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旅、映画、食べ物、哲学?

受動のレッスン:ヴァイオリンとカレー

今年になってヴァイオリンを始めた。

そういうことにしている。

本当は中学生の時に習っていたことがあった。シャーロックホームズが好きだったし、家には曾祖父さんの形見のような古い鈴木ヴァイオリンがあったからである。だけど、ピアノを習っていた時も、というか、小中高と全体的にだが、私はどうもお稽古ごとが苦手なようで、すぐに嫌になってしまった。そうして数年してやめた。

それが最近、またヴァイオリンを引っ張り出してみるようになった。理由があったかどうかは覚えていない。うっすらとまた始めてみるか、と思っていたり、民族音楽の類を聴きながら、ヴァイオリンっていろんなところに出てくるなと感心していたり、多分そういったことの積み重ねによるものだろう。音楽が気になって和声法などを学んでみたり、楽器に興味が出てきて、メルカリで民族楽器を買ったり、サウンドハウスクラリネットを買ったりと、そういった湧き上がる力も手伝って、ヴァイオリンの修行が始まった。

もちろん、教室に通うわけではない。大抵のヴァイオリンの本や動画を見ていると、教室には通った方がいい、という。そうなんだと思う。だけど教室に通うとまた嫌になるのが目に見えているから、一人でこっそりとやることに拘った。そういうわけで、最近は時間がある時に、買った教本の曲をひたすら引こうと試みたりしつつ、音程の悪さに眉間に皺寄せて試行錯誤をする日々である。

 

ヴァイオリンについての本、つまり教本や奏法についての本が面白いのは、受動に重きを置いていることではないかと思う。こういうテクニックがある、こういう風に構える、ということはもちろん書いてあるのだが、常に強調されるのは、「ヴァイオリンを邪魔しない」「弓の自然が動きを邪魔しない」ということだ。そういった、受動を強調した言い方のさいたるものが、神童と呼ばれたヴァイオリニスト、イェフディ・メニューインの『ヴァイオリン奏法』の冒頭の言葉である。

もしも、人びとがその楽器の僕となることを嫌い、自発的に、しかも心底から己を殺すことを肯んじないならば、ヴァイオリンは直ちに復襲を企てる。その多様な音色は出されずじまいとなり、その無限の精妙さはかげをひそめる。そしてその人は、ただ愛すべき一個の音楽的調度品をかかえたまま、不機嫌で生気のない顔をして、取り残されることになるだろう。

(イェフディ・メニューイン『ヴァイオリン奏法』(服部成三郎・服部豊子=訳/音楽之友社))

ヴァイオリンを弾きこなすためには、ヴァイオリンのしもべとならなければならないようである。ヴァイオリンを動かしているというより、ヴァイオリンに動かされる。それはヴァイオリニストの意思がヴァイオリンの意思と一つになることでもあるのではないかと想像している。想像している、というのは、残念ながら、私はまだその境地を一ミリも体験できていないからだ。

 

私はどちらかといえば我の強いタイプだと思うし、こういった風にブログを続けているのもその決定的な証拠である。自分を表現してやろうと思っている。だが、最近気になるものは、ヴァイオリンのように、絶対的服従を要求してくるものが多いように思う。

例えばカレーである。カレー作りである。カレー作りというとスパイスの調合を決め、調理し、という極めて自発的で能動的な行動に思われるかもしれない。だが何度か作ってみてわかってきたのは、カレーが本当にうまく行く時は、自分の意思の外にある何かの力によるようだ、ということだ。

私はスパイスの量を決め、玉ねぎの炒め具合を決め、肉を選定し、トマトの配分を決める。だがこれは条件を決めているにすぎない。肥料を決め、水やりをする程度のことだ。あとはカレーの領分で、条件付けがうまくやり、カレーに時間をしっかりと与えることで、カレーがカレーになるのだ。何をいってるんだこいつは、と思われるかもしれないので別の例に移る。

もっとわかりやすいのは乗馬だ。最近はやっていないが、一時期乗馬をやっていたことがある。乗馬で「楽しい」と心底思えた瞬間は、自分の指示が馬に伝わった時でも、パカラパカラと走った時でもなかった。それは自分の「走ってほしい」とかいった雑念が無になり、言葉や意思を超えて、馬とひとつになったように感じた一瞬だった。人馬一体というやつだろうか。そしてそういう時に、指示も伝わるものだし、走りも気持ちいい。無になった時、馬と一つになった時、やっと馬に乗ることができるのである。

 

このような、「受動のレッスン」ともいえるような、自我を一瞬だけでも捨てて、身を委ねることへの憧れは、どこからくるのだろう。

多分それは、自分の意思や、自分の言葉、自我のようなものをゴリゴリと押し通してゆくばかりでは得られない自由を求めるところから来るように思う。

ゴシゴシと擦っているときとは違う、自分から出るとは思えないような音がヴァイオリンから出た一瞬。カレー鍋の火を切って、少し寝かせてから味見をしたら、作っている時とは違う、自分が作ったとは思えないまとまった味がした一瞬。自分の可能性が一つ広がったように思える。だがその新しい可能性は、今までの自分の枠内からは生まれず、何かに身を委ねてみないと始まらない。

だから、いい感じの音色が出たり、いい味になった時は嬉しさを心に感じつつ、ヴァイオリンからいい音が鳴ったとか、カレーが美味しくなったとか、できるだけ主語を自分以外のところに置いておきたい。そんなちょっと変わった感覚を楽しんでいる。