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旅、映画、食べ物、哲学?

ちょっと違う見方の練習

それはカナダに行ったときのこと。

モントリオールのショッピングモール回りをする企画には興味が持てなかったので、わたしは一人、街に出ることにした。適当に歩いたりしながら、わたしはある公園にたどり着いた。今でも名前を覚えているが、それはサン・ルイ公園という名前で、そこにはちょうどいいベンチがあった。ベンチに座り、池を見たり、空を見たり、あとは……持っていた本を拾い読みしたりしていた。

ちょうどわたしと同姓同名異漢字の俳優がテレビや映画に顔を出すようになった時期だったため、わたしは名前を名乗るだけでちょっとした騒ぎを受けていた。そんなとき、公園でエッセイを開くと、同姓同名についての話が書いてあった。おもしろいものだ。まるでリンクしているみたいで。まあこれについては別に、今書きたいことではないからよいのだが、あの公園での時間はちょっとした瞑想のようなもので、本の世界、自然の世界、人間の世界は行ったり来たりできるような感じだった。

エッセイも読んだが、井筒俊彦の『意識と本質』も読んでいた。そこにはよく、言葉などに切り分けられることのない世界の話が書いてあった。そうした話にリアリティを感じていたかといえば、そうではなかったと思う。それよりも前に読んだベルクソンの「哲学入門」にしても、リアリティはなかった。だが、それ以上に感じられたのは、違うリアリティの提示というか、別の世界への招待だった。本の中から出てきたベルクソン井筒俊彦の語るイブン・アラビーは、色彩豊かで魅惑的な新しい、かつ、信じられる世界を提示していた。わたしはそれが見てみたくなった。見てみたくなった時は、公園の青空を見上げるのだ。青空にうっすらとかかった木の葉は揺れている。「木」の「葉」が「風」に揺らされているのか? いや違う。緑が煌めいている。

 

そうしているうちに(もちろん意識的に見方を変えようとしているうちに、だが)、今までの見え方とは違うようなものが見えたような気がした。わたしはこの世界から孤立していない。そういう風に見えた。あらゆる感覚的データの区別がどうでもよく感じられた。すべてを混ぜこぜにしても通るような感覚だ。風は柔らかい。私はその風の色を聞く。それはリアルな経験だった。もちろん、ずっと続くものではない。だがその経験があることで、私たちは何かにとらわれているにすぎないように思えてきた。

もちろん、それはまやかしかもしれない。だが、それはただの神秘体験とは違う。そこには神は姿を持って現れることはないし、魂の不滅さなどといったことは何の革新もない。どちらかといえば、それは領域侵犯の練習だ。私たちはこの世界を見るとき、あまりに輪郭を意識しすぎる。「わたし」「木」「空」「雲」……あえて無視してみる。

「あえて」でもいい。とにかく無視する。「もし仮に、木が「木」ではなかったら?」「木は地上で空気を摂取する。地下では養分を摂取する。だが「摂取」とはなにか? 私たちは血液を摂取しているだろうか? 突き詰めてみれば木が木として存在し、土や空気と区別されるというのは私たちの側が立てている区別にすぎないのではないか? それじゃあわたしも孤立していないのではないか?」リアルはそのままに、全く新しいものを顕現させるのではなく、このときわたしは輪郭を取るに足らないものとして考えようとしている。これは一種の修行のようなものだ。やるべきことは、輪郭線、グリッド、枠……言い方は何でもいいが、そういったものを一度取っ払うことだ。世界はそのままなのに、それだけで見えるものは変わってくる。固まっていて、未来も皆決まっているように見える世界は、一気に流動的になる。あらゆる制限は、無意味になる。私たちは厭世的になることなく、新しい世界に足を踏み出せる。