Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

音楽の勉強、音楽の解読、音楽の喋り

音楽の勉強を始めた。

いわゆる楽典だとか、和声法だとか、対位法だとかいった類のやつである。

ちょこちょこと音楽を作るのに、修士論文を書き始めたあたりからハマりだしていたのだが、どうしても勉強が必要になった。というのも、私には、コードがわからなかったからである。

例えば、メロディーを作る。ここまでは行ける。ちょっとしたインスピレーションとか、高尚な言い方をすれば「スケール」というやつを決めて(黒鍵を使ってアラブな雰囲気とかを出したりして)、鍵盤をいじってみたりすると、それらしいものができてくる。問題はここからなのだ。メロディに合わせる伴奏というか、和音がわからない。

別に和音なんてなくてもいい、と思ってみたりもした。気休めである。だけど結局のところ和音は必要だった。なぜか。理由は簡単だ。厚みを作っているのが和音だったからだ。

音楽以外のことで例えてみよう。画用紙に絵を描くとする。うまく描けたとする。これはしょうがない、前提としよう。だが、輪郭をぺたっと描いて、中身をペタッと書くだけでは、立体感がない。そう、影を描いたり、ぼかしたりする必要がある。あるいは、色を塗る必要がある。音楽で言えば、こういった作業が、どうやら和音や伴奏をつける作業なようだ。

だけど、勉強なしでは、どうにもこうにもうまくいかない。伴奏と、和音と、メロディの関係がわからないから、とっかかりがないのだ。メロディにどんな伴奏をつけるのが、どんな和音をあわせるのか、正解を導く術がわからない。

 

そういうわけで、正解を求めて、私は音楽の本をふたつばかし読んでみた。

結果わかったことがある。それは正解なんてものはないということだった。極度な不正解はあるかもしれない。だけど、それにしたって実はジャンルに依存している。ポップスを作ろうとして極度な不正解といえるようなものを合わせ続けたら不正解かもしれないが、現代音楽や調性をあえて壊そうとするような作品の中ではむしろ大正解である。要するに、正解なんてものはない。そこがやっぱり、音楽の芸術たる所以だ。

では学んで何が得られたのか。一つは正解なんてないんだという一瞬の自信と、もう一つは音楽の新しい楽しみ方だ。

私はどうやら音楽を誤解していたようだった。つまり、私は音楽を楽譜の横方向に見ていたわけである。メロディがあり、コード進行があり、別のメロディがある。歌があり、ピアノがあり、弦楽器があり、管楽器がある。そしてドラムや打楽器もいる。だが、それはちょっと味方として偏狭だった。

実は音楽は縦だったのだ。それぞれの楽器が一つの和音を構成しながら進む。そしてそれらは一つのリズムを形成しながら進む。楽器ごとにリズムが異なる場合もある。だが、それでも、それらが一つになった時、リズムは縦方向に一つの、ちょっと変わった雰囲気のリズムを形成している。言葉でごにょごにょ説明するとわかりづらいのだが、つまり……

ボーカルがいて、ギターがいて、ドラムがいて、ベースがいて、それぞれが勝手に何かをやっているわけではなく、それぞれが一つの和音とリズムの進行を作っているのだ。とても単純なことである。だけど私はそんな単純なことを見誤っていた。先にわかっていた人からすると、何をわかりきったことを騒いでいるのだと思うかもしれないが、私にとっては大発見なのだ。

そう、そして、このことがわかって理解できたのが、結局は回り回って和音やコードだった。メロディに和音をあわせる、メロディに伴奏をつける、といった言い方が土台間違っていたのである。メロディはすでにそれとして和音の一部であり、そこに色彩を入れてゆくのが和音を合わせることだった。直感的に「厚み」とか言っていたことの意味がやっとわかってきた。

だから、和音をどのようにあてていくかは、作曲家あるいは編曲者の、メロディーに対する色の付け方なのである。小説であれば、一人の登場人物に対して、その人物がどういう人間なのかを色付けしていく作業にも似ている。その小説を映画化・ドラマ化すれば、それもまた変わってゆくかもしれない。同じメロディを共有しながらも、さまざまな生かし方があるわけだ。カデンツをそのまま無難に持ってくるのもいいし、そこにセカンダリドミナントを入れたり、減7の和音を忍ばせるのもよい。あまりにキャラクターと違うことを映画版で話し始めたら気味が悪いけど、違った一面くらいなら興味深くもなる。

 

和音とかの話ばかりしたけれど、他にもたくさん面白いことはある。例えば形式とかもそうだ。これは音楽を聞く上で、いろいろ気づくための区切りを心に留めさせてくれる。例えば私たちはポップスを聞くときに、一番・二番・三番というのを理解しながら聞いていたりする。同じように、ピアノだけのソナタでも、提示部・展開部・再現部といった風になっているとわかって聞けば、ただのBGMや催眠導入剤ではなくなるかもしれない。

特に好きなのはスケールやモードの話である。これは無意識的に昔から好きだった。ピアノを習っていたことがあるが、私はそのとき、練習そっちのけで、「これはアラブ」「これは中国」みたいな感じでドレミファソラシドを弾いてた記憶がある。これがスケールやモードに関わると知ったとき、なるほどなあと思った。

さらになるほどなあと思ったのは、同じことを考える人はやっぱりいるようだということだ。ジャズの世界では、もともと、和音を中心にしてアドリブ演奏をしていたらしいのだが、あるとき、「モーダルジャズ」というものが生まれ、モードを使って演奏するようになった。ここまでは、抽象的すぎてよくわからない。大事なのは、「和声」から「モード」に移った理由だ。モードには、どのモードをとるかで民族的な響きを取り入れられるというのだ。「ほら、アラブだ!」と思った。

 

まあ、あんまりこの音楽の勉強の話をこうして書いてもお伝えできる部分がないようにも思うし、この辺にしておこう。要するに、「音楽は耳で聞くんだ、勉強なんかしねえ」と思っていた男が、改心する話である(そんな恥ずかしい話は一度も触れていないけど)。語学と同じで、勉強は実践を必要とするので、勉強しながら手を加えて成果を取り入れていった曲があるので、いつかどこかに出そうかな、なーんて考えたりもしている。

C→G→C