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旅、映画、食べ物、哲学?

馬喰町の謎

バクロ町という場所がある。

馬を喰らう、と書いて、バクロと読む。随分と禍々しい名前である。それだけに、どんな由来があるのか、無性に気になってしまった。

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三週間ほど前だったか、私は誕生日を迎えた。そういうわけで、何か誕生日らしいことをしようと髪を切ったり、お参りに行ったりした。ちょうど上野に行きたかったもので、上野の東照宮と、不忍池の真ん中にある弁天堂に行こうと思った。

特にゆかりがあるわけではないのだが、弁財天は吉祥寺でお参りしたり、当の不忍池でお参りしたり、と何かと気持ち的に近い。縁があるというやつだ。思えば父方の祖母が住んでいる鎌倉も、江ノ島が弁天を祀っているはずだし、銭洗弁天鎌倉駅の近くにある。航海と芸術・学問の神、というのもなんかいい。

ところが、だ。東照宮(今言い忘れたが家康も結構好きなのだ)で無事お参りを終え、公園を散歩しながら階段を降りて弁天堂へ向かうと、目の前で弁天堂の扉が閉じられてしまった。時は緊急事態宣言最後の日。閉門が早かったらしい。吉祥寺では弁天堂が封鎖されていたから、まだまだ寛大な方である。にしても目の前で閉じたのは、やっぱり、無理に神様の二股をかけようとしたからに違いない。

それから、なんだか調子の悪い日が続いた。仕事がうまく運ばなかったり、気持ち的にトゲトゲした日が続いたり、頭痛が長引いたり…。偶然か、神罰か。そんなものは人間如きにはわかるまい。だが、なんとなく弁天堂の一件が心にひっかかっていた。

 

そう言うわけで、翌週。私は改めて弁天堂へと向かった。

と、ここでやっと「馬喰町」が登場する。

弁天堂に行くはいいが、なんだかそれで用だけすませるのも面白くないと思った。そして地図を開いて、何か面白そうなところはないかと目をやった。すると目に入ったのが「馬喰町」。その名も、「馬を喰らう町」だ。いったいどう言う由来があるのか、なぜ馬を喰らうのか、半ば強引に私は関心を引き寄せ、上野から馬喰町へと行こうと決めた。

その日は雨の予報だった。だが、雨は降っていなかった。しかし私は天気痛というやつを持っていて、気圧の変化に応じて頭が痛くなる。その日も、ずしんと頭が重く、徐々にキリキリと痛み始めていた。

何よりもまず弁天堂へ行き、この一年間良き導きがあるように神へと祈り、不忍池を散歩した。アメ横を通り、御徒町へ入り、いつものルートである。普段は秋葉原を通り抜けてお茶の水に行くが、今日は違う。左へ、左へ、隅田川の方へとまっすぐ歩いた。

そうこうするうち、川が見たくなってくる。私はカクカクと道を歩きながら、浅草橋の近くまで来て、馬喰町に直行せず、隅田川へ行くことにした。

グレイの空の下、川は流れている。船が時折走り去り、川沿いの道をランナーが駆け抜ける。川沿いの雰囲気というのは洋の東西を超えて、いいものだ。人々は川のそばで思い思いの時間を過ごしている。本を読む人、喋る人。歩く人、走る人。外国に行けば、エアロビをする人や、魚を釣る人なんてのもいる。川という空間が、張り詰めた人間の時間をいっときでも緩めてくれるようだ。

しばらく川を横目に歩いて、ちょっとだけ本を読んだりした後で、私はついに馬喰町へと向かった。

 

さて、馬喰町にはどんな由来があるのか。

実はこの日、私はそれを調べ損なったのである。原因は、川まで歩いてちょっと疲れていたこと、そして天候が悪くなって頭痛が激しくなったことにある。馬喰町まで来て、それで満足し、お茶の水方面へ足を進めてしまったのだ。

だが、なぜあそこが馬喰町と呼ばれるのか、という疑問は鎌首をもたげ、だんだんと御茶ノ水へと向かう道中、心を侵食していった。もちろん、馬喰町へいったときに、町名由来看板のようなものを探そうとはしたのだ。だが、その時は見つからなかった。そして探す気力がなくなってしまった。だが、疑問は心の中に広がっていく…。

よし、また来週行こうではないか。そしてそれまでは、絶対に調べまい。私はそう、心に決めた。

 

そういうわけで、一週間、馬喰町の町名の由来は謎のままにしておいたが、面白いので、無理矢理妄想してみることにした。

① 実はここには甲州、現在の山梨からやってきた武士が住んでいた。山梨では馬を馬肉として食う習慣がある。国元を離れた甲州武士たちも故郷の味が恋しくなり、馬肉を取り寄せるようになり、徐々に馬肉を調理する店もでき始めた。これが江戸の人々にはめずらしく見えた。「あすこの御武家さんたちは馬を食っちまうんだからおっかねえ」と言うわけで、市井の人たちはそこを「馬を喰らう町」だと呼ぶようになった。だから、「馬喰町」。

② 時は平安時代、この近くの村に馬をたくさん飼育している村があった。だがある時、馬がいなくなる事件が起こる。そしてその馬は骨だけの状態で見つかる。そう言った事件が相次ぎ、村人たちは事件の真相に迫ろうと、夜を徹して馬を見張った。するとどうだろう、鬼が現れ、馬を食っているではないか。その鬼はその後討伐されるが、この鬼の寝床があったのが、何を隠そう、「馬喰町」なのだ。

どうだろう、②はほとんど冗談だが、①は当たらずとも遠からずなのではないか。そんなくだらないことを思いながら、私は今日、再び、馬喰町へと行った。弁天堂の一件から考えると実に三週間ほどこんなことを繰り返している。

 

今日は上野からではなく、馬喰町からほど近い浅草橋へ行き、浅草橋をちょっと回ってから馬喰町へと向かった。直行しないのは私のサガのようなものだから、しょうがない。ちなみに今日も、頭痛はする。

馬喰町は、浅草橋から行くと江戸通りという大通りを中心に歩くことになる。旗を売る店や、呉服店などを横目にしつつ、私は町名由来看板を探した、東京の中心部には大抵、そういう看板があって、旧町名の由来を紹介しているはずだ。しかもここは「馬喰町」、馬を喰らう町だ。こんな気になる名称の街に看板がないわけがない。

と思っていたのだが、一向にそれらしい看板が見当たらない。おかしい。このままでは帰れない。だが看板は現れない。このままでは馬喰町の外に出てしまうのではないか。私はそう危惧しながらぐんぐんと歩いた。

案の定、町名はいつの間にか、小伝馬町になっている。駅も小伝馬町駅である。困った。途方に暮れていると、銀行が目に入った。その銀行の壁には浮世絵のようなものが描かれ、「江戸の中心部を散策しよう」といったコラムまで書いてあった。これは、ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。私はその銀行の壁に書いてあることを隈なく読むことにした。

するとどうだろう。端にひっそりと馬喰町の由来が書かれているではないか。私は興奮気味にその文章を読んだ。

 

馬喰町の名は、徳川家康関ヶ原出陣に必要な数百頭の軍馬を管理するために、馬喰(博労=ばくろう)と呼ばれた馬・牛の売買・仲介をする商人を集住させたことが由来とされています。(さわやか信用金庫日本橋支店の説明書きより)

 

馬喰とは、商人の名称だったのだ。これは自力でたどり着けるはずがない。馬を喰らうわけではなかったのだ。鬼も甲州武士も出て気はしなかった。だがなんとなく、頭痛も吹っ飛ぶようなすっきり感を感じた。にしても、馬喰町が関ヶ原の戦いと繋がってるとは、随分と由緒がある。現在では、馬ではなく、服などの問屋街となっているが、商人街の伝統は今も残っているようだ。

私はなんだか心軽やかに、馬喰町の問屋街を歩いて回った。しまっている店も多かったが江戸の風情が確かに残っている。道も入り組んだり、曲がったりしていて、きっと昔からこうなんだろうなと思わせてくれた。おかげで方向感覚が狂い、挙げ句の果てには人形町あたりにたどり着いたのだが、これはこれで面白いものである。

そういえば、私は榎本武揚という歴史上の人物がずっと気になっているのだが、この男の生まれは確かこの辺(小伝馬町やその辺り)ではなかったか。私はそう思ってスマートフォンで調べてみた。すると、「下谷御徒町」とある。いわゆる御徒町ではなく、どうやら浅草橋周辺らしい。三味線堀なる場所の近くらしいのだが、正確にはどのあたりなのだろう。気になるところではあるが、これは次週の宿題としよう。

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馬喰町の問屋街