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旅、映画、食べ物、哲学?

KEEP YOUR HANDS ''ON'' 最強の世界

漫画がヒットすると、決まってアニメ化や実写化の話が舞い込む。キャストも豪華になって、宣伝も大いに行われる。だが悲しいかな、大抵の場合はうまくいかない。「漫画原作の実写」というと、今では一種「地雷」のような扱いを受けるし、その主人公を演じるのがアイドルとなると、世間様の目はかなり厳しいものになる。

それは多分、原作の持つ世界観は、原作の「漫画」というメディアにおいて成立しているもので、それを実写に入れ替えると、不自然になったりするからだ。そして、なにより、漫画が何回もかけて丁寧に描いてきたものを、たった二時間ちょっとに落とし込むのは無理があるわけである。キャラクターを省いたり、ストーリーを省いたりして、原作ファンの顰蹙を買ってしまう。

そういう意味で、ドラマと映画タイアップで行われた「映像研には手を出すな!」の実写化は稀有な存在である。今をときめくアイドル三人を主人公に据え、独特な世界観の原作を描く、という「地雷」を踏むような行為に果敢に挑みながら、単なるアイドル主演作品・単なる話題の漫画の実写版では終わらせないのだから。

この作品はむしろ漫画『映像研』の新解釈であり、出演者・製作陣それぞれが『映像研には手を出すな!』という作品の世界観と向かい合い、独特の色合いをつけていった作品として捉えることができるだろう。面白いことにアニメ版もまた、別の方向性から新しい解釈を突きつけながら制作されているから、「映像研には手を出すな!」に「手を出す」ということは、ひょっとするとそういうことなのかもしれない。

 

 

舞台は「芝浜高校」。普通の学園ものであれば、これだけ説明すれば舞台の説明になる。だが、「映像研」は違う。「芝浜高校」は水路の上に建てられ、建て増しを繰り返した挙句に、複雑怪奇な形となった、広大な敷地面積を持つ学校である。

それだけでも「フツー」じゃないのに、学校の内部事情もかなり独特だ。部活動が異常なほどあるのである。実写版では「413の部活動と72の同好会」があると言及される(ドラマ版での設定。映画版ではさらに増えていた)。それを取りまとめる「大・生徒会」もまた普通では考えられないような権限を持っていて、「警備部」「監視部」「校安警察」などの暴力装置をつかって生徒を取り締まることもある。

そんな「独自の世界」を形成する芝浜高校に入学した浅草みどり、金森さやか、水崎ツバメの三人が主人公である。

浅草は壮大な世界観、「最強の世界」を空想してゆくことが好きで、それをアニメという形で実現することを夢見ている。そういう意味で彼女にとってはフツーじゃない世界観を持つ「芝浜高校」は格好のインスピレーションの源である。しかし極度の人見知りのためアニメ系の部活に入るのを尻込みしている。また、設定を創り上げることには長けているものの、人物画は苦手であり、おそらくそれも、アニメ制作の一つの障害となっている。

一方、水崎は、この世界にある「動き」を絵で表現するアニメーターに憧れを抱いているが、有名俳優を両親に持っていて、家業を継いでほしい父からアニメーターになることを反対されている。アニメ制作で言えば、人物は得意だが、設定を細かくつけたりすることはあまり得意ではないように見える。

金森は浅草の中学時代からの知人(二人とも変わっているので学校生活に馴染んでおらず、「共生関係」にある)で、アニメのことはよく知らない。だが無類の金儲け好きで、なおかつ、「金を生み出す行為」が好きである。だが本人は頭が切れるものの、「創作」に向いているとは言えない。

この三人が出会うことで、物語は始まる。表立って「アニメ研究会」に入部できない水崎のため、三人は「映像研究同好会」というなかなかスレスレの同好会を組織。曰く、映像系の部活は枝葉ばかりが伸びてしまっているが、今必要なのは幹となる「王者」である、と弁の立つ金森はうそぶいている。かくて、プロデューサーを金森、監督を浅草、アニメーターを水崎が点灯する「映像研」が爆誕する。

だが、これは「大・生徒会」に目をつけられることになる。何せ部活が合わせて500ほどあるのだ。管理ができない。「大・生徒会」の目下の課題は部活動を減らすことだった。この期に及んで、同好会の新設などもってのほか、というわけだ。やることなすこと「風紀を乱す」と言われ、「パブリックエネミー」と糾弾される。

本作では、この「大・生徒会」に対する「映像研」の一種の「政治闘争」と「革命」を描きつつ、三人の創作活動を通じた、彼女たちの「最強の世界」への冒険を描いてゆく。

 

 

漫画『映像研には手を出すな!』は同時期にアニメ版と実写版が作られたが、アニメ版ではさすがにアニメーターが関わっているだけあって、アニメ制作の描写が細かく、リアルに描かれ、強調されている。だからこそ、作中で水崎がいう「アニメーターは立派な役者なんだよ」というセリフが印象的なものになる。

 

一方の実写版の魅力は、別の部分にある。それはなんといっても「最強の世界」だ。

「わたしは設定が好きなんす。最強の世界を描きたいんす」

これは主人公浅草の言葉だが、思い返してみれば、この実写の製作陣の意気込みでもあると思う。つまり、この実写版では、原作やアニメではあっさりと出てくる、あるいは全く出てこないような「設定」を作り込んでいる。大・生徒会のシステム、学校内部の構造、そして物凄い数の部活動の数々。野球部が分裂して内野部と外野部に分かれたり、「水路の上の学校」という設定から上水道部と下水道部の対立という話が描かれたり、映画版では「気象部」なる部活も登場するなど、「映像研」のストーリーを描く上では「それって必要?」と思われるところにまで設定がつけられている。

面白いのは、そこまで徹底した設定作りのわりには、教職員や授業、といった高校生の日常の大半を占める存在は、極端に登場回数が少ないという点だ。アニメ版では描かれていた映像研三人の家庭も必要のない部分はカットされている。その結果、この作品を見ているとこれが高校を舞台としたいわゆる「学園モノ」であることを忘れてしまう構成になっている。

「学校は社会の縮図じゃねえよ。独自の世界だ」

というような台詞が映画で登場するが、まさに「芝浜高校」は「高校」とはいえど、「独自の世界」になっている。権力があり、地下組織もあり(これが原作等に出てくるのか私はまだ知らない)、それぞれの人は「部活動」を中心に生きている。それゆえに、実写で描かれる「芝浜高校」には、高校を舞台とすることででてくるステレオタイプはほとんど存在せず、独自の壮大な舞台、いわば一つの国がある。「映像研」は差し詰め、そんな一つの国の中で孤高に戦う反逆児たちなのだ。

 

だが、設定をつけ、それを拡張するだけでは、やっぱり「最強の世界」にはならない。浅草一人では「何もできない」のだ。これが一つの映像作品として「最強の世界」となるには、そこに人物描写は欠かせない。それも「リアルな」人物描写が。

だから、この実写版で描かれる人物にも細かやかな視線が向けられる。主人公三人はもちろん、大・生徒会の面々もそうだ。ドラマ版ではどちらかというと「敵役」だった「大・生徒会の影の実力者」さかき・ソワンデ書記の描写は見事である。基本的には権力者なのだが、頭が切れる金森のことも一目置いていて、「映像研」が何かを変えてくれるんじゃないかと心の底で期待しているように見える演技はなかなかのものだ。

もちろん、他の人物もそれぞれが個性を持っていて、「シンゴジラ」に匹敵する数のキャストがそれぞれ「有象無象」にならずに成立している。ドラマ版などは、「映像研」のストーリーというより、芝浜高校群像劇の様相すら呈している。

 

だがやはり、映像研の三人の描写も無視するわけにはいかない。

実写版では、アニメ・実写以上に、三人がいわば「欠損」を抱えた存在であるように思う。もちろんその分、才能もあるわけだ。

浅草は壮大な世界観を生み出し、その世界観に誠実に、妥協は許さず、「やり直し」も辞さない強い意志を持って作品と向き合うことができるが、ときに設定を突き詰めることで自信喪失に至ったりするし、コミュニケーションも苦手で、何よりも、世界観を生み出した後、物語を紡いでいくことができない。

水崎は強いこだわりを持って「動き」を描写することができるが、浅草の作る設定がないと、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。

金森は交渉やスピーチに長けていて、頭が切れる一方で、プライドは高いし、そもそも「創作」となるとからっきしだ。

この三人は結局、「たった一人では何もできない」人たちなのだ。だがすごいのは、三人とも、どこかで自分の限界点を知っているということだ。無理なことには「無理」と言えるということだ。それは、三人がそれぞれ信頼しあっているからできることでもあり、これは漫画的な「友情」とはちょっと違うものとなっている。

 

例えば、設定を突き詰めて行った結果、今まで作っていたものに急激に浅草が自信を失うシーンがある。この時、金森と水崎はおそらく、浅草の悩みを共有してはいなかったと思う。金森はプロデューサーとして製作を止めるわけにはいかないし、水崎は設定にまでは目がいっていない。だが、もしこの時三人が悩みを共有していたら、企画は潰れていたかもしれないのだ。金森と水崎は浅草の作り出す世界に惚れ込み、信頼している。だから、金森は「あんたが好き勝手やるしかない」と浅草を鼓舞するのだ。

だからこれは馴れ合いの友情ではなく、信頼感・緊張感を伴う関係である。だから(少々ネタバレになってしまうが)水崎の母に娘の「お友達」かとたずねられた浅草はこういうのだ。

「いいえ、仲間です」

これは漫画やアニメでも描かれた話ではあるが、実写ではより「弱さ」が見えるようにできている気がする。それは人間描写をリアルにし、漫画から出てきた三人の奇妙キテレツなキャラクターが、どこか実際にいそうな存在になることを可能にしている。

 

要するに、だ。実写版「映像研には手を出すな!」は、ドラマ・映画合わせて、それが全体として「映像研」ワールド、「芝浜高校」ワールドという「最強の世界」の表現になっている。いわゆる「メタ的」な構造を有しているのである。映像を見ていて、引き込まれていくのを感じるのは、テレビ画面ないし銀幕に映し出されるそれが「最強の世界」だからなのだ。実写版はそのものが「最強の世界」になってしまったのだ。劇中に出てくる「気合、入ってます!」とは製作陣の叫びでもあると思う。

 

さて、本作は人にインスピレーションを与えるような作品だから、書こうと思えばもっと書けるのだが、あんまりやりすぎると野暮になる。もしかすると現時点でもはや野暮かもしれない。

だが最後にもう一つ触れておきたいのが音楽だ。

アニメ版で、映像と音楽を合わせることの重要性に触れられているが、実写版は実際に用いられる音楽の素晴らしさでそれが伝わってくるのだ。音楽は雰囲気を作る。そういう意味で「映像研」の楽曲は、ただならぬ雰囲気をつけている。ただの「エモい」曲を無造作に使うのではなく、メインテーマはロック調だったり、映画で登場する黒澤映画のオマージュのシーンで流れる曲は黒澤映画風だったり、本気で作ったサウンドトラックだなと思う。

主題歌も良い。

ドラマ版の主題歌Heavenly Ideasは、最強の世界に挑む三人の姿をロック調に演出し、「大・生徒会」から「パブリックエネミー」と名指しされながらも自分たちの創作を続ける三人の「反逆児」的な部分を強く押し出す。

映画版の主題歌「ファンタスティック3色パン」は最初聞いた時はポップで可愛いすぎないかと思ったが、エンドロールで改めて聴くと、三人の性格や「仲間」という関係に焦点を当てているように思った。前者は「最強の世界」、後者は「人物描写」というべきか。

 

 

思えば、「映像研」を知ったのは、友人が「面白そうだ」といっていたときだった。確か、アニメ版について、そういっていたはずだ。だが私は深夜アニメを見たことがなかったし、あまり興味を持てなかったように記憶している。それは「三人の女子高生がアニメ作りに奮闘する」作品だと思っていたからだった。この説明が間違っているわけではないが、あまり興味が湧かなかった。

結局のところ、実写にせよ、アニメにせよ、原作にせよ、「映像研には手を出すな!」という作品は、手を出してみないと魅力がわからない、というべきか。

そういう意味では、こうやってブログで記事にするには厄介な存在である。