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旅、映画、食べ物、哲学?

冬になぜ寂しくなるのか?〜On Christmas〜

実際に対話したわけではないが、哲学対話で、「なぜ冬は寂しくなるのか?」という問いが出たことがある。するとすかさず、「それはクリスマスのせいだ」という答えをした人がいた。だがわたしは逆だと思う。冬は寂しくなるから、たぶん、クリスマスがあり続けるのである。

 

冬はなぜ寂しいのだろう。

ありきたりな答えでは、多分それは日が短くなるからである。私たちは日の昇っている時間が、古来より活動時間であり、日が暮れてしまうことに感傷的だった。「黄昏」といえば、それは終焉のことだ。冬になると太陽が昇る時間は短くなり、冬至になってそれは最短を迎える。日本でも、ずいぶん日が短くなったなあと焦りを感じるほどだから、ヨーロッパではなおさらだろう。実際、北欧では日が極端に短くなると、一日中ほぼ夜のような時間が流れる。わたしは子供の頃にベルリンに住んでいたことがあるが、小学校に行く朝早い時間は、冬になるともはや深夜の様相を呈していたものだ。こうした自然現象が人の心に影響することはよく知られている。北欧ではこの時期になると、自殺者が増えると聞いたことがある。どうも気が滅入ってしまうのだ。

だがそれだけではないだろう。冬の寂しさは、その日照時間が足りないことからくる陰鬱さだけに回収されるのではないはずだ。そう考えた時、もう一つのありきたりな答えが見えてくる。それは、寒さ、である。冬は大抵寒い。暖かさが欲しくなる。物理的に震える。だから誰かの手を握り、寄り添いたくなっても不思議ではない。いわゆる「人肌恋しい」という感覚である。だが、全部を全部気温の低さに回収してしまうと、なぜ「人肌」が恋しいのかがわからないだろう。だって一人でも暖房のもとぬくぬくしていればいいはずなのだから。なぜ、寒いと寂しくなるのか。やはり疑問はもと来た場所へと戻ってくる。

 

置き換えて考えてみよう。夏は寂しくないのか、と。夏も寂しいのである。夏はノスタルジックな思い出に溢れている。夏祭りの明かり、焼きそばの匂い……特に日本ではそんな思い出が多い。だがそれでも、あえて「冬は寂しくなる」といいたくなる。何がそうさせるのか。

鍵となるのは多分、色なんじゃないか。桜、新緑の緑、夏の空、そして盛りの頃の紅葉。多くの季節は色で溢れている。肌に感じられる質感もまた、賑やかだ。日照りの暖かさ、ちょっとすっきりとした風、蒸し暑く粘りつくような空気、キリっとしつつ不快ではない空気……。春と夏と秋では、私たちは情報過多だ。というと悪い感じがするが、そうではない。それは一種の呼びかけなのだ。風がささやく、という言い方がある。花が笑うともいう。それは一種の比喩だし、人生にそこまでスピリチュアルな経験は普通は起こらない。とはいえ、五感に訴えかけてくる彩りが強いのは確かだ。

これが冬になるとどうだろう。大抵のものは黒っぽくなるか、白っぽくなるかのどちらかだ。空が見えていても、空は不思議とうっすら白くなっている。勿論青空が顔を出す時もある。だが、その時、寂しさを感じないような気がする。気がするだけなので、個人の意見に過ぎないが、そんな気がする。モノトーンの空、モノトーンの街、そしてモノトーンに寒い。これはそこにいた誰かがいなくなってしまうようなものだ。だからこの喪失感は「寂しい」と表現される。モノトーンな感覚の世界で、人が求めるのは生命を持った何か、そう、あの人の笑顔とあの人のぬくもりなのだろう。

冬は寂しくなる。日照時間もあるだろうし、鋭い寒さもあるだろう。だが冬の持つモノトーンさもそれに拍車をかけていると言えそうだ。雪が降ると、そこに彩りが加わりそうなものだが、鋭い寒さとモノトーンな空の中で、雪はモノトーンの演出にすらなる。冬はやはり寂しい。心もまたモノトーンになり、モノトーンの世界は自分から遠ざかって行く気さえする。楽しい冬も、大きくなるうちに、自分の孤独さに気づけば、寂しさの象徴になる。遊び相手がいない冬は、寂しい冬になる。

 

だから、クリスマスなのだ。と、わたしは思う。クリスマスは暖をとるイメージと相性がいい。雪が降りしきる中、薄着で、一人で、「メリークリスマス」と言う……そんなイメージは普通はわかない。雪が降りしきる中、小さな家は暖色系の明かりに照らされ、誰かと一緒に、暖かい食べ物を食べながら、「メリークリスマス」といい合うほうがしっくりくる。クリスマスがかくも琴線に触れてくるのは、クリスマスがただのイヴェントでも、宗教行事でもなく、寂しくモノトーンな冬の情景に色を加えるからだとおもう。物理的にもクリスマスは色で溢れている。暖色系の家の電灯、クリスマスイルミネーション、緑を湛えたクリスマスツリー(てっぺんには金の星があり、赤い飾りを身体中にまとっている)、クリスマスケーキ、茶色い鶏肉料理。それだけでモノトーンは様変わりする。暖かさが見えてくる。

だがそれだけではない。クリスマスは人と人とを結ぶ。クリスマスプレゼントはそういうものだ。プレゼントを贈り合うことには、それが義務になってしまうと台無しになるような、何かがある。プレゼントとは、プレゼントをあげる相手の喜びや驚きそのものだ。相手のことを考えてプレゼントを選んでいる間だけは、少なくとも、その人は一人ではない。相手がどんなものが好きなのかを考え、何をしたら喜ぶのかを想像する。これは想像だから、失敗することなんていうのもざらにあるだろう。だがそれでもいいのである。それは年に一度か二度くらいしかないことなのだから。普段は口にしないような思いが、言葉という枠に閉じこめられないまでも、込められている。

クリスマスとチャリティーが組み合わさるのも、キリスト教精神を差し引けば、似たようなものがあるのかもしれない。誰かが困っているならできることはしたい、と思いつつ、やったところで意味がない、とか、自分がまずは第一であるべき、とか、自分で作り上げた理論やら何やらで、自分の心の動きを封じ込めていた人でも、クリスマスくらいは、という気になる。それでは意味がないのかもしれない。だが、意味云々の問題ではなく、クリスマスの時だけでも善人であろうとすることは悪くないんじゃないかと思う。別に翌日には慈善を批判したっていいのだ。クリスマスはきっときっかけになりうる。キリスト教徒でなくても、心の奥の博愛を解き放てる。クリスマスは冬に明かりを灯すということなのだから。

物理的な色では乗り越えられない寂しさは、優しさが乗り越える。優しさも、一種の暖かさである。そこには色彩がある。体の細胞の一つ一つが躍るような色彩である。だんだんと、何を言っているのかよくわからなくなってきてしまって恐縮だが、要するに、プレゼント交換をし、一緒に食事をするときの気持ちだ。何も恋人でなくたっていい。家族でも、友人でも、ペットでもいい。無関係の他人だっていいのだ。

 

今言ってきたことは、まあ一種のわたしの感想である。人にとってはそれが正月かもしれない。だがわたしにとってはクリスマスである。モノトーンの冬に色彩をもたらす、心をジーンとさせるのは、なぜかクリスマスなのである。だから今年も、こんな風にクリスマスに捧げたブログを書いている。

それではみなさん、

メリー・クリスマス。