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旅、映画、食べ物、哲学?

思いつき

去年11月の終わりに成田山まで行った時のことだ。
あのころわたしは、お寺や神社に行くと、決まって、
「私の道をお示しください」
と唱えていた。

今仕事としてしていることは自分にとって一生続けたいこととは思えない。だが、もっと創造的なことを、もっと一から作ってみたい、と思い続けている反面、結局自分が何をしたいのかわからない。そもそも今の職についたのも、自分のしたいことが、一本の道のように見えてこないままだったからである。この袋小路が四年ほど続いている。そんなわけで、私は、道を、渇望していた。

 

本堂で、釈迦堂で、奥の院の前で、平和大塔で、私は導きを求めて、心に言葉を念じた。不動明王、釈迦如来大日如来と、厳密にいえば対象は違ったが、私にとってはその差異よりも、なんらかの存在の前で精神を集中させることが重要だった。

もちろん、祈ったとて、すぐに何か答えが出るとは限らない。だが、祈りの言葉が、自分の胸の奥にある何かを、ふつっと、心の表面へと浮き上がらせてくれることはある。あとはそれを待つのみである。

だから私は中庭を散歩することにした。成田山の中庭は、あの頃、紅葉で真っ赤になっていた。

 

時々風情のある灯籠が姿を表す紅葉の道を歩いているうちに、心に浮かんできたことがあった。いや、浮かんできた、というか、問いかけてきたと言うべきかもしれない

「道なんて本当にあるのか?」
私は池に目をやりつつ、自答した。わからない……だが、道がなければ、先へ進めない、と。

「いや、道なんてなくてもいいのではないだろうか。お前が思いついたことを全部やればいい。それが自ずと道になる」
そう言うのは簡単なことだけど、先へ進むには何か一つの道を選ばないといけない。例えば、映像作品を作るなり、文章を書くなり、音楽を作るなり、何かしら一本に絞りながら、他の活動を一つにしてゆくのがいいように思う。だから、何か計画なり、道なりを見つけたいのである。

「だが、目的地が先に見えないなら、まずは歩いてみるしかないではないか。そう、散歩のように。お前が散歩を好むのは、思いつきで路地に入ったりして、見えていなかった街の表情を見るのが楽しいからだろう。夢や目標なんて作らずとも、思いつきを叶えることで、新しい何かと出会えるかもしれない。それが、形になるのを待てばいい。答えを急ぐな」

そこまではっきりと、本当に、こんな自問自答をしたわけでもなかったように記憶しているが、紅葉を眺めながら池の周りを歩きながら、私の心の中で一つの言葉が形を持っていった。形を持っていったのは、当たり前といえば当たり前のこと。だけど、今の私にとっては、大切なことだった。

 

だから、2022年、と言う新しい年が始まるにあたって、一つの「抱負」を述べなさい、と言われたら、次のように答えたい。
「思いついたことをできる限り実際にやってしまうこと」と。

「思いつきを大切にすること」と。

ユダヤ教神秘主義では、人が思いついたこと、人の思い、と言うのは神の思し召しなのだと言う。だから、というわけではないけれど、2022年は、いや、2022年以降は、自分の思いつきを、もっともっと大切にしてゆきたい。それが、日々をもっと創造的にするだろう。それが、私の道の一歩一歩になるはずだ。それが、巡り巡って私自身を助け、自分の望む人生様式へと導いてくれるかもしれないのだ。

だって、ふとした瞬間の思いつきは、神か仏か、或いは偶然、もしくは悪魔か、いずれにしたって、何か奇跡的な産物なのだから。