Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

無口な海

f:id:LeFlaneur:20210912222132j:plain

私の経験上、海が何か答えを出してくれたということはまずない。何か悩みを抱えて海までたどり着き、海を眺めるうちに、答えが出ることはほとんどない。

だけど、海は口数を減らしてくれる。それだけは確実なことだと思う。つまり、常日頃私たちはしゃべり過ぎていて、胸の内からくる声にも耳を貸さず、あれこれ言い訳ばかりしているが、海を前にすると、そう言った言葉が消えてゆく。

だから本当はこんなブログを書いていちゃいけないのである。だけど、それでも、私はこうして書いている。今日、海に行った話をするためだ。

 

今日はそれが曇っていた。そして私は海はおろか、どこかに出かけようと心に決めていたわけではなかった。だが、昨日は部屋から一歩も出なかったし、自分の自由に使える日は、多くの人と同じく、二日しかない。とりあえず外に出ようとそれなりの服を着て、髭を剃り、髪を整えておいた。

だが、どこに行こうか、と思う段になって、何も思い浮かばなかった。そういう時、(最近は「そういう時」ばかりやってくるのだが)私は今住んでいる場所から遠くはない吉祥寺か、少し時間はかかるが気に入っているお茶の水・神保町界隈か、あるいは上野にいくことが多い。ほとんどルーティーン化している。それではつまらない。そう思いながら時計の針は夕方へと突入してゆく。

ふと思い出したのは、乱数表のことだった。このブログにも書いたが、かつて私は行き先が決まらない散歩のとっかかりを作るために、乱数表を使ったことがあった。運を天にまかせる。幸い最近の駅には必ず番号がふられていて、路線だけ決めて、その路線に存在する駅の数を乱数生成サイトに打ち込めば、あとは神のご意志か、偶然か、とにかく勝手に行き先が決まる。

わかりやすいので山手線でやることが多いのだが、最初にこれを試した時は「鶯谷」、次にやった時は「上野」が出ていた。どうも似たり寄ったりである。でもあえて、今やってみたらどこが出るのだろう。私は乱数に導いてもらうことにした。

山手線の駅の数は30(たぶん、最初にやった時は、悪名高き「高輪ゲートウェイ」が存在していなかったから29だったのだろう)。乱数メーカーに30という数字を打ち込み、ボタンを押す。

f:id:LeFlaneur:20210912221232j:plain

神は「27」とおっしゃった。上野は「5」とかだったから、ひょっとすると今日はちょっと違うエリアかもしれない。駅の番号表と照らし合わせてみると、行き先は「田町」に定まった。

田町。多分行ったことのない町。路線図では浜松町と品川の間にあるから、イメージはつくけれど、田町自体はわからない。でもわからないままの方が面白い。私はあえて、山手線の車中で目を閉じた。車窓から何も見えないようにするためだ。

 

田町駅は大きくも、小さくもなかった。駅自体は小ぶりだが、改札を出ると大きく感じる。品川と同じで複合型施設があるらしい。その施設に入ってしまうと、大事なことを見失ってしまいそうなので、私は駅前の地図を見た。

田町はどうやら東京湾にかなり近いらしい。となると、選択肢はただ一つ。海が見たい。それと、浜松町の方へ歩いてゆけば、新橋を通って東京駅へ戻れる。今日は日中ダラダラしていたから、もう16時。あまりゆっくりはできないかもしれないから、どういうルートで戻るかもそれなりに頭に入れておいた。

 

駅前の通りは割と品川に似ている。人通りもそれなりにあり、人の生活を感じる。時折運河が走っていて、街に個性を添えている。まるで連なる島を一つにまとめているようだ。島によって、市街地、工場地とそれぞれの色も違う。そう思いながら歩くと、地区のかおりのようなものを感じられて楽しい。

歩きながらわかってきたことだが、ここはいわゆる「芝浦」というエリアのようだ。芝浦工業大学のキャンパスもあるし、海の方へゆけば、芝浦埠頭がある。不勉強でわからないが、落語の「芝浜」もこの辺なのかもしれない。落語の中で「朝靄」だった光景が、今日の曇天・うっすらとかかる霧とシンクロしている。大金でも落ちてないかな、なんて思いながら歩いたわけではないが、思えば、こうやって午後に内地にある家を出て、こんな海の目の前にまできているなんて、不思議な夢でも見ているかのようだ。

f:id:LeFlaneur:20210912222905j:plain

潮彩橋というらしい。欄干のカモメがちょっとシュールだ。

 

子供連れで賑わう「埠頭公園」を抜け、しばらく歩くと、倉庫が立ち並んでいる界隈に来る。上空をモノレールが走り、曇天と鉄の倉庫が硬い空気を作り出している。ガードレールには所々錆がついていて、道を歩く人はほとんどいない。雑草も伸び放題である。埠頭公園のあたりに、「レインボープロムナード」はこちら、という看板があって、その方向に歩いてきたのだが、まさかこの裏寂れた道がレインボープロムナードなのだろうか。少し首を傾げつつ、浜松方面へと進む。

そうすると、倉庫の奥に、たった一人でたつ小高いビルが見えてきた。なんだろうと思っていながら歩いていたら、倉庫のある区域と、ビルの敷地のちょうど間から、海が顔をのぞかせていた。海まで行く道は封鎖されており、柵の向こう側に船着場がみえる。どうやらこのビルは、客船ターミナルのようだった。昔イタリアからギリシアまで船に乗ったこと、その時船の出港時刻に遅刻しそうになって必死に走ったこと…色々なことが頭に浮かんできた。今私は、柵のこちら側で、海を眺めている。

f:id:LeFlaneur:20210912223806j:plain

f:id:LeFlaneur:20210912223834j:plain

ターミナルビルの前を通り過ぎると橋がかかっていた。その橋から港の様子が見えた。

新日の出橋、というその橋を渡り、私は次の「島」へと進んだ。どでかくて、閑散とした道を歩いていると、この地区にはもっと大きな客船ターミナルがあることを知った。私はそこへ行くことにした。

 

日の出の客船ターミナルは確かに大きかった。コンビニもあるし、おしゃれなレストランが何軒も連なっている。だが肝心のもの、そう、客がほとんどいなかった。昨今の様々な事情だろう。船の世界はかなり向かい風の中にあるのだと思う。しかし、ただ思いつきでこんなところにやってきたただの酔狂にとって、人のいない港というのは、案外悪くない。海の音、キィキィという桟橋の音が響いているのは、悪くない。

この天気もあるだろう。グレーの空が、海をグレーに染め上げ、靄のかかった空気が風景を優しく包む。人はほとんどいないし、いてもあまり喋らないから、海それ自体が内省的に見える。波もゆったりと、小刻みに、うちへうちへと思いを巡らしている。海を見つめる悩める人々の言葉と悲しみを吸い込みすぎたのかもしれない。

私はそんな海を眺めた。そういうと、センチメンタルぶっているみたいで嫌だが、海を前にしたら、言葉数は減ってゆき、センチメンタルも何もなくなる。思い出すことも何もなくなっている。ただ、それだけのことだ。内省的で、無口な海は、私の意識だけを飲み込んで、私はただたちすくすだけなのだ。

f:id:LeFlaneur:20210912225213j:plain

 

我に返って海沿いを歩くと、遊歩道が見えてきた。先程より人がいる。だが面白いことに、いや、当たり前かもしれないが、どの人も皆、黙って海を見つめていた。入ってくる船、出てゆく船、おりる客、乗り込む貨物。そんな海沿いの一連のことを、ただ黙って、皆見ている。表情は不思議と明るく、にこやかに見ている。ただ海だけが内省している。

なぜ皆こうも船と海に釘付けになっているのだろうか。思えば海は不思議と自由の象徴でもある。海にいざ落ちて仕舞えば、死を覚悟するほかない。それでも海に憧れる。船に憧れる。船酔いしようがしまいが、海はどこかで自由と繋がっている気がする。それは海を見ていると、結局、自分さえその気になれば、どこにだって行ける気がしてくるからかもしれない。いつもいつも、私たちは自分が決まった場所にしか行けないかのように行動しているが、そんなことはないのだ。「いや、でも現実は…」という私たちを叱りつける言葉を、海は黙らせてしまう。

今朝、悪夢を見た。宇宙に行く三日前の夢だった。最近、自分の現状に哀しみを覚えて、ここではないどこかへ行けるから、宇宙に行くことになっていた。だが三日前、突如恐怖に襲われる。閉ざされた空間で、十年間(そう、なぜか十年間だった)、私は宇宙にいないといけない。身の回りには何もない。ただただそこで歳をとってゆく。とてつもない恐怖だった。やはり行くのはやめよう。そう、誰かに、息も絶え絶え打ち明けている時、目が覚めた。

夢の中で見た宇宙の旅は自由というよりも、恐怖と閉塞だった。むしろ通常の生活の良くない部分を増幅させたようなものだった。海の旅も、実際には、同じかもしれない。すぐには降りられないし、死の恐怖もある。それでも、私たち海と遠いところに生きる人々は、船は寄港さえすれば、そこには見知らぬ世界があり、どこにだって行けるかもしれない、と夢想してしまう。今いる場所が宇宙や現実の海の只中、あるいはアルカトラズ島のように、閉塞感があるのなら、そこから出るには夢想の海へ出かけてゆくしかない。そこまで行けば、どこへだって行けるのだから。

今、どうしたって世の中は閉塞している。どこにだって行けた時代はどこかへ行ってしまった。海を眺める目には、自由への憧憬があり、海と船には自由の香りがある。少なくとも私は、海を眺め、無口になる時だけは、海とひとり、向かい合っている時だけは、自由に触れられた気がした。

f:id:LeFlaneur:20210912231616j:plain

海を眺める人たち。なぜか黙って眺めてしまう。

f:id:LeFlaneur:20210912231542j:plain

 

だから今日、乱数が田町を指したのは、きっと私にとって「自由」と「無口」が必要だったからなのだ。そう思うと、なんだか胸の奥が揺れる気がした。