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旅、映画、食べ物、哲学?

「普通の暮らし」〜「トゥルーマンショー」を観た〜

いろんな見方をできる映画というのがある。私が昨日見た「トゥルーマンショー」もそうだろう。というのも、私がこの映画を見た動画配信サイトの紹介文には「情報化社会」についての言及があった一方で、沢木耕太郎の映画評『世界は使われなかった人生で溢れている』では「神と人間」というテーマでこの映画が語られており、さらに私が抱いた感想は、このどちらにも書かれていないようなものだったからだ。

 

トゥルーマンショー」というのは一つのテレビ番組である。24時間365日つねにテレビで放映している。というのも、この番組は一人の人の人生に常に密着しているからである。番組の主人公はトゥルーマン。彼は生まれた時からずっとテレビに移され続けており、彼を取り巻く人たちは皆、俳優である。だが彼は、自分がいる世界を本物だと信じ、その世界で繰り広げられる「普通の暮らし」を続けている。

「俳優の臭い演技にはもううんざりだ」

とプロデューサーのクリストフは言う。だから、彼は、リアルな人間を放送することにしたのだ。そう、トゥルーマン(True man)を。

だが、こんなことずっと続くわけもない。トゥルーマンは、徐々に、自分が暮らす世界の不自然さに気がついてゆく。

恋した相手は「トゥルーマンと話すな」と指示を受けていて、駆け落ちしようとしても、何者かによって連れ去られてしまう。彼女は「あなたの周りにいる人はみんな嘘をついている」とだけ言い残した。また、死んだはずの父親が突如目の前に現れる。あるいは、自分の行動を付け回すようなラジオ放送を聞いてしまう。またあるいは、街を走る自転車、自動車が決まった道を周期的に周回している。

実はこのテレビ番組に閉じ込められた男、トゥルーマンの夢は「冒険家」だった。知らない世界を見たい。なんとかして、この世界の外に出たい。

だが、航空券をとりにいけば一ヶ月間空席なし、車で出ようとすれば謎の渋滞に、山火事に、原発事故に、ありえないほど自分を止めようとしてくる何かが起こる。そうして、トゥルーマンは自分の周りの世界が作り物なんじゃないか、という疑惑を深めてゆき、逃亡を図る……

 

これは非常に特殊な状況を描く映画だ。私たちの誰も、テレビ番組に閉じ込められたことはないだろうし、そもそもこんなテレビ番組があれば、間違いなくBPOにひっかかる。だが、その一方で、非常に身近でもあると思う。

なぜか。それは、社会というものが、実はテレビ番組みたいだからだ。

 

わかりやすい部分で言えば、宣伝だ。「トゥルーマンショー」は24時間放映し続けるため、CMを挟めない。だから、劇中で飲み物を飲んだり、食べ物を食べたり、なんとか広告ポスターを見せつけたりすることで、いろいろなものをこれ見よがしに視聴者に発信している。この映画で見ていると、そのシーンがなんとも言えない気持ちの悪さを持っている。

例えばトゥルーマンの友人(役)がビールを飲む。なぜだか、カメラの角度に合わせてロゴが見えるようになっている。

「やっぱりこれこそ本物のビールだ」とキャッチコピーさながらの言葉を友人は言う。

あるいは、トゥルーマンの妻が、トゥルーマンを励まそうと、

「このニカラグア産のココアはとてもおちつくわよ。私は大好き」みたいなことを言う。これも、完全に宣伝である。

だけどこれは、案外、身近なことでもある。一番わかりやすい例はアフィリエイトだろう。誰かのブログを読む。すると、広告が添えられていたりする(私はブログを書くのが好きだが、そう言うのが嫌だったから、個人的にはアフィリエイトをやらないと決めている)。ツイッターやインスタグラムにしても、今の世の中、「トゥルーマンショー」に出てくる広告の不気味さは、不気味さを伴うことなく、日常に溶け込んでいる。リツイートすれば何かが無料になるからリツイートしたり、ハッシュタグ投稿で割引になるからハッシュタグ付きで投稿する。もはや宣伝は一般人が行う時代だ。「トゥルーマンショー」を見ながら、「ああ、これはテレビ番組の中だからこうなのだな」とあながち片付けられない世の中になった。

まあそれはそれで。

別の話が、私にとってはもっとポイントだ。

 

それは、冒険に関わる話である。トゥルーマンが冒険を企てるにつけ、いろいろな手段で冒険を止める人が出てくる。子供時代のトゥルーマンが、

「将来の夢はマゼランみたいな探検家になることです」というと、すかさず先生が、

「でも今は世界中どこも探検され尽くされてしまってるわ」という。

これって、この映画だけだろうか、ということだ。間違いなく、その答えはNoだろう。現実世界では似たようなことがよく起こる。例えば、俳優になりたい、とある少年が口にしたとしよう。すると、多くの「大人たち」はすぐさま、あれが大変だ、これが大変だ、なりたい人はたくさんいる、その中でも成功するのは一握りだ、と「鎮火」にかかるわけだ。経験したことがある人もいるかもしれない。

プロデューサーのクリストフは、「普通の暮らし」を、そして安全で、快適な暮らしを、テレビ番組の中でトゥルーマンに与えている、と言う。だが、これはテレビだけではない。社会というものは、ある一定の基準とある一定の定義に適った「普通の暮らし」というものを生み出し、私たちにその中に閉じ込めてしまう。多くの場合、私たちは必死にその枠内に止まろうとするだろう。だけど、拒絶したくなる場合も当然ある。そういう時、枠外へ向かう若人の背中を押す人は稀で、枠内に引き戻そうとする動きが強くなる。いくら、その若人にとって「普通の暮らし」が性に合っていなくても、だ。これはそのまま、「トゥルーマンショー」において起きていることと重なる。

映画の最終局面、父親が「溺死」したという最初の「設定」のせいで水がトラウマになっていたトゥルーマンが、そのトラウマを乗り越え、ヨットで海をも乗り越えて、スタジオの出口までたどり着く。その時、クリストフがトゥルーマンに対してこう呼びかける。

「外の世界より真実があるのは、私が創った君の世界だ。君の周囲の嘘、まやかし。だが君の世界に危険はない。私は君の全てを知ってる。君は怖いから外に出て行けないんだ。いいんだ。よくわかる。君をずっと見てきた。(中略)君は逃げ出せない」

それは「父親」の言葉そのものだろう。だがそれだけではない。多くの人がこぞってそれをいうこともある。そういう意味で、確実に、クリストフの作った世界は「リアル」だった。もちろん、そこで描かれる「普通の暮らし」はリアリティがないものなのかもしれない。良い妻、良い母、会社のオフィス……毎日続く日々は不気味に作り物めいている。だが、私たちが日々「現実」だとして提示されるものもそんなものではなかろうか。そして、そこに縛りつけようとする力そのものは紛れもなく現実に存在する。

トゥルーマンがそれに対して、どのような決断をするのかは、言わないでおこう。だが、一つ言えるのは、クリストフはひとつ間違いを犯していたことだ。

私たちは現実世界において、ある種「普通の暮らし」を大事に守っている。なぜなら、その枠をずれたら、大きな抵抗力が働くからだ。もちろんそれを打ち破ることができる人もいる。それを打ち破る手助けをしてくれる人もいる。だが、支援者に出会うことは本当に一握りの人にしか起こらないだろうし、心を強く、先へと進む力を持った人も、やっぱり少ない。だからきっと才能云々の前に、そういった踏み出す勇気などが必要なのだ。だからこそ、私たちはテレビ番組にせよ、映画にせよ、心の底で、「閉じた社会」を打ち破る力を期待している。その物語が、私たちを救ってくれるからだ。芸能人がある輝きを持つとすれば、それは容姿だけでなく、やっぱり、「普通」とはいえないその世界に、一歩踏み出した人だからだろう。クリストフはトゥルーマンの「世界」を保全し続けようとしたが、視聴者が望むのは、きっとそういうことではなかったのである。もちろん、娯楽の上で、ということではあるが。

 

面白い映画だったが、あんまり「ご覧あれ」とかいうと、それこそ「トゥルーマンショー」の劇中広告みたいで気味が悪いのでこれ以上何もいうまい。