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旅、映画、食べ物、哲学?

彼らに話しかけてしまうのである

最近家族にはカミングアウトしたのだが、私は一人で家にいる時、テレビと会話している。なんなら、部屋ではYouTubeやラジオと会話している。

 

例えば、家族が家にいない時、よく高級料理の値段を当てるバラエティを見ていたのだが、私も不思議とそれに参加していた。テーブルの上にあるのは、残念ながらコンビニ弁当だったが、私は参加し続けた。テレビの向こうの人が、「これは〇〇円!」と予想をたてるたびに、「いやあ、どうかな」とか「うん、それくらいだろう」とか言いながら見ていたのである。誰がおごるのか一喜一憂しながら見ていて、「ああ、やっぱりあのときのやつが低めに設定されてたから〜」と口に出しながら見ていた。

ラジオもそうで、夜や、朝、ラジオをつけては、そのラジオの創立者で昔はバックパッカーのようなことをしていた人や、世界的にも活躍するモデル、芸人、サイエンスライター、ハーフタレント、アイドル、ヴァイオリニストなどと話していた。だからむしろ、音楽を聴くというより、トークを楽しんでいたと思う。

YouTubeもそうだ。音楽以外は、彼らと話している。

 

あんまり突き詰めて書きすぎると、自分でもかわいそうに、というか若干強く感じてきてしまうのだが、まあ概ね事実なのだから仕方がない。だが誤解しないで欲しいのは、別にこちらから話しかけるなどといった、無茶な真似はしていないということである。向こうの言葉に対してツッコんだりしているだけだ。

なぜなのかはわからない。一人っ子だからかもしれない。いや、それは全一人っ子に失礼である。なんにせよ、私にとってテレビやラジオの向こう側の人には妙な親近感がある。

 

しかし、考えてみると、私は本を読んでいる時もまた割と会話のモードに入っていることがわかってきた。

ただ、本の場合は、登場人物と一体化している場合と、実際に自分として突っ込んでいる場合の2パターンがありそうだ。まあどっちだっていいだろう。何が言いたいのかというと、私は話し相手になってくれない本が苦手なのである。

例えば哲学書でも、話し相手になってくれる本というのはあって、私にとってベルクソンは割とそうだった。彼はツッコミも想定しているし、一緒に何かを見ようとしている。だから私も一緒に何かを見ようとするのである。これが、カントの書き方は苦手である。『啓蒙とは何か』などは例外なのだが、「〜を…と呼ぶ」みたいなことを言われ続けても、どうしたらいいのかがわからない。話しかけてくれ!

昔数学にはまっていたこともあったが、その時も、やっぱり話しかけて欲しかった。だからあまりガチなものになると、手が出せなかった。「定義1」だのなんだのいわれたところで、きつかった。頼むから、一緒に解いて欲しかった。一緒に証明がしたかったのである。

歴史の本もそうで、私は歴史上の人物に言葉をかけ続けている。「ああ、いいとこまで行ったのに!」とか、そんな感じである。それが楽しい。そうするうちに、歴史上の人物までなんだか友達みたいなか感覚に陥ってくる。

 

もっと言うと、私は街とも会話している。歩きながら、「いい臭いじゃん」とか、「なんだあの看板は」とか、一人で、もちろん心の中で常にツッコミを入れ続けている。「あ〜、ここ行きたい、行きたいが……うーん、高い。やめよう」「やめるのか?」「それでいいのか?」みたいな、自問自答に陥ることもある。だがなんにせよ、私の一人旅、一人歩きの時の脳内はほとんどこうなっており、とにかく騒がしいのである。だがそれも、街と会話しているような気がする。どうしても、話しかけたくなる光景がそこにはある。夕日の美しい川辺で爆音エアロビを見つけたら、「おい!雰囲気どうなってんだよ!でもそこがいい」みたいなことを心の中で言っている。

 

……と、いろいろ書いていくうちに、だんだん自分が気持ち悪くなってきたので、そろそろやめたい。だが一言いいたのだが、この文章を読んで、「何言ってんだよこいつ、一人で寂しくないのかよ。気持ち悪いな」と思った方、あなたも私に話しかけています。御機嫌よう。