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旅、映画、食べ物、哲学?

23時50分の想い

「なぜ研究者にならないのか?」

とよく尋ねられる。私は今大学院にいるからだ。だが「大学にいても儲からない」「研究者になるのは難しい」等のよくある理由は私には思い浮かばない。そもそも、実を言えば、私はすごく大学院に入りたかったわけではない。

 

哲学の本は、時に苛立たせることはあっても、面白い。とはいえ私にとっては、物理学にせよ、歴史にせよ、文化人類学にせよ、面白いのだから、実を言うとそんなに哲学限定というわけでもない。勉強するのが好き、とは絶対に言いたくないが、何らかの知識に触れていること、そして自分であれこれと思うところを形作ってゆくのは多分好きなんだろう。私は常に「この地球に生まれ落ちて、輝く光に出会う、生きる歓び求めてゆく、この世界を受け入れたい、この世界を理解したい」という状況にあるのだろう。旅に出るのも、そこに向かわせるのは、同じ何かだろう。

そんな感じだから、大学院という場所が居心地が悪いわけではないのだ。だが確実にここではないな、と感じさせてくる何かも常にある。そこが悲しいところである。

 

要するに、私は「哲学研究」がしたいわけではないのだ。今、私はフランスのベルクソンという哲学者を中心に論文の準備をしている。私はベルクソンが大好きだからだ。そして彼が誤解されやすい存在でもあるため、私の読むベルクソンをみんなに知ってもらいたい、というモチベーションだけでやっている。そうすると、批判され、吟味され、ベルクソン解釈を練り上げていこう、というアカデミックなモチベーションはあまりなくなる。興味がないのだ。これこれこういう読み方をしてる馬鹿な奴がいる、と認識されるだけで割と十分である。もしかしたら、その馬鹿な読み方のおかげで、誰かがベルクソンの愛読者になってくれるかもしれない。それくらいで良いのである。

ベルクソン研究者」と呼ばれるのもしっくりこない。私はベルクソン愛好家である。そして彼のみようとした現実(réalité)をみたいと望む一人である。二次文献等(研究書)を読む暇があれば、公園に出かけて空を眺めたい。その方がずっと有益に見える。なぜなら真理は本の中にあるわけではないからだ。本は一つの見方を提供してくれる。だから有益だ。だが、本当に何かを見たければ、書斎から出ないといけないと思うのだ。

「今ベルクソンを読んでいます」というと、「じゃあ誰々さんの授業をとってる?」と聞かれる。とってないというと、不可解な顔をされる。そんな学会の後の一幕が飛んでもなく苦手だ。私はベルクソンの授業をとってるのだ。それ以上に何を望むだろう?興味がわけば、行くかもしれないし、興味があれば、別の本も読む。現に本は読んでる。「ベルクソンと『生き方としての哲学』の関連で書いてみようかと」というと、「(『生き方としての哲学』を提唱した)アドとベルクソンは同時代人?」と聞かれる。正直そんなことはどうでもいいのだ。何なら私はベルクソンスーフィー老子ブッダにつながりがあると思っている。だが、誰と関係があろうがどうでもいいとも思っている。私にとって大事なのは、彼らとともにこの世界を旅することなのだ。アカデミズムに従事することで得られそうなのは、知識に忙殺される日々のようだった。知識に触れているのは好きだが、忙殺は嫌いだ。「甘えだ」と言われるかもしれないが、「甘えだ」と言われて通用するのは、その先にあるものを欲してやまない時である。だが私はベルクソンを読みながら公園のベンチで空を眺めているので満足なのである。

 

だから学部にいた時、私は就職しようとした。だが、そこまでのモチベーションがあるわけでもなく、とにかく、まあなんとかなるだろう、というくらいにしか思っていなかった。だが、私はちょっと変わっているようで、変わっている人はあまり歓迎されない。そもそも私は経済活動へのモチベーションがかなり低い。そういうわけで、誰にも拾われぬまま、大学院に拾われたという表現が一番実情に近い。

どうもお金に興味が持てない。お金は大事なのはわかっている。旅をすればそれくらいはわかる。それに、お金のデザインは結構好きだ。そこには国の持つ特徴のようなものが刻み込まれている。だが、一通り一種類ずつ手元にあれば満足であって、儲けるのは本意ではない。それに自分のことで手いっぱいだから、たいていの職業にあまり興味がわかない。

したいことがないわけではない。私はこうしていましているように、文を書くのは好きだ。絵を描くのも好きだ。音楽も、弾けるなら弾きたいものだと思う。なにかこう、創り上げることをしたい。ジャンルにとらわれる必要はないことをしたい。「あなたはどんな職業をしていますか?」と尋ねられて、答えても納得されないことがしたい。社会と経済にがんじがらめになった人の一息になりたい。この世界を知りたい。頭だけでなく、全身で知りたい。そんな体験をエッセイにして人に伝える仕事だったら、多分熱を持ってできるだろう。だが、そういう仕事は、才能ある人のためのものみたいだから、なかなか降ってはこない。私には多分文章の才能もない。

いつもここで止まってしまう。

 

最近のこの鬱屈した気持ちを加速させているのは、逆説的だが、私がこうした問題についてどこかでどうでもいいと思っているからだろう。空を見上げ、雲を目で追う。この広大な世界は人間の秩序によってなっているわけではない。就職にせよ、何にせよ、「現実」と言われているものは実は現実ではない。思い込み、あるいは幻影(マーヤー)にすぎない。そう心のどこかで思っているから、周りのせきたてる大人たちと、うまくかみ合わない。本当に心配しているなら、もっとうまく行動できるだろう。

どうしたらいいのか?

問いかけても何も出やしない。こんなプライベートすぎることはブログに書くつもりはなかったが、200くらい記事を書いているんだから、1つや2つくらいはこんな風な吐き捨てるような記事があっても許してほしい。