Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

柳川横町を探せ

日本の歴史の中で、名前がちょくちょく登場するにもかかわらず、知名度も人気度もさほどではない人物。それが榎本武揚である。私はそんな榎本武揚という人物に高校時代からハマっている。

ここで榎本武揚話をくわしく続けるつもりはない。というのも今回は、榎本武揚本人の話ではなく、彼が生まれた土地を探した、という話がしたいからだ。

 

だが、知名度も人気度も高くない人物をいきなり出してくるのも不親切極まりないので、少しだけ、プロフィールをみてみよう。

榎本武揚はいわゆる幕末から明治にかけて活躍した人物だ。元々幕府の旗本、だから幕府で働いていた武士である。彼は二十七歳の時に幕府によるオランダ留学に参加し、そこで科学や国際法などを学んだ。

帰国してまもなく、日本は旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争に突入。榎本は海軍を率いて最後まで新政府軍と戦っていく。戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争では、旧幕府軍の指導者となり、彼の元で選挙による政権、通称「蝦夷共和国」が成立する(一説には日本で最初の選挙による政権樹立ともいわれる。ただし選挙は集まった兵士の中で行われ、さらにいえば、下士官以上には選挙権がなかった。とはいえ、この時代に選挙をやってみようと思いついたのが画期的なのである)。諸外国と渡り合い、一時自分達の正当性を認めさせることに成功するが、主力軍艦の「開陽丸」が座礁沈没したことで戦況は悪化し、1869年に降伏した。

その後彼はその有能さが認められ、今度は明治政府に雇われることになる。北海道開拓に従事したり、ロシアでは外交官として樺太千島交換条約を締結したり、日本では逓信大臣として郵便マーク(〒)を決定したり、外務大臣として不平等条約改正のために尽力したり、農商務大臣として産業の育成をしたりとあちこちで活躍した。これがむしろ節操がないと言われる所以でもあるわけだが、文部大臣だった頃に教育勅語を作れと言われて拒否したり、足尾銅山鉱毒事件が起こった際に大臣辞職のみならず政界引退をするなど、おそらく彼なりの芯があったのだと思う。

そんな榎本武揚はやはり海外との関わりが強い人物であり、選挙による政権樹立や国際法の知識といったイメージもある。そのためか、歴史のドラマなどでは、必ずと言っていいほど、ちょっとお高く止まった標準語の紳士として描かれる。だが実はその認識は若干間違っている部分がある。というのも彼は江戸の下町で育ち、べらんめえ言葉を操るチャキチャキの江戸っ子だったからだ。

 

さて、彼は正確にはどこで生まれたのか。

ちょっと調べてみると、「下谷御徒町柳川横町、通称三味線堀の組屋敷(現在の東京都台東区浅草橋周辺)」という地名が出てくる。これの出典はおそらく加茂儀一『榎本武揚』(中公文庫)だと思われる。この本では、現在の地名として「浅草区向柳原」とされているが、これは古い地名で、浅草橋のあたりを示しているようである。

先週(馬喰町の謎 - Play Back参照)、浅草橋と馬喰町のあたりを歩いていた際に、この辺りだとしたら、どこだろう、とふと疑問に思った。そうして昨日、行ってみることにした。だが、何も知らなければ、探すこともできないだろう。というわけで、電車の中で私はあれこれ調べてみることにした。

すると、案外、今やろうとしていることは難しいのかもしれない、と気づいた。

まず、「下谷御徒町」というワードだが、これは「下谷」の「御徒町」ということであり、ようするに「御徒町」である、ということになるが、浅草橋からはそこそこ離れているように思える。

次に、「柳川横町」。なんとこれに関しては、全くわからない。古地図で榎本武揚の生地を探っている人のサイトでも、「地図に記載がない」とされていた。ちなみに「柳川」は同音の「梁川」と漢字を変換し、榎本の雅号になっているほか、函館にも「梁川町」という地名が付けられている場所があるらしい。だが、残念ながら東京には見当たらない。

そして「三味線堀」だが、これは「三味線堀跡地」の紹介ボードが存在していることがわかった。新御徒町駅のそばだという。ほら、やっぱり御徒町じゃないか。なぜ浅草橋なんだ…。そんなに遠いわけではないけれど、すごく近いわけでもない。

さらにいうと、古地図というものには大抵、どの家のものがそこに住んでいたのか、武士に関しては書かれていることが多いのだが、身分の低い組屋敷ではそれがなさそうなのだ。つまり、決め手にかけるわけである。

困っていると、電車が上野駅に着いた。ひとまず、三味線堀跡地へ行ってみよう。

 

そうは言っても、全くなんの手がかりもないわけではなかった。次のようになる。

三味線堀、というものが、どうも不忍池から隅田川までを繋ぐ堀の一部の名称だということがわかっていたので、「三味線堀の組屋敷」を探すには、その堀の跡地を隈なく探してみれば良さそうだ。そして、堀は古地図を見ればどこを通っているかがすぐにわかる。だから、やるべきことはただ一つ。堀の流れを探ることだった。

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かくして私は上野から御徒町へと抜け、そこから地下鉄の新御徒町駅の近くへ向かった。すると、ちょっと驚く事実と対面することになった。というのは、このルート、明らかに、二週間ほど前に私が上野から馬喰町まで行くために歩いた道だったのである。「佐竹商店街」という商店街がある場所だった。何やら運命に導かれていたのかもしれない。

佐竹商店街はスルーして、清洲橋通りという大通りを真っ直ぐ南下する。かなり暑い日のこと。日差しも、湿気も高い。マスクのせいで空気も悪い。私は日陰側を歩きながら、三味線堀跡地の表札を探した。汗がだらりと背中を流れてゆく。

道の中程行ったところに、その表札はあった。できればそこに三味線堀がどこをどう通っているのかの図があれば良いと思っていたのだが、流石にそれはなかった。だが、その文面と、スマートフォンで探した周辺の古地図を照らし合わせながら、なんとか探してみよう。

 

三味線堀跡    台東区小島一丁目五番

現在の清洲橋通りに面して、小島一丁目の西側に南北に広がっていた。寛永七年(一六三〇)に鳥越川を掘り広げて造られ、その形状から三味線堀と呼ばれた。一説に、浅草猿屋町(現在の浅草橋三丁目あたり)の小島屋という人物が、この土砂で沼地を埋め立て、それが小島町となったという。

不忍池から忍川を流れた水が、この三味線堀を経由して、鳥越川から隅田川へと通じていた。堀には船着場があり、下肥・木材・野菜・砂利などを輸送する船が隅田川方面から往来していた。

なお天明三年(一七八三)には堀の西側に隣接していた秋田藩佐竹家の上屋敷に三階建ての高殿が建設された。大田南畝が、これにちなんだを狂歌を残している。

  三階に三味線堀を三下り二上り見れどあきたらぬ景

江戸・明治時代を通して、三味線堀は物資の集散所として機能していた。しかし明治末期から大正時代にかけて、市街地の整備や陸上交通の発達にともない次第に埋め立てられていき、その姿を消したのである。

  平成十五年三月    台東区教育委員会

 

形状から三味線堀と呼ばれた、というのは、古地図を見てみるとよくわかる。堀の一部が四角く膨れていて、それが三味線の胴の部分に、そしてそこから流れる細い通常の堀がネック(棹)の部分に見えるというわけだ(ちなみに野暮を承知でつけくわえると、大田南畝狂歌にある「三下り」「二上り」というのは三味線のチューニングに由来する言葉でもある)。さて、問題はその細い部分の堀がどこをどうやって通っているかである。

ちょうど表札のある場所が日向で、くらっと来てしまったので、日陰に移ってスマートフォンを開く。古地図によると、堀は松平何某の巨大な屋敷沿いぐるりと回り込み、そのまま隅田川方面へ、つまり東へと流れを変えている。だが、残念ながら、現在のどのあたりにその屋敷があるのかがよくわからない。

わからなければ、区画をよくみて、その後はテキトーである。本当はもう少し精密にやることもできるが、私は歴史家ではないから問題ないのである。などと、都合のいい時だけ横着がでる。ああだこうだ理屈をつけてもしょうがない。要するにあの日は馬鹿みたいに暑かったのだ。

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清洲橋通り

 

というわけでしばらく清洲橋通りを通る。すると、細い路地が現れた。そこには看板が掲げられている。「おかず横丁」。実は二週間前にも来ているが、方向は同じなので、通ることにした。

二週間前は天気が悪かった。それがこの日は天気がいいので、おかず横丁も賑わっている。道の雰囲気は古くからある商店街、それも、屋根がないタイプの商店街である。焼肉屋青果店などがあり、ときどき、びっくりするくらい古い、緑青に染まった建物なども出現する。そして、どんな街にでも根付くインドカレー屋もバッチリ根付いている。

この商店街の面白さは、地元の子供達で賑わっていることだろう。商店街と言うと今では、老人たちの世界であるか、それか、エモさを求めて集まってきた人々でいっぱいか、のどちらかであることが多いのだが(偏見である)、この「おかず横丁」は子連れが多い。特に、なにやらかき氷を売っている店は子供にかなり人気があって、子供たちや子連れの親たちで行列ができている。二週間前、天気が悪い時も混んでいたが、この日行った時は晴れていたこともあるのか、とにかく長い行列ができていた。店自体は古そうだから、ここはしっかりと生きている商店街なのだ。

あるいていると、電柱につけられたスピーカーから、平成中期のノリノリのメロディーが流れている。なんだろうと思って耳をそば立ててみると、「イエーイ、メッチャホリデー」と聞こえてくる。このカオスがたまらない。

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おかず横丁(イエーイメッチャホリデイ)

 

おかず横丁を抜けたら、柳川横町を探さねばならない。

すると目の前に、由緒正しそうな大きめの神社が現れた。二週間前は中に入らなかった場所だ。しかしひょっとすると、神社には何か手がかりがあるかもしれない。例えば、神社が古いものであれば、古地図に残っているかもしれないし、由緒書きに何か地名についての記述があるかもしれない。

私は神社に入り、お祈りをしてから、由緒に着いて書かれた石碑を探した。だが石碑はなかった。代わりにあったのは、タッチパネル式の説明書きだ。時代も変わったようだ。私はデジタル石碑を起動させた。

すると、この神社(鳥越神社)の由緒はかなり古いもので、平安時代の頃からだと言うことがわかった。そして徳川家光の時代に、東照大権現こと徳川家康も合祀されたという。家康が祀られているのは日光と上野の東照宮しか知らなかったので、こんなところでも祀られているとはさすがは江戸だなあ、と感心しつつ、榎本武揚がいた頃にはもうこの神社はあったのか、と感慨に包まれた。だが古地図で該当する神社は見当たらず、なんだか神聖な気持ちだけが残された。

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意外とハイテクな鳥越神社

 

神社を出て、私は蔵前通りに出た。正確なことはわからないが、この蔵前通りの当たりが恐らくは三味線堀から続く堀と重なるのではないか。半ば強引に私はそう自分を納得させ、この辺りにきっと榎本武揚が住んでいたに違いない、と思った。

その強引な信念が確信に近づいたのは、横断歩道を渡ってからだった。横断歩道を渡ると、住所の標識が見えた。そこには「浅草橋3丁目」とある。浅草橋というと、私の中ではJRの浅草橋駅のイメージがあって、三味線堀や御徒町とは遠いように思えた。だが、先ほど「この辺じゃないか」と思った三味線堀の目の前に、現在の浅草橋地区は接しているわけだ。やはりこの辺だった。

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蔵前通り

 

私は問題解決だ、と浅草橋駅の方面へと歩いた。だが実は心に引っかかっている点が一つだけあった。

蔵前通りは、江戸時代の浅草御蔵に直結していて、蔵前通り沿いには、江戸時代の首尾の松という松の木があった跡が残っている。それは二週間前の散歩で見たから知っていた。ところが、古地図で見た三味線堀は、松があるとされている場所よりも南の方を流れていたのだ。きっと、三味線堀から続く水路は蔵前通りよりも南を流れているに違いないのである。

そんなことを思いながら歩いていると、路地が神社に直結している場所を見つけた。その神社の風情がいい、というか、どことなくグロテスクな、おどろおどろしさをも感じさせるようなものだったから、私はちょっと神社の方まで歩いてみた。童歌の記録がたくさん残る神社らしく、やっぱりちょっとおどろおどろしさがある場所だった。

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銀杏岡八幡神社というらしい。古そうな宗教施設に残るおどろおどろしさはそれもまた魅力である。

だが、問題はそこではなかった。鳥居の前に地図が貼ってあり、その地図を眺めると、ある路地が目の前に浮かび上がってきたのだ。蔵前通りから分岐して、ちょうど三味線堀の水路が隅田川と交差するあたりまで伸びる細い路地の存在が。

…これだ。これだったのだ。

なんの確証もないが私は間違いない、と心躍らされた。だから、もう一度戻ってその道を探すことにした。

 

屋台風のタイ料理屋や、割と珍しいバングラデシュのカレーを売る店などを横目に、三味線堀と思しき路地を目指す。

浅草橋の路地裏は、表通りの繁華街っぷりとは異なり、小さな町工場のようなものがたくさんあり、下町らしいガサつき方をしている。本来の東京はこうなんだろう、というような、木や、鉄や、ゴムの香りが残る場所である。そこに時々変わり種の飲食店などもあって、伝統と新しく参入してきたものの共存が見ていて楽しい。

三味線堀なのではないかと思う路地もそんな雰囲気の直中にあり、時折バスや、小型のトラックが駆け抜ける。基本的には閑散としているが、きっと平日だと、物を作る音が聞こえたりするのだろう。暑い日にあって、日陰も気持ちいい場所である。

その道はクネクネと曲がっており、まっすぐ先が見渡せなかった。その様子を見た時、私は、きっとここが三味線堀の水路跡なんだろうなと、なぜだか納得してしまった。水路を埋め立てた道は、蛇行しがちだ。きっとそれは水が水の論理で動いているからなのだと思う。だから逆にいえば、きっとこの曲がった道は、水路だったに違いないのだ。

手がかりを探しながら、しばらく歩いていると「柳北スポーツセンター」という看板が見える。ひょっとして、「柳」は「柳川横町」の名残だったりはしないか。

榎本武揚はきっと、この辺りで幼少期を過ごしたのだ…。

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ここが三味線堀の水路…?

 

その後、私はお茶の水に用があったので、そのまま歩いて湯島聖堂へ行くことにした。いわゆる「昌平坂学問所」である。ここは榎本武揚が10代を過ごした場所で、幕府の官僚は皆この学校で儒学を学んでいる。そう思うと、通学ルートを再現するわけで、それも面白いなと思ったのである。

猛暑の中なんとか歩き進め、昌平坂(相生坂)にたどり着くと、十五分前に湯島聖堂の公開は終わっていた。つまり「遅刻」してしまったのである。そういうわけで、来週は湯島聖堂に行くのを宿題としよう。そう、決めた。

 

 

追記:加茂儀一『榎本武揚』を読み返していたら、「柳川横町」の由来は、隣に柳川藩(立花藩)の藩邸があったからだという。だけど、そうすると、私が昨日散歩しながら思い描いていたよりも北、新御徒町駅のあたりがその場所だということになる。だとすると結局「浅草橋」というのは誤りだったということになる。やっぱり歴史は難しい。シュリーマンも同じような気持ちだったのだろうか。ただ、私はシュリーマンほど頑張れない。ここでこのエッセイを終えるのも、これが歴史探究ではなく、夏の初めの休日の一幕を描いているに過ぎないからだ。