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旅、映画、食べ物、哲学?

説明責任の時代

現代は、説明責任の時代のように思うことがある。

もしかしたら、近代もそうだったのかもしれない。だがわたしは19世紀人ではないし、そのあたりはよく知らない。とにかく言いたいのは、今の世の中が説明責任を求めてくる時代だということである。

 

例えば、就職をしようとしたとしよう。すると、大抵は志望動機を聞かれる。これは一種の説明責任である。なぜ責任なんていう重い言葉を使うのかというと、この質問に「なんとなく」で答えればまず入社できないからだ。これに答えねばならないのである。

「そんなのはあたりまえじゃないか」

そうだろう。たぶん当たり前なのだ。不平不満を並べる前に、素直に志望動機を探すのが筋なのだ。しかし、なぜ「なんとなく」ではいけないのだろう。

「なんとなく、なんてふざけてる」

そうかもしれない。ふざけているのかもしれない。だが理由があればどうしてふざけていないのだろうか。理由があればきちんと考えていることになるのだろうか。いや、むしろ、理由があることは、きちんとしていないことが多いのではないか、とさえ思うことがある。

例えば、下北沢駅で降りたとしよう。「なぜ下北沢で降りたんですか」と聞かれる。「それは下北沢にライヴ会場があるからですよ」と答えられるだろう。理由は非常に単純である。「ではなぜそのライヴに行くのですか」「友達の友達がライヴをするからです」と答えるのは簡単だ。理由は簡単だが、すごくきちんとしているわけではない。では「好きなバンドがライヴをするんです」と答える場合を考えよう。「どうして好きなんですか?」と聞かれたとする。すると、案外困る。「友人の勧めで聴き始めて……」いやいや、それは好きな理由ではない。経緯だ。簡潔に答えるのは不可能だろう。

「簡潔に答えるのは不可能でも、きちんと説明すればいいだろ?」

おう、本当にそう思うかい? たぶん無理があると思う。いろいろ言ってみても、薄っぺらくなる。最終的には「なんか好きなんだよね」に落ち着き、「じゃあ聞いてみてくれよ」になる。小一時間話して伝わるとすれば、それは言葉の力ではない。小一時間話し通したという情熱とエネルギーがなんとなく伝わるからである。

「でも伝わるんじゃないか」

かもしれない。そこのところは知らない。伝わったかどうかなど、わからない。とにかく内容が語れる内容だから、まだいい方なのは確かだ。しかし、なんにしても、分かってくれようとする相手以外には伝わらないだろう。いくら熱く語ったとしても、結局伝わるのはおそらく熱さだけだ。「なにそれ」と言われればそれはそれまでだ。困ったものである。

話が逸れてきた。そういう話をしたいのではない。

「じゃあなんなんだよ」

例えばいつもと違う駅の出口を出たとしよう。

「なんで?」

理由なんてない。

「近道?」

いやむしろ遠回りだ。しかも雨が降っている。

「意味がわからないね」

そう、私だってわからない。こういう時、困る。

「なんの話?」

こういうことはないだろうか。一見不合理に見える、というか百見したところで不合理なことをしたくなるときは。雨に打たれたい時、夜道を延々と散歩したい時、普段は読まない本を買いたくなる時……そんな時がないだろうか。何もかも捨ててラオスかどこかに行ってしまいたくなる時が。ラオスでなくても、無論フィンランドでも、群馬でもいい。そういう謎の衝動である。

「馬鹿じゃないの?」

馬鹿だ。たぶん馬鹿だ。だが馬鹿でもいい。そんな時がある。そしてそんな時ほど、自分は生きているんだ、自分は自由なんだと感じられはしないか。小さなことでも良いのだ。こういうことをしたときは、説明責任に答えられない。しかもこういうことはむしろ大事だったりするのだ。例えば、つい先日私は友人の友人のライヴに行った。なぜか。それはあまり理由がない。その人を知っていたから、というのが理由としては正しいだろう。その人が音楽で食っていくつもりだと聞いたことも一つの理由だ。だが割と思いつきなのである。

そう、案外人生は思いつきの連続のような気がする。道を歩き、右に曲がるか、左に曲がるか、理由があれば決まってくるが、理由がなければ思いつきだ。だが理由がある時は、私たちは理由に縛られている。本当に何かをしたい時は、理由よりも思いつきなのかもしれない、と思うのである。

「でも、説明しないとわからないよ?」

その通りだ。説明しないとわからない。しかし、案ずるより産むが易し、逆にすれば産むより案ずるは難しだが、おそらく案ずるよりも産むよりも、その理由を説明する方が難しだ。

それでも理由に固執するのは、近代的な考え方な気もする。あまり関係ないかもしれないがヨーロッパの人たちと話すとよく「なぜ」が飛び交う。私はそれはいいこととは全く思っていない。文化の違いなので、ある程度尊重しなければいけないが、あまり意義を感じない。かつて英語の試験で、こんな会話があった。

「大学の学科に友人はいますか?」

「はい、何人かいます。よく話しますよ」

「どうして?」

どうして? 人が何人か集まって同じところにいる。同じことをやっている。多くの場合友人ができてもいい状況ではないか? どうして、どうしてと聞くのか。たぶん、話を広げようとしたのだろうが、どうしてと言われても困る。どうしてという以外にも話を広げるやり方はあるだろう。フランスでも同じような状況があった。これは、まあ、テストという状況や、外国語教室という状況もあるので、問題はないだろう。だが何でもかんでも理由がしっかりとあるとは限らない。

違和感を覚えるのは、「どうして」と理由を問う姿勢をありがたがって輸入しようとすることだ。本気で疑問に思う、より知りたいと願って一緒に考えようという姿勢を持って質問するのはいい。だが、答えられない方が間違っているというような姿勢で説明責任を求めるのは妙だ。自分のことは案外自分でもわからないものなのだ。

「いや、そんなこといってないで答える努力をしなきゃ」

君はいつも正しい。しかし、何度も言うように理由なんてものは案外後付けだ。だから難しいのである。一種名前をつけるのに似ている。聖書ではアダムは全ての動物に名前をつけたということになっている。彼は、きっと聖書の中で、誰よりも難しい仕事をやってのけた人物だ。だって、いろいろな名前をつけて、なんとなくそれっぽい雰囲気にしなければならないからだ。イエスは生きかたで道を示したし、モーゼは規則を作り、民族を解放した。それが聖書の物語だ。しかし、今あるものにそれっぽい感じのものをつけるほど難しいことはない。理由付けも同じである。理由よりも、実際の人生ではその思いつきに心の波長が合うのかの方が重要なはずだ。しかし理由は求められる。それっぽいものに過ぎないものが重宝される。それが説明責任の時代なのである。

 

「でもね、合理性を目指したから社会はより良くなったんだよ? 不合理を排することは大事なんだ」

それはその通りだ。本当に正しい。だが何でもかんでも合理的というわけではない。そもそも合理的ではないものを合理的にしようとすると無理が生まれるのではないか。思いつきには理由がない。そこに説明責任を求めることに無理があるのだ。もちろんそれが、人に何か強制するなら、人に対して不快感を覚えさせるなら、説明をさせてもいいだろう。だが、説明責任が一人歩きすると、私たちは自由を感じる術がなくなってしまう。

「だから?」

さあね。だからどうなのかはわからない。ただちょっと疲れることがあるわけだ。本当は無言実行、職人のように自分の作り上げたもので勝負したい。そうすれば説明はいらない。見ればわかるからだ。

「それはすごい人ができることだよ」

はーい、ごめんなさい。