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旅、映画、食べ物、哲学?

創造的食文化

ちょっとくだらない話をしよう。

昔からずっと思っていたことなのだが、人類が忘れている驚異的な英雄がいる。カエサルやナポレオン、あるいはイエスブッダなどを超えて、今でも多くの人々に恩恵を与え続けている英雄だ。私もその人の名前を知らない。一人ではないのかもしれない。その人、もしくは、その人たちは偉業を成し遂げた。誰も遂げたことのない偉業だ。すなわち、「エビを初めて食べた人」である。

現代人にとっては、エビを食べることなどたいしたことないように思える。だが、一度でもエビ料理を作ったりした人は知っているように、エビの見た目は思ったより、かなりエグい。あれはどう見ても昆虫である。それも足がシャコシャコしていて、時々変な触手や爪を持った腕もある。どう考えたって、あの生き物を食べようとは思わない。だが、それでもその人は食べたのだ。そのおかげで今の食生活がある。聖書の規定を守る人々を除く世界の人々が今やエビを食う。

 

どうしてそうなったのか。

いろいろ考えられるが、一つには、「適応説」があるだろう。つまり、エビしか取れないような環境だった、ないし、エビが最も手っ取り早かったということだ。それは多分そうだ。魚や大型動物をとるより、海辺や川にいるエビを取った方が早いではないか。今でも長野でははちのこやイナゴを食べるというが、それと論理は一緒だと考えるなら、合点がゆく。だが問題なのは、エビがとれる場所であれば、多分魚も取れることである。じゃあ魚で良いではないか、という話になる。

第二に考えられるのは、「偶然説」である。たまたま食べた、というものだ。それもありえそうな話だが、本当に食べるか?というのが問題だ。私たちには防衛本能がある。あまりにヤバそうなものは普通は食べない。今ではお腹壊しても正露丸があるか、という余裕な気持ちになるが、昔は死を意味している。そんな冒険を果たしてするだろうか。私はしないと思う。チーズなども同様である。腐らせてしまったのを食べてみた、というような話はあるが、普通に考えて、食べないだろう。

それでも、私たちはシュールストレミング臭豆腐、ふぐ料理、ヤギの脳みそなど、かなりきわどいものを食っている。いやいや、そんなものは食べないよ、という人でも、納豆は食べるだろうし、納豆も食べないという人も味噌汁を飲み、醤油で生魚を食うはずだ。納豆も味噌も醤油も、化学的には腐敗している。ヨーグルトもだ。生魚やふぐは危険と隣り合わせだ。食文化とは、要するに一つの冒険の上に成り立っているのである。

 

おそらく、一つのヨーグルト、一つの刺身、一杯のお茶は、先立つ英雄たちのしかばねの上に成り立っている。しかばねと言わないまでも、食中毒者くらいはありえる。彼らの苦労がなければ、私たちは食文化を発展させることはなかっただろう。「これ食えるんじゃないか?これ食ったらうまいんじゃないか?」に始まり、リスクを冒してまで口にする勇気を持つ勇者が切り開いた道なくしては、食文化は停滞していたにちがいない。そこには、創造的な意欲に満ちた行動が必要だ。

食べる時には食材や生産者に感謝すべきだと人は言う。そうだと思う。だけど、それに加えて、もう一人その列に加えてもいいのではないか。つまり、無数の、無名の食の探求者たちである。なんとなれば、彼らなくして、人類はなかったといえるからだ。