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旅、映画、食べ物、哲学?

ヴァンショー修行〜クリスマスによせて〜

日本には酒を温める熱燗があるが、ヨーロッパにはワインをあたためたヴァンショーがある。英語ではホットワイン、ドイツ語ではグリューヴァインという。といってもただワインを温めるだけではない。クローヴ、シナモン、スターアニス八角)などのスパイスやオレンジピールといっしょにワインを煮るのである。だから、飲むと鼻にすっと甘いスパイスの香りがするのが特徴だ。

そんなヴァンショーを最近夜中に作っている。

 

あまり寝酒というものをしない人種だった。旅先ではよく地ビールなどを買って部屋で飲んでいたが、日本ではあまりやらなかった。特に理由はないが、まあ要するに、飲む理由がないからである。だが、ここ最近ワインを買って帰るようになった。

ワイン道楽は悪くなかった。というのもビールより持つし、よく言われていることだが、日が経つにつれて味わいが変わるのだ。なんだか、何かを育てているような気持ちになってくる。その感覚は、カレーと同じかもしれない。

だがどうしても最後になると酸味が強くなったりして、あんまりよろしくない。そういうわけで、ワインボトル最終日にヴァンショーを作ってみようと思い立った。

 

なぜヴァンショーか。それは近藤史恵さんの推理小説、ビストロ・パ・マル・シリーズというものがあって、それをつい最近一気に読んだからだった。大まかにあらすじを言えば、下町のカジュアルなフランス料理店「ビストロ・パ・マル(パ・マルは『悪くない』という意味)」を舞台として、お客さんの抱えるちょっとした謎をシェフの三船が解き明かしてゆく短編集である。シリーズというだけあって今のところ三冊出ている。

第一作目の『タルトタタンの夢』を初めて読んだのは、私が高校生の頃、推理小説に入れ挙げていた時分のことだった。あの頃は馬鹿げたこだわりをもっているのがかっこいいと思っていたのか、「日本の推理小説はベタベタしていてくだらない」「殺人やイリュージョンのような盗みこそが事件だ」などとあれこれと拘っていた。『タルトタタンの夢』はいわゆる事件らしい事件が起こらない「日常ミステリ」と呼ばれるジャンルの作品だったのだが、ひょんなことからこれを読み、その面白さにやられてしまった。舞台設定の持つ雰囲気の魅力、ただ単に殺人が起こる小説よりもある意味で緻密な展開、あげたらキリがないが、とにかく面白かった。それ以降日常ミステリを読むようになった、などといった安っぽい展開は起こらなかったが、こだわりを一つ捨てるきっかけにはなったかなと思っている。

なぜ今になってまた読んだのかというと、理由は単純である。最新刊が出たのだ。一作目の『タルトタタンの夢』、第二作目の『ヴァン・ショーをあなたに』までは読んでいたが、それもずいぶん昔のことになってしまっていた。読み返して、雰囲気を掴んでから最新作を読もうと、もう一度読み直した。すると、酒を飲まなかった当時と比べてワインが気になる。話の中でワインの言葉が出てきてもわからないからかもしれない。もっと知りたいと思った。また、例のヴァンショーは作中でよく出てくるので、やっぱり飲んでみたいなと思った。飲んだことがまるっきりないわけではなかったが、とにかくうまそうなのである。メニューにはないが、三舟シェフの得意なヴァンショー。必ず最後に振る舞って、問題を抱えた人たちにひとときの安らぎを与える。うーん、飲んでみたい。飲んでみたいと思わないわけがない。

 

 

そういうわけで、ヴァンショー作りである。

まずは、ネットで調べる。Comment préparer du vin chaud(ヴァンショー 作り方)。カレー作りの応用だ。現地のレシピを動画サイトで得る。クローヴ、シナモン、スターアニスといったカレー作りでもよく使うスパイスを使うらしい。あとはオレンジピール。だがそんなものは家にはない。夜な夜な作っているので、買いに行くのも億劫だ。そういうわけで私はおもむろにみかんを手に取り、食べた。そう、みかんの皮をぶち込んでやろうというわけだ。そしてあと必要なのは、砂糖。これはちょっと意外である。だが、ピンと来たのだが、オレンジピールとワイン以外は、ほとんどインド式チャイの作り方と一致している。しめしめ。

そういうわけで私はチャイを応用することにした。火をつけ、スパイスを煎り、火を止め、ワインを入れる。そして砂糖を2杯ほど。香りは良い。私はスパイスを退けて、マグカップに入れて飲んだ。渋い。そう、砂糖が足りないのだ。そして何より、アルコール分が全くない。決してまずいはわけではなかったが、成功とは言い難い。

 

ヴァンショー、単純に見えて、奥深い。スパイスは奥深いジャングルを形成してしまうのかもしれない。私は密かにある計画を立てた。クリスマスまでにうまいヴァンショーを作る技術を得て、クリスマスの夜、夜な夜な一人でヴァンショーを飲もうじゃないか、と。

クリスマスまでに。これは歴史が好きな人ならピンとくる、不吉な呪文である。第一次世界大戦が始まった時、兵士が家族にこう言った。「クリスマスまでには帰る」。そして戦争は4年続いた。今回のコロナ騒動でも、ヨーロッパ各国はクリスマスまでに規制を緩和しようとしていたが、つい最近英国は再び封鎖の意向を決めた。そう、クリスマスまでに何とかなった試しがないのである。だが、きっと、うまくいく。そう信じてみようと思った。

 

ヴァンショー修行がはじまる。

ワインを買うたび、最後に必ずヴァンショーを作った。スパイスの煎り方を変えてみたり、みかんの皮を暖房でカラカラに乾いた部屋に放置してみたり、あるいはスパイスと一緒に炒めたりする。砂糖の分量を増やす。いろいろ試してみながら、徐々に体にヴァンショーの作り方をしみ込ませて行った。

なかでも試行錯誤したのはアルコールだ。熱燗と違って直火にかけるヴァンショーはすぐにアルコールが飛ぶ。だから、蓋をしっかり閉めて、弱火でいくことにした。時折、(意味があるのかはわからないが)ちょっと鍋を揺らして、蓋に張り付いていると思われるワインの蒸留酒を落としてみたり。これが結構悪くなくても、ある程度はアルコールを感じられるようになった。どうやら実際は蒸留酒を入れたりするらしく、最初に作った際は、残っていたブランデーを回し入れてみたりしたが、できればワインそのものを生かしたい。そういいながら、砂糖をどっさり入れているので、このこだわりにあまり意味はないのだが。

だが結局のところ、こちらが踏ん張ってもあまり意味がないのかなとも思う。要するに、ある段階からはヴァンショーくんがうまいヴァンショーになってくれないと困るのだ。ふざけているわけではない。今年の前半、カレーを本腰を入れて作るようになって気づいたことだ。カレー作りは、人間がカレーを作ることではない。カレーがカレーになる条件を整えてやることなのだ。そして、他の料理もまたそうなのだろうと思う。

 

ひょっとすると、人生もまたそういうものかもしれない。

私はワインを飲んでみようと積極的に思うことがあまりなかった。それはワインというものに、なんだかスノッブなイメージを持っていたからだった。格好つけて「君の生まれた年のワインで乾杯しよう」とか、「19XX年のシャルドネはいいんだ」とか、歯の浮くようなことをいう材料になるイメージだ。そしてそれと同時に、ソムリエの方々のようにたくさんのことを知り、たくさんの味を区別できなければならないんじゃないか、という敷居の高さも感じていた。

だが、先ほどの『ビストロ・パ・マル』シリーズもそうだが、他にもワインに関わる本を読んで、ワインを飲んでみたくなっている自分に気づいた。結局、スノッブでお高くとまってる、というイメージからワインを避けてきたのは、自分がそういうイメージの人になりたくないからだった。だけど、自分に対してそうやってイメージ戦略をかけていくことに意味はあるのか。飲んでみたい酒、やってみたいこと、行ってみたい場所、きてみたい服。判断する自分の向こう側にある自分の動きに身を委ねてみよう。実を言えば、ちょうどそんなふうに思っていたから、私は寝酒というか、夜の一人のワイン時間を作ってみたのだった。

 

そして、今日、クリスマスが今年もやってきた。残念ながらイヴの日はワインを買う時間がなく、まだヴァンショーを作るに至っていない。行って仕舞えば出鼻をくじかれた形だ。だがまだ明日がある。明日、良いヴァンショーができるのかは、ヴァンショーのみぞ知る。どうなろうと、クリスマスは「赦し」の季節。心の暖はとっておこう。