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旅、映画、食べ物、哲学?

ラジオ

テレビドラマと映画がタイアップしている作品を見ると、ドラマ版と映画版とでは絵の雰囲気が違うのがわかる。技術的には、きっと、フィルムを使っているとか、使用する機材が違うとか、そういった物による違いだろう。だが、私のような純然たる視聴者からすれば、その「雰囲気の違い」は、紛れもなく「雰囲気」の違いであり、それは空気感そのものの違いなのである。

それぞれの媒体によって違う雰囲気を醸し出す、というのはよくあることで、例えば、小説もまた、映画やドラマとは違った色彩を持つだろう。漫画にも、独特の匂いがある。実写映像化が失敗するのは、そうした空気感の違いを製作側が生かし切れていないか、あるいは、観客が空気感の違いを一切容認しないことによると思う。

以上は負の側面だが、あえてズレを楽しむ場合だってある。映画の技法でテレビドラマを作ったり(あまり逆は見ないような気がするが)、漫画のようにドラマを作ったり、小説のような映画を作ったりする場合である。これが案外おもしろくてハマる、ということはあるだろうし、私は好きだ。

 

さて、同じように、「ラジオ」にはラジオの空気感というものがある。

説明し難い何かがラジオにはある。私がきちんとラジオを聞き始めたのは、確か、中学生からだったと思うが、その頃から、私はそんなラジオの「雰囲気」の虜になっていた。

もちろん、ラジオともなると、時間帯ごとに空気が変わったりする。朝のラジオはポップでさわやか。昼のラジオは情報や音楽が飛び交う。夕方のラジオにはちょっとしたノスタルジアと猥雑さが伴い、どことなく品のある夜の放送が終われば、気怠くて刺激的な深夜帯が始まる。もちろん、局によっても違うだろうが、私が聴いていた局はこんな感じだった。ラジオが日常に溶け込んでいたときには、私はほとんど一日中、ラジオをつけっぱなしにして、とにかく、スピーカーから流れてくる「雰囲気」を楽しんでいた。トークも、音楽も、DJも、天気予報も、ニュースも、CMでさえも、その「雰囲気」の構成要素である。

ときたま、「ラジオは何かやりながらでも聴けるからいい」という言葉を耳にする。確かにそうだなと思う反面、私は取り立ててそこを「ラジオを聴く理由」としてあげはしないなとも思う。そんなこといったら、ほとんどのテレビ番組は、私にとって「ながら見」の対象であるし、CDを聴くにも、私は何かしながらである。ラジオだってそうなのだが、とりわけラジオに魅力を感じることがあるとするなら、それはやっぱり「空気感」であり「雰囲気」なのである。

 

しかし「雰囲気」って何なのだろう。ラジオを聴く方には、もしかしたら、なんとなく伝わっているかもしれないが、ラジオを聞かない方には、さっぱりだろう。だからちょっとズラしてみよう。

私はラジオの持っている雰囲気が好きだから、「ラジオみたいなテレビ」も好きだ。それはどれも深夜っぽいかんじで、大抵スタジオの人たちが話しているのがメインになる。もちろんロケはあるし、テレビでしかできない演出もたくさんある。だけど、そうしたロケを見ながら、コメントする人たちが放っているのはやっぱりラジオの雰囲気だ。そこには「開かれた内輪感」がある。

 

「開かれた内輪感」。これはひょっとすると大きいのかもしれない。ラジオの向こうで、テレビの前で、出演者たちが喋っている。その関係は、どことなく密なのだ。「最近どうです?」なんて話をふったり、台本やコーナーなどはあっても、それが自然なトーンとうまくつながっていく。大がかりなセットで大勢で撮影したり収録したりするようなものではなく、小さな小部屋の、「開かれた内輪」劇がそこでは繰り広げられている。だが、ただの「内輪」ではないから、「開かれ」ている。閉じていない。その微妙なラインが心地よいのだ。

ちょっと変にややこしい話になってしまっただろうか。まあ、要するに、説明しようとすればこんな感じ、ということに過ぎない。

 

思えば、私がはじめてきちんとラジオにハマったきっかけになった番組も、そういった「開かれた内輪感」があった。その番組はJ-WAVE BOOK BAR。編集者の大倉慎一郎さんと女優・モデルの杏さんが毎回それぞれ一冊の本を持ち寄り、「本を肴に」話すという番組だ。残念ながらもう放送していない。時間帯は、深夜にはまだかからない22時や23時のあたりだったと思うが、覚えていない。深夜ラジオよりは、上品だったが、私が好きだったのは多分、「開かれた内輪感」だったのではないかと思う。そのラジオを聞いている時は、大倉さんや杏さんは「内輪」の存在で、まだ酒を飲まない年齢だった私も、会話を聞きながら、本を「肴」にしていた。おかげで歴史の本を読むようになったし、沢木耕太郎さんの『深夜特急』を読むようになったのだから、私にとってはずいぶんとまあエポックメイキングなラジオだったわけだ。ラジオはまだ中高生の私にちょっと背伸びをさせてくれた。

そういう意味で、ラジオの良さは、大人を体験する良さでもあったのかもしれない。ラジオはいつだってアダルティーなのである。だから、ラジオの雰囲気のイメージとして「アダルティーさ」も挙げておこう。きっとこちらはもう少し理解してくれる方も多いはずだ。今でもそうかと問われると微妙なところはあるが、青春の夜中にはアダルティーなのだ。

 

さてと、だんだん何がなんだか分からなくなってきてしまったが、私が言いたかったのは、私はラジオが好きだということだ。FMのボタンを押せば、そこにはアダルティーで、内輪な世界が広がっている。それがラジオの色である。