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旅、映画、食べ物、哲学?

5年前のペスト、現在の

面白いものを見つけた。

それは今からだいたい五年前に、私がラインのタイムラインに投稿した一つの感想文である。題材はアルベール・カミュの『ペスト』だった。

昨今、簡単に察しのつく理由でこの本の売れ行きがすごく好調だという。正直、読んだのは五年前なので、内容の多くは思い出せなくなってしまっていた。だが一つ言えるのは、感想文を読み返してみる限り、私が最近考えていたこととかなり共鳴しているということだ。

 

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2015年5月3日18:35の投稿

カミュといえば、一般的には、『異邦人』の方が有名であると思う。そもそもこの『異邦人』はカミュの処女作である。ではなぜ僕はあえてこの『異邦人』ではなく、『ペスト』の方をはじめてのカミュに選んだのか。それには簡潔な理由がある。「『ペスト』の方が読みやすそうでおもしろそうだったから」だ。

ここで、この二作品を知っている人から突っ込まれるかもしれない。おいおい、何を言ってる。『ペスト』の長さは、『異邦人』の長さの三倍くらいあるんだぞ、と。僕はそういうことを言っているのではない。つまり、内容のことなのだ。両方の文庫本の後ろに書かれているあらすじを見て欲しい。

 

「母の死の翌日海水浴に行き、女と関係を結び、映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ムルソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作」(『異邦人』)

 

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーは鼠の死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態の中で、必死に「悪」と戦う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を読んだ長編」(『ペスト』)

 

いきなり前者はきついだろう。正直あまり僕は心が動かなかった。だが後者の方は、単純におもしろそうだった。読みたくなったのだ。長いけれど、読み切れそうな気がした。そして読み切れた。

 

ではなぜカミュなのか。なぜドストエフスキーでも、漱石でも、ゲーテでもなく、カミュを、名作を読んでみようというプロジェクトの初回に選んだのか。それにももちろん理由がある。それは、沢木耕太郎というノンフィクション作家の影響である。彼の書いた『深夜特急』という本は、僕のお気に入りなのだが、その執筆の裏話を綴った『旅する力』という本を読んだ時、カミュの話が書いてあった。沢木さんはカミュが好きで、卒論に書くほどだったと言う(そしてもっと驚くべきことに、沢木さんの所属学科は仏文学ではなく、経済学だったというのだ。教授に頼み込んで無理矢理提出したらしい)。そして、『ペスト』の舞台となったオランという街へいったと言う。かくして、カミュってどんな人なんだろう、どんな本なんだろう、と気になり始めた。

また、僕がサルトルという人物に興味を持っていた頃、サルトルについて調べると、必ずカミュが登場した。カミュは、アルジェリア生まれのフランス人(当時アルジェリアはフランス領)で、その後ジャーナリストになるも、第二次世界大戦が勃発。ナチスドイツによってフランスが占領されると、アルジェリアも占領され、カミュは教師として働きつつ、ナチスへの抵抗運動に参加した。そこで、サルトルと出会う。親友となった彼らは、ともにナチスと戦い、戦争終結を迎える。それからサルトルが「レ・タン・モデルヌ(=現代、英語にすればModern Timesで、チャップリンの映画からとられたらしい)」という雑誌を作るとカミュも参加し、ともに戦後の思想界をリードしてゆく。ところが、サルトルは当時革命派であり、カミュは革命ということにあまり肯定的ではなかった。この亀裂はカミュが『反抗的人間』を刊行すると大きくなり、ついに絶縁した。そういう経緯もあり、サルトルカミュの話は有名なのである。だが、サルトルの思想の話はあらゆる入門書に書かれているのに、カミュはない。僕は、かねてからカミュの思想がどんなものだったのか気になっていた。

 

この作品の面白かった点は、様々な登場人物が出てきて、彼らは彼ら各様の考え方を持ち、そして書き手はそれを平等に描いていることである。

おそらく市街に出た結核の妻の回復を待ちつつ、誠実に職務をこなそうとするリウー医師、ある体験から、神の力を借りずに聖者になろうとする孤独な理性の人タルー、若々しく、恋人のために街を脱出しようとしつつ、どこか葛藤を魅せる新聞記者ランベール、ペストの蔓延と街の封鎖をむしろ喜ぶ情緒不安定なコタール、ペストを神罰だとして神への帰依を訴えながら、子供の死を目の当たりにして心揺れる神父パヌルー、愛していた若い妻に家を出てゆかれ、苦しみ、役所での仕事とペスト関連の仕事、そして執筆活動を掛け持ちして自分を追い込む老役人グラン、規律を重視し、融通の利かない人として描かれる判事オトン……などなど。

彼らはそれぞれがそれぞれの考えを持ち、ペストに閉じ込められた街の中で生きてゆく。そしていつしか、ほとんどの人がペストへの抵抗運動に加わってゆく。これだけ多様な人を登場させるのは、難しいだろう。なぜなら、書いている方は、誰かに仮託したくなるからだ。だがカミュは極めで公平に描いている。この事は、読んでいる人がどの人に共感することも許しており、それだけ、読んだ人の数だけの感想があると思う。ちなみに僕はリウーとタルーとランベールが好きだ(多い)。

それぞれの人が、ペストに閉じ込められた十ヶ月の中で何かが変わっていった(人々の間の心の変化もはっきり書かれている。一番リアルだと思ったのは、ペストに閉じ込められて、だんだん人々がそれに慣れること。そして、人は何かを求めているとき、いつのまにかその何かの存在を忘れている、ということ)。そして、何かを失った。このペストの襲来は、ナチスの襲来である、というような解釈が存在する。それはあながち間違っていない。これが書かれたのはその時期である。だが、この小説の中で、ペストからの解放は、人間たちの勝利というよりも、いつの間にか過ぎ去る、という形で描かれ、その解放の最中にも犠牲者が幾人か出る。カミュは「不条理」の哲学で知られているが、まさに、不条理な状況である。おそらくそれは、人間の引き起こしたナチスなんかよりずっと、不条理である。相手はペスト。誰も攻められない。

それに、そんな不条理なペストは、単に病気のことをさすのでも、ナチスのことだけでもなさそうな記述があった。「誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ」これはどういうことなのだろう。心の中に不条理な部分があるということだろうか。そしてそれに気づいていることだろうか。最後のシーンで、ペストは再びやって来る、というようなことが書かれているが、これはどういうことなのだろう。考えると深い。

 

不条理の中で、戦う覚悟が生まれる。だが、それは、閉じ込められた人間たちと不条理の戦いという同じ構図を持つ『進撃の巨人』に現れる覚悟とは違う気がする。「駆逐してやる!」というのではない。やれることをやるしかない。そしてペストという不条理は、急所への一撃ではやっつけられない。パリから取り寄せた血清も役に立たず、なすすべはない。それでも抵抗しようとするのだ。根底にあるのは怒りではなく、何かできるはずという誠実さのような気がした。

 

この話を読んでいると、憎しみが感じられない。ナチスに占領され、ナチスへの憎しみから小説に登場させたりすることはよくあると思う。だが彼の小説はそうではない。彼の思想もきっと憎しみではないのだろう。不条理と戦いつつも、不条理の存在を否定しない。それを来るべき仕方のないものとして納得している感じがある。ちゃんとしたことは、彼の哲学論文(『シーシュポスの神話』とか『反抗的人間』とか)を読んでみないとわからないが、この小説を読む限り、彼は認めるということに重きを置いているような気がする。

二十世紀の思想はどうも、怒りに端を発しているように僕は感じることがある。資本家による搾取、社会への不平等への怒りから生まれた共産主義、国家同士の不平等への怒りから生まれたナチズム、労働者のデモなどによる社会停滞への怒りから生まれるネオリベラリズムエコロジーだって自然が汚れる怒りから生まれているし、戦争反対の主張も戦争への怒りだ。だが、怒りに生まれた思想は、別の怒りを生むのではないか。怒りが大事だと言う二十世紀人がいるが、僕はそうは思わない。

怒りを乗り越える時がやってきた。それが我々二十一世紀人の使命だとするならば、カミュの不条理の思想は、学ぶべきところが多いのではないだろうか。世の中は不条理であふれている。僕もそう思う。うまくいかないことがあるから世の中だし、それをどうしようとしても、悪い結果を導くだけかもしれない。だが、そこで厭世的にならず、怒るわけでもなく、不条理を認めつつ、反抗しよう。反抗とは革命でも、戦争でもない。反抗は反抗だ。屈しない姿勢だと思う。

 

……などと、難しいことを言わずとも、十分この小説は楽しめる。学ぶべき点もあり、自分の考えを深めることもできつつ、ストーリーとして単純に面白い。不条理を扱っているせいか、最後まで油断のならない小説でもある。ぜひ、読んでみて欲しい(そのために細心の注意でこの文の中でのネタバレは控えている)。少し長いが、楽しめると思う。難しい言葉だらけで、途中で飽きそうになったら、さーっと読んでしまっても展開は追ってゆける。

舞台は1940年代のアルジェリアだが、十分現代性もある。始めの部分で市役所がペストの存在を認めようとしないシーンなんて、まるで今の話みたいだ。おそらく、カラマーゾフや、アルジャーノンのように日本でテレビドラマ化しても全然いけると思う。

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以上が、感想文である。

一人称が「僕」だったりと、恥ずかしい部分はある。

だが、面白いのは、このころ、ロックダウンだのなんだのは、私たちの脳裏によぎることは全くなかった。せいぜい、MERSくらいである。空港に行った時、「ラクダとの濃密な接触をした方」という表記を見て笑ったのを覚えている。日本人は未だにこのような表現を使っている。まあそれはいい。

それでも、『ペスト』を読んで、五年前の私が思ったのは、「不条理に対して抗しながらも、敵への憎悪を持たないこと」だったのである。そうなのだ。この件は、どんなに仰々しい言葉を使おうとも、決して、戦争ではないし、禍でもない。流行病なのである。そして、薬がない以上は、流行病が過ぎ去るのを待つほかはない。

この前、家の周りを散歩して、木々が揺れているのを見ていた。一つわかったことがあった。それは、自然にとっては、ウィルスはウィルスであり、憎むべき対象ではないのだ。もう一度言おう。これは戦いではない。

私たちは闘争本能をかきたてないとやっていられないから、憎み、剣を取る。しかし剣を向ける相手はいない。憎しむべき人もいない。そのエネルギーを別の誰か、ましてや、発生源の国や、患者に向けるのは馬鹿げている。それこそ、私たちが人類開闢以来、心の内に抱えてきた最悪な流行病である。怒りを乗り越える時代が、やってきたのではなかったのか。どうにもいかない病と「戦う」前に、自分の中にある病をなんとかしないといけない。それは、方向転換によって、きっとどうにでもなるはずなのだ。そうでない限り、「ペストは再びやってくる」のだろう。

しかし、なんにせよ、私ははやく旅に出たいものだから、どうにもいかない流行病の方も、さっさと収束してほしいと願う。そのためにはできるだけの協力はしたい。それ以上でもそれ以下でもないのである。