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旅、映画、食べ物、哲学?

自分探しの旅

インドに自分なんていないんだから、自分探しの旅は無意味だという意見がある。確かにそうかもしれない。なにせ、自分というものは常にそばにあるからだ。インドに行って、アフリカに行って、世界を一周して、シベリア鉄道に乗って、アメリカ横断して、見つかるとも思えない。というか、そういう意味では鏡を見れば済むわけである。

だが、本当に本当に、自分探しの旅が無意味なのかと言われれば違うと思う。そもそも、インドに自分はいないんだから、と片付けられるのは、「自分」というものについての考え方が土台狭すぎるように思う。狭いというのは「了見が狭いな」というように、上から目線で否定しているのではない。端的に言って、限定しすぎなのではないかと思うだけだ。

 

自分というものは、案外じわっと広い。私たちは日常生活の中では、日常生活の自分になっている。それは人の目線によって規定されていることもあれば、自分で決めていることもある。簡単に言って仕舞えば、それは「キャラ」のようなもので、それから逸脱した行動をとれば、「らしくないぞ」と言われるようなものだ。日常生活の中でも、コミュニティごとに多かれ少なかれそれを使い分けている人は少なくないだろう。

こういうキャラのようなものは、安心できる。自分がどんな人なのか、なんとなくわかっているきになることで、私たちは安心を受け取っている。人も安心する。だからそこには安心のネットワークがある。とはいえ、私たちは毎日毎日ずっと同じキャラクターなのかというと、それは違うのである。あるとき、あるキャラは窮屈になるし、キャラがあるおかげでしたいことができないことだってある。そうこうするうちに、何が何だか分からなくなったまま、「社会的に正しい人」であり続けようと努力し、疲れ果ててしまうことだってある。

私は常に私だが、その規定に意味を見出そうとした瞬間、水道管の破裂を直すような作業を強いられるのである。一つの穴を塞いでみたら、別の穴があき、それを塞いだらまた別から水か吹き出す。残るのは疲労感だけだ。なぜなら水は自由に広がっていっているだけなのに、水道管の形ばかり気にしているからだ。だが水道管がないと水は思った方向に流れてはくれないのだから、しかたがない。

 

なぜ人は自分探しをしたがるのか。それは、日常的に築き上げ、保全に努めてきた「自分」という名の水道管が破裂しかかっているからだろう。今の仕事、今の生活、今の生き方に或る日突然、嫌気がさす。いやでなかったとしても、特になんの文句がなかったとしても、一定の時間距離感を置きたくなることもある。押し寄せてくるタスクと義務感に、「頼む、ちょっと待ってくれ」と言いたくなることもある。それは自分の時間と要求される時間のズレがあり、そして、要求され、今までは飲んでいた自分の形がガタピシ言っているサインかもしれない。

人生観が変わる。自分が見つかる。

その言葉に魅力があるのは、今の人生観はがたがたで、自分は見失われているからだ。そして何より、そうしたものは生活に密着しており、日々の生活の中で、私たちはそれに縛られているのである。なぜ旅かと言われれば、日常生活が私たちをがんじがらめにしていて、そこから一度クィットしないと、見つめる時間すら持てないからだろう。普段は見えないものがある。そして、「普段」を続けている限り、見ないようにし続けてしまう、それでもどうしても見たいものがある。

そういう意味では、どんな旅だっていい。ただ、今までの水道管を取っぱらいやすい経験はある。長い方が一瞬見た光を探し求めることができるし、退路を断つこともできる。言葉が通じない方が、いつもの言葉遣いを捨てて、心を開くこともできる。ただ、慌しすぎると、日々旅を処理することにまみれ、見たいものが見えなくなってしまうこともあるようで、私なんかは、よくそういう状態に堕ちこんでしまう。

 

旅という場は、ただ場所を変えるという意味だけを持っているのではないし、自分を探すというのも、結局のところ、物体を探すのとは違う。だからそもそも、「インドに自分なんていないんだから、自分探しの旅は無意味だ」というのは根本的に間違っているのである。場所を変え、漂白することは、自分のコミュニティから抜け出すことである。私たちは予想以上にコミュニティに規定され、コミュニティばかり見ている。抜け出さねば見えない視界がある。そして、その境地こそ、本来は自分探しで求めているものと言える。

「本当の自分」というと胡散臭さしかないが、旅の中では、少なくとも、私たちは自分の動きに身を委ねることができる。そう、そこでは水道管は必要ない。川の流れに従い、空と風と街を見、聞き、感じればいい。そのとき、何かが見えるのかもしれない。