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旅、映画、食べ物、哲学?

時計が壊れた

昨日、時計が壊れた。

私は自分の部屋に掛け時計を置いていて、時間の確認はたいていの場合その時計でやっているのだが、その時計が動かなくなった。

壊れたというと、語弊があるのかもしれない。

というのも、時計が壊れたというよりむしろ、電池が切れているように見えるからだ。

だが何にせよ、時計が動かなくなった。昨日の午後3時3分24秒で時計の針は止まっている。いっそ、午後3時3分3秒で止まって欲しいものだが、人生うまくいかない。全て三の倍数なだけで満足しよう。

電池を取り替えればいいのだが、どうも億劫でそのままにしている。だから、昨日、今日と、時計に騙されることも多い。今だって、「あれ、何時だっけ」と時計を見上げて、15時だったので焦った。習慣とは怖いもので、時計が止まっていると知りながら、私はどうしても、ちらちらと時計を見てしまう。そして、「ああ、時計止まってたな」と再認識する。

 

高校生の頃、変な思考実験をしていた。

まず、あなたが窓のない部屋に閉じ込められているとしよう。そして、部屋には幾つかの時計が置かれている。しかし、それらは全て違う時間を示している。その状況下で、どれが正確な時計なのかを当てることができるか?

とまあ、こんな感じである。ちょっと安いSFみたいなのは許して欲しい。

これは案外難しい。そもそも今が昼なのかもわからないし、どれが正しい時計なのかと言われても、という感じである。強いて言うなら、腹時計等を用いて、幾つかに絞ることはできるのかもしれない。

この話を友人にしたところ、同じようなテーマの推理小説があるといわれた。タイトルは忘れてしまったし、どうやって時計を選ぶことができたのかも忘れてしまった。だが、どうも私にはそれがよくできすぎているような気がした。

というのも、私がこの思考実験に対して用意している答えが、「そんなことは無理である」だからだ。それがもっと白日のもとに晒される思考実験も作ってみた。こんな感じだ。

あなたが閉じ込められているのは、窓のある部屋である。時計が5つあるが、それはそれぞれ1分ずつずれている。さて、どれが正確な時計なのか。

ここまでくると、もう不可能だろう。もしかすると、日時計を使って何とかする方法がある可能性もなくはない。だが、一分の差異まで、果たしてそれでわかるのだろうか。

 

時計というのは、案外そういうものである。だって、考えても見て欲しい。もし仮に、人類が、セシウム時計を作らなかったら、今のような時間は存在しなかったはずである。太陽が昇り、沈む。月が満ち欠けする。それは存在するにしても、そこには強烈な正確性は要求されないし、要求したところで、返ってくるのは静寂だけだ。

正確に、刻々と、数字を刻み続ける時間というのは、人工物に過ぎない。スマホや、貨幣経済と同じく、人類が勝手に作っておいて、勝手に絶対化している類のものである。いつの間にか、私たちは、自分で作った時計に、生活を支配されているのである。

いつから、この正確な時計という考え方は出来上がったのだろう。資本主義化に伴い、労働を管理するためである、という話を聞いたことがある。あと、もう少し面白い話だと、経度を測るのに正確な時間を知る必要があったので、航海術の発展の中で、正確な時計が開発された(たしかクロノメーターといったはずだ)という話もある。調べてみたら面白いかもしれない。

しかし、言えるのは、そうした努力と、規律化は、どう転んでも、やはり私たち人類による発明品だということだ。太陽がある位置にいるとき、それが時計の針と重なるかもしれないが、時計が、カチコチと運動と静止を繰り返している間にも、太陽は動くのをやめない。太陽は1分と2分の間を区別せずに先へと進む。そこに区別を生むのは他ならぬ人間だ。

 

だから、私がチラッと時計を見るとき、3時3分24秒を指しているのは、あながち、間違いではないのかもしれない。古代ローマでは、日の出が1時だったらしいし、今が3時3分24秒ではいけないという理由はない。

それに、時計が壊れたのを放置してみてわかったのは、時間が無意味になった部屋の中を流れるのは、ゆったりとした時間だということだ。こういうのも悪くはない。危機感も焦燥感もない。ただ、このままでは、我が部屋は完全に社会から孤立するので、頃合いを見て電池を交換しよう。

今?

そりゃもちろん、3時3分24秒だ。