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旅、映画、食べ物、哲学?

Εδώ έρχεται ο ήλιος〜地中海航路 その2〜

「乗客の皆様。まもなく、我々はイグニメッツァ港に到着いたします。乗客の皆様はお忘れ物のありませんよう、お降りください」

朝5時30分ごろ、やけに大きな音のアナウンスで私は目を覚ました。降りなければいけないのか? でもイグニメッツァといえば、コルフ島の近く、ギリシアの北西、アルバニア国境にある町である。私たちが向かうのは、さらに南、バルカン半島の南の端っこ、ペロポネソス半島にあるパトラだ。係員がやってきたが、面倒なので、狸寝入りをすることにした。

乗務員が去った後、乗務員とやりとりしていた友人に

「平気そう?」と聞いてみた。こういうところが、我ながらずるい。

「大丈夫」と彼は言うので、一安心だ。

しかし、目も覚めてしまった。実を言うと、私たちは朝6時半には起きている約束をしていたから、このまま起きていることにした。パトラヘの予定到着時間は14時くらい。ではなぜ、わざわざ朝早くに起きるのか。それは、ご来光を見るためだった。この地中海のど真ん中で、なんと日本的なことをするのだろうか。まあしかし、これはこれで粋である。

 

みんなでデッキに上がると、外は薄暗く、イグニメッツァの町が見えた。港らしく、山を背にしたこの町に、フェリーからはどんどんトラックが降りてゆく。乗客もかなり降りていたから、案外、パトラまで行く人は少ないようだ。遠くを見ると、山の稜線に沿って、空が赤くなっている。もう、あの山の向こうでは、朝日が昇りつつあるみたいだ。

しばらくして、ブォーンという音とともに船が動き出した。黒い煙が、赤い空をバックに立ち上っていて、独特の雰囲気である。反対側に目をやると、紺色の空にうっすらと、コルフ島が見える。コルフ島は歴史上面白い役割を果たしてきた島だ。

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イグニメッツァ

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コルフ島の方はもう白んでいる


 古代においてはケルキュラと呼ばれ、都市国家が築かれた。このケルキラはペロポネソス半島コリントスと抗争し、これがきっかけとなって全ギリシアを巻き込み、衰退へと追いやったペロポネソス戦争が起こる。さらに、ローマ帝国による支配が及ぶと、「天下分け目の戦い」、アクティウムの海戦におけるオクタウィアヌスの艦隊の拠点となった。この戦いにおけるオクタウィアヌスの勝利は、共和制だったローマを帝政に変え、アレクサンドロス大王以来各地に置かれたギリシア人王朝の最後の生き残り、クレオパトラ女王の王国、プトレマイオス朝エジプトを滅亡させた。中世においてはアドリア海を拠点に地中海東部に覇権を握った「アドリア海の女王」ヴェネツィア共和国の拠点となり、コンスタンティノポリスの征服などで名を馳せた。

現代においてもこの島は重要だ。第二次世界大戦後、アルバニアは共産化、ソ連の味方となったが、地中海の覇権を奪われたくない英国と対立していた。英国はコルフ島とアルバニアの間の海峡(まさに私たちが停泊していたところだ)を軍艦で航行、アルバニア軍はこれに対して銃撃を加えた。これに怒った英国が再び軍艦を差し向けると、アルバニアは海峡に機雷をを配置、英国軍艦は被害を被った。英国はこの機雷を「航行の安全」を確保するために勝手に除去したが、アルバニアは、この海峡が自らの「領海」であるとして、勝手な行動は許されないと主張した。この、世に言う「コルフ海峡事件」は、歴史上初めて、国際司法裁判所でどちらに非があるのか判断された事件であるとともに、西側の英国、東側のアルバニアによる冷戦の一幕でもあった。

そんな、コルフ海峡である。人間の歴史を翻弄し、転換点に位置し続けたことなど構うことなく、太陽は変わらず昇っている。

 

船は徐々に陸地から遠ざかっていた。船の後ろを波が漂い、その動きとまるで連動するかのように、空も白みはじめた。ふと、枕草子の有名な一節を思い出す。

春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは

少し明かりて 紫だちたる雲の細くたなびきたる

正直、そこまで早起きしたことがなかったので、今まではよくわからなかった情景が、この地中海という日本から遠く離れた場所で、ほんの少しだけわかったような気がした。確かに「山ぎは」は白くなっている。雲はあまり見えない。

途中、もう一隻の船がイグニメッツァの方へと向かうのが見えた。まるで朝日に向かって進んでいるかのようだ。思わずシャッターを切ったが、遠すぎて、うまく写らない。うまく写らないことこそ、旅の醍醐味である。なぜなら、もはや再現できないからだ。もはやその場限りのものだからだ。掴もうとしてもこぼれ落ちてしまう何かに、立ち会うからこそ、旅は生であり続ける。

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写真では伝わらないだろう

船はイグニメッツァを離れ、そのままコルフ海峡を南下した。東側には山がそびえ立っている。バルカン半島だ。陸地がゴツゴツしているのは、なんとなく日本に似ている。行ったこともないくせに、瀬戸内海に似ているような気がした。だが瀬戸内海といえば、オリーブやら何やらを生産していたはずだ。あながち間違いではないのかもしれない。空は相変わらず、薄暗いが、先ほどよりも白んでいる。コルフ島はくすんでいる。朝はもやっとして、もやっとしているが故に、朝である。

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6時30分にもなると、空は本格的に青くなってきた。しかし、朝日はまだ見えない。山に隠れているのだ。わたしは、山の向こうの朝日が出てくる姿を見ようと、その方向をしばらく見つめることにした。徐々に、徐々に、山と山の間が明るくなる。そんな光景を見ていると、「時差」という概念は当然なのだなと悟る。「日の昇る国」日本を、太陽は明かりで照らす。そして太陽はゆっくりとユーラシア大陸を西進する。そして今、太陽はあの山の向こうだ。そう思うと、ギリシアではまだ朝なのに、日本ではもう午後、という状況はごく最もなことである。だが、なんとなく面白い。

太陽がこちらに向かってきて、そして昼間という光の世界をもたらすとすれば、太陽を信仰する気持ちもよくわかる。天照大神、スールヤ、ミトラ、バアル、ラー、そしてアポローン。彼らは我々の大地に光をもたらす。ギリシア人に従うなら、太陽を乗せた馬車が、天の世界をだーっとかけながら、世界を明るく照らすのである。それはかなり素朴な理解なのかもしれないが、こうやって船の上から山の間を昇る太陽を見つめていれば、よくわかることだ。太陽は私たちのいるここまで東のかなたから来てくれる……

 

山の隙間から、オレンジ色の光線が差し込んできた。間もなく、より強い光を持った球体が山の隙間から、ゆっくりゆっくりと自らの姿をあらわにしてゆく。海には光の一本道が通り、空の色は一変する。朝が来たのだ。太陽が、ここまで来たのである。朝日がそこに現れていた。

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Here comes the sun. ギリシア語にすれば、Εδώ έρχεται ο ήλιος

しばらくは、海を見ていた。太陽はオレンジ色から、無色に変わって行き、空は独特の紫がかったブルーから、よく見知った空の色になった。風は相変わらず強いが、格段に暖かくなっていた。先ほどまで見えていた山が色合いも含めてはっきりと目に入ってくる。青と大地の緑が織りなす世界がそこにはあった。

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空が真っ青になってから、私たちは部屋に戻った。船室は眠気が充満しており、なんとなくみんな寝てしまった。だがわたしは太陽の光のせいだろうか、もう眠くはなかった。朝食でも食べることにした。

 

ビュッフェには幾つか料理が並んでいたが、わたしには実はほぼユーロがなかった。両替はギリシアでするつもりだったのだ。この決断がのちにわたしを苦しめることになるが、それはまだ先のお話。とにかく、船で使うわけには行かず、わたしはとりあえず、自分の席に置いてきた、バーリ産のちょっと硬くなったパン四つと、船内で買ったどでかい水のペットボトル、そして古代ギリシアの歴史の本だけ持ってラウンジへ向かった。

パンは固いがきっとジャムなどがあるはず。そう踏んでいたが、実はジャムは有料で、昨日の夜はフリーで置かれていたオリーブオイルもない。これは困った。だが、イエス・キリストは最後の晩餐でパンと水だけを食したという。全然いける。などと、強がってみはしたが、なんとなくわびしい。だが、外は青い海、中はギリシアのテレビがついて、雰囲気は抜群。あとは本を開けば、ペリクレス時代、全盛期のアテネが繰り広げられている。

しばらく、海を眺めたり、パンを食べたり、水を飲んだり、本を読んだりしていたら、友人たちがやってきた。彼女たちはきちんとビュッフェで食べ物を買って、わたしの近くに座った。くれる、というのでチーズを拝借し、パンと一緒に食べた。やはりパンは何かと一緒に食べたほうがうまい、そんなことを発見できた。相変わらず海は美しく波打っている。食べ終わったら、デッキに出よう。

 

一人でデッキに出る。一人でデッキに出る時間も必要だからだ。いつのまにか、船はもう海だらけの場所にいた。太陽は昇り、日差しが強い。風があって寒いが、多分陸地は暑いはずだ。右舷のテラスから波を眺めていたら、映画「ボヘミアンラプソディー」でフレディ役をやったラミ・マレックに似た雰囲気の青年に声をかけられた。体にはアクセサリーがいっぱい付いていて、日本で出会ったらちょっと怖い雰囲気だが、ガタイがいいわけではない。

「写真を撮ってくれませんか?」と青年は言う。

「いいですよ」とわたしは彼のスマートフォンを受け取り、海をバックに立つ彼の写真を2枚ほど撮った。

「ありがとう」と青年は言って、写真を確認した。わたしは右舷に戻り、しばらく海を眺めていた。青年はしばらくそこにいて、何やら話しかけけたそうな雰囲気があった。いや、嘘だ。わたしが少し話しかけたかったのだ。わたしは彼に、

「どちらからですか?」と尋ねた。

「メキシコです。君は?」と青年。そうか、どこの顔ともつかない顔だなと思っていたが、メキシコか。そう言われてみれば、そんな感じもする。

「僕は日本からです。アテネへ行くんですか?」

「うん。でも、アテネからルーマニアに行って、それからフィンランドまで行くつもりなんです」と青年。実は、私たちの旅にアテネから合流する友人が、その逆をやっている。そのことを告げると、青年は、「じゃあ真逆ですね」と笑いながら言った。

「どこへ行くんですか?」と青年が尋ねるので、

「僕はアテネに行ってから、ブルガリアを回って、イスタンブールに行こうと思ってます」とわたしは言った。

イスタンブールか。いいとこですよ」

「へえ、それは楽しみです」

私たちは無言で海を眺めた。

「ところで名前は?」と尋ねてみる。

「カルロです。あなたは?」スペイン語圏らしい名前だ。

「わたしはSと言います。よろしく」

私たちは再び無言で海を眺めた。

「今度日本に行く予定なんですよ。東京と大阪に」とカルロは言う。

「へえ、両方とも大きな街ですね。僕は東京から来たんですよ」とわたしは言った。そして付け加える。「いつか、メキシコに行ってみたいです」

カルロはにっこりと笑った。そして、再び無言になった。

「日本では〇〇が手に入らないって本当?」とカルロが入った。〇〇はまるまる聞き取れなかった。聞き返したがよくわからない。「前、友達が日本に行って、絶対に無理だったらしいんだ。本当?」

わたしはとりあえず頷いておいた。多分そうなんだろう。

「君は吸う(スモーク)のかい?」とカルロが言う。

「たまにね」友達がタバコを吸っているから、付き合いで一、二本吸うことがある。しかし唐突な質問だ。と思っていると、

「メキシコではドラックは出回ってるけど、日本は厳しいんだなあ」とカルロは感慨深そうに言った。待て待て、吸う(スモーク)ってドラッグのことか? それは吸わないぞ。ああ、なるほど、日本で手に入らないっていうのはドラッグのことか。そりゃそうだ。謎が解けた。わたしは、ちょっと笑いながら、

「日本は法律が厳しいし、やる人もあまりいないから、難しいと思うよ」と答えた。カルロはちょっと残念そうだった。

「じゃあ、戻ろうかな」とカルロはいった。

「じゃあね、良い旅を。グラシアス」とわたしが言うと、カルロは「はは」と笑って立ち去った。

以前であれば、多分、ドラッグの話などされたら、硬直していただろう。だが、最近の世界中での合法化の動きを見ているうちにどうでもよくなってしまった。自分でやりたいとは思わないが、そういう人もいるのだろう、くらいの認識である。ブラジルに留学した友人が、南米ではみんなやっているということを教えてくれたことも大きいが、それ以上に、少し前にした飲み会での会話もそう思う理由になっていた。

その飲み会は、ある授業のお疲れ会だったが、その授業は英語で行われたので、アメリカ人の学生も半数程いた。彼らと話した時に、「ドラックの禁止についてどう思う?」と聞かれたのだ。わたしは、「依存性が強いみたいだし、国が規制するのはもっともなのではないか」と答えたが、アメリカ人の大半は、「でもドラックをやる人は減らない」という。それは日本とアメリカの差でもある。だが、日本でも芸能人が捕まったりなど、話題には事欠かない。確かにそうだ。だが、是認していいことにもならないような気はする。そう思いつつも、やみくもにドラッグをやる人に「やばい人」のレッテルを張るのはよくないような気もしてきた。勝手に、「ドラッグ=やばい」という連想をしてきたが、それは狭い世界の話なのかもしれないのだ。

だが、カルチャーショックには違いなく、なんとなく、わたしはすこしハラハラドキドキした気分で、海を眺めていた。

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船は南下を続けた。予定より、どうやら早く着きそうだ。友人の一人は、父親が船を操縦するらしく、天候や風向きによって船の到着時間はかなり変わる、だから多分予定より早くつくことはあり得る、と言っていた。私たちはパトラについたらどうするか、どうやってアテネに行くのか、リサーチした。どうやらバスよりも電車を使う方が安いようだ。だが電車はパトラからアテネまで直通ではない。というか、本来は直通なのだが、前半区間であるパトラ〜キアト間がなんらかの事情で電車が出ておらず、連絡バスに乗らなければならないのだ。まあ厄介だが、背に腹は変えられまい。

それからは、ほとんどの時間をデッキで過ごした。島がたくさん見えた。しかもどの島も、ごつごつした白い肌にまばらな木が生えた姿をしている。今まで見たことのない光景である。ギリシアとは、こういう場所だったか。謎の感慨が沸いてくる。こういう島が乱立し、ゴツゴツした場所を、ギリシア人は船で動き回っていたのだ。こういうものを見て育てば、島々のどこかには一つ目の怪人がいたり、魔女がいたり……と考えもするだろう。こういう光景を見て生きて行けば、陸地は海の上に浮かんでいる、と考えもするだろう。これがギリシアなのだ。そう、これがギリシアなのだ。

ギリシアは山がちで、作物があまり取れなかった。そのため、彼らは放牧をするか、はたまたオリーヴとぶどうを作るかしかできず、食料を得ようと思えば、交易をするしかなかったという。そのため、彼らはエジプトやメソポタミアの文明と出会い、ギリシア独自の文明を育んだ。ギリシアが西欧文明の揺籃の地となったのは、決してギリシアが豊かだったからではなく、むしろ後進的かつ土地が貧しかったかららしい。そんな知識が、このそびえ立つ山々を見ると、そうなのかもしれないな、というリアリティをもって感じられる。

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Αυτή είναι η Ελλάδα!

なぜか私たちはギリシアを前にして、小学校時代・中学校時代の思い出の歌を歌ったりしていた。そうこうするうちに、パトラと思しき港町が見えてきた。