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旅、映画、食べ物、哲学?

あえてこれを言うことを許してほしい、誰か一人くらいはこういうことを言っておいた方が健全なんだと信じてるから

警告には甘美な響きがある。

なぜなら、警告は、自分を一回り大人に見せてくれるからだ。それがいかに子供じみたことだったとしても、警告しているという行動自体に、大人らしさが滲んでいる。

「あの国は危ないから行くのをやめなさい」

「外は危険だから出るのはやめなさい」

そんな言葉を発した時、私たちは保護者になったような気持ちになる。それが実は、世界と心を狭めているのにも気づかずに、だ。

古代ギリシアの言葉だったか、人はアドバイスをする時は立派だが、実際に行動するとなると違う、というものがあったはずだ。だがそれは、立派なつもりになっている、ということかもしれない。

「やめておきなさい」

という警告文を無視して先に進み出すことは簡単だ。それが反発というものである。反発するがゆえに見えてくる地平もある。そこでやめていたら見えなかったもの。それに付随するのが満足だろうが、後悔だろうが、それは関係なく、立派な知恵を得ることができる。

だが、警告文に、ちょっとした脅しが入ると、反発するのが難しくなる。例えば、あなたの人生が危機に迫っている、などと言われたら、やっぱり自分がかわいいから、こういう警告に平伏するしかなくなる。そうして、警告文は正当化される。

 

だが脅しはエスカレートしてゆく。「禍」などと、いちいち仰々しい言葉を使い、わかった風に脅威を論じる。論じれば論じるほど不安になる。不安になればなるほど、脅しと警告はきつくなる。

その脅しの内実は、嘘などではないかもしれない。

だとしても、騒ぎすぎる必要はあるのか。それはないはずだ。たいていの「危機」とやらは、平然と、日常的に、気をつければいいのである。あるいは、黙って耐えればいい。耐えろというのは少々乱暴だったかもしれないが、その他にやることがないなら仕方ない。止まない雨はない。いつの日か、終わる。それに、日常に溶け込んでしまえば、それは苦しみではなく、ルーティンになる。

何も、一丸となって戦おう、と仰々しく、まるで戦争でも始めるかのように叫ぶ必要がない。だが、叫びたい人がいるのは確かだ。言葉を濫用したい人がいるのは確かだ。心を閉ざしてしまう方が、私たちの自然状態にあっている。

 

私たちは、基本的に内向きで、身内で固まりたがる。身内で固まるということは、ソトの人々を排斥することも含む。敵と味方を明確化し、戦う。そこには、一種の原始的なヒロイズムがある。だが、はたから見れば、それはうちにこもった、醜いヒロイズムでもあると思う。

そうした排斥を生むような性向が、命の危険に裏打ちされた警告文によって正当化されかねない。地震があれば、日頃蔑視してきた人々が、民族の名の下にくくられて、敵にされるし、戦争も同様だ。あの国が、害悪を撒き散らしている、あの国が、悪い。みんな恐怖を覚えているから、ぞっとするほど、そうした意見に流れてゆく。国の名前、害悪の名前は、多くの場合、非常に覚えやすく、文字数も少なく、言いやすいもんだから、みんな平気で呪いの言葉を吐くことができる。普段はそんなことを言わない人までもだ。

戦時下にあっては、「きれいはきたない、きたないはきれい」という風に、価値観を平気でひっくり返すことがあると、フランスの哲学者ベルクソンはいう。そんなことはそこらじゅうで起きている。政権の強権化を批判する人は、強権化を支持し、世界との交流を歌う人が、国境を閉ざす。芸術を歌い上げる人が、芸術をやめる。恐怖と生存の名の下に、皆「躊躇なく」、尊王攘夷である。

それは自然なことだ。それに、正当なことだ。危機感は正しく、警告に従わなければ、一大事になる。そんなことはわかっている。

 

バイト先の人が、最近は人間の生存本能が壊れている、と言っていた。だから、危険な目にあっていても、見て見ぬ振りをする。これは問題だ。もっと動物の部分を出していけ、と。

そうかもしれない。だが、状況が変わるにつれて、そのようになっている。自然なことだからだ。空想する前に、人は生存しないといけない。自分の身を守るために、いろいろなことをする。そのうちの幾つかが、仲間内で固まることにつながっている。群れは安全だ。群れが安全じゃなかったら、集まるのを自粛すればいい。どちらにせよ、外からくる人はみんな追い出せばいい。

それは自然なことだ。それに、正当なことだ。危機感は正しく、警告に従わなければ、みんなが苦しむ。それは避けなければならない。正しい。

 

 

だが、自然のままでいいのか。心を売り渡していいのか。心を閉ざしていいのか。恐怖と生存を理由にすれば何でも許されるのか。

わたしはあえて、そう問うておきたい。

そして少なくとも、重たい雲が晴れた時には、なんて馬鹿騒ぎだったんだ、と笑いあえることを望んでいる。