Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

幻想の家

徐々に明かりが消え、うっすらと画面が広がるのが見える。

しばらくすると画面は輝き、そして物語が始まる。

私たちはいつの間にか物語の中にいて、物語となっている。

夢か現か、現実か幻想か、そのはざまで揺れ動く。

 

それが映画だ。というか、映画館だ。

映画館で映画を見るのは、大画面で楽しみたいから、という意見は結構聞く。だが私にとってはあまり画面の大きさは重要ではない。その証拠に、映画館に行って、ものすごい画面で見られる場合でも、大抵は無視する。小さいくらいでちょうどいいのであり、映画館の規模もそんなに大きい必要はない。私にとっては大事なのは、映画館が幻想への入り口になってくれる、ということである。

実際、映画館と入り口である。それは劇場と一緒だ。まず、映画館のロビーから独特の雰囲気で、これから映画を見るんだなというワクワクした気持ちを喚起させてくれる。ポップコーンの香り、ワチャワチャしたCMも良いが、もっと小さな映画館のみんながソワソワしているのも良い。チケットを買い、飲み物を買い、ときにパンフレットを買う。それらの行動は皆、映画へのワクワク感を増幅させる。なぜだろう。それはわからない。だがここから幻想への入り口は広がっているように思えてくる。

チケットを切ってもらい、上映室に入ると、幻想への扉は開かれる。だがまだ、入り込み切れるわけではない。映画を見るぞ、というワクワク感は最高潮となり、姿勢も映画鑑賞に一路向かって行く。

やはり決定的な瞬間は、暗くなった時だ。画面が大きくなる時だ。小さい頃は不思議だった。なぜ画面が横に大きく広がってゆくのだろう。理由は単純で、かかっていた幕が開いていっているだけだった。だが私はまだ画面が広がってゆくように見える。視野が広がるようにだ。それが来たらソワソワは終わる。つまり、幻想がスタートする。私たちは幻想の中に入る。

 

映画とは、写真をつなげ合わせたものである。なぜ動くように見えるのかといえば、それは映写機が写真を運動に乗せているからであり、実際の動きそのものとは異なる。いって仕舞えばフェイクである。それはそうだ。だが、それでも私たちが映画に惹きつけられるのは、新しい技術のおかげではないだろう。そうであれば古い映画なんて見てはいられないはずだ。実際、以前テレビで「アルゴー船の冒険」や「シンドバッド」を見た時は笑ってしまった。出てくる怪物の動きが常に、やけに、カクカクしているのだ。だが、それはそれである。映画の中では、オードリー・ヘップバーンに恋をし、ハンフリー・ボガードに憧れて、ジャック・レモンと爆笑して、チャップリンに笑顔を差し出すことができる。現在のほうが格段に技術は上がっているが、リマスターしなくても伝わってくるものは多い。銀幕の世界は、まぎれもない現実のように現れてくる。だがその一方で、どこか宙に浮いたような気持ちになるのは、オードリーとデートをし、ルークとともに暗黒と戦っていても、私たちは自分が着席していることに体のどこかで気づいているからだ。

つまり、私たちは幻想の虜になっている。それも、かなり現実的な幻想だ。そこにあるのは映像だが、映画の中はリアルだ。うまく幻想に誘ってくれさえすれば、カクカクとしたクリーチャーも問題はない。現に、今見れば結構粗雑に見える「スターウォーズ」のATATも、スターウォーズの力があれば、「そういうもの」として見えてくる。要するに幻想は画質や、映画がもともとは有している機械仕掛けを超えてくる。その一つの契機が、映画館の暗さなのである。映画そのものの力は大きいが、映画館の暗転はそれにそっと一押しをしてくれる。

 

そっと一押し。そこにたぶん、映画館と劇場の違いがあるだろう。劇場は、常に幻想の舞台である。だが映画館は幻想の入り口である。まさに扉のように、幻想が解き放たれるのを守っている。暗転とともに扉はパタンと開き、私たちは幻想に誘われて、幻想を生きる。映画の終幕、そして電気がつくと、私たちは一気に扉の外に、「ワッと」引き戻される。私たちは数人で映画を見に行くことがよくある。だが、実際には、幻想の最中は常に一人なのだ。仲間との合流は終幕後に突然行われる。まるで転送されたみたいに、隣の同伴者は電気の明かりとともに登場する。

映画館は一個の魔法の小屋である。だが入室も退室も不思議なことに椅子に座ったまま行われる。それはちょうど、プラネタリウムに似ている。プラネタリウムも、暗転とともに私たちは宇宙に飛ばされ、戻ってきた時には、突然同伴者の姿を確認する。映画も同じようなことが起きている。あの幻想的な体験は何者にも代えがたい。私が映画館で映画を見るとしたら、それはその体験をしたいと思うときである。大画面より、やはりそこが魅力的だと感じている。つまり、幻想を幻想として体験したいかどうかである。

 

明日、スター・ウォーズの最後の作品を観に行く。これからも続くらしいが、それでもやはり最後は最後である。きっとこの核心には意味があるのだろう。