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旅、映画、食べ物、哲学?

口きかぬ街

ちょっと野暮用があって、東京駅の方へ行った。至急出さねばならぬ書類があり、大型連休中のため、郵便局の本局に行かざるをえなかったのだ。

2020年の初頭、人類を悩ませた流行病のせいで、街には人通りがほとんどなかった。しかし皆無ではない。私のように、必要かつ緊急の外出をする人もいるし、在住の人が体を動かさないといけないから外に出ることもある。太陽が出ていたし、人間は日を浴びないと、バランスを崩してしまう。というわけなのか、そうではないのかは知らないが、銀座のあたりになると、人通りもそれなりにあった。

しかし、それでも異様な感じだったのは、街が静寂に包まれていたことだった。人通りがあっても、人は口を閉ざしている。というか、マスクをしている。私だってマスクをしている。しかも、人通りが普段よりかなり少ないから、がらんとした感じがより強く、なんとも奇妙な様子だった。あまりの静けさに、耳元がボワーっとなる。

車やバイクがいるにしても、ヴェトナムでであうブルルンブルルン系のバイクではないし、タイやカンボジアで目にするトクトクトクトク系の車ではないので、なんともスムーズに道を走っていく。無駄な音は立っていない。

そんな口きかぬ街の中で、口をきいているものといえば、虚しく、いつもよりも響きのいい空間で音を垂れ流すコマーシャルくらいで、そこには世紀末的な雰囲気すら漂っていた。

だが、口をきいていたのは機械だけでは、もちろんなかった。子供達は、いつもと変わらず、楽しそうに喋っていた。親たちの声はマスクで曇っているのか、音量を自粛しているのか、あまり聞こえなかったが、子供達の笑い声ははっきりしていた。その声は、生存反応に乏しい街の中で、バイタリティをほとんど全部と言っていいほど引き受けている。あまりに世界が静かだと、突然の声にびっくりしてしまうが、思えば、こちらの方が正常なのだ。大人の世界では、異常と正常はひっくり返っている。ひっくり返さなければいけないのかもしれない。そうだろう。しかし、常を保っている声は安心をもたらしてくれる。

もう一つ、盛んに口をきいているものがあった。それは樹木だった。ここ一ヶ月ほど、ほぼ家にいたので、気づいていなかったが、季節は芽吹きと開花から、いまや新緑に入っていたらしい。明るいグリーンは風に揺れ、何やら騒がしい。人もまばらな公園の椅子にちょっと座って、久々の日光を浴びながら本を読んでいると、滝のような枝垂れ柳が風に揺れていた。その色は、強かった。どうも、人類が元気な時より、樹木は元気なようだ。街が口をきかぬゆえに、新緑の色がより目につくのかもしれない。子供達がバイタリティを担っているのだとしたら、樹木が、シャッターと暗い窓で溢れた街並みに、彩りをそえていた。街は死んではいなかった。

それが、私の見た今日の口きかぬ街である。沈黙は沈黙で、悪くはなかった。なぜなら、普段は隠れているものが、少し見えたからだ。そして、大人たちがああだこうだ言って、勝手に頭を悩ませている間にも、街はひたすらその生命を輝かせていることを確認できたからだ。大人たちががんばって、よくわからないものに宣戦布告を出している間にも、時は流れ、自然は動いている。それに気づくだけで、ちょっと心が楽になった。