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旅、映画、食べ物、哲学?

「旅情」

昨日のことだ。わたしは例によって映画館で、「旅情」をみた。
この映画は、キャサリン・ヘップバーン(有名な方のヘップバーンではない)演じるハドソン夫人(シャーロッキアンはちょっとこの名前を出されるとあの人を思い出してしまう。悲しい性である)がイタリアはヴェネチアに一人旅に出かけるところから始まる。彼女の目的は、「奇跡」「ときめき」「失ってしまったものを取り戻す」こと。
この映画は一つのラブロマンスとしての側面がある。イタリアを旅する外国人女性の常、彼女はとある妻子持ちのイタリア人に口説かれ、反発しつつも恋に落ちて行くからである。といっても、濃厚な恋ではなく、あえて主人公はそれが濃厚になる前にかの地を発つ決心をする。
だが一方で、旅人の映画、という側面がある。何かを期待して旅立つも、写真を撮るばかりで、外界には少し距離を取ってしまう。わたしは後半のロマンス部分よりも、前半の主人公の様子のリアルさが記憶に残っている。誰しも旅をするとこうなのかもしれないと思った。例えば、檀一雄などの作家は、海外に行くと、あたかも何の障害もないかのように、どんどん現地の店に入るが、いきなりそうなる人というのはまずいないだろう。むしろ彼女のように、何かのきっかけ(彼女にとってはそれはイタリア男との出会いだったが)で、カメラを捨て(前半ではいつでも持ち歩いていたカメラが、ある時を境に登場しなくなる。異論はたくさんあるだろうが、わたしは本当にいい旅というのは、カメラを捨てられる旅だと思っている。なぜなら本当にエキサイティングな経験をしているときは、私たちはカメラを握る暇がないからである)、過度の警戒心を捨て、そして求める奇跡というやつへと進んで行く。
わたしは旅が好きだが、やはりどうも警戒心などを拭うのが大変なタチでもある。初めての一人旅を函館で行ったときは、話しかけたそうな老夫婦が隣のテーブルにいたのを気づきながら、どこかガードしてしまった。だが話してみるといい人たちだった。あのガードを外せていたら、そう思ったものだ。タイやヴェトナムでも、店に入るのは一苦労だった。これは普通の人なのではないかと私は思う。
劇中に印象的な言葉があった。それはホテルの女主人が言っていたことだ。「奇跡を生むのは積極性よ」
そうなのかもしれない。ほとんどの人は旅の中で、やはり慣れない土地に警戒し、積極性を失う。だが、やはり奇跡を起こすのは積極性なのだ。一方で主人公は「待つことも大事なのかもしれない」という。これにも納得できる。積極性だけ見せるというのも何かが違う。的確なタイミングに気付けなければ意味がない。
大切なのは、もしかすると、何かに出会ったときに、それを受け入れられる力なのかもしれないと思った。わたしはそれがあまりできない。だからこれからはもっと受け入れる積極性を磨いていきたい。そうしないと、逃し続ける旅になってしまう。いや、もしかすると、逃し続ける人生にもなってしまいかねない。
そう、肝に銘じるわたしであった。

吉祥寺が教えてくれたこと

五月が好きだ。太陽が輝いている。新緑ももちろんいいが、わたしは太陽が好きだ。暑くなってきているのは確かだが、8月の暑さとは違って、気分のいい暑さである。

今日、わたしは吉祥寺へ向かった。吉祥寺は我が家からも近く、諸事情により無料でいけるため、最近はよく言っている。一人で夜に食事をするときは特に、値段も安いところが多いし、ヴァリエーションも豊富だから吉祥寺は使い勝手がよくて重宝している。だからわたしは夜の吉祥寺に慣れている。だから今日真昼の吉祥寺に行ったのは珍しい体験でもあった。

太陽が輝き、ジリジリと肌を焼く。これを嫌う人もいるが、わたしは嫌いではない。確かに生きている、そう思わせてくれるからだ。昼食は家族と食べ、そのあとは、吉祥寺の昼を満喫したかったため、家族から離れて一人、喧騒の中へと飛び込んだ。

吉祥寺は活気がある街だが、今日はゴールデンウィークのせいかその活気たるやバンコクのごときものがあった。人並みは商店街に流れ、わたしは歩くスピードを遅くして歩いた。なんとなく、そうしたかったからである。

ところで、わたしはよく、歩くスピードが速いと言われる。父もそうなので、我が家系の悲しき定めなのかもしれない。しかし今日、あえて歩幅を狭く、ゆっくりゆったりと歩くことで気づいたことがあった。それは、歩く速さが速いというのは、もしかすると、何かを怖がっているからなのかもしれないということだ。

危険な匂いのするところでは誰しもスピードを速めるものだ。それをいつもやるというのは極端に臆病なのかもしれない。現に、歩行スピードをゆっくりにするとなんとなく恐怖心を覚えた。

わたしは気づいた。わたしは臆病だったのだと。しかし本当にいい散歩をするには、もっと外の世界と関わらないといけない。だからゆっくりと歩いて、積極的に世界と関わらないといけないのではないか。

今日、わたしはゆっくりと歩きながら、ベーコンの串焼きのようなものを買って食べた。うまかった。速く歩いていたら、そんなことしなかっただろう。思えば今年の頭にバンコクに行った時も、少々速く歩きすぎたのかもしれない。だから、焼き鳥もあまり買えなかった。これからは怖がらず、ゆっくり歩いて行こう。それが楽しい旅の鍵になる。

そう、誓うのであった。

アンラッキーデイ

誰にだってツイてない日の一つや二つある。わたしにとってのそれはまさに今日だった、それだけのことだ。

月曜日は五百円で名画をみる。それが私の一週間のスタートだ。家を9時に出て、某シネコンへと向かう。今日もそうだった。まず異変を感じたのは入り口でのことだった。というのも、普段午前十時というと映画館はガランとしているからだ。しかし今日は違った。金曜日も、そして今日も元気に大学があったから忘れていたが、世間はゴールデンウィークとやらだったのだった。私は頭の中で思わず、スターウォーズのハンソロの口癖をつぶやいた。「I have a bad feelin' about this...(嫌な予感がするぜ)」

案の定、映画は完売していた。観ようとしていたのは「追憶」。「追憶の森」ではないのだし、そこまで有名と言うはずもないし、数十年前の映画だし、完売というのは想定外だった。腹いせに、10:45からの「アイアムアヒーロー」を見てやろうかと思ったが、さすがに授業に遅刻はできまいと、映画館を立ち去った。

かくして私は散歩を始めた。行くあてもない。昼にはまだ早い。とにかくウロウロしてやろうと決めた。するとなかなか良さそうなタイ屋台料理の店があるじゃないか。昼にはまだ早いので覚えておくだけ覚えておいて、その時は立ち去った。

歩いているうちに、その場所からしばらく歩いたところに日本で唯一のウイグル料理店があることを思い出した。そして私はそこへ向かおうと考え、しばらく歩いた。太陽は照っていないのになんだか暑い。しばらくして静かで、それでいて活気のあるいい街に辿り着いた。その町こそ、ウイグル料理の店があるところだった。店の場所は歩いても見つけられそうにないので、とりあえず、五月の頭にして早くも速度制限をかけられたポンコツケータイを取り出し、検索した。数分経って出てきた画面にはこう書いてあった。「定休日:月曜」。ここまで歩いてきて、定休日である。

さて困った。途方に暮れながらわたしは腕をまくった。暑かったのだ。その時思い出した、タイ料理屋があったじゃないか。きっと神は自分の足で見つけた店へ行けと導いているのだろう。わたしはすぐに例のタイ料理屋のそばへと舞い戻った。

店が見えてくるところに来たとき、わたしはまたもあのセリフを脳内で唱えた。「I have a bad feelin' about this...」

店の前に人だかりがある。店内を覗くと席が埋まっている。待っていても良かったのだが、あと一時間以内に食べ終わらねばならない時間帯になっていた。さてもはや笑うしかない。だが笑うと変質者と思われかねないので笑うのは避けた。わたしはやけくそになりながらその道を駅の方向に歩いた。

そんな時、わたしは台湾料理の店を見つけた。よさそうなところだったし、やけくそも幸いし、瞬時にその店に入った。

「イラッシャイマセ!」

店のお姉さんが笑顔で言った。わたしはテーブルにつき、見たことの無い「台南担仔麺」なるものを頼んだ。大衆的な感じの店内はとてもよかった。家族で経営しているような感じで、厨房のお兄さんとおばちゃん、テーブルでタバコを吸うおっさん、そして店番のお姉さんは何やら台湾語で会話をしている。勤務中に電話やメールまでする。嫌いな人もいるだろうが、わたしは好きなのだ。いつかいったヴェトナムやタイでよく見た光景を再び見ることができたような気がした。

さて、期待に胸を膨らませていると、ラーメンのようなものが来た。濃い色のスープに中華麺、上にはナッツだか、肉だか、何やらカリッとしたものが載っている。ひとくち麺を食べてみてわかった。神の真意はここにあり、と。うまいのだ。ナッツの香りが効いたそのスープと麺は最高に美味かった。ものすごい集中力でそれを平らげた後、デザートとして付いてきた、謎の寒天スイーツを食べたら、これもまた美味しい。さっぱりしていて、ライチだか、レモンだかの風味がある。割と濃い担仔麺の後に食べると非常にスッキリする。この店でこの料理を食べさせるために、神はきっとわたしに災難を与えたのだ。そうに違いない。

後で気づいた。熱いスープを飲んだので、口を火傷していた。

そしてその後の授業では、ペンのインクが途中で切れてしまった。

台南のラーメンはうまかったが、神は甘いだけではないようである。

それでは。

憧れのマロク

一週間ほど更新していなかった。別に理由なんて言うものはない。太陽がまぶしかったからだ。要するに、さぼっていたのである。

わたしは大学で今、アラビア語の授業を受けている。イスラームの思想などを知りたい、と言えば聞こえがいいが、実際の理由は中東にいつか行きたいからだ。今はかなわないかもしれないが、生きている間には絶対いきたいと思っている。それはきっと、わたしの好んで観ていた、インディ・ジョーンズや007やアガサ・クリスティ原作のドラマなどに登場する、あのバザールや街の混沌としてエキゾチックな雰囲気がわたしの脳裏に染み付いていて、言ってみたいと強く思わせているからだ。

昨日とある飲み会で、「今はどこに行きたいの」と聞かれた。わたしはしょっちゅう日本以外の国に行きたいと言っているし、休みに入るとすぐに高飛びをする。それをふまえての質問だ。で、次の標的は何処だ、というわけだ。わたしは答えた。「モロッコです」と。

アラビア語の授業で、モロッコだけは安全だと聞いた。確かに悪い噂を聞かないし、『地球の歩き方』もちゃんと去年更新されている。イラーンなんかも安全だと言う。そうならばいきたい。中東には行きたいし、モロッコは特にいきたかった。

なぜあのとき「モロッコ」と即答したのだろう。「エキサイティングな国は世界中にごまんとあるのに、わたしはモロッコを選んだ」のはなぜなのか。理由はたくさんあるが、一つはやはり「憧れ」の様なものだろう。私は古い映画を見るのが好きなのだが、やはりモロッコと言うと、「カサブランカ」だったり、「知りすぎていた男」だったりの舞台であり、あのエキゾチックさとノスタルジックさがなんとも心を揺さぶる。007でも、「リビングデイライツ」や、それとそうそう、最新作の「スペクター」にもモロッコが出てきた。やはりモロッコという土地には「憧れ」があるのだ。文学作品でも、檀一雄の『漂蕩の自由』や『美味放浪記』にはマラケシュが描かれていて、四んでいるだけで心躍らされる。カサブランカ、タンジール、マラケシュ……自分の目で見たい、そう思うのだ。

そんな「憧れのマロク」に行ける日は来るのか。こう言うしかないだろう。インシャアッラー(神の御意志ならば)。

それでは。

それは解放だったのか

携帯電話を忘れた。

昨日のことだ。

朝寝坊をしていたから、急いで朝食を食べ、急いで家を出た。授業が始まるのは九時一五分。急がねばならなかった。家を出てしばらくして、わたしは自分が携帯電話を忘れたことに気がついた。だが戻っている時間などなかったし、まあ平気だろうと思った。

わたしはあまり携帯電話が好きではない。それは見てしまうからだ。電車に揺られ、遠い風景を見れば良いものを、携帯電話があればそちらを見て、ありもしないのに連絡が来ていないか見たり、大して何も起きていないのにTwitterを見る。そんなことに意味がないではないか。だからむしろ、携帯電話を忘れたことは、神が用意した「現代文明からの解放」だととらえた。

まず問題が起きたのは大学についてからのことである。大学には大きな掲示板があって、そこに授業の場所が張り出されているはずだった。朝そこに言ってみると、「インターネットで確認のこと」という卑劣で冷淡な張り紙が貼られていた。もし、かなりの高齢で携帯電話をもっていない、インターネットもつながらない学生がいたらどうするのだろう。わたしは二十歳だが、とにかく携帯電話はなかった。今週は二回目の授業だ。正直あまり教室の場所を覚えていない。淡い記憶を辿って、九時十分頃にわたしは正しい教室を探り当てた。探偵になれると思った。

授業が終わると、携帯を忘れた人間にとっての地獄が始まる。次の授業の場所に行かねばならないのだ。なんとか記憶を辿ったが、それが正しい教室なのかがわからない。同じ授業をとっている知り合いに連絡しよう、と一瞬思ったが大事なことに思い当たる。連絡する方法がないのである。そういうわけで、わたしは同じ授業をとっているあいつが現れるまで、教室の前を不審者の如くうろうろした。案の定、彼は現れた。

その後の授業の場所はそいつの携帯電話に頼った。かくして、そのひはなんとかやり過ごしたと思った刹那、最後の授業で先生が言った。

「この授業のリアクションペーパーはネットで今日の23:50までに出してもらいます」

悪いな先生、わたしは今日は呑んで帰る予定があるんだ、そしてあいにくわたしは携帯電話を持ち合わせちゃあいない。そんな台詞が通用するはずはない。不意打ちだった。次の予定までの間の一時間、わたしは少し歩いたところのカフェで優雅にレイモンド・チャンドラーでも読むつもりだったが、予定を変更してパソコンルームへと向かった。リアクションペーパーは心なしか、攻撃的な文章になってしまった。すまねえな、先生。わたしのせいではない。先生のせいでもない。すべては現代文明のせいである。

その次の予定というのは、哲学カフェ、のようなものだった。哲学カフェはいろいろな人が集まって、ソフトな雰囲気の中で哲学についての対話をする場だ。わたしはなんとなく代表者のような顔をしていたので、告知などを行っていたわけだが、いかんせんそのひは携帯電話がない。さて、誰が来て、誰が来れないのか、わたしにはさっぱりわからなかった。だがその時にはもう、その状況に慣れていた。

そんなこんなで、一日が終わった。いろいろ不便な点もあったが、不思議と楽しくもあった。電車に乗って、Twitterを開こうとして、携帯電話がないことに気づく。そして本を読む。その時は不思議と心が晴れやかになった。

それは解放だったのかもしれない。

まあ実際のところを言えば、単純にわたしが携帯を忘れた、それだけの話だ。

トダー

わたしには持論がある。それは、旅先で「ありがとう」と「おいしい」だけ覚えていれば、旅の楽しさが二倍になるという持論だ。この春にわたしはヴェトナムに言ったのだが、その時も、はいる店はいる店で「ンゴン(うまい)!」と伝えると、決まって「ンゴン(うまいか)!」とうれしそうにみんな微笑むのだ。その微笑みを見ているだけで気持ちがよくなるし、小さな国際交流ができるのである。

今日、わたしは大学の裏にある屋台へ昼を食べに出かけた。その場所にはワゴンが何台か止まっていて、いろいろな料理を売っている。わたしの目を引いたのは、「本格ユダヤ&中東料理」だった。わたしはエスニック、特にトルコ料理が好きで、いろいろなところに食べに行くので、トルコからは位置的にも近いイスラエルの料理と来たら食べてみずにはいられない。

「ギュロス風」の鶏肉とファラフェルという豆団子揚げの弁当を頼んだ。ちなみに、ギュロスがなにかはわからない。50円引きだったので、650円。わたしは弁当を受け取る時に思い切って、なぜか覚えていたヘブライ語ユダヤ人の言葉)を言ってみた。

「トダー(ありがとう)」

屋台のお兄さんは一瞬耳を疑ったようだった。それはそうだ。突然片言のヘブライ語を客が話し始めたのだから。だが彼はすぐに、

「トダー、トダー(こちらこそありがとうございます!)」と返してくれた。

その弁当もうまかった。今度は「おいしい」を覚えて行ってみようと思う。

「恋に落ちて」

毎週月曜日の午前十時からは、わたしは映画を見るようにしている。それにはちょっとした理由がある。

去年、ドイツ語の授業をとっていたから、今回もと思って、中級のドイツ語の授業の抽選に申し込んだ。そうしたらどうだろう、定員割れしているのにもかかわらず、わたしは抽選に落ちてしまったのである。意地になって次の抽選でも入れてみたが、見事に通らない。どうやら、ドイツ語に嫌われているらしい。そういうわけで、わたしは最後になってもドイツ語の授業がとれなかった。その腹いせと言っては何だが、わたしは月曜のドイツ語の時間に映画を見ることにしたのだ。

TOHOシネマズなどの一部の映画館では、「午前十時の映画祭」と称して名画座のような企画をやっている。その枠の映画はなんと、学生なら五百円で見ることができる。映画を見るのに学生が千五百円という「重税」を支払わなければ行けないご時世だ。五百円は超がつくほど安い。だからわたしは毎週、この枠に通いつめることにしたわけだ。

そういうわけで、先週の「ティファニーで朝食を」に続き、今回見た映画が若かりし日のメリル・ストリープとこれまた若かりし日のロバート・デ・ニーロが主演する1984年の「恋に落ちて」というラヴストーリーである。というのが、簡単な説明だが、もう少し詳細に言うなら、少し違う。もちろんラヴストーリーに違いはないのだが、これは「不倫ストーリー」なのである。

わたしたちの世代にとってメリル・ストリープはおばちゃんである。マーガレット・サッチャーやマンマミーアのイメージがある。ロバート・デ・ニーロもおっさんである。だから、この映画を見ると、「若いな!」と感じる。率直に言って、映画の冒頭部分の感想はそんなものだ。誰にも若い日があって、皆老いてゆく。そんな単純な事実を感じたのは、「スターウォーズ:エピソード7」を見たとき以来である。まあ、それはどうでもいいか。

この映画を見て印象的だったのは、主人公のフランク(デ・ニーロ)がモリー(ストリープ)とのことを妻に伝えた時の話だ。フランクは「その女性とは何もなかった」としきりに言う。何もない、というのはここでははっきりとは言われていない(し、そもそも言う場面ではない)が、「一夜をともにする」ことについてだろう。事実、そこまで一瞬いきかけるのだが、モリーの方が自制心をもっていて、「こんなことはいけない」とそれで終わる。さて、印象に残ったのはそのフランクの言葉に対しての妻の一言だ。「そのほうがもっと悪い」

男は「なにか」があった方が罪深いと思う。だが、妻はないほうが罪深いと言った。これはなんとなく理解ができる。「一夜をともに」してしまったのなら、それはフランクが生物学的に男だから、思わず、本能的に、そういうことになってしまったという風に片付けられる。だが、何もないのに思い悩む、ということは、妻にとっては、フランクがモリーのことを心から愛しており、心が妻を裏切ったことになる。それはもう取り返しがつかないのである。浮気をされてしまった妻が、自制心を保っていられるのは、夫が本当に愛しているのは自分で、浮気相手は遊びにすぎないと思えるからではないだろうか。そうだとすると、この場合、もうどうすることもできないのだ。

モリーの方も、作中で「いっそのこと彼(フランク)とベッドをともにすればよかった」というようなことを言っていた。行為に及んでしまえば、その恋はなんとなく質的に下等のものになってしまうような感じがする。むしろそうなってくれれば、まだ自分のパートナーに戻ってくることもできる。だが、何も起きなかったことで、モリーとフランクの間のことは、「不倫」「浮気」なのにもかかわらず、本物の愛になってしまったのだろう。

最初の記事

何事も最初は難しい。

ブログを解説してみたものの、何の自己紹介もなしに突然エッセイのようなものをぶち込むのは礼を失する行為だろう。だからまずはとりあえず、自己紹介といこう。

わたしはMonsieuehei。読める必要はない。わたしは大学生だ。そのわりには偉そうな文章を書いている。まあ、そのあたりは許していただきたい。わたしは哲学を学んでいる。どうやら知的好奇心が他の人よりも旺盛なようで、哲学以外のこともいろいろ手を出してきたし、これからはいろいろな地域を旅したいとも思っている。

このブログではそんなわたしが日常ふと思ったことを「徒然に」書いていこうと思っている。偉そうな物言いばかりすると思うが、何度も言おう、その辺りは許して欲しい。それがこのブログのスタイル、というか趣旨でもあるのだ。

まあ、これくらいでいいだろう。最初の記事には十分すぎるほどだ。

それでは皆さん、また明日。