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旅、映画、食べ物、哲学?

家に帰らないといけないのか

わたしはレストランの予約もしないし、映画のオンライン予約もめったなことがないとしない。なぜなら、予約をすれば、心配事はひとつ消えるかもしれないが、その代わり義務がひとつ増えてしまうからだ。どこかに行かなければいけない。自由な気持ちで歩いていても、時間を気にしないといけなくなる。それが窮屈でたまらないのだ。そういう意味で、「家」というのはどうやっても付いて回る、「行かなければないけないところ」であり、自由になりかかった私の心に突き刺さる厄介な存在であった。

 

家というのは、多くの場合、安心の象徴である。それはCMを見てみればわかる。「帰りたい、あったかい我が家が待っている」。家というのは暖かく、誰かが帰るのを待っている。家では落ち着かない、という人には、別の家があるのかもしれない。例えばそれは友人だったり、恋人だったりがいるところだろう。そうすると家は実は無数にあることになる。だがそれでも、家族のいる家はどこか特別な意味を持っている。もし、ただ行きたくない場所だったら、行かないという選択もできるだろう。だがそれでも、家族との軋轢があったとして、何か心にしこりが残り続けるなら、それは「家に帰らないといけない」という義務感がほんのりと残っているからだろう。

それはひとつの帰巣本能かもしれない。なぜなら人類は結局群れで生活しているからだ。旧約聖書の神は、「人が独りでいるのは良くない」と言ったらしい。科学も、ホモサピエンスは群れで行動したために生存できたと言うだろう。そのためには群れが必要であり、核家族化がいわれるこの世の中でも、結局は核家族という群れの中で生活しているわけだ。群れで暮らす哺乳類の中には、群れから離れた個体は死んでしまう、というようなものもいるらしい。それが感情的に現れるとしたら、それは安心感と不安感だろう。独りでいる不安さと、誰かといる安心さ。それは、ちいさいころからずっと一緒にいた家族なら、増幅する。反抗に反抗を重ねても、彼らは他人ではいてくれない。

それは、「いい話」だろう。「心温まる」話だろう。家族は暖かい。親がどんなにひどいことを言ったとしても、それは子供を思ってのこと。なるほど。それは半分真実で、もう半分は免罪符なんだろう。だが、一般的には社会的に受け入れられている。それはきっと、社会そのものが一種の家族であり、私たちに帰属を求めてくるからだろう。そう、社会、国もまた、家みたいになっているのだ。

 

昔はあまりなかったかと思うが、最近空港に行って、航空会社でチェックインをするとこんなことを聞かれる。

「ご帰国日はいつですか?」

それって、帰国しないといけないということなのだろうか。まあそこまでケンカを売らないとしても、要するに、いつ帰るかわからないといけないのだろうか。実際、私がソフィア行きの列車で出会った旅人は、アゼルバイジャンまで帰国便をとらずに行ったのだが、軽く尋問されたらしい。係員が二人来て、説得を受けたという。

しかし一つわからないのだが、航空会社というのは飛行機の運営会社である。であれば、帰国日程を知っている必要はないではないか。まあ、一応論理としては、こうなるだろう。帰国便をとっていないと入国できない場合があり、入国できない場合、この航空会社は帰りの飛行機に旅行者を乗せて帰らないといけない。そのため、面倒を避けるために、先に聞いているのだ、と。理にかなっている。非の打ち所がない。だがそういう合理的判断の向こうに何か、「頼むからほっといてくれよ」という気持ちにさせるものがある。それは、「帰国」である。

どうも最近は、「帰国」をやけに重んじているように思う。驚いたのは、前回ヴェトナムから戻った時だ。名残惜しさとともに日本に降り立つや否や、係員が大声で、

「おはようございます! おかえりなさい!」

と叫んでいるではないか。たぶんおもてなしなのだろうし、彼らはやらされてやっているのだろうから、彼らに非はない。というか、これに気分を害する私の方が不健全なのだが、なぜだか、ディストピア的なものを感じてしまったのである。旅人は皆、家に帰りたがっている、という一種の常識というか良識が染み付いている。だが、私は少なくとも、「帰ってもいいか」くらいの気持ちで帰ってきているから、赤の他人に「おかえりなさい」と叫ばれても、嬉しさというより、気味の悪さすら感じてしまった。

「帰るべき国がある」

それは、そうしたものを持たぬ人と比べてしまえば非常に恵まれていることだろうし、それにケンカを売るのはあまりに贅沢なのだろう。だが、そういう論法は、「学校に行きたくねーよ」と言っている子供に、「学校に行けるだけ恵まれているのよ」となだめるのと同じだ。そうなんだろう。非常に道徳的な意見だ。だが、行きたくないものは行きたくない。なぜその気持ちを抑圧しないといけないのだろう。同様に、「帰国」に伴う気持ちの悪さは、それ自体として考えて欲しい。比べないで欲しい。どうしてもそう感じてしまうのである。

 

鍵になるのは「ディストピア」と「安心感」の間にある関係性だろう。

私はこの二つのかなり密接なつながりを持っていると思う。なぜなら、ディストピアというのは普通、ただの強権的支配からは生まれない。独りのただただ傲慢な王様が城にこもって、税金を取り立てて、贅沢に過ごしている。それは、ひどい国である。だが、それは単にひどい国であって、普通ディストピアとは言わない。ディストピアと言われるのは、洗脳や過度の監視のもとに成り立つ国である。もしかすると、君主すら洗脳されている可能性がある。

そして、洗脳や監視というのは、その根っこに安全性がある。というのは、洗脳や監視をすれば社会は安全になるからだ。全員が均質な、国に忠誠を誓うタイプの人であれば、世の中は平和である。デモもないし、犯罪も起きない。誰もが良識を備えた善人である。なんと素晴らしい。そこには「ビューティフル・ハーモニー」があるのである。そのためには何が必要か。「教育」だ。となれば、道徳心から何から何まで、国家が教育しないといけない。ばらつきは悪だからだ。かくして洗脳社会の出来上がりである。さらに、それでも社会の秩序は普通維持されないから、いたるところに監視カメラを置き、なんなら思っていることまでわかった方がいい。お次は監視社会の出来上がりだ。

この「安心感」は人間の本能のようなものからたぶん出てきているのだろうが、これを増長させると、結局のところ、ディストピアまっしぐらになりかねないと思うのである。かなり過激なことを言っているのはわかっているが、世の中一つ一つの、安心を求める行動は、どこかで秩序と統制の方向に伸びていると言えなくもない。

 

脱線したように見えるだろうか。だが、実は脱線していない。これは家の話と繋がっている。ディストピアというと、国の話だし、母国を重視するのは、ナショナリズムの話になる。そうすると、「ちょっとやばいな」と思う人もいるはずである。だが不思議と家族はそうならない。家族のメンバーは他人ではないからである。小さい子供の頃はともかく、成熟した年齢に達しても、門限だのなんだのを決めるのは、構造としては実はディストピアと変わらない。子供の安全、子供のために、とはいうが、そこには監視があるし、一種の洗脳もある。気分を害される方がいたら、申し訳ない。だが、ちょっと考えてみると、それは明確に、否定できるだろうか。もし、家族の一人一人をきちんと独立した人間として認めるなら、そこにはディストピア状態があるのがわかる。

だが重要なのは、そのディストピア状態は常に必要だと考えられてきたのであり、常に良いものとされてきたことである。それは、やはり、「安心」だからだ。私たちの生命の保存のため、群れが必要なのである。そしてそれは血の論理によって保証されてきた。家族の絆と言われるものは、冷静に考えてみればそういうことになる。そしてそこには揺るぎない安心感があり、家に帰るとホッとするというのはそういうことによるものが大きいといえる。それは「帰るべきところ」であり、そのように、心のどこかにすりこまれている。別に糾弾しているわけではない。要するに、ディストピアというのは、聞こえが悪いのだが、ホッとするものなのである。ディストピアは、実は多くの人にとってのユートピアなのである。うまく機能してくれれば、自分の自由を犠牲にして、安寧と秩序を手に入れることができるのだ。だから、憲法などが権利を規定しない限り、国家はすぐさま全体主義になる。それは、何も誰かが悪意でやっているのではなく、「みんな」の善意によって起こる。迫害されていなければ戦争開始前のナチスドイツは安全だっただろうし、東独はきちんとした生活を送る人にとっては良い国だったらしい。必要とされる正しさを、なんの疑いもなく受け入れられれば、そこは楽園になる。

 

 

それでも、私たちが心の奥底に感じる、「放っておいてくれ」という感情はどこから来るのか。それはまちがいなく理性的なものではない。合理的に、理性的に考えれば、家に帰った方がいいに決まっている。放っておいて欲しい心は、確実に、何か尺度の別な感情だ。私は、それが、帰巣本能とは違う、第二の本能ように思う。心の奥底で、所属することの安心感に反旗をひるがえす何かが胎動している。

これは、決して私一人が勝手に感じているものではないと思う。というのは、バックパッカーというスタイルが一つのムーヴメントとなり、西行芭蕉などが示す放浪の旅が世人を惹きつけ、ムーミンの登場人物のなかでスナフキンがかなりの人気を誇り、奥田民生沢木耕太郎の人気が持続的なのを見ても、人は心の奥底で旅を切望しているといえるだろうからだ。旅は、家を一時的に捨てることだ。そうすると人は「根無し草」になる。いろいろな意味で「異邦人」にもなる。家や帰属するものをもつ安心感とは別の、「異邦人の心地よさ」のようなものがそこにはある。

なぜか。それは一つには、まぎれもない自由の体験があるからだろう。「アラジン」の有名な歌から引用するなら、「No one to tell us 'No' and where to go, or say we're only sleeping(だれも僕たちにダメだとか、どこに行けとか言わないし、僕たちは現実逃避してるんだなんていうこともない)」という経験がそこにはある。物理的に、何かからの支配を抜け出すことで、私たちは自分の心のままに動くことができる。その自由は怖いことでもある。どこにでも行けるということは、どこに行ったらいいのかわからないということだからだ。だがそんなとき、胸の内にある衝動が輝く。道そのものが、私たちに指し示す。だがそれは義務ではない。「どこへ行け」ではない。「ほら、こっちに来てみないか?」と問いかけてくる。その境地で、私たちは自由になる。

だがこの自由は単に、指図する人がいない、というだけではない。自分からも自由になるのだ。私たちは常に、なんらかのルールを作って生きている。「こんな汚いところでは寝られない」「私は暑いのは苦手」「寒い方がもっとダメ」……そうやって私たちは自分に枷をつけている。その方が楽だからだ。わかりやすいのである。だが案外、そういう枷は無意味だったりする。旅はそれに気づかせてくれる。指図してくる人は他人だけではない。ディストピアを作っているのは他人の目だけではなく、自分の目でもある。フーコーではないが、私たちは自分自身を社会化している。だが、違った環境に身を置くことで、自分が覆い隠してきた可能性を見ることができる。

その最たるものが、「家に帰らないといけない」というものかもしれない。私たちは旅をしていても、最後には家に帰ることを前提としている。だが、ふとこんなことを思うことがある。1日しか泊まっていない宿も自分の城みたいになるし、1日しかいなかった町も、親しみを感じる。そうすると、家なんてものは幻想に過ぎず、どこにだって暮らして行けるのではないか? 明日はここ、明後日はあそこ。自分が眠りたいと思った場所で眠り、自分が歩きたいと思った道を歩いて悪いことがあるか、と。道端に眠りたい時もある。星を眺めたい時もある。暖をとりたい時もある。だが、身の回りにあって欲しいと切に願うのは、自分の体とちょっとした大事なものだけだ。いや、大事なものなんていうのもないのかもしれない。時の流れの中で全ては風化する。常に新鮮であり続けるのは、人生そのものだけだ。

それは退廃的なのかもしれない。だがそれはただ単に退廃的なのではない。それは、自分を見つめ直すことでもある。その結果、自分の周りにはあまりに多くのものがあったことを知るのだ。そしてその結果、あまりに広大な世界に目をやることができていなかったと。社会、秩序、組織……安心させてくれるいろいろなもの。だが私たちはそれに満足できない。道が呼んでいる。その先には、動物的な本能を乗り越える何かがある。いや、ないのかもしれないが、道の上には確かに、私たちを夢中にさせる何かがある。なくなったとしても、私たちはそれを探し始めることだろう。そこで自分を縛っている何かに気付かされるかもしれない。私たちはそんな不健全な衝動と、安心感を求める健全で危うい本能の間を揺れ動いていると言える。

 

どこから抜け出すのが自由なのか。そうしたら、一生自由になんてなれない。あるところから出て自由を感じても、そこはもう自由ではなくなってしまう。

そうだろう。だが、旅の自由は、抜け出す所にあるだけではない。何もそんなに遠くに行く必要もない。そんなことはどうでもよくなってしまうほどの何かがある。安心感への違和感、解放を求める雄叫びの向こうにあるのは、純粋に肯定的な楽しさだ。冒険は不安を吹き飛ばすほどに楽しい。私たちは血沸き肉踊る経験をする。「帰りたくない!」そう本気で思うが、それは、帰らなくてはいけない運命を恨むというより、心の奥底で、「帰らなくてもいいのかもしれない」と思える何かが芽生えているといえる。つまり、私たちは旅の中で生きていることを感じるのであり、なんなら普段の自分より生きていることを感じる。

だから、思うに、旅とは現実逃避ではないのだ。むしろ現実なのだ。社会、会社、家、家族、学校……そういったものはよく「現実」と言われるし、家に帰るのを「現実に戻ってしまった」という。だが、家や社会生活の方がずっとフィクショナルな経験をしている。「父」「母」「子」だの、「〇〇社の社員」だのといったほうが、「見知らぬ異国の人」であるよりもずっとロールプレイ感がある。そういう意味では、旅はむしろ現実に変えることであり、家に帰るとき、私たちはまたも演技の世界に引き戻される。そもそも家に帰る必然性はどこにもないのだ。旅はそんな現実に気づかせてくれる。

 

だから……「家に帰らないといけないのか」という問いには、私ならこう答える。帰る必要はないし、帰る必然性はどこにもない。それでも帰りたいと思うのは帰巣本能だ。帰りたくないというなら、それは旅に魅せられているのだろう。どれを選ぶかはその人次第だ。健全に家に帰るのもいいだろう。だが、ときには家を離れて放浪する方が健全な気もする。なぜなら、そうしないと、私たちの人生のほとんどは、現実逃避になってしまう。心の奥底で鳴り響く、「この世界を知りたい」という衝動に蓋をしてしまうことになる。それでは面白くない。「さすらいもしないで、このまま死なねえぞ」というわけである。

 

※こんなような話をしたら、「さすらいたい、根無し草でありたい、っていう人はちょっと心配になります」と言われた。