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旅、映画、食べ物、哲学?

運を天に任せ

散歩に出よう。

そう思ったは良いが、行き先が見当たらない。最近はよくあることだ。色々歩くようになって、あそこもここも行ったことがあるという状況なのだ。もちろん、本当に行ったことがあるかは定かではないし、東京も広いのだから、全部行ったなどと豪語するつもりもない。だが一つ言えるのは、知っている地名が増えると、知らないところに行く元気もないが、知っているところに行く意欲もないということになる。

だがその日は、なんやかんや考えていてもらちがあかないので、わたしは無理にでも外に出ることにした。自宅から駅まで10分。そのうち何か思いつくだろうとタカをくくっていた。

だが、何も思いつかなかったのだ。駅に着いたは良いが、さてどこに行こうかと悩んでしまった。するとふとあるアイデアが降ってきた。もはや全てを運に任せてはどうか、と。 

まず、スマホを出す。そして乱数発生サイトを開く。ランダムに数字を生み出してくれるサイトだ。わたしは何の電車に乗るかだけ決まる。山手線にしよう。山手線の駅数がいくつあるか調べる。どうやら25駅あるらしい。1〜25までの乱数を生成させる。すると出てきたのは6。最近では非日本語話者の旅行者のためか、ほとんどの駅には数字がふられている。調べてみよう。6に当たるのは……鶯谷だ。そうだ、鶯谷行こう。

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馬鹿げたやり方だが、人生もこの世界も、多分こんなもんだろう、と車窓を見ながら思った。この世は全て偶然出てきている。物理学者は数学を使って法則を記述し、宗教家は神の意志を語る。だが、それは世界が必然で動いていることの説明にはならない。例えば、あなたがそこにいることもそうだ。あなたはあなたの両親から生まれた。あなたの両親はあなたの祖父母から生まれた。辿りに辿ればルーシーかもしれない。だが、あなたがあなたの両親から生まれてきたのは偶然である。科学的にはあなたはあなたの父親の精子があなたの母親の卵子にたどり着くことで生まれるわけだが、何千何万とある精子の中からあなたになった精子がたどり着いたのは偶然だし、そこからあなたという人が産まれるのも偶然だ。あなたは一度きりの存在だ。地球も、何でもかんでも、一回きりしか同じものは誕生しないだろうし、自然現象だってそうだ。雨だって、あなたの顔にぴちゃっと落ちてきた雨粒は一度きりの存在だ。

だが、他のことが起こる確率があったにせよ、実際に起きたのは一つの出来事である。ということはこれは必然的とも言えるし、運命とも言える。偶然は必然なのだ。同じなのだ。あなたがそこにいるのは偶然だが、あなたがそこにいること以外は起きなかったので必然だ。だからきっと、全ては必然だという人もいるのだろう。そうすると、偶然だろうが、必然だろうが、一つのものということになる……

 だから……強引に話をつなげると、鶯谷に行き着くことだって、偶然ではあるが、実は必然でもあるわけだ。現に私は家を出る前あれこれ行き先を悩みながら、上野に行こうかと内心思っていた。鶯谷といえば、上野の隣駅。歩いて行ける距離だ。これは導かれていたとも言える。だが実際は、やはり偶然に過ぎない。しかし偶然であるがゆえに重みがある。

 

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そんなこんなで鶯谷についてみると、小雨が降っていた。傘? そんなもの持っているはずがない。だが幸い、そこまで気にならないタイプの雨だった。雨に濡れるのも悪くない日だってある。偶然と必然に任せた散歩だ。まさに今日がそんな日だ。

鶯谷自体行ったことがなかったので道も何も分からぬまま、とりあえず、駅を出て、すぐのところにある線路の上を通る道を歩いた。下り坂になっていて、向こうには繁華街のようなものが見える。道路を挟んで向こうの道は高校生だらけ。楽しそうな声が聞こえる。車通りもあるし、結構活気のある街だ。適度に道は汚いし、なかなか良い偶然だった。

下り坂の道を歩き終わると、下に降りる階段があったので、降りた。やはり適度な汚さがある。周りにはネオンが煌く。この辺りの店は、飲食店か、いかがわしいホテルばかりのようである。言ってみればハードボイルドな街だ。ただし、高校生の大群がそんな街に健康的な彩りを添えてはいる。

ごちゃっとした区画を抜けると、大通りが横切っている。車通りが結構ある。ハノイを思わせる、排気ガスをブブブッと出すタイプの車がゆらゆらと揺れながら前へと進んでいる。いいじゃないか。こういうの、好きだ。大通りの右に行くか、左に行くか。さてどうしよう。右には、道の向こうにスッとしたフォルムの塔。有名な、東京スカイツリーだ。縁起がいい。東京スカイツリーに向かおう。

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と、東京スカイツリー方面に、生活感ある大通りを歩いて行くと、私がよく東京の散歩に利用している、車用の青い看板が見えた。この大通りを先に見える十字路まで歩き、右に曲がれば上野だという。上野に行きたかったんだ。アメ横の雑踏を通り抜けたかったんだ。そんなことを思い出したので、私は右に曲がることにした。雨はそこまでひどくない。なんならやみそうである。車もブブブンと走り去って行くし、何もかもうまくいきそうな感じがした。もちろん、根拠などない。

右に曲がると、先の方にまた別の大通りが横切っているのが見えた。その上には高架橋が走っている。多分高速道路である。ここで思い出したのだが、私は以前思いつきで墨田区に行って、そこから歩いて浅草へ、そして上野を通って帰ったことがあった。もしや、あの帰り道ではないか? そう思うとなんだかちょっと残念な気がした。私は最近散歩すると、ここはあの道じゃないか、と気づいてしまうことが増えていたのだ。やはり散歩をするからには、何かしらの新規性が欲しいものである。というわけでとりあえずその道の方まで行って、その少し手前で曲がり、別の道に行く、という作戦を立てた。

やってみると、下町らしい雰囲気の街に迷い込んだ。ブロイラーを売っている店や、「警察に声かけられても、任意同行だから、行かなくていいんだよ」という背伸びした会話で盛り上がる小学生たち、町工場などを横目に歩くと、なかなか楽しい気分になってくる。しかし途中で気づいたのだ。この前浅草から上野まで駆け抜けたあの道の上には、高架橋などなかった、と。だからあれは赤の他道、他道の空似だったのだ。そう思うと、俄然その道に戻りたくなったので、私は大通りに合流した。

その大通りはその大通りで下町情緒にあふれていた。神輿が置いてあったり、小さい店があったり、なかなか良い。独特な雰囲気があって、思わず写真を撮ってしまったのは、スナックが並ぶ路地だった。大通りから、行き止まりの路地が伸びていて、そこはまるで舞台のセットのように、美しくスナックの看板が並べられていたのだ。

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ちょっと歩くと、上野駅に続く道があった。どうやら、この道はやっぱり私が通ったことのない道だった。その証拠に、ちょっと予想外のところから駅の方にたどり着いた。説明が難しいが、正面ではなく、少し横から、ということである。駅に入ってしまうのは面白くないので、駅の前を横切って、高架下に入った。と、ここで、突然私は上野公園に行きたくなった。目的地のアメ横は目の前だが、ままよ、私は上野公園に向かって歩いてみた。

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もしかすると、新しい場所に出会うための予感だったのかもしれない。上野公園に入り、見慣れた道を通っていると、降りたことのない階段があり、それを降りたら、不忍池についたわけだが、私は今まできちんと不忍池に来たことがなかったようなのだ。階段を降り、横断歩道を抜けると、その先には謎の、六角形の寺があった。ハノイのホアンキエム湖の真ん中に祠があるの同様、東京の不忍池の真ん中にもあるというわけか。おもしろい、入ってみよう。ちょうど、寺からは雅楽のようなものが聞こえていたし、魅力的だった。

寺の周りに植えられている蓮は、冬なので枯れ果てていた。しかしその枯れた雰囲気も悪くない。そう思いながらずんずん中に向かって歩いていると、巨大なモニュメントがあった。そのモニュメントは巨大なメガネがかたどられていた。私もメガネをかけているので、とりあえず近寄ってみると、日本でのメガネの歴史が書かれていた。戦国から江戸にかけてやってきたメガネは、明治以降需要を伸ばし、文明開化の影の主役だったという。ちょっと言いすぎな感もないが、なるほど、そうともいえそうである。メガネをかけるものとして、ちょっと姿勢を正し、一礼した上でそのモニュメントを出て、本題の寺へと向かう。

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六角形の寺はどうやら弁財天を祀っているらしい。水だからだろう。弁財天といえば、私の記憶が正しければ(正しくなかったら間違っているということだ)インドの水の女神サラースヴァティーが仏に帰依したものだったはずだ。銭洗弁天などの類も、確かそこと関係あったような、なかったような。よく寺の前にあるお香を焚く場所の近くには、体が蛇の髪を結ったおじさんという奇妙な姿の神様(?)の像が置かれている。想像以上に、この寺は面白いかもしれない。ありがとう、と心の中で蛇おじさんに声をかけたが、もちろん答えは返ってこない。

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後で調べてみたのだが、この寺は天海大僧正が作ったらしい。天海大僧正といえば、徳川家康のブレーンでもあった僧侶だ。上野に寛永寺を作る一環で、この寺(本当は弁天堂というらしいので、「寺」という独立のものではない)も作られたらしい。天海大僧正は、「見立て」という手法を用いて上野を設計、寛永寺を京都の延暦寺に見立て、さらにこの弁天堂は不忍池を琵琶湖に見立てることで、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺という寺に見立てられているという。弁天堂は江戸時代に人々の参詣の場になったが、戊辰戦争や太平洋戦争で焼けてしまい、現在のものは戦後に作り直されたものだという。

六角形の寺をぐるりと回ってみることにした。すると、周りには様々な碑が置かれている。日米友好を示す英文と和文二つの碑や、もはや読めない碑など、さまざまである。不忍池の向こう側には現代の都会的な上野の姿がある。日も暮れつつある。弁天堂の裏側に回ると、そばにボート乗り場があった。さすがに一人でボートをこぐわけにはいかないので、スルーして、弁天堂の正面に戻った。なかなか、面白い場所だった。いやはや、やはり偶然に導かれて正解だったわけだ。

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それから私はアメ横を通り抜けた。相変わらずゴミゴミしていて、エネルギッシュで最高な場所である。中東のバザールに似ているとイラン出身のタレントのサヘル・ローズが言っていた。その真偽は中東に行って確かめたい。だが少なくとも、東南アジアには限りなく似ている。ただし、アメ横のど真ん中を突っ切るバイクが存在しないので、まだまだ、日本的秩序を保っていると言えるだろう。アメ横を抜けるともう御徒町である。私は東京駅まで歩くことにした。節約である。以前歩いたことはあるが、結構前だし、いいだろう。秋葉原を抜け、万世橋を渡るコースである。

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秋葉原は相変わらずといったところだったが、何やら警察署前に報道陣がいたので、きっと何か動きがあるのだろう。しかも突然だったらしく、信号待ちしていた時隣にいた記者が、「やっぱりもう結構張ってるなあ」「でも以外と人少ないから取れるんじゃないか」などと話していた。あれはなんだったんだろう。結局調べるのを忘れたので、真相は闇の中である。

万世橋に着いたが、私は渡るのをやめた。なぜかというと、例の青い車用看板が右に行けば御茶ノ水とさしていたからである。私の家からは、東京より御茶ノ水の方が断然近い。こうなったら御茶ノ水に行ったほうがいい。というわけで私は、御茶ノ水方向へ歩みの舵を切ったのである。

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外堀もとい神田川沿いにあるき、御茶ノ水駅に着いたのは、17時30分くらいだ。まだ買えるのはもったいない。そういうわけで私は神保町によった。ちょっと必要な本があったからだが、三省堂で実物を見ると、まあ買わなくていいかと思えてきたので、買わずに帰った。

 

実を言えばきちんとした散歩としては、これは随分と久しぶりだった。やはり心のゆくまま行くのは楽しいし、それ以前に、乱数に従って歩くというのは面白かったのでまたやってみようと思った。しかしこの時の私は、翌日もっとすごい距離を歩くということを知らなかった。特に理由はないのだが、その翌日は渋谷から高円寺まで歩いたのだ。そう、これも偶然。だからこそ必然でもある。