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旅、映画、食べ物、哲学?

An Invitation from Mr Blue Sky and Madame Pluie

An Invitation from Mr Blue Sky

例えば、家の外に出たら空が見えるだろう。その時、空が雲ひとつなく青かったとする。青かったというのは正しくもあり、間違いでもある。色のニュアンスは言葉で説明しきれない。だからここで「青かった」というのは、公認された色として青かったということではなく、便宜上青かったということなのだ。まあそんなことはどうでもいい。要するに、雲もなく、青い空が広がっている。もちろんビルや木があるから、全部が見渡せるわけではない。だから、空を見たいと思う。そんな時、私はこの青空を見ていなければならないと感じる。

 

ある人が言った。「雲のない青空は嫌い。だって怖いから」と。

それはあながち変な感性ではないと思う。青空は怖いのだ。私を支えるものが何もないからだろう。雲があれば、雲が空と地面を隔ててくれる。だがただただ青い空というのは、突き抜けている。突き抜けているが故に、私たちは吸い込まれてしまう。そしてどこまでもそれは広がる。自分を保つことができない。自分を止めるものがない。

 

だが、それを裏返すと、違うものが見えてくる。不安なことは裏を返せば、一切の予測ができないということだ。どうにだってなるということだ。自分が保てないということは、閉じこもっていないということだ。怖さに震えるのは、自由への武者震いだ。私たちは自由になれる。どこまでも行くことができる。青空は私たちに自由を息吹を吹き込んでくれる。その時、自分を保とうとする「安心感」が断末魔をあげる。「怖い!」と。だがそれを笑ってやり過ごしたら、私たちが受け取るのは、青空からの招待状なのである。

 

私が何かを休む時は、できるだけ空が青い時にしている。それが不可抗力である。要するに、心が開放的になって、私は招待状を受け取ってしまった。道路は鼓動し呼吸して、樹木の葉っぱは踊り、黄緑色に発光している。「来い、歩こう、どこかへ行こう」と。その呼び声に誘われたら、もはや抵抗するすべはない。どこかへ行くしかないのである。

青空は街に生命を与えている。陰と陽がくっきりとし、陽は身体を浄化し、陰は精神をクールにする。身体中の細胞や血液が活性化したようになると、穏やかな風が私の身体を撫でて均衡を保ちながら、じめっとして閉じこもった魂を刺激する。すると不思議と、なんでもできるような気になってくるのだ。そして、時に休むのもいい。その時、息が風になるのを感じられるのである。

 

こんな気持ちになるようになったのは、カナダに行ってからだったかもしれない。モントリオールの街で、私は一人の時間を公園で過ごした。ベンチに座って、時に本を読み、時に想念に身を委ね、時に空を眺めた。あの時の空は綺麗だった。とんでもなく青かった。そして木もよかった。黄緑と深緑の間の色の葉っぱが、風にそよぎ、太陽とともに輝く。いや、それは違う。そよいでいるのではない。葉っぱが動いているのだ。空と樹木が誰よりも能動的で、主体的だった。人間の私は上を見つめるだけ。だが見つめていれば、招待状が来る。きた時は、あれこれ言わずに立ち上がって街に出る。

それから私は空が青い時は、上を見るようになった。招待状が来たら、どこかへ行くことにした。空が見えるところへ。

 

La pluie chez moi

一転して空が暗くて雨の降っている日は気分も暗くなる。何もしたくない、というか、なんだか鬱ぎ込む、というか、なんとなく閉ざされてしまう感じがするのだ。私には低気圧による頭痛もある。天気が悪いと肩が固まって、頭には孫悟空に与えられた緊箍児の呪いのような痛みが走る。外に出ようという気持ちも減退してしまう。

 

だが、今日、大雨の車窓を眺めていた時、それはちょっと違うのかもしれないと思い始めた。雨の降る景色を眺めている時、どうやら私の中でも雨が降っているようなのだ。要は、私が雨と踊れるかどうかである。

雨は、私を外へとは引っ張り出さない。雨の光景は美しい。雨の中で宇宙はにじむ。光はノスタルジックに変わる。そんなやけに美しく、明晰さを失った、このうつつに現れた幻想の中で、多くの人がシェルターを求めて足で悲鳴をあげる。私の中でも雨が降り、私の中もにじむ。にじむに連れて、青空の中では押し込められていた何かがほいほいと現れる。それは言葉だったり、イメージだったりするが、それは冒険するにはちょっと不都合なものでもある。

だが、結局は、そんな内と外の幻惑をどう受け止めるかなのだ。

 

時々、私はそれを直に受け止める。雨から得た思いは、直接出てくる。その時、私はともすると、閉じた心を持ってしまう。心の叫びに疲れる。

だが、時に、うまくいけば、そんな雨の中で踊ることができるのだ。それはちょうど、旅の途中の夜である。異邦人として、強がりながら押し込めた寂しさがこみ上げるなか、幻想的な川辺を歩く。これは夢か現実か。そんなことは置いといて、心のさざ波と渦巻きの感覚に身を委ねつつ、頷く。

ノスタルジーノクターン、モノトーン……とにかくノが出てくる言葉で表現したくなるような、ピアノジャズの世界だ。おっと、ここにもノがあった。モントリオールや、ローマやアテネ、あるいはホーチミンが想起させるイメージとは違う世界。どちらかといえばそれはパリであり、ブダペシュトである。

 

 

私たちは案外、外側と内側に分かれてはいない。心身二元論、人間対環境は嘘っぱち。雨や太陽は私たちであり、道路はいつでも誘っている。強いていうならそれらは誘う存在。だがそれだけではなく、私たちの中で突き上げてくる存在でもある。