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旅、映画、食べ物、哲学?

暗夜行路〜霜月江戸前一巡道中・其三〜

蒲田のタリーズコーヒーを一歩外に出た時、足の異変に気がついた。踵の当たりが擦れていて痛い。靴で圧迫された足の側面もジンジンしている。こんなにやわだったのかと、自分の力無さにため息を打ち、とにかく多摩川を越えるくらいのことはしようと前へ進んだ。

落ちてゆく気力、悪化する天候。何か吹き飛ばすものを求めて、私は耳にイヤフォンを刺した。あまりに直接的すぎて、馬鹿馬鹿しいが、そういう馬鹿馬鹿しさが欲しかったのだろう、蒲田行進曲をかけた。

これが意外とよかった。曲調が軽やかで、楽しい。春の匂いもしないし、キネマも感じられなかったけれど、とにかく足が勝手に動く。オスマン帝国の軍隊が軍楽隊を導入したのは、ひょっとすると歩くのが辛かったからかもしれない。行進曲があれば、どんなに辛くても勝手に足が動いてくれる。体力が落ちれば落ちるほどに、足の条件反射的な動きも増してゆく。

曲が終わったら、コンビニに入った。歩きまくると人は糖分を欲する。ふたつばかりスニッカーズを買って、そのうちの一つを頬張る。糖分が脳味噌を揺り起こす。さあゆこう。私は足の痛みを振り解き、巨大な国道15号線を南へ進んだ。

 

多摩川は案外近かった。コンビニからちょっと行ったところにはもう巨大な橋がかかり、そのあいだを川が隔てていた。橋の向こうは神奈川県。時間は夕暮れ時。そう思うと、気分も上がる。興にも乗ってくる。足の疲れもすっ飛んでいた。

東京と神奈川を隔てる多摩川は、川自体の幅はそこまでではないが、土手も含めた幅がかなりある。必然的に橋も長くなる。メコン川を越えるタイ・ラオス友好橋での国境越えのことをちょっと思い出しつつ、翻って冷たい風の吹き付ける長い六郷橋を渡る。

橋というのは面白いもので、道をただひたすら歩いている時より、胸を高揚させる。川を見下ろしたり、遠くを見つめたりしながら歩いているとすぐに向こう岸へと着く。六郷にはかつて橋ではなく渡し船があったという。それもまた面白そうである。そういえば「蜘蛛駕籠」という落語の中ででてきたはずだ。

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多摩川

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川は見えない。

 

六郷の橋を抜けると、そこは神奈川県川崎市だった。私のようにのこのこ歩いて川崎までくる馬鹿野郎のために「ようこそ川崎宿へ」と書かれたボードまで用意してある。ありがたいことである。どうやら川崎は東海道を売りにしたいらしく、結構わかりやすく「旧東海道」を表示し、道も飾り付けてある。

空元気を振り回しながら川崎宿を歩くと、「旧東海道」を売りにして和風の文物を売る店が並ぶ界隈と、多国籍な住民が織りなすダイナミックな界隈が入り乱れていることがわかった。なかなか面白い街である。だがもう陽も落ちていたし、まっつぐ進まねばなるまい。

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旧東海道は川崎の中心街を離れ、住宅街を走るようになる。だがただの住宅街でもなく、時折中華や床屋などの店があったりもする。暮らす人の日常が見える場所である。街道と並走するように鉄道が走っており、学校帰りの高校生なんかも見かける。

そこに生活の根を持たない者として街を歩くのは、そういった日常の風景をおもしろがることでもあるかもしれない。最寄駅であれば億劫に感じられる人混みでさえ、街を歩く者にとっては楽しい活気となる。世の中に引っ越し好きがいるのは、もしかすると、そういった一瞬の輝きを追い求めることを辞められないからなのかもしれない。

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そんな住宅地のある道路に江戸時代の一里塚があった。

 

川崎と横浜の境界には川がある。

私はそう思い込んでいた。住宅街のど真ん中に鎮座する、江戸時代の東海道の一里塚を見つけたとき、だから私は自分が川崎にいるものだと思い込んでいた。日もだいぶ落ちてきて、雨足も強まっている。ふと電柱の表示に目をやると、そこはすでに横浜だった。隠して私はなんの感慨もなく、ぬるりと目的地の横浜に入ったのである。

腑に落ちないまま歩みを進め、真っ暗な夜の帷の中、コントラストを描く白で塗られた橋を渡って、川を越えた。市境ではないが、その川を越えると、今までの人間臭い街並みから、ちょっと上品な界隈に周りの世界が変化した。それにしても、この辺りは東京と比べ、灯りが少ないように思う。

 「旧東海道鶴見橋」と書かれた記念碑を越え、おそらくは旧東海道なのだろうと想定される道をひたすらに歩く。足はすでに悲鳴を上げていた。そう言えば蒲田で一度休憩したきりであった。川崎はアドレナリンの力で乗り越えた感があったが、横浜に着くとどっと疲れが来る。きっと、目的地にたどり着いたと体が安堵しているからだろう。だが、本当の目的地は鶴見ではないのだ。私が目指しているのは、少なくとも神奈川宿があった場所、余力があれば中華街である。というのも、今夜の宿は中華街にとってあるからだ。

 

雨の向こうに灯が見え始める。おそらく鶴見駅だ。足よ、あれが鶴見の光。さて、あと一踏ん張りだ。鶴見駅の次は生麦。生麦の次はいよいよ神奈川。私はなんとかそう自分に言い聞かせた。私が踏ん張れば、踏ん張りさえすれば、先へ進む。「横浜まで歩く」「東海道を歩く」と言ったからには、実現せねばなるまい。傘をさし、足を引きずり、風が吹く。

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鶴見へ入る。ふらふらである。



鶴見の繁華街を抜け、生麦へ向かう道は困難を極めた。自分がどこを歩いているのかよくわからない状況が何度か続き、私は途中で旧東海道沿を歩くことを放棄しもした。代替案で旧東海道とだいたい一致している国道15号線をあるいてみたりしながら、なんとか生麦と呼ばれる界隈にたどり着いた。生麦は鶴見から神奈川へと直行するというより、どちらかと言うと海の方へと一度迂回した場所にあったため、行くのに手間がかかったのだと後で分かった。

生麦と言えば、「生麦生米生卵」以外では「生麦事件」である。この辺りを進む薩摩藩大名行列が、横浜からきた英国人と遭遇。薩摩藩の武士は「無作法があった」と英国人を斬り殺した。これがきっかけで薩英戦争が起こることになる。そんなイメージだから、どうもおどろおどろしさを感じざるを得ない場所でもある。

生麦の東海道は住宅街を突っ切る形で進んでいた。住宅街は人通りもほぼ皆無。時折トラックが走ってくる程度。さらに横断歩道の類もなく、道が一本ひたすらまっすぐ進んでいた。真っ暗な中、一人、道を歩く。もはや足の痛みだけではない、もっと精神的に迫ってくるような苦痛が私を襲ってきた。街中では感じないタイプの孤独感、とでも言えるだろうか。そして、無力感。もし私の足がこの道で限界を迎え、膝を折ったら、どうしようもできないままこの道に打ち捨てられてしまうのではないか。そんな心持ちが寄せては引き、寄せては引く。

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生麦の道はとにかく暗く、長かった

ふと、こんなことを思った。

今回、東海道をいく、という割にはしょぼい行程を進んできたわけだが、それでも、この道には自分の人生を写す鏡のような何かがあった、と。街を歩く人や街そのものに心躍らされ、それでも先へと一人で進んでゆく。時に思い込みで突き進み、それが故に自分を追い詰め息を切らす。もちろん、その先には高揚感と共に道を歩くときもある。だが所詮は空元気。今度は自分に鞭を打ち続けて、今、生麦の暗夜行路をポツンと一人で歩いている。

とすると…このまま生麦を抜けて、もっと先まで歩いてみれば、人生の先を見渡すことができるのではないか。私はそんな馬鹿げたことを思った。だがあの時は割と真剣にそう思っていた。先を知りたいと言うわけではないが、何かヒントだけでも欲しい。私は踏ん張ってみようかと思った。

 

長く暗い生麦の道はおよそ30分は横断歩道にぶち当たることもなくうねうねと進んだ。時刻は18時。道の出口の近くに「生麦事件」を伝えるボードがあった。18時は、私が暗黙のうちに決めていたタイムリミットだった。ホテルのチェックインのためには、そろそろ中華街へ向かった方がいい。私は悩んでいた。

結局のところ、私は東海道を歩く、というプロジェクトをここで打ち切ることにした。足ももう限界だ。限界を知った時、一度やめる、呼吸を整える。歩くのは楽しいのが一番だ。きっとこれが次の人生のヒントになっているのだ、と嘯いて、私は東海道を離れ、生麦駅へと向かった。