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旅、映画、食べ物、哲学?

My Fair Lady

満を持して、観た。ついに、観た。

前にも書いたが、「ヘイル・シーザー!」を見た日は、本当は「マイフェアレディ」を見る予定だった。しかし、恐るべしオードリー・ヘップバーン。完売していて見ること能わず、だった。

それを今日、ついに見たということだ。新宿の仇を立川で、ってなわけである。

メインの登場人物は三人。まず、オードリー・ヘップバーン演じる花売り娘のイライザ・ドゥーリトル(ほとんど何もしない、って意味か?)。次にレックス・ハリソン演じる偏屈な言語学(音声学)の教授ヘンリー・ヒギンズ。それから、ウィルフリッド・ハイド=ホワイト演じる、ヒギンズの友人で同じく言語学者のヒュー・ピカリング大佐だ。そして、彼らとは別に、イライザの父アルフレッドの話も途中で何度か挟まっていく。

英国は方言のオンパレードの国だ。ロンドンの下町ではコックニー訛りが、アイルランドではアイルランド訛り、スコットランドではスコットランド訛り、北部イングランドでは北部訛り、上流階級はいわゆるクイーンズイングリッシュを喋る。出身大学でも差が出たりする。もっと広い目で見れば、アメリカではアメリカ英語、カナダではカナダ英語、アイルランドアイルランド英語、オーストラリアはオーストライリア英語、ニュージーランドにもニュージランド英語、インドでは「ヒングリッシュ」、シンガポールでは「シングリッシュ」である。地域でバラバラだし、そして、階級によっても違う。

この映画の背景にはそれがある。イライザはロンドンの下層階級の女性で、コックニーと言われる訛りがきつい。この訛りは一時期、ISの戦闘員ジハーディージョンが喋っていて注目を浴びたことがあったが、上流階級の「エイ」となるものが、「アイ」となる(これはオーストラリアでも同じだ。「グッダイ! マイト!(Good day, mate!)」)、Hが抜ける(作中でも「ヘンリー・ヒギンズ」は「エンリー・イギンズ」となる)、語末のtが詰まったような音になる(劇中の「A little bit of luck 」という歌は、「リウビッオロック」と聞こえる)、thがvやfになる(劇中には取り上げられないが、よく聞いているとわかる)など、上流階級式の英語とは全く違う音が出る。音の高さも、低い。

音声学の権威で、英国の方言のほとんどに通じているヒギンズ教授は、階級格差が生まれるのは下層階級の発音が悪いからだと思っている(ミュージカルなのでここで歌が始まり、発音について教授が語る。途中で「アラビア人はアラビア語を習う」とあるが、実際のアラビア語は文語と交互がはっきり分かれていて、エジプト人はエジプト訛り、モロッコ人はマグリブ訛りで話す。その状況は英国のそれとほとんど変わらない……などということを気にしながら見ちゃいけない)。極度の女性嫌いの彼は、コックニー訛りで発音するイライザを散々罵倒し、「もしわたしが訓練すれば、お前は半年で社交界デビューだ」と大口を叩く。

それを本気にしたイライザはヒギンズ宅へと向かい、「あたいをレディにしてくれ」とレッスンを頼む。何度も言うが、ヒギンズは過度の女性嫌い。「うちにおいてやってもいいが、ゴミ箱の中で暮らせ」と悪態をつく。しかし、実はこのレッスンには乗り気である。実験素材ができたからだ。それに拍車をかけるように、大佐が「このひどい訛りの女性を上流階級にかけるのは無理だ。賭けよう」と、イライザのレッスン代もろもろ全部をベットすることを提案。隠して奇妙な同居生活が始まる。

指導は初めは上手くいかない。「スペインの雨は主に平野に降る(The rain in Spain stays mainly in the plein)」を発音させれば、「ヴァ・ライン・イン・スパイン・スタイズ・マインリ・イン・ヴァ・プライン!」、 「ハートフォードとハーフォードとハンプシャーではハリケーンは起こらない(In Hartford, Hereford, and Hampshire, hurricanes hardly happen)」は、「イン・アートフォー、エァーフォー、アンド・アンプシャー、アリカインズ・アードゥリ・アプン」。無理もない。言語学的には、「音素」というものがあって、おそらくコックニー訛りの人には「アイ」と「エイ」、「h」とそれが抜けている音は同じように聞こえるのである。それは日本人にとって、「r」と「l」、「s」と「th」あるいは「z」と「th」、「b」と「v」が同じように聞こえるのと同じだ。なかなかこの区別には時間がかかる。だからイライザも「言ってるじゃないの!」と怒る。そしてヒギンズも「ちゃんと発音しろ!」と怒る。

それがある時、突然言えるようになり、話は展開していく。初めは憎み合っていたはずのヒギンズとイライザの間に、徐々に愛情のようなものが生まれてゆく……。アスコット競馬場や大使館の舞踏会で、レディとして通用するか実験をしてゆき、最後にはついに、イライザはハンガリーの王女なのではないかと誤解されるに至る。実験は成功。だが二人とも素直ではないので二人は喧嘩をし……。

まあ、この辺で止めておこう。

面白いのは、これが発音の矯正の話なのだが、途中で出てくるコックニー訛りが温かく響くことだ。確かに、イライザがついに発音を矯正した時の発音は美しい。そして初めのダミ声で喋るイライザはなかなか迫力がある(いい意味ではない)。だが、途中のイライザのお父さんの歌などは、ロクデモナイ歌詞なのに、なんだかいいな、と思ってしまう。ダミ声で、みんなで酒を飲みながら歌うような歌。それは生きた音楽だ。そういうものの方がなんとなく楽しい気分になる。

きっとこれは、わたしの個人的な趣味ではなく、映画の隠されたメッセージでもあるのだろう。イライザが教授の家から家出をし、元いた市場に戻るシーンで、誰も自分のことを気づいてくれない寂しさを描く場面がある。そこでお父さんと再会するが、お父さんも教授の計らいで「英国一の独創的道徳家」として中流階級の仲間入りをしてしまって、なんだか今まで通りに行かない。そして、最後のシーンで教授がイライザを思い出そうと、昔のレッスン時のテープを聴くシーンで流れるのは、「あたいはレッスン代に1シリングしかださないよ、それ以上ってんなら無理だい!」という訛りのきつい音声。やはりその人を出すのは訛りなのかもしれない。

現代で、女王陛下を差し引いて、かなりきれいな英語を喋る人といえば、デヴィッド・キャメロン首相だろう。彼の英語は本当に美しい。そういう人がいる一方で、今の英国では方言キャンペーンがあるらしい。例えば、英国の長寿SF番組「ドクター・フー」の主人公ドクターを現在演じている俳優(ピーター・カパルディ)はスコットランド訛りで演じている(これが、英語で動画を見る日本人的にはきついものがある)。その先先代はエスチュアリという中間的な英語でしゃべっていた(俳優自身はスコティッシュ)し、そのさらに一代前のドクターは北部イングランド訛りでしゃべった。007で有名なショーン・コネリーなどはずいぶん昔からスコットランド訛りで通していた。BBCでも地方局の放送は方言でやっているらしい。

日本でも、「方言恥ずかしか」という見方が存在する一方、「方言スタンプ」なるものも大活躍している。東京の人は方言に憧れるみたいだ。といっても、東京にだって方言はあるんだから、そいつを忘れちゃあいけねェよ、と思うが。

方言への揺り戻し、のようなものは確かにある。

それはきっと、それが市井の言葉だからだろう。言葉は人々の中で生まれ、生きている。だからそれを離れた言語はもはや言語ではない。きれいな英語がきれいに聞こえるのは、上流階級の間に生きているからであり、それを無理に取り込もうとするとぎこちなくなる。流暢に話すことができるようになるには、心の中も上流階級にならないといけない。だから普通の人にとって、家庭的なものは、訛りの中にある。逆に方言を話せるようにしたい、というのも変な話で、そうするにはその地方に長く生きないといけない。でもきっと本当に琴線に触れるのは、自分の家庭の言葉である。何を聞いて育つのか、それで変わってくる。

言語はやはり生きているのかもしれない。

そんなことを考えさせられた。

もちろん、名戯曲家バーナード・ショウの原作なだけあって、作品の出来栄えも素晴らしかった。三時間近くあるが、それを感じさせない。笑って、時にハラハラして、そしてまた笑える映画だ。歌はオードリー・ヘップバーンではなく、吹き替えのようだが、やはり彼女の魅力もふんだんに出ている。そして、ヒギンズ教授のキャラクター、あの偏屈さ、あの素直じゃなさが、なかなかリアルでいい。特に最後に「独り身がいい!」といいつつ、イライザを忘れられないのに、素直じゃなさは貫き通すのがいい。そしてそしてフレデリック・ロウの劇中音楽も素晴らしい。特に、イライザのお父さんのうたがわたしは好きである。

なかなか気に入った。

まだ来週も立川や府中、日本橋やさいたまではやっているので、是非見に行っていただければと思う。

あ、あとそれと、あまり紹介できなかった有名な「I could have danced all night」という歌もなかなかいい。

それでは、映画の長さに比例して、文章も長くなってしまったので、この辺で。