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旅、映画、食べ物、哲学?

映える写真、臭わない記憶

時々、Facebookなどを見ると、誰かの旅行先の写真が載っていることがある。稀に、そうした写真の一部は、私も以前行ったことのある土地のもので、そうすると、ちょっと見てみようかなという気持ちになる。だが大抵の場合、言いようもない違和感が待ち構えていることになる。その違和感とは、写真の向こうの風景が、明らかに知っているものと異なる、というようなものである。この違和感は別に「写真の撮り方が悪いのだ」というようなものではない。つまり、批判云々の話ではない。ただ、何かが違う、そう感じてしまうのである。

どうして、写真の向こうの風景と、私の知る風景はこうも違うのか。一つには、行くスポットの問題がある。端的に、写真を撮った人は私の知らない場所に行っているのだ。台湾で言えば、私は台風等の影響により、有名な九份に行っていない。だから、私は九份の夜景や、あるいは、お願い事を書いた気球を飛ばす写真を撮ることは原理的に不可能なわけだ。

さらに言えば、カメラを向ける対象の問題もある。私のカメラロールに残る写真を言えば、汚い定食屋などだが、多くの場合それは被写体として認識されていない。やはり多くの人が撮りたいのは綺麗なビーチだったり、色とりどりの美しいスイーツだったりだ。路上や食堂を撮って何の意味がある、というわけである。これはある意味で、美的趣味の問題かもしれない。

だが、私がああした写真を見る際のちょっとした違和感のようなものは、それだけではないように思う。もっとこう、写真に写り込んでいるはずの人がいないレベルのものなのだ。

 

おそらく、この違和感の正体は臭いである。インスタ映えを狙う写真には、そこにあるべき臭いがしないのである。これが顕著になるのは、東南アジア系の写真だ。例えば、ヴェトナムにはダナンという新興のリゾート地があるが、あそこのビーチの写真が「映える」加工を施された状態でアップされているとする。おそらく空は水色で、海も同じように明るい色。ビーチの砂も美しいのだろう。こうした写真は非常に美しい。ところが、どうしてもダナンではないのである。

なぜなら、ダナンは見た目だけではないからだ。ダナンがダナンであってワイキキでも沖縄でもない所以は、臭いや空気感、そして音であろう。リゾートらしい風景の裏には、ヌクマムと呼ばれる魚醤の臭い、肉を焼いた臭いがする。風はカラッとしているとは言い難いが、重すぎない湿気を伴っている。遠くの方ではププーーーッとけたたましいバイクの音が鳴り響く。声も聞こえてくる。途切れ途切れに旋律をかなでる、14の母音と6の声調をもつ言葉、言葉、言葉。そうそれは紛れもなくヴェトナムであって、ヴェトナムのエネルギーがそこらじゅうにうねっている。

ところが、映えるダナンにはそれがない。ダナンのみならず、フォーの写真にしても、チェーの写真にしても、完全なる捨象が行われている。台湾もそうだ。台湾の写真として上がっている写真のほとんどには臭いが染み付いていない。実際に行けばわかるが、台北の街は、排気ガスと、八角と、湿気と、かすかな臭豆腐等々から構成されている。しかしよく写真になっている綺麗な夜景は、ただの綺麗な夜景であって、生活臭はしないように思うのである。もっといえば、パリなどもそうで、やけに暖かそうな、おしゃれな街パリの写真は、パリではない。一部ではあるかもしれないが、パリの臭い、香水の混ざり合い、時々セロリなどの野菜も混じり、そして雨の日には泥の臭い混ざり込む、あのパリの臭いはそこからは捨象されている。フランス語の本来は素朴な音、台湾人の柔らかい台湾華語、イギリス人の弾丸のような英語、ドイツ人のじゃがいも味のドイツ語……いったいどこへ消えたのかと思うほど、綺麗に切り取られている。

もちろん写真は視覚芸術である。とはいえ、視覚芸術であっても臭いや音を蘇らせる力を持つものはある。コローの絵は泥臭いし、印象派は暑い。写真の中にも、雑踏の声すら蘇らせてくれるような写真はある。だから出来ない相談ではないのだ。強いて言えば、インスタ映えというのはきっと別のことをしようとしているように思う。つまり、私が以上のようにつらつらと述べてきたことは、インスタ映えにとってはゼロなのかもしれない。

 

というのも、だ。私はずっと「臭い」と言ってきた。「香り」でもなければ、「匂い」ですらない。「臭い」だ。Frangranceでもperfumeでもaromaでもなく、smellだ。つまるところ、こいつはちょっと汚いのである。食べ物の臭いはくさいことがあるし、排気ガスは体に悪い。雑踏の声はうるさいし、蒸し暑いのは勘弁だ。一つ一つが溶け合ってその街やその経験の印象となるが、不快な要素でもあるもの。それが「臭い」である。

インスタ映え写真には消臭効果がある。画像に加工を施すことで、その時の知覚そのものすら変える。赤はピンクに、青は水色に、食べ物の臭いは甘い花の香りに変わってしまう。そう、よくよく考えてみれば、臭いは捨象されている代わりに、ああいう写真には香りが付いている、という印象を感じることは多々ある。納豆はゴミ箱に捨て、代わりに甘い香りのジェリービーンズを添えるというわけだ。すると、思い出は変容し、「盛られる」ことになる。どんなに泥臭い場所でも、どんなにけたたましくても、画面の中にはお花畑が溢れ出る。いろいろな香水と野菜やら犬のフンやらの臭いが入り乱れたパリの臭いは、単一の、気分も晴れやかになる香水の匂いに転換する。

いってみれば、インスタ映えを狙うカメラは、スカウトマンの視線なのではないか。田舎くさい少女が、化粧を施せばスーパーモデルになるかもしれない。そんな少女を見つけたら、スカウトをして、化粧を一から施し、香水をふりかけ、方言は封印してもらう。出来上がるのは都会のスーパーモデル。写真も同じように、加工を施され、音や臭いは抑えられる。映画「マイフェアレディ」のようだ。ロンドンの貧民街の少女は、すっかり上流階級のお嬢様として社交界デヴューを果たす。

だが、ヒギンズ教授が訛りのきつい昔のイライザの声を録音したレコードを聴き、微笑むように、私は寂しさすら感じてしまうことがある。あの臭いは、あの臭みはどこへ行ったのか、と。スカウトされ、化粧を施されたが最後、経験は視覚だけを切り取られ、さらに生の、臭みを伴った色は「映え写真」の範型ないしモデルのようなものの中に整えられてしまうのだから。

 

とはいえ、加工に加工を重ねるタイプの写真が、無視できないほどの多大な努力の基に成り立っているのは確かだ。それは化粧やファッションと同じである。それは一個の作品である。庭師が木を美しい幾何学的な庭の一部にするのと同じように、目に見えるものに加工しがいを感じ、一つの作品に作り直している。その作品はどこか、ある範型を手本にしたりしているようでもあるわけだが、なんとか、その範型の範囲内での最高のものを目指して作り上げているように思う。

そういう意味で、しばしば「インスタ映え写真」と対置されているらしい「エモい写真」もまた、結局は同じ範疇のものなのではないだろうか。あのような写真にも、多大な努力が加わっている。加工する場合を考えてみれば、それはあきらかにやっている努力としては同じである。エモくなりそうな風景を発見し、エモいフィルターにかける。大抵は緑がかっていたりするようなあれである。光を調整し、エモさを演出する。ここでも実物の臭いは捨象される。あるいは誇張される。エモかろうが、エモくなかろうが、すべてはエモくなる。東京の夜景は、雨の日には確かにエモい。とはいっても、エモい写真の夜景には足りないものがある。けたたましい「バニラ」宣伝車の音や雑踏から聞こえてくる声だ。「バニラ」の放つ光、雑踏の見た目はもちろん、そこにあるだろう。それがエモいと言えるなら、なんでも入るだろう。むしろ雑多な風景は大歓迎だろう。

だがエモい光の世界とリアルな世界には、どこか断絶がある。やはりエモい世界からは汚らしいものは捨象されている。構図もそうで、画面に入れたくないものは、そこから捨象される。汚い部屋は綺麗にされ、エモい街はエモくない異質なものを排除する。「バニラ」の広告が光に滲んでいるのはエモいが、「♪バ〜ニラ、バニラ、バ〜ニラ、求人」の音声はエモくない。端的にうるさい。あるいは端的に笑える。だから、排除が起こる。ノスタルジーの世界にはそんなものはいらないのだ。一見、「日常を切り取った」画面は、作られた構図の下にある。作られた質感の下にある。そういう点で、エモい写真とインスタ映え写真は決して別のものではなく、同列にあるのである。ただ目指すものが違う、というか、受け入れる範型が違うのである。

 

何度でも言うが、別に批判したいのではない。要するに、インスタ映え写真もエモい写真も、本当に「日常を切り取った」わけでも、純然たる「旅の記録」でもなく、そうした経験の世界にある有望な素材を切り出してきて、化粧を施した作品だ、ということを再確認してみたくなっただけである。

経験は、まるっと全体的である。どんなものも入り込む。溶け込む。音も光も質感も、あらゆるものが経験になる。日常や旅もそういうものである。化粧を加えたものは、それそのものではありえなくなる。もちろん、印象を誇張によって表現する場合もある。だが、あくまでも私は、ということになるが、印象を誇張してしまっては、本当の印象を伝えることはできないように思う。というのも、色彩を華やかにするにせよ、ノスタルジックにするにせよ、それは結局、経験をある枠内に、ある世界観の中にしまい込んでしまうことになるからだ。閉じ込めてしまうといってもいい。

ただ、だからと言ってそれが悪いわけではない(何度も言う)。ただ、私とは物事の捉え方がきっと違うのだ。

私にとっては、少なくとも私にとっては、この世界と経験は化粧などなくても、それだけで心動かされるし、笑えるものも腹立たしいものもひっくるめて丸っと「エモい」。写真はそのような経験を思い出すためのトリガーにすぎないから、良いカメラを買おうとか、インスタをやろうとかは思わないのである(祖母と父は写真が好きなもんだから、私が毎回旅先でスマートフォンのブレブレの写真を撮ってくることに疑問を持っているが、私にとってはどうでも良いことだ)。逆にトリガーとしての役割がなくなるほど加工するのは、非常に私的な抵抗感を感じるのである。別に食べ物の写真が美味しそうに見えなくたって良い。そういうのは大抵、美味しそうに見えなかったのだ。でも匂いやら何やらで美味しさを感じていたのだ。そこの改ざんはしたくない。加工すれば伝わりやすいという意見があるかもしれないが、私は御免こうむりたい。それは「あれ」ではないからだ。

 

……などと格好つけて言ってみたものの、

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この写真は、ちょっとキメちゃったな、と思ったり。