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旅、映画、食べ物、哲学?

イヤフォンについて

ポータブル型の音楽機器が発明されて、私たちはどこにでも音楽を持ち運ぶことができるようになった、と言われる。それまでは音楽はでかいスピーカーから流れるものだった。いやもっと昔に戻れば、楽器から発せられるものだった。そういう意味で、確かに現代人は音楽を持ち運び、イヤフォンを通じて、人の目を気にすることなく、個人的に、音楽を楽しむことができるようになったといえる。

だが、イヤフォンとはそれだけのものなのだろうか。もしそれだけだとしたら、みんなかなりの音楽好きだったというわけだ。だが、実際はどうだろう。持ち運べるようになったから、音楽好きが増えたとも言えるだろう。だから、きっとこの装置の発明は、もっと大きな意味があったと考えられないだろうか?

 

ある年配の教授が、ポータブル音楽に眉をひそめていた。無理もない。年配の教授という動物は、多くの場合、あらゆるものに眉をひそめるようにできている。それが生存戦略というものだ。音楽は文化であって、コンサートホールなどで聞くのが本来のきく仕方で、それを個人的に、機械を通じて聞くのは安っぽい。まあそう言われて仕舞えばそうなのかとも思う。それに個人的に、という部分はよくわかることで、私たちはイヤフォンで音楽を聴くことで、心を閉ざしてもいるのだ。

以前フランスを旅した時、私はイヤフォンで音楽を聴きながら車窓を眺めるのが好きだった。席に着くと、前に中年の女性がいた。私はにこやかに挨拶をして、イヤフォンをつけて車窓を眺めた。中年の女性は話しかけ違っていたが、別の、隣の女性に話しかけた。「向かいの客はイヤフォンつけちゃったから会話ができない」みたいなことを言っていた気がした。その時私は無性に恥ずかしくなった。心を解き放ちに来ているのに、心を閉ざしていたのだ。

これは電車好きの母が言っていたことだが、電車内の音も心地が良い。がたんごとんも良いし、話し声も良い。旅に出れば、アナウンスだって良い。だが、イヤフォンは全てを拒絶し、自分の利害関心のあるもの、すなわち聴きたい音楽だけに私の耳を集中させる。最近では旅行中、あまり音楽は聞かなくなった。飛行機とバスくらいである。ただ、バスでも心を閉ざすのはちょっと嫌なので、つけていないこともある。

 

それでも、イヤフォンで音楽を聴くことは、日常的には止められないし、飛行機では何かしらを聞いている。なぜだろう? 音楽を聴きたい、ということもあるだろう。だが、音楽を純粋に聴きたいのであれば、それこそコンサートかライヴに行った方が良い。音楽を聴きたい、という欲求が、映画が観たい、とか、絵画が見たい、という欲求と同じようなものだとしたら、つまりトイレに行きたいという欲求と違うなら、いつでもどこでも聴ける必要はないだろう。ではどうして、イヤフォンを持ち歩き、イヤフォンがないとがっかりした気持ちになるのだろうか?

 

これを理解するには、「知覚」のことをもっと考えないといけない。私たちは耳からは音を、目からは光を、舌からは味を、鼻からは匂いを、肌からは質感を感じ取っている。だが、もっとその場の経験に即して考えてみたら、そんなにいちいち感覚が分かれている印象はないだろう。もちろん、どれかしか感知できない場合は別だが、すべての感覚に訴えてくる経験は、もっと全体的である。

例えば、初めて行く街に降り立ったとしよう。目の前には初めての風景が現れる。だがそれは見た目だけだろうか? 風、匂い、音、あるいは匂いからは味までも、私たちの前に一挙に与えられる。その全体が街である。それは、分けることのできないものだ。イスタンブールは私にとって、写真のようなものではない。そこには常に、甘いお菓子の匂いと排気ガス、ちょっとしっとりした風、呼び込みの「ブユルン、ブユルン!(いらっしゃい、いらっしゃい)」が組み込まれている。ハノイはもっと湿っていて、クラクションだ。

 

と、すると、である。音が変われば、経験全体が変わるのである。呼子のいないイスタンブールは、イスタンブールの光景そのものを変えてしまう。視覚的データが変わらなくとも、それは経験としては別物なのだ。イヤフォンをつけるのは、たぶんそこに理由がある。

CMなどで、イヤフォンをつけると場の光景が変わることがある。それは大げさなCMの印象操作のようにも思えてきそうだが、思うに、あながち嘘ではないのだ。満員電車の中でインド音楽を聴いてみたら、インドの満員電車のイメージになったことがある。どうように、どんなにどんよりしていても、明るい音楽をつけることで、それを楽しめることがある。つまり、イヤフォンとは、音楽を持ち運ぶ装置、というだけではない。イヤフォンとは、知覚のコンテクスト(文脈)そのものを変えてしまう力を持っているのだ。

同じ車窓でも、明るい音楽をかければ、ビルさえも踊っているように見えるし、悲しい音楽をかければ太陽ですら自分とはずいぶん遠い存在のように見える。イヤフォンは風景を変える。満員電車も、大して気にならなくなる。だから、私たちは音楽を個人的に聴いているのではないだろうか。そう、つまり、見慣れてしまって、飽き飽きした街並みの色を変えるために。