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旅、映画、食べ物、哲学?

本質と音楽〜哲学所感3〜

まずあらかじめ断っていくが、今回は少々突飛なことを言おうと思う。日常生活で普通とされていることを裏切ろうとしているのである。だがそれは必要な裏切りだ。そして素晴らしい裏切りだと私は信じている。

その前に、ちょっと話を振り返っておこう。第一回目で私は、この世界の存在を根拠付けようとする試みがうまくいかないということを述べた上で、賭けとしてこの世界は存在するということを信じる、という方向で話を進めた。第二回では、言語というものは社会的だが、実は自由度があり、それを制限するために理性というものが社会的に必要だと述べた上で、それでも人間はそんな言語や理性の目的をずらすことになった、その結果が一方では理性の手続き的部分を浮かび上がらせ、社会的要請から解き放たれる数学に、もう一方では言語の機能や理性的手続きそのものをからかうかのようにしながら、言葉にできないものを表現しようとする詩になったのではないかと言って話を終えた。今回の主役はどちらかと言えば後者である。

 

 

昔から、「本質」という考え方に馴染めなかった。

ルネ・デカルトはこのようなことを言っている。例えば、「蜜蝋」を考えてみよう。この「蜜蝋」が蜜蝋であるために、何が必要かつ十分な条件なのか。形だろうか? それは違うだろう。なぜなら溶けたら形は変わるからだ。それでは、色だろうか? これも劣化すれば変わる。匂いだろうか? 匂いも変わる。肌触り? いや、溶かせば変わるのに変わりはなかろう。味? 味も変化する。それではなにも蜜蝋を蜜蝋たらしめてはいないのか。いや、蜜蝋を蜜蝋たらしめているのは感覚では捉えることのできない「蜜蝋の本質」があるからだ……と。これが、哲学の世界で言われる本質の大きな考え方である。これに加えて、この本質は私たちが何かを認識する前から存在していた、だとか、この本質は神から与えられた、だとか、本質にいろいろな属性がついてこの世界に存在するものになるが、それは堕落なのだ、とかいったヴァリエーションのある説が付け加わっているといっていい。

私が飲み込めないのは、「本質」と「属性」があるということだ。属性は、取り除いても本質を損なうことはないので、別に構わないことになっている。例えば蜜蝋の匂い等は取り除くことができるというのだ。だが、「属性」と名指しされた要素は本当に取り除くことができるのだろうか。例えば、蜜蝋は溶かして仕舞っても、蜜蝋には変わりないという。それはそうだろう。だが、私たちは何も知らなければ、溶けた蜜蝋と固まった蜜蝋を別個に認識するに違いない。だからそもそもこれらふたつが同じだと考えるのは、固まった蝋が溶ける姿を想像したり、先ほど固まっていたことを知っているからである。蜜蝋の変化に立ち会わなければ、どうして同じ蜜蝋だと言えるだろう? つまり、変化を認識しなければ、この説は成立していないのだ。蜜蝋だとわかりづらければ、鉄を考えてみてほしい。鉄は溶かしてドロドロになっても鉄だ。だがそんなことをそもそも言えるのは、鉄が溶けてゆくのを見ることができるからだ。もしそれがなければ、真っ赤なドロドロと銀色のコチコチが同じものには思えまい。だから私たちは本質を把握していることなどないといえる。

いやいやそれはそうかもしれないが、科学的には鉄は溶けていようが溶けていまいがFeだ、というかもしれない。それはそうだ。だがそれを認めてしまうと、むしろ「形」が重要になってくる。Feは熱せられてもFeの分子構造を持つ。「形は変わっても残り続けるもの」という風に本質を定義したとして、Feは、つまり、本質の説明になっていたのである。形は変わっていない。形が変わらないままで、くっついたり、離れたりしているにすぎない。そもそも、Feが崩壊すれば、ばらばらの原子になるわけで、バラバラの原子はどんな科学者も「鉄である」とは言えないだろう。感覚の世界と科学の世界をわけない限り、この説明で本質を説明することはできない。そして、科学の世界で本質を語ろうとすると、非常に非合理的になる。なぜなら、科学の世界での同一性は、形(構造)等の性質をそのまま持っている状態だからだ。

 

やはり、本質と属性を分けるのは妙だ。むしろ本質は、属性の絶妙なバランスと配合に依存しているように思う。ビールがビールであるのは、微妙な味のバランスによる。私の大学の先生が、ベルリンで、「悪いことは言わないので、クラフトビールではなく、ちゃんとしたビールを飲んでください」と力説していたことがある。私にとってはクラフトビールもビールなのだが、先生にとっては何か外れるものがあったようだ。属性の微妙なバランスの中にある「ビールらしさ」は、時にこのように人によって違う場合がある。「これはスターウォーズじゃない」「いやいやこれこそスターウォーズだ」そんな論争もまた、そこに何か根があるように思う。何が言いたいのかというと、要するに私たちは多くの場合本質を作り出している。

だが、それでも基本的に、本質をめぐって言い争いになることは少ない。「これは石だ!」「いやこれは石じゃない」みたいな論争は滅多に起こらない。なぜか。それは、本質というのが基本的には言語によって作られているからだ。私たちは社会の中に生き、社会の中で言語を使う。だからある社会における言語は私たちに浸透し、本質もそこで与えられている。つまり、本質は、「名前にすぎない」といえるが、多くの場合、その名前は歴史的に積み上げられてきたものである。日本語話者は、「水」と「お湯」を区別している。だから「水を温めたものをくれ」とは言わず、「お湯をくれ」という(普通は)。だが、英語ではこれは、「water」と「hot water」の違いであり、hotがつくかつかないかである。日本語で言うところの、「熱いお湯」というのは、英語で言おうとすると非常に難しくなる。「hot hot water」だろうか。それは変ではないか? しかし、日本語では普通に使う。言語社会によって、捉え方が変わる例である。

ただし、私たちはお湯が水だったことを知っている。社会は別個であっても、世界の成り立ちが一緒である以上は、ある程度の意思疎通ができる。だが、完全に「まあお湯は水だよね」「ハマチもマジロもブリもSeriola quinqueradiataだよね」みたいにはならず、「古来日本人はお湯を大事にしてきた」「日本人は魚の種類を同じ種類のものでも、とれる場所や季節によって言い換えている。海の幸と共に生きてきたからだ」とかいった、よくわからない自慢話を生み出すことはある。そこには社会や文化の根深さがある。それでも、他の社会の意思疎通ができるのは社会同士のコミュニケーションが成立しており、私たちが同じ星の住人だからだと言える。

 

では、本質は社会が勝手に決めていると言っていいのだろうか? 

第一に、完全に恣意的に決めているわけではないと思う。重要性によって変わるはずだ。日本語話者が魚をあれこれ区別するのは、以前はその必要があったからだろう。あるいは、味によって判断していたのかもしれない。味の異なる魚を同じ魚として扱うことはできないからだ。水とお湯に関しても、きっと同様のことがあるだろう。ちょっと知識がないのだが、水とお湯を同一視できない理由がどこかにあるはずだ。ただ理由はあるとしても、これは人為的な区別には変わりない。

第二に、完全に人が決めているわけでもないと思う。こちらは人為的というよりも、自然的に区別を誘うような何かで、先ほど述べた属性の微妙なバランスに関わることである。私たちは微妙なバランスを全体的に把握し、区分けをしている。だが、ここでいう属性は、あるものの属性というようにリストアップできるものではないのだと思う。もちろん、できなくはない。私たちは音楽を聴き、いろいろな感じを思い浮かべる。しかしこれをコードに分解し、それぞれのコードがどんな印象を与えるかをリストアップすることもできる。これと同じようなもので、どれが聴覚的で、どれが視覚的か、だとか、どれがどういう印象をもたらしているのかあとで分解することもできる。ただし、できる、だけで、実際に見えているのはもっと全体的な何かだと思う。だから、それは「ホップの香り20パーセント」みたいな感じでのバランスではなく、絵画の絶妙な色彩のニュアンスのようなものを想定してほしい。

そうなった時、自然が誘う区別とは、いわば音楽がもたらす印象のようなものだ、というのが最もわかりやすいたとえになるだろう。なんでもいいのだが、私はビートルズが好きなので、ビートルズを例にしてみよう。ビートルズの曲には、ビートルズっぽさがある。もちろんそれは初期→中期→後期と変わっていくものだし、後期にもなると、ビートルズらしさというよりも各メンバーのらしさの方が際立ってくる。だが、聞けばビートルズだなと思う何かはある。最も決定的なのはメンバーの声だろうが、それ以外にも、絶妙なニュアンスがビートルズらしさを引き出してくる。そのため、私たちは音楽を聴いて、「これはビートルズの曲だな」とわかるわけである。そしてメンバーが歌っていなかったとしても、「すごくビートルズっぽい曲」というものもある。この「ビートルズっぽい」というのは、私たちが感知する微妙なバランスに与えられた名前だろう。そしてもう一つ重要なのは、曲自体はそれぞれ別の曲にたいしてそのようにカテゴライズしているということだ。旋律が一つでなくても、ビートルズらしさはある。

そのように、私たちは聴覚に限らない、視覚・触覚・嗅覚・味覚等に訴えてくる経験を音楽のように、カテゴライズしながら生きているのではないだろうか。個々の物体としては明らかに異なるものを見ているのに、「これは石だ」と把握できるのは、私たちが個々の物体が奏でる「音楽」に、共通のものを見出していると言えないだろうか。そうすると、個々の物体のもつ「属性」と言えてしまうものは、ペタペタ貼り付けられたものではなく、一つ一つがからみ合わなければ全体が成立しないような色調のようなものになる。私たちが見ている世界は、色とりどりの「音楽」に溢れているのだ。

 

そうするともう一つの帰結が姿を見せる。私たちが音楽の世界に生きているなら、いろいろな区別というものは以外と、あってもなくてもいいようなものかもしれないということだ。私たちは、木と土を区別する。だが、木は土に根を張り養分を吸収し、朽ちるとともに養分となる。そうすると、木と土を区別する意味はあまりないかもしれないし、そうすると酸素を取り込む私たちは風と一つになっているかもしれない。そういきなり言われても困るだろう。なんだこいつは、脈絡もなく、という話である。だが、音楽の切れ目を考えてほしい。

私たちは音楽を一曲単位で聞いている。だから「私たちが音楽の世界に生きているなら、いろいろな区別というものは以外と、あってもなくてもいいようなものかもしれない」と言われても困る。いや、一曲一曲で分かれるじゃないか、と。しかし、それは本当だろうか。聞き込んだCDなら、ある曲が終わった後に、次どの曲がくるのか、私たちは即座に判断できる。しかも曲名で、というより、メロディーラインで覚えている。別の曲であっても連続している。さらに言えば、実際に作り手の意図の中で別の曲がつながる場合がある。一番わかりやすいのはメドレーだ。だがメドレーは、一曲一曲の区別があるじゃないか、ともいえる。そこで、ひとつ、聞いてみてほしい曲がある。それは、ビートルズの「A Day in Life」だ。この曲は、最初の曲調と、少し経ってから入る曲調が異なっている。だが、一曲である。もともとは二曲だったらしい。だが今では一つだし、聞いていて一つの曲として認識できる。こういうことが可能なのである。メドレーも、それぞれの曲を知らなければ、そういう一つの長い曲だと聞くこともできるのではないか。なんならアルバム一つが一曲と見ることもできるのではないか。そうでなければ、くるぞと思っているのとは違う曲が流れ始めたときの気持ち悪さをどう説明できようか?

同じように、私たちがこの世界として感知する空間の音楽も、分ける必然性はない。そう考えたら、この世界は私も含めて一つであり、世界全体が私たち一人一人の意志によって前に進んでいるとも言える。ここまで来た時、私たちは普通とはちょっと違った視点に立てるような気がする。そこにはカテゴリーはなく、区別も差別もなく、かといって還元もなく、世界全体がオーケストラになっている。

 

一体なんの意味があるのか。それは正直わからない。だが、こういう世界に生きることができるんじゃないかと思っているのと思っていないのでは違う。自分を殻に押し込める必要はなくなる。人にカテゴリーを押しつける必要はなくなる。くすんだ世界は動き始める。道路は歌い、木は踊り、空は渦巻き、私はそのエネルギーに浸かりながら、道を切り開く。この世界は全てインスピレーションとなり、創造者になる。哲学はそういう場を担保する力を持っている。私はそう思っている。