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旅、映画、食べ物、哲学?

プロメテウスの理性〜哲学所感2〜

 人間に特徴的なものは何か。これはいろいろな人が問うてきた問いである。

かつてプラトンが、「人間は、毛のない二足歩行の動物である」と言ったらしいが、それに対し、ディオゲネスという男が毛をむしった鶏を持ってきて、「おいみんな、プラトン先生はこれが人間だってさ」と茶々を入れたという話がある。まあ、これはどうでも良いのだが、よく問われていながら、答えるのが難しいということを如実に表している話だ。

西洋哲学の歴史では、ほとんどの場合、人間に特有な能力を理性とし、人間を理性的存在者とする。それでこの理性がどんなものなのかといえば、ひとつには推論の能力・言語使用の能力、あるいは道徳を司る能力、さらには個々人一人一人にありながら共通の能力と言われる。定義はいろいろあれど、ひとつ言えるのは、これが言語と密接に関わっているということだ。

言語に関して言えば、言語は人間しか用いないというのが言語学の基本設定でもある。いやいや、イルカだって、コウモリだって、鳥だってみんな言語を用いるではないか、という考えもあるだろう。だが、これは、人間の言語とは程遠い。なぜなら、イルカなどのコミュニケーションツールは、我々が知る限り、サインでしかないからだ。つまり、手旗信号のようなものだ。それぞれのサインにそれぞれの意味合いがあり、それをやり取りして、危険を察知させたりする。だが人間は、限られた記号からありとあらゆることを表現する。皮肉も言えば、ウケも狙う。事細かに要求することもできる。そういう意味で、人間の言語は、他の動物とは違うのである。と、いうのが、言語学のルールだ。これは的を射ているが、かつては人間の言語もサインだった可能性は否めない。また、動物たちがどのようにコミュニケートしているかは、実のところ、外側からしかわからないのでなんとも言えないだろう。とはいえ、人類は言語を用いるという性質を特に持っている、ということは言えるだろう。これは多分進化上起こったことなのだろうから、なぜか、ということについては、何か別の研究を見てみるしかない。

さて、それではその言語と、理性がどのように関わっており、なぜ理性は人間に共通なものと考えられるのか。キーワードは、社会だと思う。

 

 A面

 

言語学の父と言われるスイスの言語学者フェルディナン・ド=ソシュール(フェルディナンド・ソシュールではない)は、言語(langage)を一種の社会制度として捉えた、と言われる。この制度としての言語をラング、実際に社会の構成員が用いる言葉をパロールと呼ばれる。例えば、文法としての日本語はラングであり、夏目漱石の『坊ちゃん』はパロールである。そしてラングは、文法や単語という形で、パロールを規定する。私たちは自由に言葉(パロール)を使うが、実は社会制度(ラング)に規定されているのである。「私的言語」というものも、独り言も、考え事も、実は言語である以上は、こうした社会制度の制約を受けている。Big Brother is watching youである。

社会という視点から見れば、言語は必要不可欠な制度である。なぜなら我々はテレパシーを使えないからだ。共同するためには、言葉で伝えるほかない。もっと身体的な「空気」のような意思疎通の仕方もないではないが、どこかで支障をきたしてしまうだろう。だからいつでも、言語という保証はつけておかないといけない。「どうしてわからないんだよ、空気読めよ」と言葉で言うのはそういうことだ。一つ断っておくが、ジェスチャーなども言語の一種である。まあ言語というより、動物のサインに近いのではあるが。

では、社会を成り立たせるために、言語はどのような性質を持って機能しているのだろうか? それは一言で言って仕舞えば、「一般性」である。これは、簡単に言えば、言語は通じる必要がある、ということだ。「コップとって」といって、槍を投げられたのでは困る。「コップ」という言葉が社会のどの構成員に対して共通して、あの飲み物を入れる容器を想起させる必要がある。この一般性の機能をもって、言語は意思疎通を可能にしていると言っても過言ではないだろう。この「一般性」だが、単語レベルのみならず、文法についてもある言語を喋る社会では一般的なものとしてすべての構成員に行き渡っている必要があるだろう。そうでなければ、単語だけ通じたとして、完璧な意思疎通はできない。いやいや、俺はアメリカで単語トークだけで打ち解けたぞ、という人がいるかもしれないので付け加えておくが、英語は比較的それで行けることがあるわけだが、例えばロシア語を話す社会ではそれは無理だ。なぜなら、ロシア語は、日本語の「て」「に」「を」「は」に当たる6つの格によって単語の形自体が変化し、さらには動詞も主語と時制などによって変化するので、文法を共通して身につけている必要があるだろう。

 

しかし、実を言えば「一般性」の話を文法や単語だけで終えて仕舞えば、不十分となる。言語というのは実は、結構自由なもので、なんでも言えてしまう。例えば「今朝は昨日だったが、ご飯が炊けたので、家を買った」などといった意味不明なことまで言える。だがこれは、ごく日常的な場面においては通用しない。言語が社会制度として完全に機能するには、文法だけでは不十分で、さらに何かしらの規定が必要になってくる。それが、理性の基準だと思う。より日本的な言い方をするなら、「あたりまえ」のことを要請するのが理性の機能である。

それでは、何が「あたりまえ」なのかといえば、それは大まかに分けて二つあるように思う(本当はもっとあるかもしれないが、わからない)。一つは、「論理」だ。「手続き」といってもいい。理性といえばこれ、というようなものだろう。論理に社会もへったくれもない、という人もいるかもしれない。だが私はそうは思わない。論理は非常に社会的だ。例えば、「人間はみな死ぬ。ソクラテスは人間である。だからソクラテスは死なない」という論理的に破綻している文を見てみよう。多くの人はこれを論理的に「偽」であるというだろう。この文を正当化しようとする人がいたとしても、論理的に、例えば、「ソクラテスの思想は生き続ける」などという項を増やすことで、説明しようとするだろう。だが、一つ残る疑問は、なぜ皆そんなに論理的であることに固執するのか、である。これに関しては、私は答えがはっきりしていると思う。それは、「困るから」である。論理を用いることは、相手を納得させることである。なぜなら、相手も同様の手続きをとることができるからだ。そのため、コミュニケーションにおいて、論理性・手続き・文脈が守られなければ、端的にコミュニケーションにならないのである。つまり論理立てて述べることは、社会の要請なのである。

だが、いわゆる「伝統社会」では論理的ではないものがまかり通っているが、彼らの方が社会意識は高いはずだ、という意見があるかもしれない。要するに、アマゾンの奥地にあるような社会のことである。確かに、トーテムを信じたりする彼らは非合理的に見えるかもしれない。だが、本当に彼らは非合理的なのだろうか? レヴィ=ストロースが明らかにしたように、伝統社会においては、西欧化した社会とは異なる合理性が働いている。そこには構造がある。要するに、論理の形が違うのである。そして彼らにしたって、その構造を乱されるのは困るのである。

このようなことから、第二の「あたりまえ」が見えてくる。それは、「規範」である。むしろこの「規範」が論理性を強いてくると言えるので、こちらの方がおおもとかもしれない。だが、とにかく、カントが道徳の基礎を実践理性に置いたり、日常的に「理性的にふるまいなさい」という言葉が「道徳的にふるまいなさい」と同義であったりするのは、このためだと考えられる。ベルクソンは、社会秩序を保つための道徳(「閉じた道徳」)を、社会の構成員が逸脱しそうになった時、その軌道修正をするために理性を用いるため、カントなどは道徳の基礎を理性に置いたという。その意見には概ね賛成なのだが、本当はもっと根深いものがあるように思う。つまり理性は規範としても機能するのである。そして、その理性は、社会の賜物なのである。

もちろん、こうした能力が人類の生まれつきの能力であるという主張はこれでは否定できるわけではない。むしろ、私はそうした能力が人類が進化を経て得た先天的能力だということに同意するつもり満々である。だが、それでも、なぜこうした能力が人間に備わる必要があったのか、ということは考えないといけない。

もし、人が一人で生きているだけならば、言語も理性も必要ないだろう。何も伝える必要がないからだ。「一人でも考え事はするし、生き抜くために必要だ」という意見もっともだが、それはそもそも、私たちが言語を持ち、理性という能力を持っていることを前提とした意見だ。言語や、それに関わる理性は社会を前提としている。そしてそもそも社会は言語を必要とする。社会そのものは人類に固有なものではなく、多くの生物に見られるものであり、群れの論理が生物の本能や先天的能力にも関わっていることもわかる。生存上も、社会化ことで、狩猟等の効率化が図られることはよく指摘される。すると、人類にとって理性や言語の能力が先天的であったとしても、それは社会を維持する装置と考えることができるのである。

 

だがもし社会が理性を生んでいるなら、異文化コミュニケーションは成り立たないことになるのではないか、という意見もあるだろう。しかしこの主張には決定的な間違いがある。それは、文化や社会というものは、そこまで孤立していないということを見逃している点である。

現代社会においては、絶えずあらゆる文化圏が交流していることがわかり、それゆえに、それぞれの社会制度や言語表現もどんどん変容し、互いに均質化するようになっていることはわかるだろう。だが昔も、実は社会集団は孤立して生きているわけではなく、やり取りがかなりあったのである。例えば日本の社会は中華文化圏と関わり、中華文化圏もまたインドや中東文化圏と交流を持っていた。中東文化圏は絶えず西欧文化圏と関わっており、そもそもヨーロッパと中国はシルクロードの時代には繋がっていた。「あたりまえ」観は絶えざる交流の中で、一致していったに違いない。

もちろん、それぞれの文化圏・言語圏によって考え方に違いがあるという点を無視してはいけない。異文化コミュニケーションは、ある程度まではできたとしても、どこかで齟齬が生じることが多い。それは、先ほど述べた、言語・理性に刻み込まれた「社会の当たり前」の違いに起因することが多いだろう。それが極端になるのが、いわゆる「伝統社会」と我々の社会の間の齟齬だろう。だが大抵の場合は、ある程度まで話が通じる。これは社会の交流、人の交流があるためだろう。

だから、理性は人類に共通である、ということができるのは、第一に人類が言語を用いてコミュニケーションをとるという点で共通していること、第二に人類が同一の言語を持つ一個の社会を必ず形成していること、第三に社会はそれぞれ完全に孤立しているのではなくそれぞれ時代によってその強弱は違えど影響しあっていることに裏打ちされていると考えられるだろう。

 

してみてみると、いわゆる「啓蒙」や「文明化」というのは、理性をよりよく改善する運動というよりも、西欧世界における理性の形に他の理性の形を変えてゆくこと、「西欧化」と言えるだろう。それがいいとか悪いとか言っているのではなく、そろそろ、あれは西欧化なのだと認識してみるのも良いと思うのだ。その上で、それがどのような影響を及ぼしたのか、善悪両面から考えてみれば良いのではないかと思う。

だが、ここまで言ってきたこともまた、実を言えば、一種の賭けである。というのも、この考え方が誤っているかどうかわかるのは、極端に言えば、言語は話すし、社会も持ってはいるが、母星の状態もかなり異なり、人類と一切の交流をしていない宇宙人が目の前に現れた時だけなのである。

 

B面

 

ここで、次のように言えば、読者の皆さんを混乱させるだろうか。すなわち、言語や理性は社会の賜物であり、社会的ではあるが、実際にはそれだけではない、と。

先ほどから力説しているように、言語や理性は社会的だ。本来は、社会の賜物である。だが人間には特殊能力がある。それは「遊ぶ」能力だ。転用する能力といってもいい。

この能力の内実が理解しやすいのは、食事である。食べることは、人間の生存にとって必要不可欠なことである。言ってしまえば、栄養さえ取れれば何でもいい。美味しくないと感じるものは、元をたどれば、危険の察知だという。子供はピーマンが嫌いなことが多いが(私も嫌いだった)、ピーマンには実際アルカロイドが含まれている。アルカロイドといえば、彼岸花の根っこの毒と同じ成分である。また、酸っぱいのが嫌いとかいうのも腐っているものを検知する能力であり、からさも痛覚をもたらすものへの警戒である。だが、人間はそのような能力を備え、生存本能として食事を義務付けられていながら、能力と義務とを素直には受け取らなかった。能力や義務で遊び始めるのである。つまり、「美味しい」食べ物の追求だ。そのためには、危険反応が出ていたとしても飲み食いする(辛くて美味しい、苦くて美味しい、酸っぱくて美味しいっておかしくないか? いやおかしくはないが冷静に考えるとおかしいのである)。これは常軌を逸している。

自分を例にしてみる。私は、美味しいものが好きである。そして、どこかへ行った際には、その土地のものを食いたい。この前セルビアに行った時のことだが、セルビア料理店が見当たらなかった。だが何としてでもセルビア料理店に行きたい。お腹は空いていたがウロウロしていた。レストランがないわけではない。アラブ風のケバブとか、イタリアンとかはあった。結局、セルビア料理も食べられるイタリアンに入ったが、結局諦めきれず、調べてみて、近そうなセルビア料理やに、イタリアンで食べた後で行った。この行動は生物的に言えばひどく常軌を逸している(多くの人にもそう思われるかもしれないが、どの人も、きっと、どこかで同じような体験をしていると思う。もちろん、話を食べ物に限らなければの話だが)。まずお腹が空いていて、値段的にも良さそうな店があってもやりすごすというのはおかしい。さらに、食べた後で、もう一度食べるというのは二重でおかしい。だが、セルビア料理でなければならなかったのである。

人間は、同じようなことを、様々な場面で行っている。手元にある、非常に社会的・合理的・生物的なものを別の何かに転化する。目的をずらす。例を挙げればきりがないが、美味しい料理以外にも、筋トレ、散歩などもそれだと思う。そしてもちろんのこと、その対象は言語や理性にも及ぶ。

言語や理性で「遊ぶ」場合、二つの方向性が考えられる。ひとつの方向は、それらのルールを壊す方向であり、もう一つは社会的なものから完全に引き離し、ルールだけをひきはがす方向である。どちらにせよ、ここにおいてはもはや、元々の社会という要素は消えてしまう。第一の方向の典型は詩で、第二の方向の典型は数学だ。

 

第二の方向から説明しよう。ここで数学が出てくることに驚かれたかもしれない。だが、これは重要なことで、近代に「理性」と呼ばれるものは大抵このずらされた理性を中心に見るため、先ほど述べた社会的な理性からすると話がおかしくなるのである。では数学的な理性は何かと言えば、要するに自己目的化した手続きである。

それが顕著になったのは、いわゆる「自由数学」といえるだろう。これは、19世紀後半にゲオルグカントール集合論を確立し、その潮流で生まれた考え方である。ざっくりと言えば、この考え方からすれば、数学上の「公理(数学的な証明をするための前提となるもので、それ自体は証明されないもの。有名なものとして「二つの点を結ぶ直線を一本だけ引くことができる」などがある)」の設定を自由にすることができ、そこからどのような結論を導き出すことも、手続き的に正当であれば可能である。こうして出てきた結論として有名なのが、「バナッハ=タルスキーの定理(パラドックス)」である。少し単純化して言えば次のようになる。例えば、10グラムのねんどで球体を作るとする。そしてこの粘土をちぎってちぎってばらばらにする。そしてそれを再びかき集め、同じ重さのねんどの球体を二つ作る。すると、普通に考えれば5グラムずつになるはずが、「選択公理」というそれ自体はごく当たり前な公理を認めることで、それぞれ10グラムとなるという帰結に至る。これは当然ありえないことだが、手続きをしっかりと踏んだ数学において証明されてしまうのである。

とはいえこんな不思議系数学まで行かずとも、数学は社会を脱する理性を構築してきたと言える。エウクレイドス(ユークリッド)の数学だって、公理として選ばれているのは、定規とコンパスの能力の外を出ない。そこに限定することで、(自由数学とはかなり違うが)社会的規範を公理から離しているといえる。数学において「エレガント」が重視されるのは、美しく整った手続きが数学における価値であるからであり、そこには、やはり、通常の理性の与り知らぬ何かがあるだろう。

だが、こうした手続きだけを引き出すということを経たことで、私たちは理性を、口うるさいものというより、この世界を探求するための道具として見ることができるようになったと思う。ここに理性はコミュニケーションや説得を離れ、推理になったのだ。

 

第一の方向に移ろう。詩はもともと、(たぶんだが)人の記憶を助けるものだったと思う。ただ文章だけでは覚えることができない。だから物語を語ったりする場合、韻律をつけることで、覚えやすくした。本当はこの「物語」の時点で、言語と理性の遊びは始まっている。だが、詩は時代を経るにつれて、言語の形式にまでその遊びを侵食する。そして、言葉そのものを壊してみたり、自分の形式を壊してみたりするのだが、何よりも、多くの場合、理性的なものを破壊する。これは単に遊びだから、ということもあるが、実はそれ以上の目的があることもある。つまり、こうした遊びを通じて、そもそも言葉で表現できないものを表現しようとしているのだ。

そもそも感情は、言葉にすると死んでしまう。「嬉しい」「悲しい」などといった気持ちは、言葉にしなくても伝わることが多いので楽だが、「美しい」などと言ったことは言わなければ多分伝わらないだろう。ところが、これを言った瞬間、今感じている微妙な感情のニュアンスなども含めて「美しい」という枠組みに固められてしまう。言語にとって一般性は重要だと言ったが、感情は一般性を持ったが最後、本物ではなくなる。だから原理的に、言語にしたら偽物になってしまう。だから、そうしたことを伝えるために、詩を紡ぐのである。詩は言語を解体しようとする。言語だからこそ、言語を解体することで、違和感を与え、その先にあるものに思いをはせることを助ける。だが、時に、それゆえに、「意味不明」と拒絶される可能性もある。「意味不明」なのは承知の上だっていうのに。

だが実は、この世のことというのは案外、言葉にできないものが多い。どんな説明より、支離滅裂な、合理性を欠いた言葉の方がものを伝えることがある。ここに言語は一般性を離れ、何かを思い出すきっかけになるのだ。

 

さて、びっくりするくらい長くなってしまったが、今回は言語、理性を社会というキーワードのもと見てみた。そして最後には、社会的なはずのこれらが、人間の「遊ぶ」「ずらす」といった能力を通じて社会から離れるということをみた。一言付け加えておけば、ここまでくると、言語や理性は反社会的な姿すら見せる。どちらにせよ、社会の見せたがっているものからは目を背けるからだ。もちろん、社会はどちらも利用することができる。詩人はいつの間にか国民詩人となり、教養となり、そして数学はいつの間にか技術に不可欠なものになる。だが、それらの営み自体は、ひとつの反抗的な態度の表れである。

それでは、今述べたことが、所感1とどのように拘るのか。それについては、また次の機会に話そう。だが先にネタバラシをしておけば、言葉にできない世界をどのように人間は捉えるのか、という話である。