Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

「すべき」と「したい」、あるいはやる気待ち

朝、めざめても、起き上がる気になれない。起き上がってしまえば、また消費される1日が始まるからだ。

暇なのではない。暇ならいい。だが残念なことに、心の奥で、何かが常に疼いているのだ。さあ、すべきことをしなさい。君にはすべきことがある。それをしないと、君はダメになる。今後大変なことになる。だが、具体的な指示はなく、これは漠然とした危機感である。

すべきことが全く思い浮かばないわけではない。例えば、まとめなければいけない文章が一つある。例えば、もっと積極的に求職活動もしないといけない。だが、そうしたものは私の中で、なんとも言えない漠然とした不安感となって溶け合っている。どうも、その気になれない。

紙に書き出してみたら? スケジュールを決めたら? とりあえず初めて仕舞えば? と人は言う。それはそうだ。そうなのだ。少なくとも、やらないといけないことがあるのは確かだからだ。だが、私の心は、義務感じゃあ動かない。義務感にかられれば狩られるほど、心はおろか、体も動かなくなってしまう。

そうして、最近は、ギターを弾く。ギターを弾いている間は、いろいろと忘れられるからだ。手に痛みを感じてギターをやめると、また焦燥感が出てくる。仕方ない。というわけで、ベッドに身を横たえ、寝る。起きたら仕方ないので、YouTubeでバラエティ番組などを見る。そうこうするうちに夜になる。たまにカレーやら何やらを作る。料理を作るのは楽しい。だが、食べて仕舞えばまた、空虚が訪れる。また1日を消費してしまった。そんな、喪失感をここ一、二週間は味わっているような気がする。せめて映画でも見ればいいのかもしれないが、焦りがあると、そこまでどーんと構えられない。

 

大学二年生の時、カントの『道徳形而上学原論』を読んで衝撃を受けた。というのは、そこに書かれている内容は、私と正反対だったのである。強く反発を覚えたが、今では、多分、カント先生の方がうまく社会生活を営める気がしている。まあ、本人は決して、一般的な社会的人物とは言えないような気もするが。

『道徳形而上学原論』のとあるパートで、カントは、道徳的かどうかで、色々な行為を分けてゆく。その分け方がどうも性に合わなかった。例えば、「人の笑顔を見るのが好き」という理由で人を助ける人は、道徳的ではないらしい。その行為が「すべき」だから、その行為をする、という、AIのような人物がカントに言わせれば、道徳的らしい。これは私の曲解かもしれない。だが、もしこれが本当だとすれば、私はカントの言う道徳的人間にはなりたくないな、と思った。人の笑顔が好きで、人助けする人の方がいいし、人助けに生きがいを見出せる人の方がいい。もちろん、自分がそうなりたいのか、というとちょっと迷ってしまうが、端的に「すげえな」と思える。心優しい人なのだな、と思える。カントの言う道徳的人間は、意欲を欠いている。ツンデレならまだしも、「助けたいわけじゃないんだけど、助けなきゃいけないから助ける」というのは、人間味がない。ちょっと狂気すら感じてしまう。

だが思えば、それは私の今までの生き方からして、ということなのかもしれない。私は、義務感が嫌いなのだ。さっきも言ったが、私は義務感では動けない。危機感も、私の行動を停滞させる。私を釣り上げるのは、ジンギスカンくらいである。

 

高校受験の時も、大学受験の時も、受験勉強をろくにしなかった。それをすることが義務であることはわかっていたが、関心がなかった。

中学の時は、高校受験勉強と偽って、司馬遼太郎の『最後の将軍』を読んだり、集合論ガロア群論の本を読んだりしていた。受験が面倒なので、数学の難問ゴールドバッハ予想を証明しようとしたりしていた。結局第一志望には受からなかった。だが、志望と言ってもそんなに志望していたわけでもなかった。そもそも、興味がないからである。だが、やはり、落ちた時はそれなりに悔しかった。でも今思えばそれは、単にプライドの問題だった。

高校の時は、そもそも、受験勉強しない方向で、大学を受験した。受験勉強を強いてくる学校と対決姿勢を明確化し、自分は公募推薦を目指した。文章を書いて受ける受験だったから、なかなか性に合っていた。私は高校では文芸部にいたからだ。書く内容も、盛り上がれる代物だったし、小論文指導も楽しかった。受験勉強は、学ぶということに関して、正しいのか、と先生に食ってかかったら、「君ならどこでも受かるから、受かってから言えばいい」と励ましの言葉をいただいたが、正直、そういう挑発には惹かれないので、対して何も思わなかった。それに、私は「しよう」と思わない限り、何も動かないので、多分通常の試験を受けた場合、落ちていただろうと思う。

こういったことは、単なる一種の甘えかもしれない。勝手に人生安泰と思い込んでいるからかもしれない。全く根拠がない、「まあ、なんとかなるでしょう」という気持ちがあるからそんなこと言えるのだ。だが、甘えだ、現実わかっていない、とどんなに言われても、私の心が動いてくれないのである。ビクともしないものはどうしようもなかろう。

 

それはもう、燃料のない船のようなものである。海に浮かんでいる船。動かないといけないのはわかっている。だが燃料がない。燃料さえあれば動き出せる。だがその燃料が見当たらない。すると漂うしかない。今は確実に、漂っている時間である。特に、燃料云々の前に、謎の焦燥感だけが登場すると、燃料を探してくるのも億劫になってしまう。

せめて、どこか旅に行けたら。

せめて、創造的な活動に、全力を尽くせたら。

火をつけて、意欲と喜びが手に手を取る。そんな人生を取り戻したものである。

そんなことを思いながら、今日も部屋でゴロゴロしている、というわけだ。