Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

寛容のレッスン〜クリスマスに〜

今年のクリスマスは、家族でセッションをした。父がフルートを吹き、母がピアノを弾き、私が音程の悪いヴァイオリンを鳴らした。

クリスマスイヴの昨日はそこまでひどくない音を鳴らせたが、今日はあまりかんばしくない。腕やら体やらが硬いようで、うまく音が出ないのである。昼ごろは鳴っていたはず楽器が今夜は掠れ声だ。そう思うと心が段々と狭くなってゆき、体も硬くなってゆく…。そして結局、全然弾けないままになる。

 

ヴァイオリンほど身体・精神の調子と連動している楽器は滅多にないのではないかと思う。そもそも、かなり不自然なポーズをしているし、音程だって自分でとらないといけない。そんな微妙な状態にあっては、身体や精神の乱れが音に直結してしまうのだ。

以前、ヴァイオリンの教本を立ち読みをしていたら、「あがり」の対処法が前面に押し出されているものがあった。「あがり」とはもちろんお茶のことではない。緊張して弾けなくなってしまうことだ。なぜ「あがり」のことばかり書くのだろう、と疑問だったのだが、今ではなんとなくわかる。緊張で体が硬いと音が出ない。緊張していると音が取れない。心身とヴァイオリンは直結している、直結しすぎているのだ。

有名なヴァイオリニストであるメニューインは自分の練習メニューの中にヨガを取り入れたが、これはそう言う意味で、的をいたことだと思う。演奏するには常に平常心、心身の調和が保たれている必要があり、それはヨガの呼吸法が目指すところでもあるのだから。

 

だが、この、クリスマスという日に、私は別のことも思ったりする。

楽器を構え、不安になる。うまく合うだろうか。間違えないだろうか。そして案の定間違えたりすると、落胆でどんどん他の場所も間違え、体が固まってゆく。私にはぼんやりとした完璧主義がある。ぼんやりとしていなければ、完璧さを追求するから良いのだが、ぼんやりとしているから、自分を責めるだけに終始する。その、ある種の狭量さが、心身のバランスを、演奏中に乱してゆくのである。

思えば、ヴァイオリンに限った話ではない。カレーを作るときにも、うまく味がまとまらないと、「だめだ」と頭を抱えるし、旅の最中に行こうと思ったところ全てを回ってやろうと焦る。文章を書いていても、自分はなんて書くのが下手なんだ、とときに腹が立つ。外国語が聞き取れず、外国語を話そうとしてしっちゃかめっちゃかになると、自分は語学は好きだが、上達しない、と悲しさにも似た感情を覚える。焦り、自分を責めると、呼吸も荒くなってしまう。程度の差はあれ、誰しも似たようなところはあるんじゃないかと想像している。

 

大抵のことは、練習したり、場数を踏めば解決する。だが、それでも焦るのはなぜだろう。答えはすぐには出ないが、過程を楽しむ余裕を持てず、結果にばかり目が行くから、かもしれない。

と、言葉で言ってはみても、自分の性根はなかなか変わらないものだ。だが、後ほんの十数分ではあるけれど、クリスマスなのだ。クリスマスは人に寛容になる日だと言う。それならば、自分に寛容になってみても良い。寛容のレッスンを続けよう。そうしたら人生はもう少し、リラックスした状態で進んでゆくかもしれない。そうなれば、いい音も自ずから出るはずだ。