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旅、映画、食べ物、哲学?

立場と発言は切り離せるか

二週間前くらいだったと思うが、「立場と発言は切り離せるか」というテーマで哲学対話を行った。例えば、警察官の子供が、もしとても道徳的ないし法的に正しいことを言ったとする。そうすると、周りの人は、「おとうさん警察官だもんね」というだろう。一方で法律なんてくそくらえだというようなことを言ったとする。そうすると、周りの人は「あー、お父さん警察官だからね。逆にそうなるか」となる。自分の意見をどんなに真摯に伝えても、すべてそこに回収される。あれはなんなのか、というような話が発端だった。

今言ったのは自分ではない誰かの立場に、自分も組み込まれてしまう例だが、多くの場合は、自分の立場と発言の方がよく起こることだろう。政治欄のニュースなんて見てみれば、かなりの度合いを占めるのが、立場と発言についてのニュースである。「環境大臣」が取り組みをアピール、「環境大臣」がステーキを食べて批判を受けた……。私たちの社会は「立場」でできていると言える。時に、「立場」は大人の世界のもののように言われるが、それは多分違うだろう。社会に出ていなくたって、「立場」は私たちと関わりを保ち続ける。

 

大学院生にもなると、「立場」というものが感じられるようになる。というのも、私は大学院で哲学を専攻しているが、私が特に好きなアンリ・ベルクソンが、私の立場とかしてきているのである。ゼミの時間に本を読んでいたとしよう。教授は言う。「これはベルクソンへの批判かもしれない」と。すると私はなぜか応答義務を負うわけだ。「ベルクソンは〇〇という作品の中で△△と述べているので、この批判は的外れなんじゃないかと思います」云々。哲学の「研究対象」ともなると、自分も影響を受けているし、自分の考えにも似ているところがあるから、喋っているうちに私がベルクソンなのか、ベルクソンの話をしているのかがわからなくなってしまう。それには違和感があるのに、不思議なことに私はベルクソンとして話してしまう。

「立場」というものには、この窮屈さと自発性が絡み合って出てくるようだ。人は自分を立場で評価し、自分も自分を立場の中に入れてしまう。それを助長する何かがある。それは、ほんの些細な、小学校のクラス内で起こることにも見え隠れする。例えば、授業中に手を上げて、当てられた生徒が、「先生! おしっこ〜」と言ったとする。これはウケる。だからこの生徒はどんどんふざける。どんどんふざけると、周りからは「おふざけ担当」の立場として見られる。すると、自分も「おふざけ担当」の中に入り込むので、いざ真面目な発言をしたくなった時に、言い出しづらくなる。これはまた逆もしかりで、「勉強できる人(ないし「頭がいい」人)」は、ふざけたことを言うと、先生からもクラスメイトからも「キャラじゃない」と言われる。これは「立場」というより「キャラ」の問題だが、似たようなものがあるように思える。

 

だが、よくよく考えてみれば、立場を守る必要なんてないのである。自民党党員だからといって社会主義の方がいいと言ってはいけないはずはないし、逆に共産党員が共産主義を批判してはいけない理由はない。何らかの制裁は加わるかもしれないが、一人の人間として、それを行ってはいけないということはない。むしろ立場のせいでうまくいかなくなる物事も多いだろう。だがそれでも立場というものに固執し続けるのにはどんな理由があるのか。

それは私が思うに、たぶん、「困るから」である。どのようにして相手を見ていいかもわからないし、自分もどのように自分を見ていいかわからないのである。私たちの心は実は流動的で、思ったよりほいほい変わる。身体だって有名な話だが新陳代謝を繰り返している。してみれば、固定的な「私」なんていうものは多分ない。あるとすれば、ひたすらに流動的な「私」だ。だが、それは怖いのである。自分も相手もわからなくなる。相手は立場がある人なのか、それともそんなものない人なのか。自分はどんな人で何を考える性格なのか。それがわからなければどうしたらいいのかわからない。会話もそうで、会話が成立するためには相手がどんな人なのかひとまずわからないといけない。例えば、政治の話をする時は、その人が「〇〇主義者」でなくては困る。要は、レッテル張りである。レッテルを貼ってしまえば、誰もが安心する。会話も成立する。相手が何者なのかがわかる。相手や自分を理解するということは、実は、相手や自分を何かの枠にはめて考えているのかもしれない。「私はこういう人」「あなたはこういう人」と。就職活動ではまず「自己分析」をしろと言われるが、それは他でもない、その人に貼るレッテルをその人に作らせ、そのレッテルを見て、お手軽に相手を理解したような気になるためだ。その方が確実に効率がいい。人柄重視というのは要するに、レッテル重視なのではないか。本当に人柄重視なら、全員即採用である。

さらに、立場の場合は、それを理由にして人を攻撃することができるということもある。「なぜステーキを食べたんですか?」「そりゃ、ステーキの気分だったから」というのが真理だが、「なぜ環境大臣として行っているのに、ステーキなんですか?」とジャーナリストは聞かなければならない。そして、それに対して明確な答えを持たない人は批判対象になる。「立場をわきまえない」人だからだ。だがこれはただのむやみやたらな攻撃ではなく、立場の道徳とでも言えるようなことに関わっているのだろう。「ジャーナリストとして」質問し、「大臣として」大臣にふさわしい行動をとる。いわゆる職業倫理の問題だ。つまり、立場にふさわしくない発言への批判というのは、職業倫理侵犯を訴えるということである。

だがそれも、実はレッテルなのではなかろうか。本来は、仕事をしていればいいはずだ。仕事をしていないのなら批判されても仕方がない。だが「あまり環境によろしくないタイプのステーキ好き」の環境大臣がいてもいいはずだ。それは個人の好みなのだから。だが立場はいつの間にかその人の人格・行動のすべてを包み込んでしまうのだ。いつの間にか立場がその人と一体化する。「公私混同だ」と批判する人は、相手の公私を混同している。こうした批判が無意味だとは全く思わないが、行き過ぎると立場が人を食らいつくしてしまう。

立場というものは、とても便利である。主張し、批判し、反論する時、固定化した立場があるからできるということは多い。役職でなくても、キャラでも、私たちはいつからか常に立場の中にいるのである。安心させてくれる「立場」の中に。

 

だから、「立場と発言は切り離せるか」という問いは実はあまり正しくない。なぜなら、「切り離せるか」「切り離せないか」の二択の答えがあるみたいだからだ。私は切り離せると思う。だが、多くの場合は「切り離さない」のである。だから問うべきは、やはり「なぜ切り離さないのか?」だ。そしてその答えは、「安心させてくれるから」だろう。立場は生存するのに非常に重要で有用だ。目の前にいる相手は何をするかわからない不審者ではなく、立場ある人になる。自分は揺れ動かず、何か一貫性が見えてくる。だから私たちは自発的に立場を持つ。

しかし、それは時に窮屈だ。自分を自分で制限してしまうからだ。なぜ立場ある人間は仕事をすべてほっぽり投げてどこかへ旅に出てはいけないのだろう。人に迷惑をかけるからだ、というが、私たちは生れ落ちた瞬間から人に迷惑をかけ、迷惑をかけられている。迷惑をかけるからダメだ、ということは、裏を返せば寛容さが足りないことに他ならないこともたくさんある。だが、多くの場合そんなには開き直れないものだ。そんなとき、立場をおままごとの役職のように捉えられればもっと気軽になるように思う。これは遊びだ、いまは社長だけど、別に社長じゃなくてもいいんだ、と。