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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

語学、我が愛

改めて言うのもなんだが、私は語学が好きである。

 

正直、語学がどうして好きなのかは自分でもよくわからない。なぜなら、あんなもの好きなところで、そこまで使えるわけでもないからだ。

例えば、海外に行ったとしよう。場所は、そう、オーストリアザルツブルクにしよう(実話)。語学好きの私は、ドイツ語は地域によって挨拶がだいぶ違うことを知っている。オーストリアは南部地域。挨拶は「グーテン・ターク」ではなく、「グリュースゴット」もしくは「セルヴス」という。といっても、「セルヴス」はゴリゴリのオーストリアドイツ語で、ザルツブルクでは使うのかよくわからない。そういうわけで、ドイツ語の発音を完コピで、店の人に「グリュースゴット!」と話しかける。するとどうだろう。わーっと向こうはドイツ語を話してくる。だが、何を言っているか聞き取れるわけもなく、気まずい空気だけが流れる。

語学好きはこんなハプニングがある上に、危険でもある。例えば、私はいろいろな言語に触れて、記憶力がだいぶ衰えた。13個以上言語を習得すると気が狂うという謎の都市伝説があるが、あれは嘘だろう。そもそも、上限の「13」というのが意味深すぎる。だが、間違いなく、記憶力は落ちる。高校時代、人より早く大学に受かってしまった私は、一月からの三ヶ月間暇をもてあそんでいた。その中で、いろいろな言語に触れてみた。もちろん、真面目に勉強したのではない。「新書のように読める文法書」をコンセプトにしている白水社の『言葉のしくみ』を1冊ずつ読んだのだ。ドイツ語、ロシア語、スペイン語ラテン語、古典ギリシア語、中国語、ヴェトナム語、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ポルトガル語オランダ語デンマーク語、チェコ語スワヒリ語……。何が残ったかというと、記憶力障害だけといっても過言ではない。

 

いい面もなくはない。エスニック料理屋で使ってみると喜ばれることもある。トルコ料理屋で、「テシェッキュル・エデリム(ありがとう)」といって店を出ると、いつも笑顔で「テシェッキュル・エデリム」と返してくれる。そして、もっと実践的なことを言うとたいていの文法は、すっと理解できるようになったのだ。たとえば、「古典ギリシア語」や「アラビア語」には「双数」という概念がある。これは、日本語で言えば「〜2つ」に当たるもので、単数と複数の間だ。これがある(正確には、現代まで残っている)言語は少ないので一瞬ビビるが、いろいろな言語を見てしまうと、「ああ、双数ね」という心の余裕が生まれる。だが、それは理由にはならないだろう。だって、語学をやるのに便利だ、というのは、語学が好きな理由ではない。転倒してしまっている。

じゃあ、語学をなぜやるのか。それは多分、使うためだけではない。使えたらいいと思う。だが、もし習得しきれなくても、それはそれでいいのだ。その時は英語でもなんでも使えばいい。それでも、私は語学をやめない。語学には、文化がにじみ出ている。それを味わうのが、語学の醍醐味だ。その入り口は、文法だと思う。

 

昔から文法が好きだったわけではない。むしろ、文法なんて滅びればいいと思っていた。使えればいいではないか、と。たぶん、日本語と英語しか知らなければ、その考え方は変わらなかっただろうし、英語をメインでやっている人がそう思うのも無理はないと思う。だが、三つ以上やってみると、文法の面白さに気づく。それは、文法に、その地域の色がにじみ出ていることだ。

例えば、私がこっそり「助詞会(じょしかい)」と呼ぶ言語のグループがある。それは、日本語、朝鮮語モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語などだ。いわゆる「膠着語(こうちゃくご)」。つまり、「助詞」を使う言語であり、特徴として、言葉に文法的な要素を付け加えることで文を作る(「食べる」という動詞は、語幹が「食べ」。そこに、「る」「ない」「よう」「た」などの要素を足すことで意味をもった語になる。英語の過去形で「ed」を足すのと同じか、と思ったら大間違い。日本語は何個も要素を足すことができるが、英語は無理だ。「食べ-たく-ない-だろう」は、三つ繋がっている)。それは、基本的には、ユーラシア大陸をぐーっと横断して存在している。語族は違えど、似た文法を持ちながら。そんな「助詞会」の隠れた特徴は、中央アジアチベット、モンゴル、満州遊牧民由来の言語が多いということだ。モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語は、どれもアジアの遊牧民にその由来がある(ビルマ語も「助詞会」で、ビルマ族はもともとチベットの民族だったらしい)。朝鮮語も地域的に言えばかなり近い位置にいる。日本語はどこから来たのか不明だが、地域的にはかなり近い。ただし、遊牧民だけではないというのは注意しなければならない。例えば限りなく世界最古の言語といえそうなシュメール語も「助詞会」メンバーらしいが、彼らは明らかに遊牧民ではなく、農耕民である(それも、世界最古の)。そして、インド映画「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」で一躍有名になったインド南部の「タミル語」も「助詞会」メンバーだが、こちらは正直よくわかっていない。だが、どれも、現代影響力のあるヨーロッパ系の「印欧語族(英仏独露伊西葡希・ペルシア・ヒンディー……と挙げればきりがない)」や中東系の「セム語族アラビア語ヘブライ語)」、東アジアの「シナチベット語族シナ語派(中国語)」や「タイカダイ語族(タイ語ラオ語)」などは膠着語ではなく、膠着語はそれら大語族の中でひっそりと暮らしているのである(中央アジア膠着語勢力が強い)。そう思うと、少しロマンがある。このユーラシア大陸の向こうにも、「助詞会」があるのだ。いつか、そんな国に行ってみたい。いつかは、「助詞会」縛りの旅でもしてみたい……。

 

さて、マニアックな話が過ぎたかもしれない。

言いたかったのは、言語だけでいかに文化と風俗をまとっているか、と言うことだ。言語には民族の歴史がある。そしてその言葉の響きはその土地の音を形作る。面白いことだが、どんなに語族が違っても、場所が近い言語は音が似ていることが多い。例えば、ペルシア語とトルコ語は語族が違うが、ちょっとくぐもった音は似ている。その土地にあった音というのがあるのかもしれない。

とにかく、言語には人々の文化が詰まっている。言語をやることは、文化に触れることだ。他の言語の音を出せるようになることは、そこにいる人々の声を内側から感じることだ。そして文字が読めるようになることは、その言語の話者の目を手に入れることだ。

言語は窓のようなもので、たくさんの言語をやればたくさんの窓が手に入ると言った人がある。確か私の高校時代の先生だ。だが、私は色々やった今、ちょっと違う感想を持っている。言語はそれ以上だ。そして実はそれ以下だ。外国語をやっても私たちはそこまで変わらないし、むしろ傲慢になることもある。だが、語学をやると自由になることもある。母語の言葉の枠から、そして、言葉という枠からさえも。