど、すくなくともあの時はイキイキしてたよ」と言われた。

イキイキしているというのは、そして今でもあの頃が「気疲れした」というより「楽しかった」と思えるのは、間違いなく、性に合っていたのではないかと思えた。

それが、自分の位置を知ることにつながった。

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最後の旅〜東南アジア半島縦断〜

正直もう金銭的には危ない。だが、もう一度大きな旅をして、自分を見つめ直したい。

その一心で、私はシンガポールへの片道切符を買った。目的もあった。元職場の同僚が、仕事を休職してバンコクの大学に留学していたのだ。会いに行くという名目で、今回もまた大きな迂回、シンガポールからバンコクまで3カ国にまたがる縦断を決行することにした(旅の模様は現在noteで公開中なので、興味があれば読んでいただけると嬉しい。

 

シンガポールから、マレーシアのジョホールバル、マラッカ、クアラルンプール、イポー、ペナン島、タイに入ってハートヤイ、ソンクラー、スーラッターニー、バンコク、アユタヤ、チエンマイ。

バンコクの元同僚はもちろんのこと、さまざまな人と出会い、時をともにした旅だった。特にペナンのホステルで出会った人々とは一緒に街歩きをしたり、夕飯を食べたりした。殻に篭ることをやめたら、多くの人との時間を楽しむことができた。

仕事に区切りをつけて、タイの大学で学ぶ人がいる。タイボクシング(ムエタイ)の修行のため、チエンマイに行く人がいる。隣国の若者は仕事を休んで陸路でマレー半島を目指している。新しい国で新しい事業を始める前に、ペナン島で羽を伸ばす、戦時下の国の人がいる。東南アジアでは、さまざまな人を見た。さまざまな人がいる、さまざまな旅がある。そのこと自体が、日本で比較的単調な社会に組み込まれながら生きていると、救いである。

また、人のこと、旅先のこと、摩耗しかけていた好奇心が輝きを取り戻したのもこの旅だった。あえて知識を事前に入れなかったのもよかったのだろう。タイの元同僚はタイについての知識が豊富で、何を聞いても答えてくれるから、あまりに質問したり、仮説を披露して困らせてしまったかもしれないので、それは申し訳なく思っている。だが、私にとって、大学時代までは「好奇心」は重要なファクターで、最近ではそれが枯渇しているように思えたから、嬉しいことだった。

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この旅はチエンマイで終わるはずだった。だが、チエンマイについた時、「ここで終わってはいけない」ように思えた。そうこうするうちに、ペナンで言葉を交わした台湾人が言った「ラオスルアンパバーンは今までで一番よかった」という言葉が脳裏によぎった。

金銭のことなど懸念は多かった。だが寺の境内で仏像を眺めているうちに、外的な要因に縛られるのはやめようと思った。今必要なのは、この旅を終わらせること。終わらせるために、私は国境の街チエンラーイ、ラオスルアンパバーン、そしてヴェトナムのハノイへと向かった。奇しくも、ハノイはこの「2024年無職の旅」が始まった場所だった。終わるにはちょうどいい。

その後、ルアンパバーンで大事件が起きたりもしたが、この選択は間違っていなかったと思う。チエンラーイ、ルアンパバーンでの沈思黙考の時間を経て、ハノイでは台湾から来た人と話したり、レコードショップに寄ったり、バスで同じになった日本人と飛行機の出発時刻まで話したりした。

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(2)たんたんと、前進せよ。

かくして、「冒険」は終わった。

いや、それは厳密には違う。まだ続いている。それはもっと「危険」な、現実的な冒険である。要するに、旅を続けることで精神は何かを取り戻していったが、絶えず続いた出費により、生活が脅かされつつあるのである。

「哲学する前に生活しなければならない」

スピノザの言葉として、私が大学院時代に専攻していたフランスの哲学者ベルクソンがよく取り上げるものだ。『知性改善論』に、確かに似たような話が出てくる。だが、重要なのはきっと、「生活する」ことではない。「哲学する」ために、「生活」を整えることが重要だと、スピノザは言おうとしていると思った。

とはいえ、この時代、なかなか働き口は見つからない。そして、生活が脅かされると、不安の闇が広がる。せっかく旅の光の中で得た教訓やヒント、「開いた心」も、全てを無に帰してしまいそうな闇である。実際、現在の私は不安と焦りの渦中にいると、正直に言おう。

 

「冒険は最良の師である」

戊辰戦争中に現在の北海道を拠点に、新政府にあらがった榎本武揚が、こんな言葉を残している。彼自身、オランダ留学に、北海道測量、シベリア横断……と冒険を重ねた人だった。彼の意図はわからないが、旅の中で人は人生の実験を行うことができると思う。

旅の中で、私は特に「焦り」が敵であると学んだ。不安からくる焦りは、人を不用意に決断へと導く。即断即決は、道が見えていれば時には良いことだが、道が見えぬままに行えば大損をする。

インドでのぼったくられ事件は、まさに、インドという国でのうまくいかなさを感じ始めていた時に、旅行プランを提示され、不用意に乗ってしまったことに起因する。また、クアラルンプールでも、不用意に買った鉄道チケットを買い直すハメになったこともあった(広東の風、イポー|河内集平(Jam=Salami))。

どんな状況にあっても焦りは禁物。そして、焦って行動したことで良い結果が得られたことなど皆無である。

 

もう一つ、前へ進むことで旅が形作られていく感覚も学んだ。

チケットを買えば、買いさえすれば、旅は始まる。街から出れば、線が繋がる。そんな単純なことでも、自分にはできる。仕事の場合、「買いさえすれば」のように単純ではないが、始めないことには何も始まらないのは同じだ。

クアラルンプールやチエンマイで、思わず足を取られていたことがあった。この町をもっと知っておきたい、とか、この先どこに進むべきかわからない、とかいった理由で、だ。もちろんそれらの悩みが無駄だったわけではない。むしろ、クアラルンプールに向き合ったからこそ見えたものあるし、チエンマイも素通りせずじっくり見ることができた。だが、いつかは離れる必要がある。なぜなら、私はおそらく、「点の旅」より、「線の旅」を志向しているからである。

今、金銭的不安を前にして焦りと同時に、足を取られる感覚がある。だが、そのどちらもまた、闇への落とし穴だと、感覚している。

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向かい風

正直なところ、ありがたいことに、金銭的な不安をそこまであらあらと感じたことがないので、今回の事態は割と人生最大の壁である。だが、それをうまく肯定的に捉えたい。

私が語る「生命の弾み(l'élan de vie)」の本質は、結局のところ、創造の要請にある。だが、それ自体が創造することは絶対的にできない。なぜなら、それは物質とかち合うからだ。物質とはつまり、生命の弾みと逆方向の動きである。だが、生命の弾みは、この、確定性そのものである物質を征服する。そして、そこに可能な限り最大限の不確定性と自由を持ち込もうとするのだ。

哲学者アンリ・ベルクソンは、生命の根源を創造の働きに見た。ありとあらゆる生き物は、その創造の働きの産物なのだ。だが、それは全てが思い通りうまくいくということではない。物質は物理法則に従い、エネルギーは発散し、エントロピーは増大する。死はそこに待ち構えている。だが、それに抗うことで、生命体は形作られてゆく。その様はまるで、土という物質と、形を与えようとする手の間に生まれる陶器のようである。

旅を通じて、心を立て直そうとしてきて、今は物質面の抵抗が始まっている。きっと辛い日々、辛い冒険になると想像しているけれど、そこから何かを生み出していくこと、あくまで創造を試みること、決して「下降の法則」にのみこまれないことを心がけたい。

 

たんたんと、前進。

こうしたことから、今年の抱負が心にきまってきた。

「たんたんと、前進」

心乱され、焦らぬよう、淡々と生きる。生活を整えて、リズミカルに生きる。そして、それを前提として、前に進むことを止めないようにしたい。旅で得た自由さを胸に留めておきたい。社会や他者の眼に規定されず、自分の道を一心に、心穏やかに進みたい。

ふと、仏教の言葉を思い出す。

学識豊かで真理をわきまえ、高邁(こうまい)、明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。

「冒険」という名の船出を遂げた昨年。今年は犀の角のように、たんたんと前に、道を歩もうと思う。

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