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旅、映画、食べ物、哲学?

陶器のように

私は陶器作りに詳しいわけではない。昔一度だけ、修学旅行で山形県に行った際、体験でちょっと触れた程度だ。そして今思えば、あの時の私は陶器作りをしていなかったに違いない。あの時は、土を曲げていただけだったからだ。

どこで聞いたのかは思い出せないが、陶器を作るというのは、土との対話だという。手で土に触れ、整形してゆきはするものの、根本は土の動きに合わせてやることが肝要だという。そうなった時、不格好でも味のある作品というものが生まれるし、そうならなかった時、形は整っていても味もへったくれもないモノが作成される。

 

だけどそれは、陶器に限った話ではないのだと思う。いつでもそうなのだ。

ちょっと前にも似たようなことを書いた気がするが、カレー作りはまさしくそうだ。こういう味にしよう、こういうふうにしよう、というのが結構邪魔になることがある。もしかすると私が料理下手で、勝手にそんな神秘的な態度になって勝手に満足してるだけかもしれないが、やっぱり、何種類ものスパイス、肉、玉ねぎ、水などが、カレーという形で一つになるのは神秘的で、カレーの神様みたいなものと作り手の私のある種の対話の中で、カレーが生まれているように思う。カレーはその時他者なのだ。だからカレーを作るのが上手くなったなと思ったら、自分を戒めないといけない。「カレーを作るのが上手くなったんじゃない。カレーの声を聞くのが上手くなったんだ」

以上はくだらない話だったが、やっぱりそういうものって結構あるよなあと思ったりする。馬に乗るなんていうのはそのわかりやすい例だろうし、実は機械なんかもそうなんじゃないかと思う。パソコンも、使いこなすには、パソコンに聞いてもらえるような言い方でものを頼まないといけないし、異変にも気づいてやらなきゃいけない。素材と思惑がうまく共同した時、何かが生まれる。こっちは何かをした気になってるけれど、本当はいろんなものとの対話の上に成り立ってる。

 

究極的な話をすれば、私たちの内面もそうなのだ。

とても不思議なことだが、私たちはあんまり私たち自身のことがわかっていない。自分自身は自分の中にあるように見えて、自分は他人のようである。今まで好きだった音楽が響かなくなったり、今まで嫌いだったものが好きになっていたり、私たちは自分で困惑することがある。それどころか、自分の奥底にある自分が私自身に「お前のことなんて嫌いだ」と言ってみせることだってあるから、ほとほと困ってしまう。

だけど、心の奥の声を黙らせたり、自分で勝手に作った枠やカタを押し付けると、途端にうまくいかなくなってしまう。味のない陶器、スパイスがダマになったカレーのように、息苦しくなってゆく。だから自分の声に耳を傾けないといけないのである。しゃべりすぎてはいけない。語りすぎてはいけない。自分の声を聞きながら、そう、陶器のように日々を生きていけば、たぶん心と体といろんなものがスーッとするんじゃないだろうか。

そんなことを思い始めていたら、年が明けた。今年はこれを抱負にしてみようか。